去る2023年1月に、立憲民主党と日本維新の会は共同して“行政改革・身を切る改革プロジェクトチーム”を立ち上げ、2月には国会内で会合が開かれた。このチームの設立趣旨は、増税に積極的になっている現政権に対し“その前に身を切る改革や行政改革を実行せよ!”と迫ろうというものだ。
このニュースを聞いた時、私は何とも言えない違和感を抱いた。当初から“身を切る改革”を党是として掲げている維新の会はともかく、立憲民主党はホームページに“「小さな政府」「身を切る改革」が必要以上に進んだため国民の生活に負の影響が出ています。安易な人員・経費の合理化による住民サービスの切り捨てではなく、国民の命と暮らしを守り抜き、ベーシック・サービスを充実させます”と公言しているのだ。いつから変節してしまったのか。
とはいえ、立憲民主党が斯様な無節操ぶりを展開している理由は想像できる。それは、当の国民が“身を切る改革”というスローガンが大好きだからだ。政策を有権者の趣味嗜好に合わせるのは、票を獲得する上では不可欠。マーケティング(?)としては的確である(まあ、別の言葉でポピュリズムとも言うが)。
この“身を切る改革”というのは決して国民の利益には繋がらない。それどころか有害だ。行政改革というのはつまり、公務員の数を減らしてスリム化を図り、費用を削ろうというものである。それが実行されると、当然のことながら行政サービスは低下する。たとえば住民からの各種申請は受付が滞りがちになり、ハローワークの業務も阻害されて求職者は困ってしまう。
“そんなものは業務効率化で乗り切ればいい!”という意見もあるだろうが、あいにく合理化のためのシステム導入にも多大な費用が必要なのだ。ましてや役所では非正規職員が多くなった昨今、業務に対するモチベーションは期待できない。さらには人口当たりの人員数が先進国中で下位レベルにある警察官や自衛官を減らすなどもってのほかだ。
また“身を切る改革”を主張する者の言い分として代表的なものに“議員の数が多すぎる。減らせ!”とか“議員歳費は徹底的に削減せよ!”といったものがあるが、ナンセンスの極みだろう。我が国の人口当たりの国会議員数はかなり少ない(国際平均よりも下。アメリカに比べれば幾分多い程度)。また、議員歳費合計は年156億円ほどだ。国家予算が110兆円を超えるのに、たかだか156億円程度の支出に青筋立てて一体何をしたいのだろうか。
断っておくが、私は何も“公費の無駄遣いを放置せよ”などと言ってるのではない。不合理な支出は減らすのは当然だ。しかし、それはあくまで綱紀粛正やコンプライアンス(あるいはそれに準じたもの)の範疇で取り扱うべきもので、少なくとも増税とのトレードオフにするようなものでは断じてない。そもそも“身を切る改革”を前面に掲げている政党の構成員が、給与を返上したとか、政党助成金の支給を断ったりとかいう話は聞いたことが無いのだ。
では、どうしてこの“身を切る改革”に賛同する国民が多いのか。経済に対する知見が不足していることはもちろんだが、日本人の国民性のマイナス面によるところが大きいと思う。それは悪しき平等主義、及びそれに付随する妬み嫉みの類だ。加えて“ぜいたくは敵だ!”とか“上見て暮らすな、下見て暮らせ”とかいった、いわゆる貧乏臭さが追い打ちをかける。つまりは“政治家や公務員は身を切る改革を実行して貧乏になり、国民は増税で貧乏になる。だから平等で良いじゃないか”という、敗北主義に陥っているわけだ。
しかしながら、敗北主義にひた走っている状況を“国民性だから仕方がないね”で済ませてしまえば、日本は衰退する一方だ。さらに政治家がそれに迎合して“身を切る改革”とやらを打ち出せば事態は悪化するばかり。国民の低次元の同質性意識を跳ね返すには、経済を右肩上がりに成長させていくしかない。そうすればルサンチマンは解消されていく。
さて、政権の支持率が低迷している状態にあっても、それを活かせない野党の非力さが指摘されている昨今、必要なのは真に国益に適う政策だろう。早い話が(1)経済成長を実現すること(2)某教団の息のかかった者を国会から放逐すること、この2点を主要政策として本気で打ち出せば政権交代も夢ではないと考える。敗北主義がもたらす劣情に阿諛追従して“身を切る改革”なんぞに拘泥している限り、永遠に道は開けない。
