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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「悪い夏」

2025-04-14 06:05:36 | 映画の感想(わ行)
 城定秀夫監督の作品としては、「女子高生に殺されたい」や「ビリーバーズ」などに比べれば、設定が幾分図式的なので“凶悪度”はそれほどでもない。しかし、原作が第37回横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞した染井為人の同名小説だけあって、幅広い層にアピール出来るような毒気(?)は十分醸成されており、最後まで楽しめた。各キャストの奮闘ぶりも印象に残る。

 地方都市(主なロケ地は埼玉県飯能市)の市役所で生活福祉課に勤める佐々木守は、同僚の宮田有子から思わぬ相談を受ける。同課のベテラン職員の高野洋司が生活保護受給者の女性に不埒な関係を強要しているらしいので、真相を突き止めて欲しいというのだ。渋々ながらその頼みを引き受けた佐々木は、その当事者である身持ちの悪いシングルマザーの林野愛美のもとを訪ねるが、思いがけず彼女に惹かれてしまう。高野との関係は否定する愛美だったが、実は彼女はヤクザの金本らが企む“生活保護ビジネス”の片棒を担ごうとしており、佐々木も無関係ではいられなくなる。



 本作の惹句が“クズとワルしか出てこない”というものだが、中身もまさにその通り。真っ当な人間など、全然見当たらない。もっとも、斯様に社会的リファレンスを持ち合わせたキャラクターが皆無の筋立ては、作劇に求心力が不足してドラマが空中分解する恐れがある。だが、この映画は見せ方が上手く、悪いと分かっていながらそれでも道を外れてしまう人間の悲しい性を、綿密な描写で観る者を納得させていく。

 主人公の佐々木にしても、たぶん公共の福祉に微力ながら寄与したいとの意志で公務員を目指したのだろう。しかし窓口で毎日ロクでもない連中の言い分を聞くうちに、内面が徐々に歪んでしまう、その背景の扱いには説得力がある。こういう真面目だが気弱な人間こそ、ワルどもの絶好の餌食になるのだ。

 愛美や金本だけではなく、宮田や高野、及びそれら取り巻く連中も、まあ見事なほどのサイテー野郎ばかり。城定の演出はこいつらの醜態をエゲツなく暴き出すが、ドラマを空中分解させないだけの求心力はキープしている。終盤の、全員が雁首並べて繰り広げるスペクタキュラーな修羅場の描写も違和感が無い。

 主演の北村匠海は大健闘で、ヤケになって人生を投げ出す小市民を上手く演じきっていた。愛美に扮する河合優実は“予想通り”の仕事ぶりだが、こういう内容のシャシンでは申し分ないだろう。他にも伊藤万理華に毎熊克哉、竹原ピストル、木南晴夏、そして窪田正孝と、濃い面子が揃っていて飽きさせない。あと、金本の情婦を演じる箭内夢菜は初めて見る女優だが、底抜けの性悪さが印象的。期待の持てる人材だと思う。渡邊雅紀による撮影と遠藤浩二の音楽も及第点だ。
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「ワンダーランド あなたに逢いたくて」

2024-11-25 06:30:22 | 映画の感想(わ行)
 (英題:WONDERLAND)2024年7月よりNetflixから配信された、近未来を舞台にした韓国作品。どうやら巷の評判はあまりよろしくないようだが、私は気に入った。キャラクター設定と世界観はよく考えられており、少々トリッキィな作劇もエンドマークを迎えてしまえば違和感はあまり無い。存在価値はあるシャシンかと思う。

 映画で描かれた世界は、すでにこの世にいない人たちを仮想空間上で“再生”させ、生前関係の深かった者たちと“交流”することを可能にするサービスが流通していた。そのベンダーの一つである“ワンダーランド”と契約したのは、幼い孫娘に母親の死を隠すために利用する高齢女性、すでに病死した一家の主を仮想世界で生きているように設定する遺族たち、そして昏睡状態になってしまった恋人と電脳空間で話す若いCAなどだ。ところが、この男性が昏睡から生還したことから、当システムの存在価値が問い直されてくる。



