Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

篠山リベンジラン

2015年04月26日 | Life
3月のはじめに篠山ABCマラソンに出場するつもりだったが、当日の天気は朝から雨。
多少の雨でも走っているうちに止むようなら出走しようと、会場のすぐ近く(妻の実家)で待機していたが、天気予報で一日中降りつづくといっている。
雨にぬれながら42キロも走るなんて、苦痛以外のなにものでもない。自分のたのしみで走るわけだから、きょうは棄権した方がいいだろう。

そう判断し、会場には向かわずに、わたしは海岸通ギャラリーCASOへ向かった。その日は写真茶話会RR展の最終日であった。
うしろ髪を引かれる思いで車を運転し、CASOに着いたわけだが、気分は非常に重い。
フルマラソンを走るために、苦しい練習を積み重ねてきたのに、雨のせいにして棄権したからだ。

つぎの日からまったく走る気がしなくなり、その状態が2週間以上つづく。
なんとか重い気持ち(身体が重いわけではない)にムチ打って、走るものの、結局3月は二日しか走れず。
もう、このまま走らなくなるのかな。べつに仕事ではないのだから、それでもかまわないけど…。
そうこうするうちに4月に入り、新学期の忙しさにかまけて、やはり走れない(走らない)日々はつづく。



きのうから妻の実家に帰っていて、きょうは朝から妻と義妹といっしょにタケノコ掘りにいく。
イノシシやサルに食べられないうちに、早く掘り出さねばならぬ。
きょうの成果は大量7本をゲット!

そのあとランニングウェアに着替えて、国道372号を東へゆっくりと走る。ここは篠山マラソンのコースなのだ。3月に走れなかったので、きょうはそのリベンジだ。いや、べつに復讐するわけじゃないのでリトライか。
きょうは雲一つない快晴で、走りながら何台ものバイクとすれちがう。みんな気持ちよさそうだね。
わたしも気持ちと身体がどんどん軽くなって、どこまでも走れそうな感じ。ああ、ランニングってたのしいね。
こんな気分になるのは久しぶりである。



大阪に帰って、タケノコの下茹でし、煮ものや天ぷらにして食べる。

バイクとバーナーの相性

2015年04月25日 | Life
いまから20年くらいまえ、息子がまだ幼かったころ、休みになれば車にキャンプ道具を満載して、あちこちのキャンプ場へ行ったものだ。
やがて息子も大きくなり、わが家のキャンプブームは去ってしまったが、あとにはいろんなキャンプ道具がのこった。
ファミリー用の大きなテントをはじめ、調理器具一式と野外で快適に過ごせるためのテーブルとイス、ランタンやタープまで。もうこのままモンゴルへいけば遊牧生活ができるかも(いや、できないが)というくらい、いろんなものがある。



で、この春からバイクツーリングが再燃したわたしは、キャンプ用のガスバーナーと小鍋を積んで、気の向くまま走り回っている。
だいたいの走るルートだけを決めて、適当なところで休憩し、おなかが空いたらこれで湯を沸かしてカップラーメンをつくって食う。
べつにラーメンじゃなくて、コーヒーでもなんでもいいのだが、たとえば山頂の展望台でつくって食べる(飲む)というのは、食堂や喫茶店で食べるよりも格段にうまい。ウグイスの声を聞きながら、ラーメンをすするって贅沢だね。

じつはこのガスバーナーは3年くらいまえに買ったものだ。以前使ってたものはホワイトガソリンを使うタイプで、長期間使わないとガソリンが劣化して火が点かないことがある。
あたらしいバーナーはガスの入ったカートリッジを取り付けて、点火スイッチをカチッと押すとかんたんに火が点く。ガソリンタイプより火力が強く、ラーメンをつくるくらいの量(350cc)なら1分ほどで沸く。

冬山の登山で重宝しているが、これはバイクツーリングでもよさそうだね。

唯一無二のバイク

2015年04月24日 | Life
世界に唯一無二の存在であることを表現するのに、よく「世界にはライカとライカ以外のカメラしかない」とか「この世にはハーレーとハーレー以外のバイクがあるだけだ」などということがある。
ホントはBMWとBMW以外のバイクということもできるし、DUCATIとDUCATI以外というくくり方もできるわけで、要するに個性的で魅力があるモノにはこういう表現がつきものである。

きょう、信号待ちで横にハーレーが停まっていたのだが、あの地響きするような排気音とスタイルから威圧感を感じるというか、なんとなくこちらが萎縮してしまう感じが今まであった。
だが、きょうはふしぎとそういう気分にはならず、むしろハーレーと対等な気持ちになった。そしてあたまの中には「世界にはSRとSR以外のバイクがあるよね」ということばが浮かんだ。これほどわたしの身の丈にぴったりのバイクは今までなかったと思う。



このバイクを買って3週間が経つが、天気のいい日にはあちこち走り回っているので、この間に約1000キロも走った。いい歳のオヤジがなにをしてるんだか。
きょうも朝から一人で柳生街道を走って月ヶ瀬まで行ってきた。
途中のくねくね道を走りながら、左旋回のコツはほぼつかめた。右はあとすこしだ。
旋回中に外足の内ももにバイクが張りつく感じと、肩の力が完全にぬけてハンドルがフリーになる感じがよくわかる。きちんと重心の上に乗れているので車体の安定感と気持ちの安心感が高い。人車一体という状態がこれだね。

もっとも、3速で60キロ前後のスピードだから、スポーツタイプのバイクに比べたら亀のように遅い。じっさい後ろからすごいスピードで抜いていったバイクあり。気をつけてね、こけたら痛いよ。
たしかにSRは遅い。遅いけど、でもバイクを操るたのしさがある。これはクラシックなフィルムカメラを使うときの気分に近いかもしれない。
きれいな風景を見ながらのんびりと走る。途中で絵になる風景に出会ったら、バイクを止めて写真を撮る。いい写真が撮れている気がする。

こけたら一巻のおわり

2015年04月12日 | Life
ともだちのYさんとごまさんスカイタワーの食堂で「この赤山椒七味が美味いのですよね」などといいながら、のんきに天空うどんをすすっていたら、天空からヘリコプターの音が近づいてきた。つづいてパトカーの音もどんどん近づいてくる。
何かあったのかな?



