(原題:JULIA(s))昨今マルチバースを扱った映画が目立つようになったが、その中でも本作は秀逸な出来だと思う。とはいっても「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(通称:エブエブ)や「世界の終わりから」のように観る者を幻惑させるような怪作ではなく、ましてや一連のアメコミ映画のように派手な物量投入で捻じ伏せようとしているわけでもない。マルチバースは主人公のミニマムな範囲でしか展開しないが、その分共感を得やすいし、それを可能にさせるだけの質の高さがある。
1989年のパリ。ピアニストを夢見ていた17歳のジュリア・フェインマンは、ベルリンの壁の崩壊を知り学生寮を抜け出して友人たちと現地に向かう。ところが、ここでドラマが二分割。ベルリンに向かうバスに乗れなかったジュリアの姿も映し出される。ベルリンの壁の近くに仲間と到達した方のジュリアは、ここでもふとした切っ掛けで複数の身の振り方が展開する。
さらには本屋で運命的な出会いをするはずのジュリアと、出会えなかった場合の彼女も暫しのあいだ同時展開。シューマン・コンクールの結果が違った時の彼女の行動。バイク事故に遭ってピアニストを断念したジュリアと、何事もなくプロになった彼女。まるで枝分かれするようにヒロインの生き方が次々と現れては消える。
これらマルチバースの発現の段取りは実によく考えられていて、必要以上に引っ張らないし、あるいは中途半端なところで切られてもいない。また、この多元的な時間軸の中で、いったいどれが歳を重ねた実際のジュリアに繋がっていくのかという、ミステリー的な興趣も醸し出している。脚本も担当したオリヴィエ・トレイナーの仕事ぶりは実に達者で、ラストの扱いなど感心するしかない。
そして、結局人生は数え切れないほどの分岐点があるが、どれを選ぼうとも本人の資質が最後にはモノを言うのだという、普遍的真実を無理なく提示している。主演のルー・ドゥ・ラージュのパフォーマンスは素晴らしく、十代から老後に至るまでさまざまな年齢層と立場を巧みに演じ分けている。ロラン・タニーの撮影、ラファエル・トレイナーの音楽。共に万全。ラファエル・ペルソナスにイザベル・カレ、グレゴリー・ガドゥボワ、エステール・ガレル、ドゥニ・ポダリデスといった他の面子も良い仕事をしている。
1989年のパリ。ピアニストを夢見ていた17歳のジュリア・フェインマンは、ベルリンの壁の崩壊を知り学生寮を抜け出して友人たちと現地に向かう。ところが、ここでドラマが二分割。ベルリンに向かうバスに乗れなかったジュリアの姿も映し出される。ベルリンの壁の近くに仲間と到達した方のジュリアは、ここでもふとした切っ掛けで複数の身の振り方が展開する。
さらには本屋で運命的な出会いをするはずのジュリアと、出会えなかった場合の彼女も暫しのあいだ同時展開。シューマン・コンクールの結果が違った時の彼女の行動。バイク事故に遭ってピアニストを断念したジュリアと、何事もなくプロになった彼女。まるで枝分かれするようにヒロインの生き方が次々と現れては消える。
これらマルチバースの発現の段取りは実によく考えられていて、必要以上に引っ張らないし、あるいは中途半端なところで切られてもいない。また、この多元的な時間軸の中で、いったいどれが歳を重ねた実際のジュリアに繋がっていくのかという、ミステリー的な興趣も醸し出している。脚本も担当したオリヴィエ・トレイナーの仕事ぶりは実に達者で、ラストの扱いなど感心するしかない。
そして、結局人生は数え切れないほどの分岐点があるが、どれを選ぼうとも本人の資質が最後にはモノを言うのだという、普遍的真実を無理なく提示している。主演のルー・ドゥ・ラージュのパフォーマンスは素晴らしく、十代から老後に至るまでさまざまな年齢層と立場を巧みに演じ分けている。ロラン・タニーの撮影、ラファエル・トレイナーの音楽。共に万全。ラファエル・ペルソナスにイザベル・カレ、グレゴリー・ガドゥボワ、エステール・ガレル、ドゥニ・ポダリデスといった他の面子も良い仕事をしている。