 映画は冒頭から“ワンダーランド”の複数の顧客の状況を平行して描くことから、一見まとまりに欠けるように思われる。しかしながら、微妙なところでこれらのエピソードは互いの関連性が確保されている。さらに“ワンダーランド”を提供する若い男女の立ち振る舞いも加わり、物語は重層的な興趣を醸し出してくる。

 また面白いのは、電脳空間内のキャラクターもそれぞれ独自の“意志”を持つようになることだ。それらは自身のアイデンティティーを確立すべく、思い切った行動に出る。そんな仮想キャラクターたちが到達する“現実世界(らしきもの)”と、本当の現実とのギャップの見せ方は、かなり巧みだ。つまりは“この世”も“あの世”も、通底しているのは人間の心情なのだという、分かりやすいモチーフが強調されるのは納得出来る処置である。

 脚本も手掛けたキム・テヨンの演出は、奇を衒っているようでけっこう正攻法だ。中国出身の女優タン・ウェイをはじめ、ペ・スジ、パク・ボゴム、チョン・ユミ、チェ・ウシク,パウ・ヘイチンなど、キャストも全員健闘している。そしてパク・ホンヨルのカメラによる映像が実に清涼だ。
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「若き見知らぬ者たち」

2024-11-10 06:21:17 | 映画の感想(わ行)
 快作「佐々木、イン、マイマイン」(2020年)の内山拓也監督の新作ということで期待したが、とても評価出来る内容ではなく、落胆した。脚本も内山が手掛けているが、プロデュース側はこの万全とは言えない筋書きを修正するようにアドバイスしなかったのだろうか。とにかく、斯様な不完全な建て付けで製作にゴーサインが出たこと自体、釈然としない。

 今は亡き父の借金を返済するため昼は工事現場で汗を流し、夜はカラオケバーを切り盛りする風間彩人は、完全に生活に疲れていた。さらに同居している母の麻美はメンタルを病んでいて、気が休まる暇も無い。それでも恋人の日向の献身的な振る舞いと、総合格闘技の選手である弟の壮平の活躍に、何とか希望を見出そうとしていた。しかし、親友の大和の結婚を祝う会が開かれた夜に、彩人は理不尽な暴力事件に巻き込まれてしまう。



 冒頭に彩人の窮状が描き出され、その事情が映画が進むに従って小出しに明らかにされるという構成は、失当と言うしかない。これでは感情移入できる余地がないばかりか、真相が示されないまま主人公が悩んでいるだけという状態が長く続くため、観ていてストレスがたまる。

 くだんのカラオケバーは両親が開業したもので、父親はその前は警察官だったというモチーフは序盤に提示すべきだし、父親が死亡した原因や母親が正気を失った背景も、前半部分には挿入すべきだ。そもそも、どうして前後不覚な母親を家に置いておくのか分からない。第一、日向は看護師じゃないか。適切な改善策ぐらい提案出来ないのか。

 仲が良いはずの大和たちも、具体的に彩人に手を貸している様子は見受けられない。彩人が災難に遭うプロセスは牽強附会の最たるものだし、事件を担当した警官の態度も不審過ぎる。かと思えば、壮平の試合の場面が不必要に長く、しかも大して盛り上がらない。要するにこの映画、不幸のための不幸、悲劇のための悲劇を並べ立てているだけで、何ら普遍性もドラマティックさも喚起されていないのだ。

 それでもキャストは皆好演。主演の磯村勇斗は逆境に翻弄されて人生を投げてしまった若者像をうまく表現していたし、日向役の岸井ゆきの、壮平に扮した福山翔大、両親を演じた豊原功補と霧島れいかも健闘している。染谷将太や滝藤賢一といった脇の面子も良い。それだけに、この中身の薄さは残念だ。
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「ワン・モア・タイム あの日、あの時、あの私」

