元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「TOKYO TRIBE」

2014-09-13 06:45:33 | 映画の感想(英数)

 悪ふざけが過ぎる。もっとも園子温監督の前作「地獄でなぜ悪い」(2013年)も相当に狂騒的な映画だったが、カツドウ屋としての矜持を登場人物に投影して説得力を感じさせたものだ。しかし本作にはポリシーも主体性も不在で、あるのは笑えない宴会芸の羅列のみ。評価出来る余地は無い。

 近未来の東京では暴力的な若造どもが各地でトライブ(族)を形成し、互いに鎬を削ると共にかろうじて均衡を保っていた。そんな中“ブクロWU-RONZ”のトップであるメラは、ライバル視する“ムサシノSARU”の海(カイ)を何とか潰そうと、広域暴力団のブッバ家や政治家達を巻き込んで戦争を始める。一方、“ブクロWU-RONZ”に拉致された若い女スンミは、実は香港マフィアの有力者の身内で、ヤクザな家柄に嫌気がさして東京まで逃げてきたのだ。メラが引き起こしたバトルはスンミの争奪戦と合体して、際限なく広がっていくのだった。

 ストーリーや設定は幼稚で、かつ展開も無茶苦茶。アクション場面はグダグダで、舞台セットは限りなく安っぽい。時折挿入されるギャグも、寒々しい限りだ。

 ならば面白いキャラクターが大挙して出ているのかというと、これがまったくダメ。スクリーン上に跳梁跋扈している連中は、見かけはハデだがどいつもこいつも中身がカラッポである。とにかく、観客が感情移入出来る奴が一人もいない。こんな調子で2時間も保たせられるわけがないだろう。

 その代わりと言っちゃ何だが、目先の新奇さを出すためか、本作には“ラップ版ミュージカル”とでも呼ばれるような仕掛けが用意してある。狂言回し役のMC SHOWがラップに乗せてナレーションをすれば、各登場人物も脈絡が無いまま突然歌い出す。しかも、歌の内容も字幕で表示されるという念の入りよう。

 これで“ヒップでクールなノリ(?)”を実現したと言わんばかりの作者のスタンスだが、あいにくこちらはラップだのヒップホップだのといったシロモノは嫌いなのだ。しかも、これを日本語でやられると虫酸が走る。映画作家たるもの、たとえ観客にとって苦手なジャンルの音楽を多用しても、少なくとも上映している間だけはその音楽が好きになってしまうような力業が必要だが、この映画にはそんな部分はまったくない。延々と低級なサウンドが垂れ流されるのみ。

 メラ役の鈴木亮平をはじめ、佐藤隆太、染谷将太、でんでん、窪塚洋介、竹内力、さらには叶美香や中川翔子も顔を揃えるという、奇を衒ったキャスティングながらキャラの掘り下げはまったく見られない。さらにはYOUNG DAISだのMC漢だのといった本職のラッパーの連中も鬱陶しい限り。印象に残ったのはパンツ丸出しで頑張るスンミ役の新鋭・清野菜名ぐらいだ(爆)。

 とにかく、作っている奴らは酒が入っていたか、あるいは具合が悪かったかのいずれかとしか思えない出来である。劇場でカネ取ってやるもんじゃなく、仲間内の上映会でチマチマと楽しむべきシャシンだ。観る価値無し。
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「真珠の耳飾りの少女」

2014-09-12 06:24:03 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Girl with a Pearl Earring )2003年イギリス作品。17世紀のオランダを舞台に、フェルメールの名画「真珠の耳飾りの少女」が描かれた背景を、モデルとなった少女と作者との関係から描こうとした作品。監督ピーター・ウェーバーがテレビ界出身(これがデビュー作)であるためか、ドラマ自体に深みがない。