このニュースを聞いた時、私は何とも言えない違和感を抱いた。当初から“身を切る改革”を党是として掲げている維新の会はともかく、立憲民主党はホームページに“「小さな政府」「身を切る改革」が必要以上に進んだため国民の生活に負の影響が出ています。安易な人員・経費の合理化による住民サービスの切り捨てではなく、国民の命と暮らしを守り抜き、ベーシック・サービスを充実させます”と公言しているのだ。いつから変節してしまったのか。
とはいえ、立憲民主党が斯様な無節操ぶりを展開している理由は想像できる。それは、当の国民が“身を切る改革”というスローガンが大好きだからだ。政策を有権者の趣味嗜好に合わせるのは、票を獲得する上では不可欠。マーケティング(?)としては的確である(まあ、別の言葉でポピュリズムとも言うが)。
この“身を切る改革”というのは決して国民の利益には繋がらない。それどころか有害だ。行政改革というのはつまり、公務員の数を減らしてスリム化を図り、費用を削ろうというものである。それが実行されると、当然のことながら行政サービスは低下する。たとえば住民からの各種申請は受付が滞りがちになり、ハローワークの業務も阻害されて求職者は困ってしまう。
“そんなものは業務効率化で乗り切ればいい!”という意見もあるだろうが、あいにく合理化のためのシステム導入にも多大な費用が必要なのだ。ましてや役所では非正規職員が多くなった昨今、業務に対するモチベーションは期待できない。さらには人口当たりの人員数が先進国中で下位レベルにある警察官や自衛官を減らすなどもってのほかだ。
また“身を切る改革”を主張する者の言い分として代表的なものに“議員の数が多すぎる。減らせ!”とか“議員歳費は徹底的に削減せよ!”といったものがあるが、ナンセンスの極みだろう。我が国の人口当たりの国会議員数はかなり少ない(国際平均よりも下。アメリカに比べれば幾分多い程度)。また、議員歳費合計は年156億円ほどだ。国家予算が110兆円を超えるのに、たかだか156億円程度の支出に青筋立てて一体何をしたいのだろうか。
断っておくが、私は何も“公費の無駄遣いを放置せよ”などと言ってるのではない。不合理な支出は減らすのは当然だ。しかし、それはあくまで綱紀粛正やコンプライアンス(あるいはそれに準じたもの)の範疇で取り扱うべきもので、少なくとも増税とのトレードオフにするようなものでは断じてない。そもそも“身を切る改革”を前面に掲げている政党の構成員が、給与を返上したとか、政党助成金の支給を断ったりとかいう話は聞いたことが無いのだ。
では、どうしてこの“身を切る改革”に賛同する国民が多いのか。経済に対する知見が不足していることはもちろんだが、日本人の国民性のマイナス面によるところが大きいと思う。それは悪しき平等主義、及びそれに付随する妬み嫉みの類だ。加えて“ぜいたくは敵だ!”とか“上見て暮らすな、下見て暮らせ”とかいった、いわゆる貧乏臭さが追い打ちをかける。つまりは“政治家や公務員は身を切る改革を実行して貧乏になり、国民は増税で貧乏になる。だから平等で良いじゃないか”という、敗北主義に陥っているわけだ。
しかしながら、敗北主義にひた走っている状況を“国民性だから仕方がないね”で済ませてしまえば、日本は衰退する一方だ。さらに政治家がそれに迎合して“身を切る改革”とやらを打ち出せば事態は悪化するばかり。国民の低次元の同質性意識を跳ね返すには、経済を右肩上がりに成長させていくしかない。そうすればルサンチマンは解消されていく。
さて、政権の支持率が低迷している状態にあっても、それを活かせない野党の非力さが指摘されている昨今、必要なのは真に国益に適う政策だろう。早い話が(1)経済成長を実現すること(2)某教団の息のかかった者を国会から放逐すること、この2点を主要政策として本気で打ち出せば政権交代も夢ではないと考える。敗北主義がもたらす劣情に阿諛追従して“身を切る改革”なんぞに拘泥している限り、永遠に道は開けない。



