いままでカメラを絵筆にたとえてきたけど、デジカメの時代になって、絵筆というより絵具そのものだと思うようになった。
フィルム時代はフィルムの種類によって好みの色調や彩度などを決めたが、デジカメはいろんな設定が可能なので、カメラ内に多様なフィルムが入っているといえる。
最近では「アートフィルター」というおもしろいエフェクト機能もあるから、あっと驚くような写真がだれにでも簡単に撮れてしまう。
カメラがスマホ化しているのである。けっ
←大阪城の内堀
カメラメーカーは生き残りをかけていろいろな機能を詰め込んでくるのだが、使いもしないフィルターを開発するコストが価格に上乗せされているのだとすれば、もうなにもいらないから半額くらいにしてほしい。
写真を撮るために必要なファインダーと絞り、シャッターが付いていれば、それで十分でしょう? とわたしは思うのである。
ま、そうはいっても多機能カメラはなくならないので、せめてくだらないフィルター類やピクチャースタイルを使わないのというのが、まともな写真を撮るための必要条件だろう。
←エルデニ・ゾーの仏像
金村修氏が「コンデジや携帯カメラ、iPhoneにスマホで大量に写真が撮られているこの時代に、写真の希望なんてどこにあるのだろうか。プリントもされずにデスクトップの中で陽の目を見ることもなく垂れ流しのまま朽ち果てるデジタル写真の山」と嘆いているが、わたしもまったく同感である。
カメラが多機能になればなるほど、写真1枚のもつ比重が軽くなっていく。
じっさいデジタル画像には質量なんて概念はなく、◯MBというデータ量を示す数字が「重さ」と呼ばれているわけだ。ああ
←東雲公園の墓地
ところで、同じようなものを撮っていても、カメラがちがうと写真の見え方や質感がまるでちがう。
わたしはピクチャースタイルをほとんど変えないのに、カメラによってその差ははっきりと出てくる。メーカーによってちがうのはもちろんだが、同じメーカーでもモデルによってちがう。
そういう意味で、デジタルカメラは絵具そのものなのである。
これからあたらしくカメラを買う人は、カメラ自体が自分の作風を大きく左右することになるので、慎重に選ばなければならない。
高価なデジカメを買って、好みに合わない色や質感が出てきたのでは取り返しがつかないよね。
フィルム時代はフィルムの種類によって好みの色調や彩度などを決めたが、デジカメはいろんな設定が可能なので、カメラ内に多様なフィルムが入っているといえる。
最近では「アートフィルター」というおもしろいエフェクト機能もあるから、あっと驚くような写真がだれにでも簡単に撮れてしまう。
カメラがスマホ化しているのである。けっ
←大阪城の内堀
カメラメーカーは生き残りをかけていろいろな機能を詰め込んでくるのだが、使いもしないフィルターを開発するコストが価格に上乗せされているのだとすれば、もうなにもいらないから半額くらいにしてほしい。
写真を撮るために必要なファインダーと絞り、シャッターが付いていれば、それで十分でしょう? とわたしは思うのである。
ま、そうはいっても多機能カメラはなくならないので、せめてくだらないフィルター類やピクチャースタイルを使わないのというのが、まともな写真を撮るための必要条件だろう。
←エルデニ・ゾーの仏像
金村修氏が「コンデジや携帯カメラ、iPhoneにスマホで大量に写真が撮られているこの時代に、写真の希望なんてどこにあるのだろうか。プリントもされずにデスクトップの中で陽の目を見ることもなく垂れ流しのまま朽ち果てるデジタル写真の山」と嘆いているが、わたしもまったく同感である。
カメラが多機能になればなるほど、写真1枚のもつ比重が軽くなっていく。
じっさいデジタル画像には質量なんて概念はなく、◯MBというデータ量を示す数字が「重さ」と呼ばれているわけだ。ああ
←東雲公園の墓地
ところで、同じようなものを撮っていても、カメラがちがうと写真の見え方や質感がまるでちがう。
わたしはピクチャースタイルをほとんど変えないのに、カメラによってその差ははっきりと出てくる。メーカーによってちがうのはもちろんだが、同じメーカーでもモデルによってちがう。
そういう意味で、デジタルカメラは絵具そのものなのである。
これからあたらしくカメラを買う人は、カメラ自体が自分の作風を大きく左右することになるので、慎重に選ばなければならない。
高価なデジカメを買って、好みに合わない色や質感が出てきたのでは取り返しがつかないよね。