Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

アンダルシアの主役は黒木メイサ

2011年06月27日 | Life
午前中にアルバム台紙が仕上がったので、午後から映画「アンダルシア」を観に行く。
織田裕二の暑苦しい演技は一度もうまいと感じたことはないが、彼の出る映画やドラマはけっこう観ている。
「アマルフィ」にはじまる黒田康作シリーズもその一つで、テレビドラマ化されてからは毎週たのしみに観ていた。
「アンダルシア」はそれにつづく話で、敵役?が伊藤英明というのもいかにもフジテレビ系らしい。

織田の出る映画やドラマは話自体がおもしろいのと、いい演技をする脇役が多いので、ついつい観てしまう。
「踊る~」では深津絵里やいかりや長介に何度泣かされたことか。
今回の「アンダルシア」は黒木メイサがいい。
もう圧巻の演技で、さいごまでたのしませてくれた。

ところで人間の塔の場面で、フリージャーナリスト役の福山雅治が使っていたカメラは、ライカM9ブラッククロームでレンズはたぶんズマリット50ミリF2.5(F1.5ではない)が付いていたように思う。
だけどジャーナリストならズミルックスか、ズミクロンじゃないとカッコがつかない。
ボディもどうせなら、アウディデザインのM9チタンにしてほしかった。
おそらく福山本人のカメラをそのまま使っているとみた。
でも個人的にはズマリットは好きなレンズだ。シブい。

映画を観たあと、1階下の本屋へ寄る。
最近は写真・カメラ関係の棚より料理関係の方へひかれる。
同じような男性が2人、レシピ本を立ち読みしている。
豆腐料理のレシピ本を買う。

きょうの夕食にはヘルシーなメニューが並ぶ。

夏のおわりに個展やります

2011年06月26日 | Photography
鉄は熱いうちに打てということで、インドの写真で写真展をすることにした。
場所は新北野にあるブルームギャラリーで、会期は9月6日(火)から18日(日)までの2週間。
これから2ヶ月ほどでいろいろな準備をしていく。

まずギャラリーを通じてプレス関係に告知するので、7月半ばまでに写真展のタイトルとコンセプト、そしてわたしの履歴をギャラリーに送らねばならない。
DM用の画像データもほぼ同時期だ。
さらに写真の展示計画(作品の大きさや点数、展示の仕方など)も7月中には確定して、8月はプリントづくりに励むことになろう。

幸い(というか悲しいことに)この時期は仕事が少ないから、写真展の準備にかけることができる。
それぞれの作業の進行状況をこれから書いていくので、写真展をしようと思っている人は参考にしてほしい。
とりあえず、ご報告まで。

鈍った身体に鞭を打つ

2011年06月25日 | Life
朝からなにもする気がしないので、コーヒーを飲みながらぼんやり過ごす。
11時まえになってようやく重い腰をあげ、フィットネスジムへ行く。
九州行きの前後で体調をくずしたので、運動をするのはじつに3週間ぶりだ。
期間があけばあくほど身体がだるくなって動くことがおっくうになる。
そこへ鞭を打ってジムへたどりつくと、あとはイヤでも自動的に運動できるのがジムのいいところだ。
バイク10分、筋トレ2セット、ジョグ60分で9キロ。
いつものメニューを粛々とこなす。
ジョグ中に見た「男子ごはん」のメニューを今夜はつくろうと思う。

ジムを出て、駅前の立ち食いうどんをすする。
それからカメラのナニワへ注文していたものを買いにいく。
写真の台紙73冊はけっこうな重さだ。
あしたから仕上げの作業に入るのだが、今月中になんとか納品してしまいたい。

帰宅すると部屋の温度が32度をまわっている。
愛犬アルタはのんきな顔で昼寝しているが、かなり暑そうだ。
急いでエアコンを入れる。
節電が叫ばれているけど、ピーク時の13時から15時までガマンすれば、もうつけてもいいだろう。
そもそもウチは太陽光発電してるので、この季節は使用量より発電量の方が上回るのだ。
少しは社会の役に立っていると思いたい。

デジタルイメージとペーパーの関係

2011年06月24日 | Photography
なんかおそろしい勢いで写真が生まれている。
どこを歩いていても「おい、ここを撮れ」という声がきこえるというか、写真の仕上がりが見えるというか。
こんなことははじめてだ。
きょうも学校の授業がおわって、M中学校へ行くまえに近くの公園で少し時間つぶししていると、突然シュールな光景が見えた。
暑さで頭がどうかなってるのかと思いつつ、シャッターを切ると、はたしてそのイメージがモニタに現れた。
全身汗だくになって写真をとりつづける。