 1665年のオランダ。事故に遭って働けなくなった父親に代わって家計を支えることになった少女グリートは、画家のヨハネス・フェルメールの家に使用人として住み込むことなる。来る日も来る日も辛い労働に追われる彼女だが、ひょんなことからフェルメールの助手として絵の具を調合するという仕事を任される。いつしか心を通わせるようになる二人だが、フェルメールの妻は嫉妬し、パトロンはよからぬ策略をめぐらせる。そんな中で、フェルメールはグリートをモデルに絵を描く。

 この映画では画家のカリスマ的な存在感も、モデルとの間に流れるはずの匂い立つ官能も、そして作者が持つ“芸術の真髄”についての見解も、まったく描かれていない。単に“作者が史実だと思っている筋書き”が漫然と流れてゆくだけだ。1時間40分程度の作品であるが、非常に長く感じられた。

 しかし、撮影監督エドゥアルド・セラと美術担当ベン・ヴァン・オズの仕事ぶりは見ものである。フェルメールの筆致をそのままスクリーン上に再現したかのような柔らかい光と影のコラボレーション。ひとつひとつのカットが絵画として通用するほど映像の密度は濃い。どちらかといえば、映画館で観るよりはDLP搭載の高級AVシステムのチェック用にブルーレイを家庭で楽しむべき作品かもしれない。

 フェルメール役のコリン・ファースは可もなく不可も無しだが、ヒロインに扮するスカーレット・ヨハンソンの頑張りが印象的。当時は十代だったが、北欧系らしい肌の白さときめ細やかさ。そして愁いを帯びた表情は、本作のようなヨーロッパ製の時代物にはよく合っていた。ハリウッド女優然とした今の雰囲気とはまるで異なっているのが面白い。
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「イントゥ・ザ・ストーム」

2014-09-08 06:22:52 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Into the Storm)見せ物に徹する潔さが良い。とはいえ、ストーリーには過度に御都合主義的な部分は見当たらず、演出は若干のケレン味を織り交ぜつつもテンポは良好で、ちゃんと1時間半の尺に収めているなど、作り手の的確な仕事ぶりが目立っている。娯楽映画はかくありたい。

 アメリカ中西部シルバートンの町は、全米屈指の竜巻多発地帯だ。スペクタキュラーな映像を録って一攫千金を狙う“ストーム・チェイサー”であるタイタス・チームは、竜巻を追ってこの地にやってくる。一方、地元の高校生であるドニーとトレイの兄弟は、高校の教頭をしている父親との折り合いが悪い。二人は卒業式の記録映像を任せられるが、ドニーは仕事を放り出して女友達とデート。そんな時、大きな竜巻が街を襲い、高校を直撃する。

 生徒や教員、父兄達は屋内に避難して事なきを得るが、今度は超弩級の竜巻が近付いてくる。教頭らはタイタス・チームと合流して事態の収拾に当たるが、その頃ドニー達は竜巻で壊された廃工場に閉じ込められていた。果たして、彼らの運命は・・・・という筋書きだ。

 プロットは単純明快。捻りは無いが、その分ストレートに楽しめる。作劇のアクセントになっているのが、手持ちカメラやケータイを使ったPOV(主観)ショットの多用である。登場人物を要領よく紹介するのに役に立っているし、何よりそのミニマムな映像とディザスター・ムービーならではのスペクタクル場面とが鮮烈な対比効果をもたらす。

 竜巻の災禍を描いた映画としてはヤン・デ・ボン監督の「ツイスター」(96年)を思い出すが、あれから十数年経って特殊効果も進歩を遂げ、本作ではまさに目を剥くような映像世界のオンパレードだ。地上にあるものをすべて吹き上げて破壊してゆくパワーの前では、たとえ頑丈な建物の中に入ろうと地下室に避難しようと無駄だ。家も車も駐機中の大型旅客機も粉々にされてしまう。特に“火炎竜巻”と化して人間を襲ったり、はるか上空に展開される驚愕の場面など、アイデアに満ちた映像の提示には感心するばかり。

