Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

スマホに写真の希望はない

2014年04月28日 | Camera
いままでカメラを絵筆にたとえてきたけど、デジカメの時代になって、絵筆というより絵具そのものだと思うようになった。
フィルム時代はフィルムの種類によって好みの色調や彩度などを決めたが、デジカメはいろんな設定が可能なので、カメラ内に多様なフィルムが入っているといえる。
最近では「アートフィルター」というおもしろいエフェクト機能もあるから、あっと驚くような写真がだれにでも簡単に撮れてしまう。
カメラがスマホ化しているのである。けっ

←大阪城の内堀

カメラメーカーは生き残りをかけていろいろな機能を詰め込んでくるのだが、使いもしないフィルターを開発するコストが価格に上乗せされているのだとすれば、もうなにもいらないから半額くらいにしてほしい。
写真を撮るために必要なファインダーと絞り、シャッターが付いていれば、それで十分でしょう? とわたしは思うのである。
ま、そうはいっても多機能カメラはなくならないので、せめてくだらないフィルター類やピクチャースタイルを使わないのというのが、まともな写真を撮るための必要条件だろう。

←エルデニ・ゾーの仏像

金村修氏が「コンデジや携帯カメラ、iPhoneにスマホで大量に写真が撮られているこの時代に、写真の希望なんてどこにあるのだろうか。プリントもされずにデスクトップの中で陽の目を見ることもなく垂れ流しのまま朽ち果てるデジタル写真の山」と嘆いているが、わたしもまったく同感である。
カメラが多機能になればなるほど、写真1枚のもつ比重が軽くなっていく。
じっさいデジタル画像には質量なんて概念はなく、◯MBというデータ量を示す数字が「重さ」と呼ばれているわけだ。ああ

←東雲公園の墓地

ところで、同じようなものを撮っていても、カメラがちがうと写真の見え方や質感がまるでちがう。
わたしはピクチャースタイルをほとんど変えないのに、カメラによってその差ははっきりと出てくる。メーカーによってちがうのはもちろんだが、同じメーカーでもモデルによってちがう。
そういう意味で、デジタルカメラは絵具そのものなのである。

これからあたらしくカメラを買う人は、カメラ自体が自分の作風を大きく左右することになるので、慎重に選ばなければならない。
高価なデジカメを買って、好みに合わない色や質感が出てきたのでは取り返しがつかないよね。

単焦点レンズは28ミリを使え

2014年04月27日 | Camera
8時半に家を出て大阪城公園へ向かう。
外堀+内堀コースを3周(13.5キロ)を68分で走る。1キロ5分ならサブフォーも夢じゃない。絶好調!
それにしても日曜日は朝早くから観光客が多い。それに大所帯のランニングクラブも走っているのでスムースに走れないぞ。
向こうからすれば、あまりにもランナーが多いので落ちついて観られないと感じてるだろうが。



午後から友人のLくんと会う。
半年前にアメリカから帰国して、現在写真学校の先生をしている彼だが、仕事のストレスからか10キロも痩せて、最近では脂っこいものが食べられないという。
見た目は変わらないが、それなりに苦労しているようだ。

写真を教える立場の人間が写真を撮らないのではカッコがつかないので、最近また撮りはじめたらしい。
でもきょう彼の持っていたオリンパスOM-Dを見て、わたしは「こんなオモチャみたいなカメラで写真が撮れるか!」と言ってやった。(ホントは撮れるけど)
すると家にEOS 6Dがあるというので、それなら単焦点レンズをいまからすぐ買いに行こうと誘う。
で、日本橋のトキワカメラで程度のいい28ミリF1.8をゲット。
カメラを構えると「ドン・マッカランみたいでしょ?」というので、「いいや、せいぜいサンダー平山だね」と応酬する。そういう仲なのです。

ちなみにわたしの好きな単焦点レンズは50ミリだが、28ミリのあの広がり方も好きだ。
被写体に近づいて撮ると、力強い遠近感が出るのがいい。でもあまり多用するとあざとさが目についてイヤみな絵になるので注意。
28ミリレンズで絵づくりができるようになると、あとは標準や望遠側でも超広角側でもそれなりに撮れるようになる。つまり写真がうまくなるかどうかは、28ミリの使い方しだいだ。
ズームレンズだと画角感や遠近感を意識しにくいので、結果的に被写体との距離感が取れなくなってしまう。
今さらながら、単焦点レンズって奥が深い。

ところで、Lさんは来月開催される大阪写真月間2014「写真家150人の一坪展」のスタッフの一人であるが、彼自身も出展するらしい。
どんな写真を出すのか、ちょっとたのしみである。
もっとも他人のことより、自分の作品を心配しないとダメなんだけど。