2023-06-30 06:08:08 | 映画の感想(わ行)
 (原題:ONE MORE TIME )2023年4月よりNetflixより配信されたタイムループ仕立てのスウェーデン製ラブコメ作品。他愛の無いシャシンなのだが、意外と楽しめた。脚本は少しばかり捻ってあるし、エクステリアはチャーミングだ。キャラクターもけっこう屹立している。何より上映時間が85分とコンパクトなのが良い。

 主人公のアメリアは40歳になった現在も配偶者はもちろん交際相手もおらず、仕事は退屈で捨て鉢な人生を送っていた。そんな彼女がふと思い出したのは、幼少の頃に町外れに埋めたタイムカプセルのことだ。18歳になった日に掘り起こして開封する予定だったのだが、今まで失念していたのだ。暇つぶしに様子を見に行こうとしたその時、トラックと接触事故を起こして気を失ってしまう。



 気が付くと、アメリアは18歳の誕生日にタイムスリップしていた。思わぬ形で若さを取り戻した彼女は当初は喜んでいたが、やがて同じ日を何度も繰り返すタイムループにハマったことに気付き愕然とする。何とかそこから脱出しようとするが、彼女の努力はことごとく水泡に帰す。

 この設定はハロルド・ライミス監督の「恋はデジャ・ブ」(93年)に似ていると思ったら、劇中でもその作品のDVDが小道具として登場するので笑ってしまった。ただ「恋はデジャ・ブ」と違うのは、過去の特定の時点に主人公が飛ばされた上で、その一日が延々と繰り返されることだ。アメリアはライミス作品を“参考”にして、何かこの時間軸でやり残したことがあったはずだと奮闘するが、なかなか上手くいかない。

 実はくだんのタイムカプセルに関係する人物が鍵を握っているのだが、それにどうアプローチするのか、その過程がちょっと面白い。ラストの扱いも意外性がある。ヨナタン・エツラーの演出は特段才気走ったところは無いが、観る者を退屈させないだけの堅実さは持ち合わせている。主演のヘッダ・スティールンステットが中年期も十代の頃も両方演じているが、あまり違和感を覚えないのは本人の演技力に加えてある種年齢不肖のルックスによるところが大きい。

 マクスウェル・カニンガムにエリノア・シルヴェスパレ、ミリアム・イングリッド、ペル・フリッツェルといった顔ぶれはもちろん馴染みは無いが、皆良い演技をしている。そして何より主人公たちが身に付ける衣装や、住居の佇まいがカラフルで目を奪われる。そして郊外の自然の風景は本当に美しい。あまり期待するのは禁物かもしれないが、観て損するような内容ではないと思う。
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「わたしは光をにぎっている」

2023-04-23 06:05:23 | 映画の感想(わ行)

 2019年作品。観ていて戸惑うしかない映画だ。言いたいことは大体分かる。しかし、それ自体は観ている側にとっては大したことではなく、語り口も手慣れているとは言い難い。そもそも、斯様なネタをこのように扱うシャシンが、どうして作られたのか理解できない。製作サイドでは本作に如何なる勝算を見込んだのだろうか。邦画界には不思議なことが横行しているようだ。

 二十歳になる宮川澪は、両親を早くに亡くして祖母と一緒に長野県の野尻湖畔の民宿を切り盛りしていたが、祖母が入院してしまい民宿の閉鎖が決まる。父の親友だった三沢京介を頼って上京した澪は、彼が経営する銭湯を手伝うようになる。しかし、東京での生活にも慣れきてた彼女に突きつけられたのは、銭湯が区画整理のため閉店しなければならないという、非情な現実だった。