 監督スティーブン・クォーレの仕事は初めて見るが、ソツなく仕上げていて好感が持てる。リチャード・アーミテージをはじめサラ・ウェイン・キャリーズ、マット・ウォルシュ、アリシア・デブナム・ケアリーとキャストは馴染みの無い面々を揃えているが、これは俳優のギャラを低く抑えて浮いた分をSFXに注ぎ込もうという作戦だろう(笑)。それでも大根演技で足を引っ張っている奴が一人もいないのは有り難い。

 最近のこの手の映画では珍しく、3D仕様ではないのもポイントが高いと思う。通常の2Dでもこれだけ迫力を出せれば上出来だろう。
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「映画人口は3倍に増やせる」という記事。

2014-09-07 06:41:50 | 映画周辺のネタ
 昔、キネマ旬報誌において「映画人口は3倍に増やせる」という特集記事が連載されていたことがある。書いていたのは神頭克之というあまり知らないライターだが、目のつけどころは悪くなかったように思う。彼は日本の映画産業が斜陽化しているというのは大ウソであり、そう見えているのは映画館に観客が集まらないだけで、ビデオ等を含めれば現時点で映画そのものを楽しむ人々の数は過去最高を記録していると言う。

 つまり、適正なマーケティングさえあれば潜在的な映画好きを劇場へ呼び戻すことは可能で、観客を3倍に増やすことも夢ではない・・・・との主張である。

 この記事が書かれたのは91年であり、当時はまだ本格的なシネマ・コンプレックスは我が国に存在していなかった(注:マルチプレックスの第一号店であるワーナー・マイカル・シネマズ海老名がオープンしたのは93年である)。だから、現時点の状況に比べると記事の内容は“時代を感じさせる”ものであるのは否めないが、その映画館運営に対する提言は決して古びてはいないと思う。

 以下、神頭が提示した映画館の改革案である。

(1)椅子は座り心地が最高なものを選ぶ。
(2)座席の間隔を広くする。
(3)スクリーンの前の座席は見にくいので撤去する。
(4)すべての座席にカバーをつける。
(5)座席の後ろに網バッグと傘をかけるフックをつける。
(6)CM・予告編は最低限にする。
(7)内装・外装はデラックスにする。
(8)トイレは超デラックスにする。
(9)無料のコインロッカーを設置する。
(10)飲食物は適正な値段にする。
(11)パンフレットは値段を安くして手提げ袋に入れる。
(12)従業員に応対マナーを徹底させる。
(13)終電ギリギリまで映画を楽しめるように、駅ビルと映画館とを合体させる。

 シネコンが市民権を得る前に多数存在していた“サービスが悪くてやる気も無い従来型映画館”がほぼ駆逐された現在、神頭がこの記事を書いた頃よりも確実に状況は良くはなっている。ただし、彼の提言がすべて実現出来たかというと、いささか心許ない。

 上記13項目の中で、達成されたものはごくわずか。相変わらず座席は(改善されたとはいえ)座り心地が最良とは言えないし、劇場によっては間隔が非常に狭いところがある。飲食物は不必要に高価だし、CM・予告編はやたら長いし、トイレは超デラックスには程遠い。

 黒澤明は生前“映画館は最低のサービス業だ!”と言い放ったが、本質は今でもあまり変わっていないのかもしれない。そういえば、シネコン黎明期に業界をリードした外資系の劇場は姿を消し、現在は昔ながらの大手映画会社による経営に戻ってきているケースが目立つ。だとすれば、これ以上の“改善”は望めないという見方も出来よう。

 とはいえ、映画館は我々映画ファンにとって大切な場であることは間違いない。シネコン進出以前の状態から少しは状況は好転したとはいえ、今後も“映画人口を3倍に増やす”ように頑張って欲しいものだ。
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「バルフィ!人生に唄えば」

2014-09-06 06:46:08 | 映画の感想(は行)

 (原題:Barfee! )過去の有名映画からの引用こそ多いが、それが単なる“拝借”ではなく、作劇のモチーフとして上手く機能させていることに感心した。インド映画の洗練度を確かめる上でも、見逃せない作品である。

