右の写真は、電車のポスターである。
以前から貼られているものだが、どうも気になっている。「新しい自分になってやる」・・・・・「それはわかるが、そうなれるものだろうか?」と。
これはことわるまでもないが、モデルは前田敦子さんで、私はまるでうといのだが、知る人ぞ知るAKB48のトップスターだった人らしい。AKB48を卒業して心機一転、頑張っている人なのだが、就職斡旋会社のCMにピッタリというわけで起用されているわけだ。
そのように見れば、この「新しい自分に」というのは人間として別な自分に・・・・云々というより、単に「転職を成功させる」という意味なのだろうし、「なってやる」風な強い、底意地(の悪さ?)を感じさせっぽい表現は「(退職させられた前の職場を)見返してやりたい」という、負けるのではなく、前向きな意欲を出そうとしている風に受け取れば、それなりには納得できる。
だが、だが、である。やっぱり言葉というものは大切である。人をハッとさせ、何となく底意地の悪そうな印象、後味の悪い印象を与えかねない、不適切な表現だと思う。こういう引っかけは企業イメージにもダメージを与えないか?
そして、転職でなく言葉本来の「(まったく)新しい自分になって」という願望は、基本的に人間には困難なことなのだ。 ただできる道がある。「試練」「困難」の道だ。
神は愛する者にナント、サタンを用いて「試練」を与える(ヨブ記参照)。人を苦しめることは神にはお出来になれない。愛にして善なるお方だからだ。だからその専門家、神に敵対する者であるサタンに、一定期間、部分的に自由にさせる(つまり試練を受けさせられる)ということになる。この不可解なパターンはキリストご自身が率先されてさらた。「ユダの荒野での40日間の断食とサタンの誘惑」である。また試練なくして、神に義とされた人物は、私の見るところ聖書には記述がまず、ない。
試練の目的は明確である。試練を受けて人は、自分の限界と愚かさを知り、自分を捨て、唯一神に依拠することができるようになる。その意味で試練は神に愛され、真に神の子とされる唯一の道である。聖霊のバプテスマも試練の後に与えられるではないか。だから試練は素晴らしい恵みである。自分が真に変えられ、神のものとされるのだから。
電車のポスターのように、自分の力では・・・・・できないことなのだ。誰も自分からは決して望まない試練・困難。さすが創造主だけは、人間というものをよく知っておられる。感謝。 ケパ