私自身が学生時代に言われていたことと、現在私が指導者として生徒に伝えていることは基本的に変わっていません。
全体のミーティングで話をしていることはおそらく何十年もそれほど変化していないはずです。
つまり、大切なことは普遍的である、ということです。
いつの時代でも誰に対してでも道徳的な事の大切さは変わりません。
「礼」は、紀元前500年前の孔子の教えから受け継がれてきたものです。
日本人が「和」を大切にしてきたことは、聖徳太子が「十七条憲法」で示した通りです。
練習メニューは時代の流れで多少変化する部分はあるかもしれませんが、練習や試合に臨む姿勢はいつも同じです。
おそらくこれからも同じことを繰り返し伝え続けることになるでしょう。
ここで考えなければならないことは、これらの教えはクラブ活動がなくては伝えられないということです。
授業やホームルームでも伝えられる部分はあるかもしれませんが、やはり水泳という競技を通してでなければ伝わらないことがほとんどです。
つまり、クラブ活動の存続があってはじめて伝わっている教えであるということになります。
皆がそれぞれのスイミングクラブに通っていれば水泳部としての一体感をなくし、充分な教育効果を上げることはできません。
学校のクラブ活動には競泳選手を育てるということ以外にも一定の役割があり、クラブ活動が衰退してしまえば伝えられてきた教えも消滅することになります。
ここに豊山水泳部が存続を図る意味があります。
水泳部OB会名簿には昭和中期の方から掲載されていますが、数百名という水泳部OBは直接交流はなくても、基本的に同じ精神が受け継がれているはずです。
毎年20~30名の卒業生が巣立っていきますが、やはり同じ精神を受け継いでいきます。
私が繰り返し読んだ本のひとつに『知性の構造』があります。西部邁氏による著作です。
西部氏はこの本のなかで、「慣習という実体がなければ、伝統が単なる虚構になってしまうのも確かである。結局、慣習という名の実体を支えている精神の形式のうちで、表現の平衡維持に益するところ大であろうとみなされるもの、それが伝統なのだとしておくべきであろう。」と主張しています。
この言葉を私達に当てはめて考えると、慣習という実体は水泳部であり、伝統という精神はこの教えにあるというわけです。
水泳部があってはじめてその精神である伝統が伝わっていくということになります。
伝統は、ものすごいスピードで変化している現代社会における私たちに精神の平衡をもたらしてくれるものです。
平衡=バランスを保つものがなければ、頼るものは自分自身の考えでしかなく、私たち一個人から生まれるその思考は不安定極まりないものとなるでしょう。
水泳でいえば、始めたときから指導者に教わることなく、泳ぎ方や練習メニューもない状態で、たった一人でプールで泳ぎ続けて大会で活躍しようというようなものです。
私たちは経験に支えられた伝統の上に立つからこそ安心して歩めるわけであって、そこから完全に自由になって安定した精神をもつことはおそらく不可能でしょう。
伝統を存続しなければならない理由はここにあり、水泳部を存続する理由にもつながっています。
「伝統」は、私たちに与えられた使命を示唆するものであるといえます。
竹村知洋