阪本順治監督をはじめとする作り手が主演の吉永小百合に対して“遠慮”しているような、まるで煮え切らない映画だ。そもそも吉永扮する元女教師がいったいどういうキャラクターの持ち主なのか、全然描けていない。
東京で図書館の司書をしている川島はる(吉永)は、昔北海道の離島で教師をしていた。彼女はある事故をきっかけに島から出て行かざるを得なくなってしまったのだ。定年を迎えた彼女の元に、刑事が訪ねてくる。かつての教え子の一人が殺人事件の容疑者になっているという。元の生徒達から事情を聞くために、はるは北海道へ向かう。久々に再会した教え子たちは、あの頃の出来事について今でも思い悩み、屈託を抱えたまま生きていた。
ヒロインは大学の教員である夫と共にこの島に赴任してきたのだが、旦那は病で余命幾ばくも無いという設定である。そこに現れたのが、本土から転勤してきた警察官。この警官の登場が唐突に過ぎて呆れていると、彼は以前職務上の失態によりメンタル面で問題が生じ、島に半ば“左遷”されていたことが前振りも無く勝手に語られる。さらに、はるはこの警官に同情だか愛情だかを感じ、密会するようになるのだ。
要するにもう長くは無い夫と、突如現れたワケありの男との間で“よろめいて”しまったのだが、このあたりのヒロインの苦悩や確執が見事なほど全く描かれない。吉永の演技力不足はもちろんのこと、かつての大スターにそんなドロドロとした欲望を表出させたくないという余計な“配慮”じみたものが感じられて不愉快だ。
このスタンスは、教え子達に対する扱いにも共通している。演じているのが宮崎あおいに小池栄子、松田龍平、森山未來、満島ひかり、勝地涼という、今最も実力のある若手をずらりと並べているにも係わらず、ほとんど見せ場を与えていない(わずかに演技力を発揮させる役を振られたのは、容疑者に扮する森山ぐらいだ)。松田なんか、ただの実直なお巡りさん役でお茶を濁している始末。これも、彼らに本気で演技させると吉永を軽く食ってしまうからという“配慮”であろう(爆)。
終盤で示される“事の真相”は大したことはなく、容疑者に対する終盤の扱いにも違和感しか覚えない。湊かなえによる原作は未読だが、おそらくこんな腑抜けた話ではないはずだ。題名の“カナリア”は同名の童謡から取っているように、音楽が重要なモチーフになるはずだが、音楽の高揚感や楽しさが全然出ていない。おかげでラスト近くの“お涙頂戴を狙った場面”が白々しいものになってしまった。
脇の柴田恭兵と里見浩太朗、仲村トオルの演技もパッとせず、木村大作のカメラによる北海道の風景は確かにキレイだが、どこか絵葉書的。情緒過多な川井郁子の音楽もいい加減にして欲しい。観終わって残ったのは“寒いのに、撮影は大変だったろうな”という薄っぺらい感想のみ。スルーして良い映画だ。