 コミュニケーションが苦手な主人公が、それまで何とか暮らしていた場所から見ず知らずの土地に移らざるを得なくなり、藻掻きつつも周囲と折り合いを付けるまでを描いたドラマだ。正直こういうネタは珍しくはなく、あとは描き方次第で作品のクォリティが決まるのだが、本作は話にならない。そもそもヒロインの“成長度”はさほどアップせずに終わってしまうのだ。

 銭湯を切り回すことや、その常連客および周辺の者たちとの付き合い方は覚えるものの、主人公の世界はそこから広がらない。京介は銭湯が店じまいすることを数年前から知っていながら、何の準備もしないままタイムリミットを迎えて狼狽えるばかり。その他の連中も、再開発を機に新天地を求めるラーメン屋店主を除けば、皆諦観に浸るのみだ。

 つまりは、作者は主人公の生き方よりも、失われていく東京の下町情緒(?)に対する感傷を切々と綴りたいのだろう。ところが、私のようにノスタルジーなどさほど覚えない観客もいるわけで、昨今の北九州市の旦過市場の火事に代表されるように、古い商店街を放置したままでは防災上問題が出てくる。このような地域はとっとと再開発すべきだ。

 中川龍太郎の演出はテンポが良いとは言い難く、さらに固定カメラを引いたままの長回しという、昔の映画青年が喜んで使いそうな手法の多用には盛り下がるばかり。主演の松本穂香をはじめ、渡辺大知や徳永えり、吉村界人、忍成修吾、光石研、そして樫山文枝など顔ぶれは多彩ながら印象は薄い。だいたい、カメラを引いてばかりでは表情もロクに読み取れない。ただし、冒頭と終盤に映し出される野尻湖畔の風景だけはすこぶる美しく、そこは鑑賞する価値はあるだろう。
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「わたしは最悪。」

2022-08-13 06:10:38 | 映画の感想(わ行)
 (原題:VERDENS VERSTE MENNESKE )主人公にまったく感情移入できない。かといって、周りのキャラクターに共感できる者がいるわけでもない。要するに、観ている側にとっては“関係のない映画”である。とはいえ、主要アワードの候補になっており、本作に何らかの普遍性を見出す観客もいるのだろう。映画というのは、受け取る側によって評価が違ってくるものだ。

 ノルウェーのオスロに住む30歳のユリヤは、いまだに人生の方向性を定めることが出来ない。もとより学力はある方だったので医学部に進学してはみるものの、合わないことが分かって早々にドロップアウト。以後も職を転々とするが、今は書店の従業員として糊口を凌いでいる。年上の恋人アクセルはグラフィックノベル作家として成功し、彼女に結婚を打診してくるが、ユリアは踏み切れない。ある日、赤の他人のパーティに紛れ込んだ彼女は、そこで若く魅力的なアイヴィンに出会い、恋に落ちる。



 30歳になっても根無し草のような生活を送るヒロインを描いた映画としてまず思い出されるのはパトリシア・ロゼマ監督の快作「私は人魚の歌を聞いた」(87年)であるが、本作はそれに遠く及ばない。「私は人魚の~」の主人公は実生活こそ冴えないが、内面は宝石のように美しい。また、それを表現するだけの卓越した映像処理も完備していた。

 対してこの映画のユリヤは、単なる“だらしのない女”にしか見えない。行き当たりばったりに生き、同世代の女たちからは人生のスキルにおいて、おそらく大差を付けられている。それでいて“アタシはまだ本気出していないだけっ!”みたいな中二病的スタンスも匂わせ、観ていて苦笑するしかない。

 それでも大向こうを唸らせるような突出した映像表現があるのならば話は別だが、せいぜい“ユリヤの視点では時間が停止した”という底の浅いギミックが提示される程度で、あとは何もない。アクセルもアイヴィンも、そしてユリヤの母も、魅力ある人物として描かれていない。ヨアキム・トリアーの演出は平板で、作劇は盛り上がりに欠ける。

