元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ジュリア(s)」

2023-05-29 06:11:26 | 映画の感想(さ行)
 (原題:JULIA(s))昨今マルチバースを扱った映画が目立つようになったが、その中でも本作は秀逸な出来だと思う。とはいっても「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(通称:エブエブ)や「世界の終わりから」のように観る者を幻惑させるような怪作ではなく、ましてや一連のアメコミ映画のように派手な物量投入で捻じ伏せようとしているわけでもない。マルチバースは主人公のミニマムな範囲でしか展開しないが、その分共感を得やすいし、それを可能にさせるだけの質の高さがある。

 1989年のパリ。ピアニストを夢見ていた17歳のジュリア・フェインマンは、ベルリンの壁の崩壊を知り学生寮を抜け出して友人たちと現地に向かう。ところが、ここでドラマが二分割。ベルリンに向かうバスに乗れなかったジュリアの姿も映し出される。ベルリンの壁の近くに仲間と到達した方のジュリアは、ここでもふとした切っ掛けで複数の身の振り方が展開する。



 さらには本屋で運命的な出会いをするはずのジュリアと、出会えなかった場合の彼女も暫しのあいだ同時展開。シューマン・コンクールの結果が違った時の彼女の行動。バイク事故に遭ってピアニストを断念したジュリアと、何事もなくプロになった彼女。まるで枝分かれするようにヒロインの生き方が次々と現れては消える。

 これらマルチバースの発現の段取りは実によく考えられていて、必要以上に引っ張らないし、あるいは中途半端なところで切られてもいない。また、この多元的な時間軸の中で、いったいどれが歳を重ねた実際のジュリアに繋がっていくのかという、ミステリー的な興趣も醸し出している。脚本も担当したオリヴィエ・トレイナーの仕事ぶりは実に達者で、ラストの扱いなど感心するしかない。

 そして、結局人生は数え切れないほどの分岐点があるが、どれを選ぼうとも本人の資質が最後にはモノを言うのだという、普遍的真実を無理なく提示している。主演のルー・ドゥ・ラージュのパフォーマンスは素晴らしく、十代から老後に至るまでさまざまな年齢層と立場を巧みに演じ分けている。ロラン・タニーの撮影、ラファエル・トレイナーの音楽。共に万全。ラファエル・ペルソナスにイザベル・カレ、グレゴリー・ガドゥボワ、エステール・ガレル、ドゥニ・ポダリデスといった他の面子も良い仕事をしている。
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「せかいのおきく」

2023-05-28 06:05:36 | 映画の感想(さ行)
 題材はとても興味深いのだが、筋書きはどうもパッとしない。何やら作者はこのネタを取り上げることだけに傾注しているようで、観終わってみればボンヤリとした印象を受ける。最近はあまり作られなくなった時代劇なので幾分期待したのだが、やはり時代物だろうが現代劇だろうが、大事なのは脚本の精査なのだと、改めて思った次第。

 江戸時代末期、下肥買いの矢亮と紙屑拾いの中次は、ある雨の日に厠のひさしの下で雨宿りしていた時、松村きくと出会う。彼女は武家育ちながら父親の源兵衛は政争で職を追われ、今は貧乏長屋に暮らしながら、寺子屋で子供たちに読み書きを教えていた。そんな中、源兵衛は彼を突け狙う者たちに襲われ死亡。助太刀に入ろうとしたきくも喉を切られて声を失ってしまう。矢亮と彼の仕事仲間になった中次は、彼女を見守り続ける。



 汚穢屋というモチーフは着眼点としては秀逸だし、彼らの仕事ぶりを取り上げるのは珍しい。当時のトイレ事情が良く分かるのも本作の長所だ。しかしながら、タイトルにもある“せかい”の捉え方には不満がある。この“せかい”というのは、当時の知識人であった源兵衛が認識していた文字通りの世界情勢のことだ。だが、その娘であるきくが理解していたかどうかは極めて怪しい。ましてや矢亮や中次などは考えも及ばないであろう。そんな曖昧模糊とした御題目を真ん中に置いて何か事が進展するのかというと、それは無理だ。

 映画の中盤以降はきくと中次とのラブコメ壁ドン路線が炸裂するばかりで、何が“せかい”なのかは一向に明らかにされない。脚本も担当した監督の阪本順治は確かに気合いが入っていて、下肥買いの直接的描写を避けるがごときモノクロ映像を大々的にフィーチャーすると共に、スクリーンも35ミリのスタンダードサイズに収めている。しかし、なぜか時折画面がカラーになるのは戸惑う。聞くところによれば映画の各章ごとの節目という意味があるらしいが、あまり効果的とも思えない。