 70年代後半、ダージリン地方で生まれ育った青年バルフィは生まれつき耳が不自由、しかも母親を早くに亡くしているという恵まれない境遇にあるが、その前向きで明るいキャラクターによって皆から親しまれていた。そんな彼が、ひょんなことからこの地に婚礼のために訪れたシュルティと出会い、一目惚れしてしまう。彼女もバルフィを憎からず思うようになるが、周囲の圧力に屈してあまり好きではない資産家との結婚を選ぶ。

 失意のバルフィに、父親が難病に罹ってしまうという不幸が追い打ちを掛け、切羽詰まった彼は治療費欲しさに当地の資産家の娘ジルミルを誘拐しようとする。だが、なぜか別の一味もジルミルを掠おうとしていて、その“争奪戦”に巻き込まれた末に、バルフィは彼女を保護する立場になってしまう。ジルミルは強度の自閉症であり、家族にも心を開かない。ただ、甲斐甲斐しく世話をするバルフィに、彼女はいつしか好意を抱くようになる。

 聾唖の青年にメンタル障害を持つヒロイン、当然この二人が画面の真ん中にいる時間は長い。しかし本作の巧妙なところは、真の主人公をバルフィとジルミル以外に設定していることだ。それは一度はバルフィと別れてしまうシュルティである。そもそもこの映画は、老いたシュルティがバルフィとジルミルに会いに行く現代のシーンから始まり、彼女の回想を中心として話は進むのだ。

 ハンディがありながらも、それを乗り越えて人生を謳歌した二人に対し、自ら生き方を切り開くタイミングを逸して、孤独のうちに年を重ねてしまったシュルティ。この設定は秀逸だ。バルフィとジルミルのファンタスティックな行状を追うだけでは、確かに楽しい映画にはなっただろうが、深みには欠ける。アウトサイダーの視点を挿入することによって、観客との大きな接点を見出していこうという構図は、作者の聡明さを示すものだ。

 チャップリンやキートンの無声映画、「雨に唄えば」や「プロジェクトA」等へのオマージュは、あくまでスクリーンのセンターにいる二人が経験する夢のような日々の“小道具”として機能させているため、ワザとらしさ微塵も無い。この監督(アヌラーグ・バス)の手腕はなかなかのものだ。

 バルフィに扮するランビール・カプールの演技は素晴らしい。セリフが無い分、身振り手振りで意志を伝えようとするが、その一挙手一投足は洗練を感じさせる。表情が実に豊かで、彼をいつまでも見ていたい気になるのだ。ジルミル役のプリヤンカ・チョープラーは間違いなく世界屈指の美人女優なのだが、今回はその美貌を完全に封印して恵まれないヒロイン像を賢明に演じており、その気合いには圧倒される。

 そしてシュルティを演じるイリアナ・デクルーズは初めて見るが、凄い美人だ。まさに目の保養になる。キレイだけではなく演技もしっかりしていて、今後の活躍も期待出来よう。ダージリン地方の美しい風景。音楽の使い方も(今回はミュージカル形式ではないが ^^;)かなり垢抜けている。とにかく上質な一品であり、鑑賞後の印象は良好だ。
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「彩り河」

2014-09-05 06:27:12 | 映画の感想(あ行)
 84年松竹作品。この頃、松本清張の小説が数多く映画化されたが、本作はその中で最も低調なシャシンの一つとしての“評価”が確定している。私も観たのだが、なるほどヒドい出来映えだ。ストーリーは練られていないし、キャストの演技に特筆出来るものはないし、何より演出がタルい。当時の松竹には作品の方向性を仕切るプロデューサーが不在だったようだ。

 銀座のクラブで働く譲二は、かつて銀行頭取の下田のために父親が自殺に追い込まれ、母親も早くに亡くしているため、何とか復讐しようと機会をうかがっている。彼は新しくクラブのママとなったふみ子と知り合い、彼女の協力を得て計画を実行に移していく。