 主演のレナーテ・レインスベは頑張っているとは思うが、キャラクター設定が斯くの如しなので求心力は希薄。アンデルシュ・ダニエルセン・リーやハーバート・ノードラムといった他のキャストもパッとしない。ただひとつ良かったと思ったのは、オスロの街の風景だ。坂の多い港町で、歴史ある建物の間を市電が走る。一度は住んでみたいと思わせる風情がある。
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「私というパズル」

2021-05-08 06:12:39 | 映画の感想(わ行)
 (原題:PIECES OF A WOMAN )2021年1月よりNetflixより配信。主演のヴァネッサ・カービーが本作でアカデミー主演女優賞候補になったというので観てみたが、どうにもピンと来ない映画だ。いわば、無理筋の設定で登場人物に屈託を強いているようなシャシンであり、実に居心地が悪い。普通のシチュエーションならば、映画のネタにもならない話である。

 ボストンに住む主婦マーサは出産を控えており、夫のショーンは子供の誕生を楽しみにしていた。この夫婦は自宅出産することを選んでいたが、マーサが産気付いた夜、馴染みの助産婦は別の出産に立ち会っていたため来られない。急遽代わりの助産婦イヴが派遣され、マーサは苦しんだ末に女児を産むが、赤ん坊はすぐに死んでしまう。

 ショックに打ちひしがれた彼女は心を閉ざし、そのため復帰した職場では周囲は腫れ物に触るような対応しかしない。ショーンとの仲もギクシャクしてくる。加えて、母親と妹夫婦はイヴを訴えることに執着し、やがて夫は弁護士のスザンヌと浮気に走る。マーサは苦悩を抱えたまま刑事告訴されたイヴと、法廷で対峙する。

 要するに、マーサが病院で出産していれば、死産は避けられたかもしれないという話ではないのか。しかも、出産当日に担当助産婦が来られない可能性は予想できたはずで、その対処策も用意されていない。救急車を呼ぶのも遅すぎた。そもそも、2人が自宅出産に拘泥した理由は、最後まで明かされないのだ。

 自分たちでリスクを背負い、いざという時に対応できなかったから不幸を呼び込んだという、観ている側にとっては“関係の無い”ストーリーが展開されるだけ。また、冒頭から出産の顛末までに30分近くを要しているというのは、まったくもって無駄だ。長いだけでドラマ自体にほとんど関与していない。

 マーサの独り相撲的な懊悩や、母親らの独善的な態度も不快感しか覚えない。特に母親の出生の秘密が開示される場面は、盛り上がりそうな雰囲気がありながら少しも求心力が発揮されていない。終盤の法廷のシーンと、続くラストシーンにもカタルシスは皆無で、観終わってみれば残るのは徒労感だけだ。

 コーネル・ムンドルッツォの演出は冗長で、メリハリを欠く。主役のカービーは確かに熱演であり、ある意味“体当たり”とも言えるのだが、映画の内容がこのレベルなので割を食っている。ショーン役のシャイア・ラブーフはパッとせず、エレン・バースティンとサラ・スヌークというクセ者を脇に配していながらさほど機能させていない。なお、本作は主にカナダで撮られているらしいが、どうして舞台がボストンなのかよく分からない。チャールズ川の風景が申し訳程度に挿入されるのも、あまりいい感じはしない。
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「わたしの叔父さん」

2021-03-27 06:17:12 | 映画の感想(わ行)
 (原題:UNCLE )まったく面白くない。起伏がほとんどない作劇が延々と続き、上映中は眠たくて仕方がなかった。2時間に満たない尺ながら、途轍もなく長く感じられる。考えてみればストーリー設定自体に無理があり、キャラクターの造型も絵空事だ。聞けば2019年の東京国際映画祭コンペティション部門で大賞を獲得したらしいが、受賞実績はどうあれ、個人的にはダメなものはダメである。

