Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

日本の古美術のゆくえ

2014年01月31日 | Life
妻の実家の蔵から出てきた掛け軸を義母の形見分けにいただいた。
もともとは義母の夫が生前に買い集めていたものだが、それが蔵に眠っていたというわけだ。
古美術にまったく知識のないわたしには、これがいったいどのくらい価値のあるものなのか、まったくわからない。
なので、きょうはある古美術商へ査定してもらいにいく。



あらかじめ電話で予約をして約束の時間に店へ行くと、係の人が笑顔で出てきた。
「わざわざお越しいただきましたので、できるかぎり高値を付けさせていただきます」といいながらスルスルと掛け軸をひらき、それを持って奥の部屋へ入っていってしまった。
座り心地のわるいソファに座って待っていると、しばらくして先ほどの人が出てきてこう言った。
「お調べいたしましたところ、こちらの掛け軸は千円で買い取らせていただきます」
えっ、1,000円? たったの?
どうやら、あまり名の通った絵描きのものではないようだ。しかも入れてきた木箱はべつの作者のもので、つまり軸と箱が合っていないのだった。これでは価値も半減するわな。
そんなに期待してたわけじゃないけど、もう少し高値で売れるかな(売れてほしい)と思っていたので拍子抜けしてしまった。

結局、掛け軸は売らずに持って帰ることにした。
そのあと、お店にあるいろんな古美術を見わたし「ここで販売もしているのですか」とたずねると、店頭販売はしていないという。すべて海外のオークションに出品して、ほとんど外国人が買うそうだ。
日本の古美術は国内よりも海外の方が圧倒的に人気が高く、造詣の深いコレクターも多いとか。とくにヨーロッパの人たちが買いもとめているらしい。



難波に出たついでにビックカメラに寄り、くだんのレトロ調デジカメをさわる。
ニコンDfはもう何度もさわっているが、なぜか手にしっくりなじまない。意外に厚みがあって、左手に当たる部分に違和感をかんじる。
ソニーα7Rはシャッター音が最悪だった。生粋のカメラメーカー(旧ミノルタ)の物づくり魂はどこへいった?
また、オリンパスE-M1のEVFは明るすぎる。屋外で覗いたらちょうどいいのかもしれないが、ビックの店内では目が痛くなる。
このように、じっさいにさわってファインダーを覗き、シャッターを切ってみなければわからないことがたくさんある。
来月15日発売の富士フィルムX-T1に期待をかける。

本当の古いものには興味を示さず、古めかしいものに関心を示す現代日本人の感性、あるいは日本の文化というものは、どこへ向かっているのか。

レトロ調デジカメ勢ぞろい

2014年01月30日 | Camera
いろんな分野(たとえば歌謡曲、アニメ、食品、おもちゃ、乗り物など)でレトロ調のものが生まれたり消えたりしている。こういうものには流行の波があるらしい。
わたしが愛するオートバイの世界にもレトロ調なモデルはいろいろあって、いま乗っているカワサキのエストレヤなどもそれに分類されるバイクだ。
また、ヤマハのSR400/500はものすごく息の長いモデルで、わたしの子どものころからあったバイクだ。これはレトロ調というより、本物のクラシックバイクと呼んでもいい。日本の名車の1台に数えられるだろう。

さて、カメラの世界にもこのレトロ調の波がやってきている。
もともとはオリンパスが「ペン」というかわいいハーフカメラを模して、デジカメでペンシリーズを展開したところからはじまったと思う。忘れもしない2009年の夏のことだ。
ペンに遅れること1年8ヶ月で、こんどは富士フィルムがXシリーズを発売する。このカメラはライカにあこがれるオヤジたちの心を射止めたが、本物のライカを使うオヤジには受けなかった。
そしてつぎなる波は一眼レフタイプのレトロ調デジカメだ。各メーカーのモデルを紹介しよう。

ニコンDf

フルサイズCMOSセンサー、1625万画素、143.5×110×66.5ミリ、765グラム、連写5.5コマ/秒、約25万円(本体のみ)

ソニーα7R

フルサイズCMOSセンサー、3640万画素、126.9×94.4×48.2ミリ、465グラム、連写4コマ/秒、約17万円(本体のみ)

オリンパスE-M1

フォーサーズ型LiveMOSセンサー、1628万画素、130.4×93.5×63.1ミリ、497グラム、連写10コマ/秒、約12万円(本体のみ)