 映画が社内の派閥争いに敗れた末に退職に追い込まれた井川という男のエピソードで始まることを見ても分かるように、譲二の復讐譚であるはずの本作が、まるで関係の無い人物達の描写で埋め尽くされている。要するに作品の焦点が絞られていないのだ。

 脚本に監督の三村晴彦と仲倉重郎、加藤泰、野村芳太郎と4人も名を連ねているのは一見豪華だが、逆に言えば“寄せ集め”の域を出ていない。筋書きがまとまらないまま、製作のゴーサインが出されてしまったような感じだ。このような体たらくなので、松本清張作品らしい凄味は微塵も感じられず、弛緩したモチーフが漫然と流れていくだけ。映像は実にチープで、画面の奥行きはゼロに等しい。

 譲二役の真田広之をはじめ名取裕子、平幹二朗、夏八木勲、吉行和子、渡瀬恒彦、三國連太郎と出演者はかなり多彩だが、それぞれ大した見せ場も与えられていない。

 三村監督といえば、デビュー作「天城越え」で注目された頃は、期待の新鋭として持て囃されたものだ。彼は近年あえなく世を去ったが、結局は語るに足る仕事は「天城越え」だけで(あとは87年製作の「瀬戸内少年野球団・青春篇 最後の楽園」がちょっと印象に残った程度)、師匠格の野村芳太郎の足元にも及ばないままキャリアを終えてしまった。寂しいものである。
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「プロミスト・ランド」

2014-09-02 06:25:52 | 映画の感想(は行)

 (原題:PROMISED LAND )かなり“薄味”の映画である。作劇や演技、メッセージ性など、いずれもボンヤリとした感じで印象に残らない。しかも取り上げた題材の一番重要な点には言及されておらず、これでは失敗作と言われても仕方が無いだろう。ガス・ヴァン・サント監督作としても、出来栄えは下から数えた方が早い。

 エネルギー開発会社に勤めるスティーヴは、同僚の女子社員のスーと共にペンシルバニア州の田舎町マッキンリーにやってくる。絵に描いたような過疎地ながら、この地下には良質のシェールガスが埋蔵されているのだった。スティーヴたちの目的は、地主たちから採掘権を買い叩くことである。

 街の顔役に渡りをつけ、農場主たちを次々と説得する等、出だしは快調であった。ところが、環境活動家を名乗るダスティンなる男の出現によって雲行きが怪しくなる。彼の巧妙な妨害工作によってスティーヴたちの仕事は支障をきたすようになるが、実はこのダスティンというのがとんだ食わせ者だったのだ。

 シェールガスの採掘が環境に悪影響を与えるのか、あるいはそんなに影響はないのか、映画は示さない。シェールガスは次世代エネルギーの寵児に成り得るのかどうか、それも説明されていない。地元民たちの暮らし向きは実のところどうなのか、採掘権売却に関する彼らの趨勢はどうなのか、それらについても詳しく言及されていない。要するに、この映画は“状況”について何も描いていないのだ。

 ならばスティーヴの生い立ちと、この件に関わることによって心境が変わってくるあたりを丹念に追っていたのかというと、それも違う。確かに彼は貧しい農家の出で、零細な農業経営の辛さも知っている。どうやったらマッキンリーの農民たちを懐柔すればいいのかも分かっている。

 しかしながら、どうして彼がエネルギー会社に勤務して阿漕な稼業に身をやつすようになったのか、なぜ今回そのスタンスが揺らぐようになったのか、そのあたりの描写が不十分だ。せいぜいが、ちょっと気になる地元の女と仲良くなったからという、下世話なモチーフが提示されるのみ。これでは説得力が無いだろう。

 主演のマット・デイモンは脚本に参加するなど、並々ならぬ意欲は感じさせるが、映画を観る限りでは空回りしている。他のキャストも総じて印象が希薄だ。わずかにスー役のフランシス・マクドーマンドが気を吐いている程度。ハッキリ言って、彼女を主役に据えた方が思い切ったストーリー展開が出来たかもしれない。

