いまから35年ほどまえ、わたしはある地方大学で彫刻を学んでいた。彫刻といっても当時全盛であったニュー・スカルプチャーとはまったく無縁の、ロダンやブールデルといった彫刻家を範とするような指導を受けていた。だが、そうしたフランスの古典的な彫刻に反発したわたしは、イタリア彫刻の旗手ーグレコやマリーニにつよく傾倒していった。
いまにして思えば、ロダンにしてもマリーニにしても、ブロンズの塊としての動きや空間へのはたらき、あるいは形の美しさなどを彼らの美意識のなかで表現していたわけで、伝統的な彫刻という枠から一歩も出ていなかったことがわかる。
往々にして学生というものはその師事した先生によって表現の枠が極端に狭められてしまう(わたしだけかもしれないが)。よほど感性のアンテナを高く伸ばしていなければ、世界の潮流など感知することはできない。
現在、彫刻表現は多様化し、形態は立体と平面の垣根がなくなり、素材も金属だけでなくプラスチックや木材、紙、ガラスなどさまざまなものが複合的に用いられるようになった。また展示も作品を含む空間全体を見せるインスタレーション的なものや、建物から飛び出して環境そのものをデザインするものまで広がり、もはや現代彫刻いや現代アートは「なんでもあり」の様相を呈している。
さて前置きが長くなったが、いま日本の現代アートはどうなっているのかというと、じつはわたしはよく知らない。自分の表現の幅を広げるためにすこし勉強しようと思い、「この世界の在り方ー思考/芸術」展を芦屋市立美術博物館へ観にいく。これがなかなかおもしろかった。
入口を入ってまず1階のホールには、ナウマン象の歯の化石と無数の貝殻などをつかった河口龍夫氏のインスタレーション作品がある。パンフの作品解説によると「3.11の震災によって突然の死が訪れた人々への鎮魂の祈り」を表しているそうだ。さらに「見るものの想像力によって視覚は鉛の層を透過し、生物がもつ有限の時間を感じながら生命のエネルギーの気配に触れることができるだろう」と書いてあるのだが、どうもわたしにはその想像力が欠けているようだ。
おなじく河口龍夫氏の「蓮の階段時間」を見ながら2階へいくと、こんどは菅野聖子氏の「マックスウェル光の電磁波説」という大きな絵画が出迎えてくれる。この作品は当美術博物館の常設作品で、以前にも見たことがあるが、比較的古典的な抽象絵画だ(といっても十分難解であるが)。
第2展示室にいくと、入口に係員がいて「場内が暗くなっておりますので、ご注意ください」という。中へ入ると暗くなってるどころではない。目のまえにだれかいても気がつかないくらい、真っ暗でなにも見えない。奥の方に楕円形に赤く光るものが薄ぼんやり見える。ゆっくり近づいていくと突然手の先に板のようなものが当たった。どうやらそれは映像を映し出しているスクリーンみたいだ。
展示室を出て解説を読むと「炎を撮影した映像素材にモザイクをかけ、(中略)すりガラスの向こう側で再生される」「その現象は、記憶の中の炎と同期する」とある。ふーん。これは前谷康太郎氏の「Echo of Reality」という作品。
第1展示室にもわけのわからない作品が待ち受けている。
小沢裕子氏の「BLUE WAVES」は外国の老人のインタビュー映像なのだが、解説によるとそこに映し出される日本語の字幕は、じつはインタビューで語っている内容を翻訳したものではなく、まったくちがう内容であるらしい。外国語をしゃべる老人が挿入されるサーフィンの映像について語っているように見えたが、それは意図的に編集された映像であった。作者曰く「言語と映像の危うい関係性を浮き彫りにし」た作品らしい。
その奥の部屋には伊藤存氏の刺繍作品と粘土絵があって、この作品がわたしは一番おもしろかった。ほかの人のインスタレーションや映像作品はそのコンセプトを読んでも理解できないものが多く、「だからどうした?」という気持ちになるのだが、伊藤氏の作品にはそれ自体のもつ物質感と美しさがあり、見るものをまず楽しませてくれる。コンセプトを読むとやはり「?」なのだが、彫刻ないしは立体造形としての自立性があるので、不勉強なわたしにも受け入れやすかった。
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art trip vol.02 この世界の在り方ー思考/芸術」展は2月12日まで