富士フィルムX-T1

APS-CサイズCMOSセンサー、1670万画素、129×89.8×46.7ミリ、440グラム、連写8コマ/秒、約15万円(本体のみ)

こうして並べてみると「レトロ調」と一口に言っても、いろいろな個性なり特徴があることがわかる。
ニコンDfは形こそレトロ調だが、その中身は最新の性能を秘めた純然たるデジタル一眼レフ機であるし、ソニーα7Rはレトロ調といっても懐古趣味的な要素はなく、むしろ未来的な形を提案している。動画のフォーマットがたくさんあるのも映像メーカーならではだ。
またオリンパスE-M1は上の4モデルの中では最小のセンサーサイズを活かして秒間10コマの連写性能を誇り、しかも比較的安価で費用対効果は高い。
一昨日に出たばかりの富士フィルムX-T1については、さすがに後発機だけあって「デジタルスプリットイメージ」という手動でピントを合わせるときに便利な機能が盛りこまれた。まだ触っていないが、レトロ調が好きなわたしと同じ世代には使いやすいと思う。

どういう基準でえらぶかは人それぞれ自由であるが、忘れてはならないのはカメラは写真を撮る道具だということ。だから出てくる画が自分の好みに合うかどうかの最終判断は下さねばならない。
メーカーのホームページにあるサンプル画像や、いろんなレビューの作例などを見てじっくり考えるべし。
まあ、そうやって迷っているときが一番たのしいわけで、おしなべて日本のカメラメーカーはすばらしいと、つくづく思うのである。

たのしく運動する

2014年01月29日 | Life
近ごろまったくジョギングをする気が起きないので、カラダがなまってきている。
このまま怠けていると体力が落ちてくるので、たのしくカラダを動かす方法を考えた。それは山登りだ。
ということで、きょうは千早赤阪村の金剛山へ。1時間ちょっとで登山口に到着。車なら意外と早い。



金剛山ははじめてではないが、ずいぶん前(20年くらい?)のことなのでけっこうキツかった記憶しかない。
その間に登山道は整備されたみたいで、歩きやすくなっている。これならふつうの運動靴でも大丈夫だ。
5合目には休憩のとれる屋根付きのベンチとトイレができていた。ウルトラマンとバルタン星人の変なオブジェ(お地蔵さん?)もある。なんかたのしい。



きょうはとてもいい天気だが、7合目あたりから積もった雪が踏み固められてカチカチになっているので、さすがに運動靴では登れない。
地元の中学生らしき生徒たちがワイワイいいながらアイゼンを付けている。
9合目で人生のわかれ道。なだらかで楽な道を行くか、キツいけど近道を行くか。わたしはもちろんキツい方をえらぶ。



近道のおかげか、1時間とすこしで山頂に着く。神社でお賽銭を入れ、おみくじを引く。
牛の銅像が雪に埋もれてちょっと寒そう。
5合目まで降りて昼食をとる。いつものカップ麺に、手づくりのおにぎり。(5合目より上は焚火厳禁なのです)



さらに下っていくと、地元の人とおぼしき男性がハーモニカで「上を向いて歩こう」を吹きながら、かるい足どりでわたしを追い抜いていった。この人も1000回以上登ってるのかな。
登山口に着いて、駐車場へ向かっていると足湯カフェなる店を発見。500円で足湯に浸かりながらコーヒーを飲めるようだ。残念ながらきょうはお休みだったので、今度来たときにはぜひ入ろうと思う。
3時間ほど歩いていい運動になった。

今度の茶話会はとてつもなく速い

2014年01月25日 | Photography


去年おわったはずの「SIGNの写真茶話会」が約8ヶ月ぶりに再開した。その名も「写真茶話会RR」。(RRはダブルアールとよむ)
「RR」ってなんだろう。
それは鉄道(railroad)でも尊師(right reverend)でも後輪駆動(rear engine rear drive)でも、はたまた逆噴射ロケット(retro rockets)でもない。
バイク乗りならだれでもわかるロードレーサー(Rord going Racer)の略語で、要するに「とてつもなく速いぞ」ってことを形容し強調するために車名のうしろに付ける称号のようなものである。
新しい写真茶話会はとてつもなく速いのだ。

なにが速いったって、4年もかかってやっとブック1冊をつくりあげた以前の写真茶話会と比べたら、たった10ヶ月でグループ展をやろうという企画なのだ。
初回に参加費を徴収し、それをギャラリーのレンタル料などに当てるというアイデアもスピード感があっていいと思う。
お金を払ったかぎりは是が非でも作品を仕上げなければならないからね。



