生まれ育った「南部八戸藩2万石」の歴史を改めて知り、今まで間違った知識が多かった事に、恥ずかしさを感じてしまった。
1664年盛岡藩南部氏三代目重直の急死により、盛岡10万石を幕府の裁定で、弟重信に8万石を与えて盛岡藩に、同じく弟直房に2万石を与えて新たに八戸藩が誕生し、八戸南部氏が始まったそうだ。
「南部氏」は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光まで遡り、その子孫である甲斐源氏加賀美次郎遠光の三男光行に始まり、甲斐国巨摩郡南部(現山梨県南部町)に住み、三戸南部氏(のちの盛岡南部氏)の祖であり、光行三男実長が根城南部氏(のちの遠野南部氏)の祖で、波木井(現山梨県身延町)に住んでいた。
八戸市長者山に「新羅神社」があり、『加賀美流騎馬打毬』が「八戸三社大祭」の中日に、新羅神社桜の馬場で行われているのは見た事もあったが、まさかこんな歴史が隠されていたとは・・・・・
1664年盛岡藩南部氏三代目重直の急死により、盛岡10万石を幕府の裁定で、弟重信に8万石を与えて盛岡藩に、同じく弟直房に2万石を与えて新たに八戸藩が誕生し、八戸南部氏が始まったそうだ。
「南部氏」は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光まで遡り、その子孫である甲斐源氏加賀美次郎遠光の三男光行に始まり、甲斐国巨摩郡南部(現山梨県南部町)に住み、三戸南部氏(のちの盛岡南部氏)の祖であり、光行三男実長が根城南部氏(のちの遠野南部氏)の祖で、波木井(現山梨県身延町)に住んでいた。
八戸市長者山に「新羅神社」があり、『加賀美流騎馬打毬』が「八戸三社大祭」の中日に、新羅神社桜の馬場で行われているのは見た事もあったが、まさかこんな歴史が隠されていたとは・・・・・