Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

第二の風にのれ

2016年12月29日 | Life
きのうから妻の実家に帰省してのんびりしている。



今回は仕事をいっさい持って帰ってないので完全にオフモードだ。
読みかけの本をゆっくり読めるし、好きなだけランニングもできる。ライフワークとなったギフトシリーズ(田舎の風景)も3台のカメラで撮りまくっている。それにしてもライカM5の露出計は使いやすいね。最新のニコンより当たるかもしれない。きょうは大好きなエルマリート28ミリで遠近感を効かせて1本撮った。

午前中、寒風吹くなかランニングしていて、ちょうど1時間くらい走ったところで峠道にさしかかり、ペースを落とさないように必死に腕を振って走った。ピークを過ぎて下り坂になったときに久しぶりにセカンドウィンドがやってきた。いわゆるランナーズハイっていう状態で、身体が軽くなってどこまでも走れるような気分になることだ。下り坂だから当たりまえか。
でもその風はずっと吹くわけじゃなく、15分くらいでまたもとの苦しい状態になった。そこからが本当の練習なので、くじけそうになる心を叱咤してきょうは17キロ走った。

腹ペコになったので、昼食に厚切りベーコンと玉ネギを具にしたカルボナーラもどきをつくる。生クリームも牛乳もなかったので、麺に卵をからめただけのなんちゃってカルボナーラです。卵に塩コショウと砂糖もすこし入れて下味をつけておくと、なんとなく生クリームのコクがついてるように感じられる。オリジナル裏技!

さて、そろそろ夕食の準備をするかな。

今年のステキな(バッドな)出会い

2016年12月28日 | Life
年末恒例、この1年間をふりかえって感動したことや残念だったことを書き出してみる。



ライカM5
フィルムで撮るおもしろさとは、なにが写っているかわからない「わくわく感」にある。撮影時に感じたイメージ以上のものが写っていると、なにものにも替えがたい感動が味わえる。
そのためには正常に動作し、壊れたときに修理できるフィルムカメラが必要。現在それが叶うのはライカだけ。

フルマラソン完走
地球サイズで見ると42キロなんて微々たる距離であるが、それでも自分の足だけで移動するのはなかなかたいへん。じっさいに移動した者だけにしか味わえない感動がある。小さな成功体験だが達成感は大きい。

S&U
Salt & Uribossaは男性二人のボサノヴァユニット。マイナーレーベルではあるが、これまでに3枚のアルバムをリリースしている。
心地よいボサノヴァのリズムにのせて愛を歌った曲が多いが、たんなるラブソングではなく、人類愛・地球愛にまで高められた普遍的な歌詞には強いメッセージが感じられる。楽曲はシンプルなアレンジ(ほぼ生ギター2本、ときどきフルートやパーカッションあり)ながら、完成度は非常に高く、オリジナリティにあふれている。
今年の後半、デスクワークのときにずっと部屋で聴いていたが、聴き込むほどに幸福感が味わえる希有な音楽。現在あたらしいアルバムを制作中とのこと。たのしみだ。

キリンの子
「目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ」
この歌集を読んで衝撃を受けない人はいないと思う。ここから人生の不条理や日本の社会の歪みを読み取ることは可能だが、初等教育すら満足に受けられなかった歌人・鳥居が、自ら文字を獲得したことで人生を切り開いていった彼女の生きざまに、わたしは激しく感動した。表現手段を得た人間は孤独ではないのだと。

タブレット端末
タブレットを持って変わったことといえば、ふだん町を歩いていても写真を撮らなくなったことだ。コンデジを携帯していたころは無意識のうちに「なにか面白いものはないか?」とキョロキョロしていたのに、タブレットだとそういう視線がなくなってしまった。
これはストリートスナップを撮る写真家にとって由々しき事態である。早急にコンデジを買わねばならぬ。

石舞台でフライングリング

2016年12月24日 | Life
のたりのたりグルメツアー(※)で奈良をめぐる。きょうのガイドは奈良在住のPさんだ。
 ※与謝蕪村の名句に由来する脱力系無目的プチ旅行



まず明日香村にある古民家カフェことだまでランチ。ここは予約しないと入れないほどの人気のお店。
ランチは1種類しかなく、季節ごとに中身の変わるおまかせメニューだ。野菜をふんだんに使った料理は繊細な味つけで、しかも見た目が非常に美しい。肉食系の人にはすこしもの足りないかもしれないけど、たのしい会話をしながらゆっくりたべると十分に満腹感は味わえる。かわいいデザートとコーヒー(または紅茶)までついて1620円。とてもリーズナブルなのも魅力。



