ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

イサクの年齢

2016年12月26日 | 聖書
常識で考え、判断すると、時々大間違いをする。アブラハムがイサクを、神に指示されたモリヤの地で神に捧げたのが好例である。

1966年「天地創造」と言う映画があった。その時のイサクはいたいけなかわいい少年であった。この絵もそうである。まあ、そう考えるのが常識である。

この度のイスラエル派遣では、レオンというユダヤ人の牧師が、私たちの聖会でメッセージしてくれたが、その彼が私たちに「あの時のイサクは何歳だったかと思うか?」と聞いてきた。父親に連れられ、今はエルサレム神殿となっている地まではるばる三日の旅をして、おとなしく焼き尽くす生け贄になろうとしたこの子は、いったい何歳だっただろうと皆さんはお思いだろうか?

何歳? 少年? まさか、いい大人だったら、犠牲、という小羊代わりのイメージが湧きませんよね。この時も会場にいた皆がてんでに答えたが、バラバラの年齢であった。

レオン牧師は口を開いた。イサクはアブラハムが百歳、従ってサラが九十歳の時に生まれた(創世17:17)。そしてサラが死んだ年齢は?創世記23:23には127歳とある。ユダヤ人の伝承(準聖書に近いもの)ではサラは朝、アブラハムがイサクを犠牲に捧げようとして出発したのに気がついて、止めようと死にものぐるいで追いかけた。しかし、ベエルシェバからエルサレムへの途中、ヘブロンで息絶えたのだ、と。つまり、イサクの年齢は127-90=37歳から38歳であったと。

つまり、イサクはひげをたっぷり生やした、屈強ないい大人であったと。それに対し父のアブラハムは何歳?
だから笑い話だがこんな想像ができる。その時、「父上、ご乱心❗」とイサクなら簡単に犠牲を拒否出来たはず。そうでなかったのなら、イサクは犠牲の小羊、殉教の運命を受け入れたことになる。すごい信仰がイサクにはあった、と。

後で考えると、サラがこの時死んだ、と考えるには十分な理由が見受けられる。まず第一に、御心ではなかった。神の計画を妨害するものであった。次に127歳である。必死になって追いかけると心臓麻痺かなんかを起こしても不思議ではない。第三に彼女にとってイサクは命そのものである。イサク無くしては生きていけない女性ではなかったか。第四にサラが本拠地ベエルシェバで亡くなったのではなく、どうしてヘブロンでなのかという説明がこれでつく。

二千年近く後、三十過ぎのイエスという人物が同じ地で、犠牲の小羊となるのだが。 ケパ





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勝利の法則

2016年12月26日 | 
今日、牧師休日の日、テニスをいつもの仲間と楽しんだ。楽しむ、と言っても、ルールある戦いである。いささかも気をぬけない相手と、激しくポイントを争う真剣勝負をすることが「楽しむ」という意味である。

こうした勝敗を争う場合、勝つための法則というものがある。第1に、「自分は勝てる、強い」という自信を保つことである。保つ、ということは、たとえどんなに劣勢になったとしても、最後の1ポイントを奪われるまでは決して諦めない、ということである。これまでの半世紀近いテニス人生の中で、諦めなかったゆえの大逆転を本当に数多く経験してきた。真の意味での勝敗は、どちらかが勝負を諦めた時に決着している。

第二に、どんな世界においても、自分より強い者が必ずいるものである。だから永遠に勝ち続けるなんてことは、できるはずがない。アマチュアの場合、相手があるようでいて真の相手は自分である。だから結果を恐れず、攻め続けられたかどうかである。それができたなら、たとえ負けても大いに自分を褒めたやりたい。このことはチームプレーも同様であって、たとえ仲間がどんなミスをしようと、それを励まし、支え合ってこそ積極的なプレーが可能になり、その先に勝利が見えてくるのだ。

これは人生についてもまったく同じことが言える。しかし数十分、長くて1時間前後なら何とかなっても、長い人生となるとそうはいかない。入試、就職、仕事、結婚、子育て‥‥‥これら全てに成功し、勝ち続けるなんてことはあり得ない。そして、勝っていた者ほどその挫折と落ち込みはひどいものになる。人は神ではない。むしろ挫折するのが人間だとも言える。

そうであるなら、人はまたどうやって立ち上がることができるのだろうか。親兄弟や伴侶からの支えがあるかもしれないが、外部の力は限定的であって、立ち直りの力はやはり本人自身の力に拠るしかない。傷が癒され、かつてとは違う力でもって再び積極的、前向きな思考に立つことである。

ここで信仰の話を持ち出すと腰を引く方が多いのは承知している。だが、是非聞いていただきたい。イエス・キリストは神であるのに、処女から人となってこの世に来られ、王の中の王なのに、貧しい大工のせがれとして成長された。公生涯に入られてからは、嵐を沈め湖の上を歩かれたりもしたが、貧しい者、虐げられた者、いわゆる弱者にいつも目を注がれ、罪を赦し、病をいやし、真の救いである福音を語り続けられた。民衆に人気が出て、それを妬んでいた権力側の傲慢と偽善にも容赦しなかったため、最後には十字架に架けられた人物である。私たちがたとえどのような挫折感を味わい、傷ついていたとしても、自分の落ち度や責任がまったくなかったとは言えない。しかしこのイエスにはまったく罪が無かっただけでなく、山のような善行が積み上がっていただけである。


このイエス・キリストが言う。
〜私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。〜(第1ヨハネ4:10)

私たちの挫折を救い、立ち直らせることができるのは、再び人生の勝利への道を歩み立たせてくれるのは、自分の心の中で働く、神の愛(だけ)である。ここに書いてあるように、私の失敗や罪をなんと神ご自身が身代わりとなってくださった。それで私の敗北も失敗も取るに足りないものとなり、罪の無い者とされた。その上で、私自身を存在として愛してくださる神の愛によって、以前よりもさらに失敗を恐れず、前向きな者として信仰によって立ち上がらせてくださるのである。
この度はもう二度と失敗も挫折も味わうことがない。永遠の命を与えられた私は、死すら私を恐れることがない。

これは私の人生において実証された、勝利の法則と言える。
ケパ



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