なんばパークスシネマで、是枝裕和監督の「そして父になる」を観る。(以下、ネタバレの可能性あり)
是枝監督の作品はじっさいにあった事件を素材にして、そこにすこし話(演出)をくわえているものが多い。
演出といっても、その作品のテーマがより深くなるように脚色しているだけで、全体としてドキュメンタリーな部分は変わらない。
わたしが是枝作品を好きなのは、非常にすくない台詞のなかに濃縮した主張があったり、あるいは台詞のない演技のなかに絵で見せる主張があって、映像のもつ力を最大限に生かしているところだ。
この作品にも随所にそういうところがあって、淡々と話はすすんでいくのだけれど、一瞬たりともスクリーンから目が離せなかった。
福山雅治が扮する良多が息子・慶多の撮った写真を見るシーンでは、慶多のまなざしを通して父への想いを感じることができる。(あんなに上手く撮れるか? というツッコミはしないこと)
また、「血のつながっていない子を愛することができるのか」という良多の問いに、真木よう子扮するゆかりは強い口調で「子どもとのつながりを実感できない男だけが、いつもそんなことをいうのよ」と返す。
この台詞には世の男性たちはみんな胆を冷やすだろうな。真木よう子はいつも男前だ。
この作品は「親子の絆」という普遍的なテーマをあつかっているので、日本特有の家族の背景はあるにせよ、外国の人が観ても意味はわかるし、同じ感動を十分に味わうことができる。
その証拠に、カンヌ国際映画祭で上映後のスタンディングオベーションが鳴りやまなかったり、スピルバーグ監督がドリームワークスでリメークすることが挙げられる。
スピルバーグがどんな作品に仕上げるのか、いまからたのしみだ。
いままでの是枝作品はだいたい山崎裕さんが撮影を担当しているが、この作品から絵が変わったなと思ったら、なんと瀧本幹也さんが撮っていた。
写真家としてしか知らなかったけど、映像作家としての彼のキャリアにもすごいものがあった。
派手なカメラワークはまったくなく(というかカメラを意識させずに)、話そのものに集中できる自然なアングルと空気感が、是枝作品とうまくマッチしている。
ラストシーンはやっぱり写真家だなと感じさせる引きの構図で、観るものの心に深い感動と余韻をのこす映像であった。
是枝監督の作品はじっさいにあった事件を素材にして、そこにすこし話(演出)をくわえているものが多い。
演出といっても、その作品のテーマがより深くなるように脚色しているだけで、全体としてドキュメンタリーな部分は変わらない。
わたしが是枝作品を好きなのは、非常にすくない台詞のなかに濃縮した主張があったり、あるいは台詞のない演技のなかに絵で見せる主張があって、映像のもつ力を最大限に生かしているところだ。
この作品にも随所にそういうところがあって、淡々と話はすすんでいくのだけれど、一瞬たりともスクリーンから目が離せなかった。
福山雅治が扮する良多が息子・慶多の撮った写真を見るシーンでは、慶多のまなざしを通して父への想いを感じることができる。(あんなに上手く撮れるか? というツッコミはしないこと)
また、「血のつながっていない子を愛することができるのか」という良多の問いに、真木よう子扮するゆかりは強い口調で「子どもとのつながりを実感できない男だけが、いつもそんなことをいうのよ」と返す。
この台詞には世の男性たちはみんな胆を冷やすだろうな。真木よう子はいつも男前だ。
この作品は「親子の絆」という普遍的なテーマをあつかっているので、日本特有の家族の背景はあるにせよ、外国の人が観ても意味はわかるし、同じ感動を十分に味わうことができる。
その証拠に、カンヌ国際映画祭で上映後のスタンディングオベーションが鳴りやまなかったり、スピルバーグ監督がドリームワークスでリメークすることが挙げられる。
スピルバーグがどんな作品に仕上げるのか、いまからたのしみだ。
いままでの是枝作品はだいたい山崎裕さんが撮影を担当しているが、この作品から絵が変わったなと思ったら、なんと瀧本幹也さんが撮っていた。
写真家としてしか知らなかったけど、映像作家としての彼のキャリアにもすごいものがあった。
派手なカメラワークはまったくなく(というかカメラを意識させずに)、話そのものに集中できる自然なアングルと空気感が、是枝作品とうまくマッチしている。
ラストシーンはやっぱり写真家だなと感じさせる引きの構図で、観るものの心に深い感動と余韻をのこす映像であった。