真っ青な空に鯉のぼりの尾がはためいている。
その写真のタイトルは「空をおよぐ」。
まぶしいけど目を細めてでもじっと見ていたくなる。なんか懐かしいような、すこし切ないような、そんな感情を彷彿させる写真だ。
Kさんはそのステキな写真をひっさげて、きょうの写真茶話会RRにやってきた。
彼女の写真の魅力は、ふだんわたしたちが何気なく見ている(あるいは見落としている)ものを、彼女にしかないアンテナで受信して、そこにカメラを向けていることだ。
たいていは逆光の太陽だったり、足もとに伸びる影であったり、ざらついた地面や横断歩道だったのだが、「空をおよぐ」はいままでの彼女の写真とは明らかにちがう。
なにかが吹っ切れたような開放感と、しかし不安ののこる浮遊感のようなものが写っている。
←Hさん、ごちそうさまでした
1枚の写真がその後の自分の写真の方向を示すことはよくあることだ。
ただその「1枚」を自分が見つけなければ、つぎにつながらないこともよくある。
わたしが「この写真はいいよ」といっても、それが撮影者にとっていいかどうかはわからない。
つまり他人の尺度で評価されたものは、自分のなかにあるものと同じとはかぎらないのである。あたりまえだけど。
ところで写真における共通認識とはなんだろう?
青空を見て人はなにを感じるか。あるいは鯉のぼりからなにを連想するか。
だれもがおなじ気持ちになることはあり得ないにせよ、なんらかの共通する気分や感情があると思う。
写真を見る人は、その写真に写っている情報から撮影者の感情を読み解いていく。なにに感動したのか想像してみる。そして自分のなかにある感情と重ね合わせてみる。
そういう行為が写真を見るたのしさでもある。
だとすれば、撮影者は見る人と共有・共感する部分を意識的にコントロールして、作品に盛りこむことが必要だと思う。
ではYさん、あとのお導きはよろしく。
その写真のタイトルは「空をおよぐ」。
まぶしいけど目を細めてでもじっと見ていたくなる。なんか懐かしいような、すこし切ないような、そんな感情を彷彿させる写真だ。
Kさんはそのステキな写真をひっさげて、きょうの写真茶話会RRにやってきた。
彼女の写真の魅力は、ふだんわたしたちが何気なく見ている(あるいは見落としている)ものを、彼女にしかないアンテナで受信して、そこにカメラを向けていることだ。
たいていは逆光の太陽だったり、足もとに伸びる影であったり、ざらついた地面や横断歩道だったのだが、「空をおよぐ」はいままでの彼女の写真とは明らかにちがう。
なにかが吹っ切れたような開放感と、しかし不安ののこる浮遊感のようなものが写っている。
←Hさん、ごちそうさまでした
1枚の写真がその後の自分の写真の方向を示すことはよくあることだ。
ただその「1枚」を自分が見つけなければ、つぎにつながらないこともよくある。
わたしが「この写真はいいよ」といっても、それが撮影者にとっていいかどうかはわからない。
つまり他人の尺度で評価されたものは、自分のなかにあるものと同じとはかぎらないのである。あたりまえだけど。
ところで写真における共通認識とはなんだろう?
青空を見て人はなにを感じるか。あるいは鯉のぼりからなにを連想するか。
だれもがおなじ気持ちになることはあり得ないにせよ、なんらかの共通する気分や感情があると思う。
写真を見る人は、その写真に写っている情報から撮影者の感情を読み解いていく。なにに感動したのか想像してみる。そして自分のなかにある感情と重ね合わせてみる。
そういう行為が写真を見るたのしさでもある。
だとすれば、撮影者は見る人と共有・共感する部分を意識的にコントロールして、作品に盛りこむことが必要だと思う。
ではYさん、あとのお導きはよろしく。