 それでもヒロイン役の黒木華をはじめ、寛一郎と池松壮亮という主役3人の存在感は際立っている。特に寛一郎は源兵衛に扮した佐藤浩市との“親子共演”になっていて面白い。眞木蔵人に石橋蓮司という脇の面子も好調だ。撮影担当の笠松則通は安定した仕事ぶり。安川午朗の音楽も控えめながら的確な展開だ。
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「デッドゾーン」

2023-05-27 06:03:23 | 映画の感想(た行)

 (原題:THE DEAD ZONE )83年作品。カナダの鬼才デイヴィッド・クローネンバーグ監督の出世作であり、スティーヴン・キングの小説の映画化作品の中でも出来の良い方に属するだろう(まあ、私は原作は未読なのだが ^^;)。取り上げられている主要モチーフは結構アップ・トゥ・デートなものであるし、何よりキャストの力演が光る。

 メイン州に住む高校教師のジョニー・スミスは、ある晩交通事故に遭い昏睡状態に陥る。目覚めたときは5年もの時間が経過しており、婚約者のサラは別の男と結婚して子供もいることを知り彼は落ち込むばかりだった。しかし、事故で脳に刺激を受けたことが切っ掛けになり、彼には他の人間に触れることによってその者の未来を透視するという超能力が備わってしまう。

 ジョニーの能力は周囲の者が知ることになり、テレビでも紹介され一躍脚光を浴びる。ある時、ジョニーは新進の地元政治家グレッグ・スティルソンと握手した際、スティルソンが将来大統領になり、核ミサイルの発射ボタンを平気で押すヴィジョンを透視してしまう。ジョニーは世界を救うべくスティルソンの暗殺を計画する。

 世界は今あちこちで火種を抱え、実際に紛争が起こっている。幸いにも現時点ではすぐさま核兵器の使用に走るような軽率な指導者は見当たらないようだが、強硬手段も辞さない輩がトップを取る可能性もゼロではなく、スティルソンみたいな人間が出てこないとも限らない。それだけに本作の後半の展開は迫真力がある。

 ジョニーに扮するのはクリストファー・ウォーケン。オスカーを得た「ディア・ハンター」(78年)からあまり年月が経っていない時期で、いわば彼が絶好調だった頃の作品である。5年もの“休眠期間”を送ることを余儀なくされ、しかも妙な能力を身に着けてしまい、世間からの好奇の目に晒される。捨て鉢になってもおかしくないが、それでも世のため人のために生きることを選ぶ主人公像を、深い内面演技で表現している。ブルック・アダムスにトム・スケリット、そしてマーティン・シーンといった面子も強力だ。

 クローネンバーグ監督が得意とする変態演出は抑え気味で、ウェルメイドなサスペンス編に徹しているが、それが却って万人に比較的受け入れられやすいテイストに繋がったと言える。とはいえ、日本での公開は完成から5年後の87年であり、それもミニシアターのみの封切りであったことは、当時はこの作家の“芸風”は一般的ではなかったことを示していて興味深い。
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「幻滅」

2023-05-26 06:07:03 | 映画の感想(か行)
 (原題:ILLUSIONS PERDUES )フランスの文豪オノレ・ド・バルザックの小説「幻滅 メディア戦記」(私は未読)の映画化だが、当時描かれた主題が現在でもそのまま通用するあたりが面白い。時代劇らしいエクステリアと風格も万全で、鑑賞後の満足度は高いと言える。2022年の第47回セザール賞で作品賞を含む7部門を獲得。第78回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門にも出品されている。

 19世紀前半、フランス中部の田舎町に住む青年リュシアンは、詩人として世に出ることを夢見ていた。そんな折、貴族の人妻ルイーズとの不倫が発覚した彼は、彼女と共にパリへ駆け落ちする。まずはルイーズの従姉妹を頼って社交界デビューを目論むが、地方出身で世間知らずの彼は相手にされない。仕方なく臨時雇いの仕事を転々としていたある日、ひょんなことから新聞社に潜り込むことに成功。そこは“社会の木鐸”という建前とは裏腹に、虚飾と打算が支配する世界だった。やがてリュシアンも当初の目的を忘れて、ウケ狙いの扇情的な記事ばかり手掛けるようになる。