 余談だが、最近銀行に足を運ぶと、シェールガス開発関連の信託投資をよく奨められる。いわく“アメリカは国策でやってるので、絶対損はしません”とのことだが、こんなのは政権が変わればどう転ぶか分からない。今のところ、様子見である(笑)。
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オーディオ機器の価格が高すぎる件。

2014-09-01 06:27:06 | プア・オーディオへの招待
 最近、オーディオショップでハイエンドのシステムを試聴することが出来た。ひとつはYG ACOUSTICSのスピーカーHaileyを中心とした装置で、アンプはKRELL、プレーヤー部はESOTERICのものが使用されていた。もうひとつはTECHDASのアナログ・プレーヤーAir Force Twoをフィーチャーしたシステムで、アンプはConstellation audioの製品、スピーカーはOCEAN WAYのモデルというラインナップだ。

 その価格はというと、前者の総額が1,000万円超、後者に至っては2,500万円超である。音は、それぞれ良好だ。まったく破綻の無い展開である。しかしながら、果たしてこの音がこれだけの高価格に見合ったものであるのかというと、首を傾げざるを得ない。少なくとも、私はこれらのサウンドに“感心”はするが“感動”は覚えなかった。



 これは以前から何度も言っていることで“またかよ!”と思う読者諸氏諸嬢もいるだろうが、昨今の高級オーディオ機器の、天井知らずの価格設定には閉口してしまう。軽く1,000万円をオーバーするようなものを、一体誰が買うのだろうか。

 もちろん“買える人がいるから、そういう商品が出回っている”ということに間違いないだろう。ただし、オーディオ機器というものは、他の趣味のアイテムと違い、個人的な範囲で完結してしまうシロモノだ。たとえば高級車を家のガレージで飾っているだけのオーナーはそういない。車は走らせてこそ価値がある。公道をドライヴしていれば皆が目にするし、誰かを同乗させて運転することも出来る。高価な宝石やファッションも、それを身につけて不特定多数に見せつける(笑)ことに意味があると思う。

 取引先の管理職に、ギターが好きで今まで購入費に1,000万円以上注ぎ込んだという人がいるが、何も彼は一度に1,000万円を投入したわけではない。長い期間にわたってその趣味を続けていった結果、合計金額が1,000万円に達しただけの話。しかも彼はよく家族や地域の人達のために演奏したりする。決して個人的な自己満足の範疇に留まってはいない。

 ところが、ピュア・オーディオのシステムは完全に特定個人(およびその周りの極少数)向けの用途しか持ち合わせていない。家族みんなが楽しめるAVシステムとも次元を異にする。だから考えてみれば、1,000万円超ものピュア・オーディオのシステムを(家族の反対なしに)買える人というのは、金持ちの中でも限定的な層なのだと思う。



 それに、今回試聴したような高価な装置を入手するリスナーは、果たして使いこなしが出来ているのだろうかと思う。あんなに大きくて重い機器は移動させるのも一苦労。細かなセッティングは至難の業だと思うし、ケーブルやインシュレーターを装着するのも苦労する。ひょっとして“高い機器を納品させて、無造作に置いてハイ終わり”ではないかと、貧乏人のひがみ交じりに毒づきたくなる(爆)。

 ・・・・とは言っても、前述のように“買える人がいるから、商品が存在している”というのは事実。どうせ庶民は買えない製品なので、どんなに高くても構わない。しかし、ディーラーも専門メーカーも業界ジャーナリズムも、そういった一般ピープルには縁の無い価格帯の商品ばかり褒めそやす傾向は、どう考えても健全とは思えない。

 こんなことを書くのも、試聴した超高級システムの音が“感心”のレベルで終わってしまい“感動”を受けなかったことに端を発している。聴く者を“感心”させるだけで良いのならば、もっと手の届く価格セグメントのものを広く紹介してもらいたいものだ。ましてや“感心”どころか、聴いていて“不快”になるようなチープな機器や音源が広く罷り通っている今日この頃である。
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