写真茶話会を再開するにあたり、その趣旨説明をSIGN氏がのべる。
じつは、わたしは去年の時点ですでに聞いていたので、なんの疑問も違和感もない。すなわち、これまで自分の内面に焦点を当てて作品制作をしてきたけれど、一旦そこから離れて(またはそれだけに固執せず)、作品を見る人に喜びや快楽をあたえるような表現を研究してみよう、という提案である。
それを彼のことばでいうと「励まし」というテーマになる。

考えてみたら、写真にかぎらず音楽でも演劇でも映画でも小説でも、なにかを表現するという行為は、つねにそれを鑑賞する相手があってはじめて成り立つものだ。観てくれる人や聴いてくれる人がいなければ、それがいくら素晴らしい作品であっても成立しない。
なので、作品制作において鑑賞者の受け止め方、つまり第三者の視線を意識するということは、しごく全うな提案だし、あたりまえのことでもある。
要は自分の感情から完全に離れて純粋に美しいものや楽しいものを撮るのか、あるいはやはり自分の気持ちも残しつつ見る人を楽しませるものをつくるのか。そのあたりのさじ加減というかバランスが、人それぞれちがってくるように思う。

たとえば広告写真は見る人を楽しませ、さらに購買意欲や物欲を刺激するが、それを撮っているカメラマン自身はその商品を本心からほしいわけではない。ただ仕事だから撮っているのである。
自分の感情を完全に排除して、見る人の感情だけを考えて撮った写真だといえる。
わたしの場合、仕事の写真はもちろんお客さま本位であるが、お客さまは物ではなく人間なので、ある程度の感情移入はある。たとえば幼稚園児のかわいい姿を撮ってあげようと思うのは、わたしの素直な感情だ。いくら仕事でも無感動では撮れないのである。
さらに自分の写真となると、リアルな感情がないと作品にはならないと思うので、見る人を楽しませる写真だといっても、自分の感情の部分はなくならないと思う。



はてさて、4月からはじまる写真茶話会RRにはどんな顔ぶれがどんな作品をもって集まってくるのか、いまからワクワクしている。
わたしはこれまで撮らなかったものを被写体にして、見る人に「癒し」をあたえる作品をつくろうと考えている。
おたのしみに。

しあわせに死ぬための生き方

2014年01月21日 | Life
今まで「しあわせに生きるにはどうすればいいか?」と考えてきたけど、義母の最期に立ちあって考え方が変わりつつある。
すなわち「しあわせに死ぬにはどうすればいいか?」ということの方が大切なのではないか。

わたしの実父はアルコール依存症で57歳くらいで働けなくなり、生活保護を受けながら一人暮らしをしていたが、60歳のとき心臓発作で亡くなった。
役所の人から連絡を受けて駆けつけたとき、すでに死後三日経っており、わたしは無惨な父の姿を見て、悲しみよりも憐れみと煩わしさに似た気持ちが芽生えた。それほど父とわたしの人間関係は冷えきっていた。
今あらめて彼の人生をふりかえってみると、ずいぶん孤独で寂しいものだったろうと、この歳になってようやく思いいたる。
だが、家庭を崩壊させた張本人の身から出たサビだと、当時のわたしは冷血漢を装っていた。

一方、妻が介護休暇までとって自分の母親を見つづけたその態度に、わたしは畏敬の念をいだいている。
妻だけでなく、三人の妹たちが献身的に母を介護する姿にも同様のものを感じた。
つらい子ども時代を経験しているわたしには、この間の彼女たちの結束力と母を大切に思うようすが奇跡の光景に見えた。
四人の娘たちを愛しつづけた母親が、最期にその報いを一身に受け、しあわせに亡くなる姿を目の当たりにしたのだ。
月並みなことをいえば「愛の力は偉大なり」ということであるが、だれもが同じようにできるものではない。



ひるがえって、自分が死ぬときにだれが看取ってくれるのかを考えると、可能性の高いのは息子であるが、うまくいけば妻もそこにいるかもしれない。いや、看取られて死ぬことがしあわせだといいたいのではない。
どこで死のうと、だれに看取られようが看取られなかろうが、それは問題ではなく、その人の死ぬ前後の時間でだれがどのように思いを馳せるのか。その人のことを考えるのか、ということが大事だと思う。
だとすれば、自分のことを考えてくれる人が近くに存在するためには、逆算していくと今どんな生き方をすべきなのかが、ぼんやりと見えてくる。