 正直言って、自身の才能を過信して暴走する主人公像は大して普遍性は無い。特に今の日本は、多くの若者が野心を抱けるような経済的環境とは程遠いのだ。対してここに描かれたメディアの実相は、ほぼ現代と一緒である。劇中の新聞社のベテラン記者は“オレたちの仕事は、株主を儲けさせることだ!”と嘯くが、この図式は今でもあまり変わっていないだろう。

 マスコミはどうでも良いことは報道するが、本当に大事なことには“報道しない自由”を振りかざす。各ステークホルダーへの忖度が罷り通り、仕事には責任を取らない。本作では裏金を使ってエンタメ方面への“サクラ”を動員するシーンが挿入されるが、まあ現在も似たようなことが行なわれていることも想像に難くない。

 グザビエ・ジャノリの演出は長めの上映時間を退屈させることなくパワフルにドラマを進める。歴史的考証もシッカリしていて、恐怖政治が終焉を迎えたパリの狂騒的な雰囲気は良く出ていた。大道具・小道具、衣装デザインも万全。主演のバンジャマン・ヴォワザンは見かけは良いが野暮ったさも感じさせて、社交界から拒絶されるリュシアンのキャラクターによく合っていた(注:これはホメているのだ ^^;)。セシル・ドゥ・フランスにヴァンサン・ラコスト、グザビエ・ドラン、サロメ・ドゥワルスといった面子も好調。ジェラール・ドパルデューがサスガの貫禄を見せているのも嬉しい。
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「ジョニー」

2023-05-22 06:34:55 | 映画の感想(さ行)
 (原題:JOHNNY)2023年3月よりNetflixより配信。いわゆるターミナルケアの問題を宗教のモチーフを絡めて上手く描き、とても感銘を受けたポーランド映画だ。ただし、いささかストーリー展開が出来すぎという印象もある。ところが終盤でこの映画が実話を元にしているということが示され、本当に驚かされた。まさに事実は小説より奇なりという諺を地で行くような展開である。

 若い男パトリックは少年の頃から札付きの悪ガキで、仲間とつるんで金持ちの家に押し入ろうとするが反対に家人からボコボコにされた挙げ句、強盗罪で服役する。そんな彼が、ホスピスケアセンターでの360時間の社会奉仕活動を条件に保釈される機会を得る。最初は適当に済まそうと考えていたパトリックだが、所長のヤン・カツコフスキー神父(通称ジョニー)の熱心な仕事ぶりを見るに及び、次第に態度を改めるようになる。実は神父は難病で余命幾ばくも無く、最後に業績を残すためこの施設を立ち上げたのだった。



 捨て鉢になっていたパトリックの内面が、入所者たちの最期に立ち会うようになり揺れ動く様子が、かなり的確に描かれている。いくら反社会的な行動を取っていたとしても、つい最近まで面と向かって話していた人間が次々と世を去って行く現場に居合わせると、考えを変えるものだ。さらにはジョニー神父の我が身を省みない熱心な行動に付き合えば、改心せずにはいられない。

 パトリックには思わぬ料理の才能があることが分かり、センターの厨房を任されると共に有名レストランで働くチャンスも掴めそうになる。ところが話はそう上手くいかない。その事情というのがまた泣かせるが、それがラスト近くの伏線になるのも心憎い処置だ。また、旧態依然とした司教ら教会の幹部たちとジョニー神父との確執も手際よくサブ・プロットとして挿入される。

 ダニエル・ヤロシェックの演出は本当にソツが無い。弛緩したところが見当たらず、盛り上げるべき勘所をシッカリと押さえている。まさにプロの仕事だ。ダビッド・オグロドニクとピョートル・トロヤンの主演コンビも好調で、おそらく本国ではかなりキャリアのある役者なのだと想像させる。そしてミカル・ダバルのカメラによる映像は素晴らしく、清涼かつ深みのある画面構成を形成している。終幕は現在のパトリック本人と在りし日の神父の姿が映し出されるが、その紹介の仕方も絶妙だ。チェックして損しないヨーロッパ映画の秀作である。
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「アダマン号に乗って」

2023-05-21 06:05:06 | 映画の感想(あ行)
(原題:SUR L'ADAMANT )対象物にカメラを向け漫然と回しているだけのドキュメンタリー映画で、退屈な内容だ。いつ盛り上がるのかと待っている間にエンドマークが出てしまった。第73回ベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品され大賞を獲得した映画ながら、今回もまた“主要アワードを受賞した作品が良い映画とは限らない”という“真実”を確認した次第である。