厄よけで有名な岡寺へいき大仏さまを拝む。そのあとちょっと足を伸ばして高取山の城跡へ。ここは日本の山城のなかでもっとも高低差のあるところだそうで、車を降りてから本丸跡までけっこう山道を歩いた。ようやく到着し、石垣のまえでヘンな記念写真を撮る。傑作すぎてお見せできない。
ふたたび明日香にもどって石舞台古墳へ。まえの広場でQさん持参のフライングリングであそぶ。フリスビーよりも柔らかい素材なので、受けそこなったり当たっても痛くない。簡単そうだが、なかなか思ったところへ投げたり受け止めるのはむずかしい。老体にムチを打って走り回る。



近くのカフェさんぽで自家焙煎のコーヒーと抹茶のシフォンケーキをいただき、一日の余韻にひたる。

生きること すなわちこれ表現

2016年12月22日 | Photography
京都五条のGallery Mainでやっている展覧会「CITYRAT press photo exhibition 2016」を観て、出品している14人の作家の「叫び」みたいなものを感じた。そして表現するということについて、あらためて考えてみた。



世の中にはなにかを表現する人と、それを鑑賞する人がいる。でも表現する人がべつのなにかを鑑賞することもあるので、どちらか片方だけという人はいないだろう。
たとえば画家が写真展を観にいくこともあるし、写真家が音楽会を聴きにいくこともある。音楽家が演劇を観にいくこともあれば、俳優が絵画展を観にいくこともあろう。これはプロ作家/俳優だけのことではなく、趣味で絵を描いたり写真を撮っている人についてもおなじだ。

そしてもっと見方を広げれば、絵画や写真、音楽、演劇など芸術とよばれるものだけでなく、たとえば日々の料理をつくることやマラソン大会に出場すること、あるいはバイクで走ることさえも表現といえるだろう。
場合によっては法に触れるような犯罪でさえも、歪んだ精神によってもたらされた表現行為と見なすことができるかもしれない。

そう考えると、人間が生きていること自体がすでに「表現」であって、なにも表現しない人間なんて存在しない。
つまり人間はみんな多かれ少なかれ、「オレはここに生きている」ということをいろんな表現によって叫ばずにはいられない生きもののようだ。その欲求の強烈な人たちが表現者となり、その表現をまわりの人たちが見て共感する。そして「ああ、わたしも生きている」と感動するのだと思う。

掃除は才能か

2016年12月19日 | Life
清潔でしずかな環境で暮らしたいと願っているのに、じっさいには理想とはかけ離れた部屋の中で生活している。
騒音に関してはだれもいない平日の昼間は、宅配や郵便配達の車以外、気になる音はないのだけど、雑然とした部屋の風景はあいかわらずで、これはもう見て見ぬふりをしなければどうにもならないほど絶望的である。



それなら日ごろから掃除すればいいと言われるであろうが、わたしが思うに、この掃除をすることは一種の才能ではないか。あるいは遺伝的なものもあるのではなかろうか。いや生物学的なことはなにもわからないけど、掃除ぎらいのわたしと妻の血を受け継いだ息子を見ていると、ときどきそんなことまで考えてしまうのである。(上の写真は息子の部屋)

とにかくわが家は汚い。この「汚い」というのは、ゴミがあふれていたり床がよごれているというわけではない。ゴミ出しも掃除機かけも定期的にわたしがおこなっているし、洗濯ももちろん毎日している。だが部屋全体を見わたすとまったく美しくないのである。「美しくない」つまり「汚い」という意味だ。

他人様の家をじっくりと見たことがないので、わが家とくらべようがないのだけど、たとえばテレビドラマなんかで出てくる家の中はとても整然としていて清潔で美しい感じがする。まあ、あれはスタイリストが考えて大道具・小道具さんたちがつくったものであろうが、あんな空間で生活できたらさぞかし気持ちも落ちつくのではないか。
バカみたいな話をしていることは承知しているけど、そろそろ今年もおわりなので、整理できるところは整理して、すっきりした気持ちで新年を迎えたいと考えている。どなたか、家の中がきれいに片付く方法を教えてくれまいか。