M中の用事をおえ帰ってくると、さっそく現像だ。
かつてモノクロフィルムで撮っていたころ、写っているものを早く見たくて、毎日フィルム現像していたのを思い出す。
そのころのうれしい焦りのような気持ちがよみがえる。
RAW現像というのは文字どおり現像作業なのだな。
いまなら現像してすぐにプリントまでできてしまうので、いっきに10枚ほどプリントする。
夏場、苦労して現像液の液温を調節していたのがなつかしい。
10枚プリントをつくろうと思ったら一日仕事だったのに。

最近、お気に入りのペーパーを紹介。
パーマジェットのファインアートシリーズで、「デルタマット」という紙だ。
質感やリアリティを出すにはハーネミューレのファインアート「バライタ」が最高だが、このデルタマットはそれとは真逆の表現になる。
すなわち被写体のもつ質感は出ないし、風景にリアリティがともなわない。
絵画のようなつくられた感じを出すのに向いている。
A4サイズ25枚入りで一箱5,580円、1枚あたり223円ほど。ハーネミューレよりずっと安い。

アナログプリントをつくっていたころ、手に入る印画紙は5種類ほどであった。
が、デジタルプリントになって、けっこういろいろなペーパーが出てきたのでおもしろい。
同じ画像データでもプリントする紙によってまったく見え方が変わるから、紙選びも表現のうちかもしれない。
ただし安い紙は酸性の漂白剤を使っている可能性が高いので、長期保存を考えると中性のものを選ぶべきだ。
でもウェブサイトを見てもなかなかその情報は得られないから難しい。

「屠場」を見て感じたこと

2011年06月21日 | Photography
きょうからはじまった「本橋成一写真展 屠場」をリバティおおさかへ見に行く。
本橋成一氏は炭坑で働く人びとや沖縄離島の漁師たち、原発事故で被爆したベラルーシの村に暮らす人びとなど、一貫して労働者の生活を記録してきた。
人間が生きるとはどういうことか、生命となにかをシャープな視線で切り取ってきた。
そのブレない視線で今度は大阪の被差別を撮っている。

被差別の起源には諸説あって、わたしがここで解説できるほどの知識はないしスペースもない。
ただはっきりしているのは、歴史的にみてこれはつくられたものであるということだ。
国をうまく治めるために時の為政者が民衆の差別心やケガレ意識をたくみに利用してきたのである。
そのなかで屠畜業は「ケガレ」た仕事として被差別に固定されてきた。
いまこうしたことを話題にしないのは差別がなくなったというわけではなく、わたしたちの心のどこかにフィルターがあって、その話題には触れないでおこうとしているだけだと思う。



さて「屠場」(とばと読む)であるが、彼の写真は声高に反差別を訴えているのではない。
ただ、たんたんと屠場のようすを記録しているだけだ。
だがその写真群から見えてくるものは、屠場に生きる人びとのようすであり、人間と牛とのかかわりであり、さらにそれを食するわたしたちとのつながりである。
もっといえば、日本の食文化からわたしたちの生き方までもが見えてくるのだ。
じつは本橋氏はこの屠場の撮影を25年もまえから続けている。
今回の写真展は最近撮りおろした写真も含め、屠場シリーズの集大成といえるだろう。

同時に出版された写真集のまえがきで本橋氏はこんなことを書いている。
「あの時代、大人も子どもも一片の肉のありがたさを知っていた。生きものとして、食としてのいのちのつながりが見えていた。いま日本をはじめ食にあふれた国々では、食するために他の生きものたちを屠るために機械や電気やガスを使い、自らの手で殺さなくなった。食するために他の生きものたちは命がけで闘う。せめて人間が食するものは人間の手で殺すべきではないか、それが相手に対する礼儀ではないか」
ナイフ1本で牛に立ち向かう熟練した作業員たちに、本橋氏はライカ1台で立ち向かう。
そんな誇り高き職人(あえてそう呼びたい)同士の闘いが目に浮かぶようである。



大震災によってわたしたちは自分の生活を足下から見直そうとしている。
こんな時期だからこそ、心のフィルターを取りはらって、まっすぐな眼でこれらの写真を見たいと思う。
そこから見えてくるものは、とりもなおさずわたしたちの日々の生活に直結していることだから。