 パリ市内を流れるセーヌ川に浮かぶ木造船“アダマン号”は、メンタル的なハンデを負う人々向けのデイケアセンターだ。彼らはそこで絵画や音楽、詩などの文化的活動に勤しみ、精神の安定と癒やしを得ている。正直言って、この“事実の紹介”だけで終わっているシャシンで、そこから何か深いドラマやメッセージ性が醸し出されることは無い。



 映画は“アダマン号”に通う者たちのインタビューを延々と流すが、別に面白くも何ともなく、あたりには弛緩した空気が漂うだけだ。そもそも、ここに集う人たちは比較的“軽症”の者ばかりである。しかも芸術方面への“腕に覚えがある”面子も目立つ。日常生活に支障を来すほどの重い症状を抱えた者はいないし、介護する側のシビアな状況も描写されない。つまりは、メンタルケアの現場の中で小綺麗な部分だけを切り取り、何とか体裁を整えただけの作品だ。

 作っている者たちにとっての“心地よい”環境は提示されるが、そこには問題意識の欠片も見出せない。それに“アダマン号”はそれほど快適な空間だとは思えない。変わった形状の窓を閉めてしまえば、密室に近い環境になる。有り体に言えば息苦しいだけなのだ。

 監督のニコラ・フィリベールの仕事ぶりは平板で、「ぼくの好きな先生」(2002年)で特徴的だった映像の美しさも無い。繰り返すが、このパッとしない作品がどうしてベルリンに出品されたのか、そしてなぜ金熊賞まで取ってしまったのか、全然納得できない。あと日本の配給会社が資本参加しているようだが、その意図も不明だ。
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「ヴィレッジ」

2023-05-20 06:04:51 | 映画の感想(あ行)

 最後まで退屈することなく観ていられたが、藤井道人監督作品としては「デイアンドナイト」(2019年)と構図が似通っている。とはいえ“過去作をトレースしているからダメだ”とはならない。同じパターンの繰り返しでも、自家薬籠中の物としてうまく仕上げれば文句は無いのだ。それどころか、この題材は我々が向き合っている問題の実相を反映しており、何回採用しても構わない。

 山梨県の山あいにある集落・霞門村(かもんむら)に暮らす片山優は、村にあるゴミの最終処分場で働いている。実は彼の父親はこの施設が建てられる際に反対運動を起こし、果ては敵対する者たちを殺害した後に自殺していたのだ。そのため職場では阻害され、先の見えない境遇に甘んじている。そんなある日、上京していた幼なじみの美咲が村に戻ってくる。彼女は昔から優を憎からず思っていたのだが、処分場の支配人である村長の大橋修作の息子の透は美咲を好いていて、優を排除すべく阿漕な手段に訴える。

 本作のテーマは、「デイアンドナイト」と同様に地方と都会との絶望的な格差だ。そして過疎地にゴミ処分場を作ろうとする無味乾燥な“資本の理論”、閉鎖的な地域特有の同調圧力など、今も日本のどこかで展開されているであろう暗鬱な状況が描出されている。さらには処分場では産廃物の違法投棄が堂々と行なわれ、そんなことは無かったかのごとくマスコミに対しては“リサイクル社会の先駆者”みたいな触れ込みでアピールする。

 もちろんこの歪な状態が長続きするはずもなく終盤には破局が到来するのだが、観る側にとって何のカタルシスも無い。ただ苦いものが残るだけだ。優の父親がどうして検挙されなかったのかとか、優があえて村に留まっていた理由、修作の身内がなぜか村の外で警察に勤めているといった、作劇面での説明不足は少なくない。しかし、それらが大きな瑕疵とは思えないほどに取り上げられたモチーフは切迫している。

 ただ残念なのは、重要なネタであるはずの村の伝統芸能である神秘的な薪能がストーリー上であまり機能していないことだ。もっと耽美的に突っ込んで欲しかった。それでもシナリオ作成も担当した藤井監督の仕事ぶりはパワフルで、この題材に関する深い思い入れが窺われる。主演の横浜流星は好調。浮き沈みの激しい主人公の境遇をうまく表現している。黒木華に中村獅童、古田新太といった面子も申し分なく、一ノ瀬ワタルに奥平大兼、杉本哲太、西田尚美、木野花らバイプレーヤーも手堅い。川上智之のカメラによる闇深い村の光景や、岩代太郎の音楽も効果的だ。
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ヘンリック・イプセン「野鴨」