 舞台はデンマークの農村地帯。27歳のクリスは幼い頃に両親を亡くし、体の不自由な叔父と2人で家業の酪農を切り回していた。特に変化のない毎日で、クリスは教会で出会った青年マイクからデートに誘われたりもするが、彼女は及び腰である。ある時、クリスは地区を担当している獣医からコペンハーゲンの大学で講義する際に同行して欲しいとの要望を受ける。2泊3日の行程で家を空けることになった彼女だが、その間に叔父が倒れてしまう。

 まず、邦題にある“叔父”というのは違和感を覚えてしまう。“叔父”というのは親の弟を意味するが、本作の叔父さんは老齢で、どう見ても20歳代の姪がいるとは思えない。ここは百歩譲って“伯父”か、あるいは祖父という設定が望ましい。

 ともあれ、この2人の関係性には疑問が付きまとう。いくら両親がいないとはいえ、クリスが叔父との生活に執着する意味が見い出せない。彼女はもともと獣医志望だったらしいが、それだけでは田舎の酪農農家を手伝う動機にはなり得ない。有り体に言えば彼女は気難しく、まったく共感できない。こんなのが画面をウロウロしているだけで気分を害する。

 しかも、朝起きてから夜寝るまで、2人は生活のパターンを変えようとはしない。何しろ、叔父の入院先でも自宅にいるときと同じ食事のメニューを用意するほどだ。監督のフラレ・ピーダセンは小津安二郎の信奉者らしいが、ひょっとしてクリスと叔父の関係は、小津の「晩春」(1949年)における原節子と笠智衆にインスパイアされたのかもしれない。しかしながら、本作は洗練の極みのような小津作品のレベルには達していない。どこか俗っぽく、そしてワザとらしいのだ。

 特に、叔父が自分でプロの介護士を呼んだことにクリスが腹を立て、“私がいるじゃない!”と言い放つあたりは不快感を覚えた。2人の恋愛感情じみたものを描こうとしたようだが、それまでに何もエモーショナルなモチーフを提示していないため、いたずらに唐突で生臭い。

 ピーダセンの演出はメリハリが皆無で、観ていて退屈だ。じっくりと淡々としたタッチで撮れば何か描けると思い込んでいる。そんなのはただの“スタイル”であり、確固としたドラマツルギーの裏付けのない表面的な小細工を見せられてもシラケるだけだ。主演のイェデ・スナゴーとペーダ・ハンセン・テューセンには魅力が皆無。オーレ・キャスパセンやトゥーエ・フリスク・ピーダセンといった脇の面子もパッとせず、とっとと忘れてしまいたい映画である。
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「藁にもすがる獣たち」

2021-03-07 06:57:12 | 映画の感想(わ行)
 (英題:BEASTS CLAWING AT STRAWS)これは面白い。屹立したキャラクターの大挙動員と、息をもつかせない展開。そして凝った作劇と、サスペンス映画に必要なポイントがすべて揃っている。まあ、中には無理筋のプロットも無いではないが、それも許してしまうほどにヴォルテージが高い。いつもながら、最近の韓国映画の出来の良さには感服してしまう。

 京畿道平沢市にあるサウナ併設のホテルでアルバイトとして働くジュンマンは、ある日客が引き取りに来なかったロッカーの中から大金が入ったバッグを見つける。もとより上司とソリが合わない彼は、仕事を放り出してバッグを家に持ち帰る。一方、失踪した恋人が残した多額の借金の取り立てに追われる入管職員のテヨンは、仲間と共謀して一攫千金を狙っていた。彼の元恋人のヨンヒはキャバレーの支配人となっていたが、そこのスタッフで夫の暴力に悩んでいるミランを何かと気に掛けていた。曽根圭介の同名小説を韓国で映画化したものだ。



 各エピソードは同時進行で描かれているようでいて、実は時制がバラバラであることはサスペンス映画好きならば察しが付くが、物語がどこに収斂されていくかは、なかなか予想出来ない。ただそれは原作の手柄であり映画の成果ではないという意見もあるかと思うが、スクリーンに観客の目を釘付けにする登場人物たちの“濃さ”とダークな雰囲気には、作り手の大いなる力量を感じずにはいられない。