かくして写真茶話会RRははじまった

2014年04月26日 | Photography


ピカピカに磨いたエストレヤに乗って、きょうは写真茶話会RR(ダブルアール)へいく。
途中、IさんとYさんと落ち合って、景色のいい道を流しながら会場に着く。
このまま高野山まで走っていきたい衝動を抑え、写真茶話会RRはゆっくりとはじまる。



きょうの参加者はわたしを入れて6人。
まず最初ははるばる長野県から参加のJさんの作品を見る。
彼の住んでいる家のまわりには美しい伊那の大自然が広がっている。きょうはそんな写真が出てくるのかと思いきや、なんとすべてモノクロの写真だったのでおどろいた。本人曰く、原点にもどって撮ってみました。
主宰者のYさんはすこし困った顔をして彼の写真を見ている。
そして「マツノさん、モノクロってどう思います?」とこちらに振ってきた。げげ

わたしも日常的にモノクロ写真を撮っているが、色の情報がない分、写っているモノそのものの形や質感、あるいは光の陰影がより強調される。
そこにおもしろさがあるので、散漫な撮り方では絵として成立しない。
被写体の配置や画角、アングルなど構図と光の方向性を厳密に計算して組み立てないとおもしろくならない。つまりデジカメでふつうに撮って、単にPCでモノクロ変換しただけではモノクロ写真にはならないのである。
べつの言い方をすれば、シャッターを押すまえから目のまえの風景がモノクロに見えていなければダメなのだ。
もっと素直にいこうよ、Jさん。



Kさんの撮る写真はおもしろい。
なんでこんなの撮ったの? と思うようなカットでも、彼女の説明を聞くと「ああなるほど、そうかあ」と感じる。
わたしにはないその視線が新鮮で、いつも驚いてしまう。
これまでコンデジで撮っていたけど、このたびデジタル一眼レフ機を手に入れ、ますますパワーアップした。
きょうのプリントははがきサイズだったけど、あのニワトリの顔のアップをA3ノビくらいに引き伸したら、ぜったいにおもしろいと思う。
早くも独走体勢に入ってしまったKさんであった。RRだね。



さいごにわたしの写真を見てもらったが、まだ方向性がなにも決まっていないので、種まき的な写真を5枚見せる。
その話はすこし長くなるので、また後日に。

長巻きはタッパを持参

2014年04月23日 | Life
先日のアンドレアス・グルスキー展を観て、忘れていたある感情を思い出す。
その感情は心のなかにあるイメージを想起させ、いま撮るべきものがなにかを提示してくる。
優れた芸術作品は観た人の心を揺り動かすだけでなく、その人の行動をも変えるというが、まさにグルスキーはわたしの行動を変えようとしている。
ただしグルスキーが高度なデジタル技術を駆使して制作された写真だからといって、いきおい自分の表現もデジタル方向へ加速するのは早計である。
自分のイメージを完成させるために最新の技術を総動員することが彼のやり方ならば、わたしも自分の持てるものを出しきるというのが正しい方向であろう。



午前中、ジョギングして頭のなかをスッキリさせ、いまから撮るイメージを明確にする。
お昼まえに昼食をとり、準備をして撮影に出る。きょうは淀川の右岸へいく。
河口に近いからか、ゆるやかな波が川辺に打ち寄せてくる。きもちのいい風にのってウインドサーフィンをする人たちがいる。
対岸のビル群を見ながら、ここだけ時間が止まったようなふしぎな感覚におそわれる。
グルスキーのライン川にも負けない写真が撮れたんじゃない?



帰りにプロカラーラボへ現像していたフィルムをとりにいく。
わたしはいつもブローニーフィルムは長巻き(カットしない状態)で返却するように指示しているが、きょうの係員はこういった。
「長巻きを入れる箱がないので、この箱は返却してください」それから「つぎからはタッパウェアなどを持参してください」
受け取った箱を見ると、シートフィルムの空箱を加工してかさ上げした手づくりの箱であった。
モノクロフィルムの現像そのものが減っているうえに、長巻きで返却なんてことをいう人はわたしだけなのだろうか。
箱までつくってもらって、なんだか申しわけない気持ちになった。つぎからはタッパもっていきます。

オクソのサラダスピナー

2014年04月21日 | Life
サラダだけでなく、洗った野菜の水切りは地味だけど料理の味を大きく左右する作業だ。
いままでキッチンペーパーで拭いていたが、ペーパーでは完全に水気を拭き取れないし、意外に面倒なのでイヤだった。
そこで前からほしかったオクソ製のサラダスピナーを思い切って買った。これがとても使い勝手がいい。
もう一つ大きなサイズもあるが、3人分ならこれで十分だと思う。


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