2023-05-19 06:15:57 | 読書感想文

 ノルウェーの劇作家イプセンの作品は若い頃に「人形の家」を読んだだけだが、今回久々に手に取ってみたのが本書。1884年刊行の本作は、悲喜劇のジャンルで最初の現代の傑作と見なされているらしいが、実際目を通してみると実に含蓄の深い内容で感心した。主人公たちの思慮の浅さには呆れるしかないが、それは傍観者である読み手の立場だから言えること。このような図式は現代においても変わらず存在している。

 豪商のヴェルレは阿漕な遣り口で財を築き、亡き妻に代わってセルビー夫人との再婚を控えていた。息子のグレーゲルスはそんな俗物の父を嫌い、家を出て写真館を営む友人のヤルマールの家に身を寄せる。ヤルマールは父と妻ギーナ、そして13歳になる娘ヘドウィックの4人暮らし。貧しいけれど彼らはそれなりに幸せな日々を送っていたのだが、グレーゲルスはそんな有様を“欺瞞だ!”と決めつける。

 グレーゲルスは結婚前にヴェルレの屋敷で働いていたギーナの“過去”を暴いたのを皮切りに、家族の本当の姿すなわち“現実”を曝け出すことこそが理想であると主張。そんなグレーゲルスの思想に簡単に感化されてしまったヤルマールは暴走を始め、やがて当のグレーゲルスの手に負えないほどの事態に発展する。

 昔、某漫画家がリベラルな左傾の人々を揶揄して“純粋まっすぐ正義君”と呼んだことがある。今は左系統の者たちよりも、右傾のトンデモ言説にハマってそこから一歩も抜け出せない“ネトウヨ”と言われる連中の方が多くなったような雰囲気だが、右だろうが左だろうが手前勝手な“世界の正義”を振り回すばかりではロクなことにはならない。

 厄介なことに、この“純粋まっすぐ正義君”のスタンスは“伝染”するらしく、特にヤルマールのように凡夫でありながら自意識ばかり強い人間は容易にハマってしまう。世間を騒がせているカルトの存在も、それと無関係ではないだろう。“純粋まっすぐ正義君”の陥穽に引っ掛からないためには、確固とした現実主義と“公”の意識が不可欠なのだが、あいにくそれらを会得するには精進が必要。だが“純粋まっすぐ正義君”にとってはイデオロギーにかぶれること自体が精進だと勘違いして、そこから前に進まない。

 ヤルマールの家は野鴨をはじめ動物を多数飼っているが、それらに対する態度が誤った主義主張のメタファーになっているあたりが玄妙だ。この「野鴨」は現在に至るまで舞台劇は継続的に上演されているが、映画は戦前にドイツで作られただけだという(サイレント作品)。題材は決して古くは無いので、現時点でも映像化は価値があると思う。
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「世界の終わりから」

2023-05-15 06:06:16 | 映画の感想(さ行)
 かなりの怪作だ。ハリウッドの「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(通称:エブエブ)に匹敵する、カルト映画の最右翼として位置付けられるだろう、もちろん「エブエブ」同様、好き嫌いがハッキリと分かれる作品であり、特に一般的な善男善女の皆さんにとっては生理的に受け付けないシロモノなのかもしれない。だが個人的には気に入った。本年度の日本映画の中では見逃せない一本である。

 高校生の志門ハナは小さい頃に事故で両親を亡くし、つい先ごろ唯一の肉親である祖母もこの世を去り、独りぼっちになってしまった。そんな時、彼女の前に政府の特別機関の構成員と名乗る者たちが現れ、最近見た夢の内容を聞かせろと言う。他人に話すほどのインパクトの強い夢など近頃見たことはないハナは戸惑うばかりだったが、その夜から彼女は奇妙な夢を見るようになる。何でも、ハナはこの世界の去就を決するほどの“力”を持っているらしく、夢の中の出来事こそがそのトリガーになるというのだ。



 監督の紀里谷和明の作品は過去に「CASSHERN」(2004年)を観ただけだが、これが苦笑するしかない出来で、それ以来彼の映画は敬遠していた。しかしこの作品は意外と評判が良く、また彼自身が“これが最終作”と銘打っているほど気合いが入っていることも窺われたので鑑賞した次第だ。結果、本当に観て良かったと思う。