食べおわって1階のおみやげ売り場へ降りる。お店の人がいうには、バイクでだれかが事故を起こしたらしい。
さっきのヘリコプターはドクターヘリだったのか。空輸しなければならないって、かなり深刻な事態にちがいない。パトカーに先導されて、いっしょに走っていた人たちが峠を下っていく。
ああ、この人たちのきょうのツーリングはもうおわりだな。もしかするとこの事故がトラウマになって、一生バイクに乗れない人も出てくるかもしれない。

バイクに乗るということは、こういうことなのだ。
つねに事故ととなり合わせ、そして事故ると車よりもはるかに悲惨なことになる。けがは必至、下手すれば死ぬ。残された家族やいっしょに走っていたメンバーに途方もない悲しみを与えてしまう。
そういうリスクをいつも意識し、自分を律することのできる人しかバイクに乗ってはならないと思う。
わたしは21歳のときに死ぬような事故を起こして以来、それを戒めとして走っている。



さて、きょうは忙しいYさんを無理やり連れ出して、高野山から龍神スカイラインを走り回っている。
日曜日ということもあって、高野山は観光客でごったがえしているが、龍神スカイラインは空いていて走りやすい。
SRX6を駆るYさんにはなかなか追いつかないが、SR400もまあそこそこのスピードで走れている。スロットルを開け閉めしながらカーブを曲がっていく感覚は久しぶりだ。やっぱりバイクはある程度のトルクがないと曲がらないし楽しくないね。

きょう一日で250キロくらい走った。ずいぶん身体がバイクになじんだ気がする。

自分の記憶を検索する写真

2015年04月11日 | Life


きょうは友だちのEさんとFさんと丸亀にある猪熊弦一郎現代美術館へいく。車で約3.5時間の距離なので、ちょっとした小旅行あるいは遠足の気分だ。
芦屋料金所の前後で渋滞していたものの、あとは淡路島を縦断し、鳴門から高松自動車道を快調に走って、12時半くらいに丸亀に到着する。
まずは腹ごしらえに讃岐うどんをたべる。



宮武讃岐製麺所という地元では有名な店へいく。
讃岐うどんといえばセルフ方式が定番であるが、どうやらここが最初にはじめたものらしい。
まず麺を茹でている女性に麺の量を告げる。小がうどん1玉、中は2玉、大なら3玉で、それぞれ220円、320円、420円というお値段だ。
つぎにきつねや天ぷらなどの具材をえらぶ。60~100円でいろんなものがあるので、目移りして迷う。

中うどんとゲゾの天ぷらで420円。安いね

会計のあと、天かす・青ネギ・おろし生姜をトッピングして、だし汁を注ぐのだが、じつはトッピングをのせるまえに「温め湯」で麺と器を一度温めなおすのが本当のやり方。それに気づいたのは食べおわったあとだった。残念。
でも、やっぱりうどんはとてもおいしくて、本場まで来ただけのことはありました。



さて美術館であるが、現在「鈴木理策写真展 意識の流れ」という展覧会が5月末まで開催されている。
鈴木氏といえば、熊野古道と修行僧を撮った「KUMANO」や「SAKURA」のシリーズしか知らないが、きょうはそれらの作品も含めた最新作を100点ほど見ることができる。
3階の展示室に入ると巨大な写真群があらわれた。手元の資料を見ると952×1190ミリとなっている。奥の部屋にはさらに大きな写真もある(1200×1550ミリ)。

鈴木氏の写真はいわゆる風景写真ではない。
たしかにどこかの風景が写っているのだけれど、それがどこなのかはわからない(タイトルやステートメントを読むと「熊野」だとわかるけど)。
しかも「美しい風景だったので撮りました」というような感動的な光景は写っていない。岩がころがっている何もない風景だったり、目のまえの大きな木をたんに撮っただけの写真なのである。



アサヒカメラなどの写真雑誌を見慣れている人が見ると「えっ、この写真のどこがいいの?」と思うくらい、フツーなのだ。いやむしろ、写真をはじめたばかりの人が撮ったような「主題」のない失敗写真にすら見える。
この写真群をよみ解くカギは彼のつぎのことばだ。
「見るという行為に身をゆだねると、取り留めのない記憶や、さまざまな意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりの様な感情をもたらすことがある」
たしかに過去に見た風景と目のまえの風景とが重なって、むかしの記憶がよび覚まされることがある。その場所がおなじ場所でなくとも、よく似ているというだけでその時のことがよみがえってくる。

そういう意味では鈴木氏の写真は高度に抽象化された風景写真なので、見る人が自分の記憶のなかからよく似た風景を検索し、勝手にその写真と結びつけて見てしまうのかもしれない。
わたしとEさんとFさんの良かったという写真がまったくちがっていたのは、それぞれが今まで見てきた風景がちがうからだと思う。
ちなみに鈴木氏の写真はすべて8×10インチもあるフィルムカメラで撮られたものだが、そのテクニックを見せずに純粋に写真に写っているものだけを見せている。そこが痛快でもある。