 出てくる連中がすべて欲の皮を突っ張らせ、周りを出し抜こうとして僅かの見落としにより破滅してゆく。題名通り“藁にもすがりたい”と思っていても、現実は厳しく少しの希望をも踏みつぶす。その有様はまさにスペクタクルだ。脚色も担当したキム・ヨンフン監督の仕事ぶりは天晴れで、一点の淀みもなくパワフルに映画を進めていく。もっとも、同じ町で派手にビジネスを展開しているヨンヒを、テヨンが知らなかったというのは承服出来かねるが、この程度の瑕疵は許せる範囲だ。

 キャストの中ではヨンヒ役のチョン・ドヨンが圧倒的だ。殺しても死なないような毒婦を賑々しく演じきる。テヨンに扮するチョン・ウソン、ジュンマンを演じるペ・ソンウ、共に快調。ユン・ヨジョンにチョン・マンシク、チン・ギョン、シン・ヒョンビンなどの他の面子も気合いが入っている。キム・テソンによる撮影とカン・ネネの音楽も言うこと無しで、これは本年度のアジア映画の収穫だ。
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「ワンダーウーマン 1984」

2021-01-09 06:26:03 | 映画の感想(わ行)
 (原題:WW84)コロナ禍でハリウッド製の大作が軒並み公開延期(あるいは公開見送り)になっている昨今、久々に劇場で上映してくれたこと自体は嬉しかったが、いかんせん本作は出来が悪すぎる。快作だった前回(2017年)と比べても、大幅に落ちる。製作陣はどうしてこの企画(脚本や予算計画)にゴーサインを出したのか、まるで分からない。

 通常の人間よりはるかに長命であるアマゾン族の王女、ワンダーウーマンことダイアナ・プリンスは、1984年の時点では首都ワシントンにある博物館で学芸員として働いていた。ある時、遺跡から発掘された“願いを叶える石”が博物館に持ち込まれる。彼女は冗談半分で前作で死に別れた恋人のスティーヴの復活を願ったところ、彼は別人のハンサム野郎の身体を借りて生き返る。

 一方、ドジで冴えない同僚のバーバラは、ダイアナに憧れるあまり“ダイアナのようになりたい”と石に念じてしまう。すると人間離れしたパワーを得てしまう。そんな折、博物館に多額の寄付をした投資ファンドの経営者マックスは、この石の存在を知る。実は借金で首が回らなくなっていた彼は、あろうことか石と同化することを願い、強大な権力を持つようになる。ダイアナを妬ましく思っていたバーバラは怪人チーターに変身。マックスと共闘してダイアナの前に立ちはだかる。

 まず、ワンダーウーマンがあまり活躍していないのは不満だ。いくらスティーヴを蘇らせた代償として力が十分に発揮出来ないとはいえ、スカッとした働きを見せてくれないとヒーロー映画としては失格である。また、いつの間にかダイアナが空を飛べるようになるという筋書きは唐突に過ぎる。

 マックスもチーターも悪役としては小物感が付きまとい、終盤の扱いなど無茶なプロットが際限なく積み上がっていく。それに、予算が足りなかったのかと思うほど映像がショボい。これでは70年代の「スーパーマン」シリーズと同レベルだ。パティ・ジェンキンスの演出はパート1とは打って変わって精彩が無く、やたら上映時間を引き延ばしているだけ。

 主役のガル・ガドットは相変わらず美しく愛嬌もあるが、30歳代半ばであのコスチュームはそろそろ辛くなってきた。あと一作が限度だろう。クリス・パインにクリステン・ウィグ、ペドロ・パスカルといった脇の面子にも特筆するようなものは無し。ただし、ラストショットで“あの人”が登場したのには驚くと共に嬉しくなった。次回作ではガドットとの本格的な共演を期待したい。
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