 ヒロインが見る夢は自分が戦国時代と思しき過去の人間になり、そこで謎の男・無限から狙われるというものだが、やがて無限は現実世界にも出没するようになる。同時に自らの野心のためにハナを利用しようとする内閣官房長官や、予言者である老婆、さらには遠い未来に日本列島に降り立つソラといった正体の掴めぬ人物たちが跳梁跋扈し、八方破れ的な展開を見せる。

 個々の描写には苦笑してしまうようなチープな部分もあるのだが、全体的な方向性や求心力は揺るがない。それは、終末論と主人公が抱く苦悩との絶妙なコラボレーションだ。ハナは家族を失う前から学校では居場所がなく、それどころか性悪なクラスメイトたちから手酷いイジメを受けていた。彼女にとっての“世界の終わり”とは、自らの存在の消失による逃避であり、すべてをリセットしてしまうことは即ちリアルな次元での“世界の終わり”にも繋がる。その危うい関係がドラマに緊張感を与える。

 この容赦ない描写は岩井俊二監督の「リリイ・シュシュのすべて」(2001年)に通じるものがあると思っていると、実際に岩井が教師役で出てくるのだから呆気にとられてしまった。主役の伊東蒼の存在感は素晴らしく、文字通り世界中の悲劇を一身に背負うような眼差しと、しなやかな身のこなしには圧倒される。毎熊克哉に朝比奈彩、若林時英、市川由衣、冨永愛といった面子も申し分なく、高橋克典が珍しく悪役に回っているのは妙にウケた。北村一輝と夏木マリもいつも通りのアクの強さを発揮している。

 「エブエブ」もそうだが、いわゆる“マルチバース”をネタにしたシャシンは今後増えると思う。もちろんクォリティは作者の力量次第だが、昨今のアメコミ作品のような単なる小手先のギミックでは観る者を納得させられない。本作のように、真に切迫した製作動機が必須である。
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「あの頃輝いていたけれど」

2023-05-14 06:05:12 | 映画の感想(あ行)

 (原題:I USED TO BE FAMOUS )2022年9月よりNetflixより配信。かつての人気ミュージシャンの挫折と再生を描いたシャシンで、題材は興味深く肌触りも悪くないのだが、いまひとつ盛り上がらない。モチーフが多い割に作劇に説明不足の感があり、詳細が描ききらないまま終わったような印象を受ける。上映時間をあと20分ほど延ばしても良いので、ドラマにもっと奥行きを付与して欲しかった。

 若い頃に大人気アイドルグループの一員だったヴィンスは、今ではすっかり落ちぶれて日々の生活にも困る境遇だ。それでも音楽への情熱は消えておらず、時折ロンドン南東部のペッカム地区で単独のストリートライブを敢行している。ある日、抜群のリズム感を持つ少年スティーヴィーが現れ、2人は即興のジャムセッションを始め、その動画がSNS上で評判になる。再起への手応えを感じ始めたヴィンスだが、実はスティーヴィーは自閉症で、彼の母親アンバーは息子が公衆の前に出ることにいい顔はしない。それでも諦めないヴィンスは、スティーヴィーと一緒にステージに立つため各ライブハウスを回って売り込みを開始する。

 スティーヴィーが通っている音楽セラピーでのエピソードと、ヴィンスと母そして弟との関係を描いたパート、さらにヴィンスが昔グループにいた頃の話や、元々はダンサーだったアンバーのプロフィールなど、話を詰め込んではいるがそれぞれが十分に描き込まれていない。すべてを納得できるように提示するには、この上映時間(104分)では足りないのだ。

 反面、主人公の音楽に対するスタンスにはあまり言及されていない。彼がどういうサウンドを追求したいのか、ほとんど分からない。煮え切らない展開の果てに、終盤には無理矢理に決着を付けた感じで、釈然としない気分で鑑賞を終えた。エディ・スターンバーグの演出は薄味で、ドラマにメリハリが足りていない。

 ただしキャストは健闘している。主演のエド・スクラインをはじめ、エレノア・マツウラにレオ・ロング、オーエン・マッケンといった顔ぶれはあまり馴染みが無いが、悪くない仕事ぶりだと思う。ヴィンスのオリジナル曲こそ印象は薄いが、バックに流れる既成曲のチョイスは良好。アンガス・ハドソンのカメラによるロンドンの下町の光景は風情がある。
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