「哲学をもつ」とは、自分にとって水泳を続けることの意味を持つことです。
「水泳に取り組む意味」を主体的に持っている選手は、少々の苦しさや困難に見舞われてもそれに負けることなく、前向きに取り組むことができます。
ただ小さいころからやってきたからとか、親に言われて続けてきたというように水泳に取り組む理由が明確でない場合、壁に直面したときにそれを乗り越えようという意志が弱くなり、挫折しやすいです。
競泳選手として、記録の向上や勝利を目標とした時、何年にもわたり毎日何千メートルという距離の練習をこなし続けるには、水泳に対する自分なりの哲学を持たなければ耐えられるものではありません。
競泳は速く泳ぐことを通して競争するスポーツですが、そのことが自分にとってどのような意味があるのか、という自分なりの哲学を持つことが大切です。
高校生や大学生という「自我」が芽生える時期にそれを明確に持つことができた選手は、競泳選手として成功を収めることができる可能性が高いでしょう。
では、「水泳に取り組む意味」とは何でしょうか。
速く泳ぐことだけであれば魚には勝てず、勝ったところで何の意味もありません。
また、人間は水中で生活するわけではなく、競泳生活を終えてしまえば誰しも選手時代のようには泳げなくなります。
大会で優勝することは喜びにつながることですが、日本の場合、オリンピックで金メダルをとったとしても生涯にわたる経済的な生活保障はありません。
オリンピックに出場することやそこでメダルを獲得するということが競泳選手として最大の目標であり、その実現に向けて最大限の努力を傾けることは競泳選手・指導者として当然のことです。
しかし、オリンピックも含めて大会で活躍することだけを目的として競泳を続け、選手生活を終えた後の人生設計が何もないとしたらどうでしょうか。
大切なのは、選手生活を終えた後の人生であるという認識を深めるべきです。
『倫理』の授業で扱う青年心理学の分野で取り上げるエリクソンというアメリカの心理学者は、青年期の発達課題は「アイデンティティの確立」であると主張しています。
アイデンティティとは自我同一性と訳されますが、「自分」を確立し、社会に出る準備をするのが青年期であるというわけです。
水泳という青年期に取り組むべきことをみつけたとしても、次の人生を考えてその準備ができていなければ、健全なる成長をしているとはいえないのです。
水泳を通して人間的な成長が図られることは間違いないことですが、速く泳ぐこと以外に社会へ出て「自立」する準備が何もなければ、本当にその人にとって豊かな青年期を過ごしたとはいえません。
井上敦雄先生がよく口にしていた言葉は「たかがオリンピック」、「たかが水泳」です。
インターハイで日本一になり、オリンピック選手を輩出している先生の口から、そのような話を聞いたときには少し驚きました。
この言葉の真意を考えると、「水泳は目的ではなく、あくまでも手段である」ということです。
人間教育が主たる目的であり、学問との両立を図る「文武両道」が必要な理由はここにあります。
では、豊山水泳部の哲学とは何か。
それは「日大豊山高校水泳部の伝統」を支えているこれらの教えにあります。
豊山水泳部に伝えられてきたこの教えを解き明かすことで、豊山水泳部の哲学は明らかになります。
竹村知洋