元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「第11回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その1)

2014-03-31 06:29:51 | プア・オーディオへの招待
 去る3月28日から30日にかけて、福岡市博多区石城にある福岡国際会議場で開催された「九州ハイエンドオーディオフェア」に行ってきたのでリポートしたい。今年(2014年)の目玉企画は、マーク・レビンソンの講演である。彼は米国の伝説的なエンジニアで、同名のブランドの創始者だ。70年代前半に彼が立ち上げたこの会社は、ハイエンド・オーディオという新しいジャンルを確立したと言われる。

 講演は3月28日の金曜日に行われた。いくら始まるのは夕刻とはいえ、平日だ。数日前から長時間の残業をして仕事を前倒しで片付け、当日は午後から有給休暇を取り(とはいっても、実際は職場を出るのが遅れ、会場にたどり着いたのは開始ギリギリの時間だったが ^^;)、何とか入場することが出来た(苦笑)。



 主宰者側の事前の情報から、講演の主な内容は彼が新たに立ち上げたブランドであるDANIEL HERTZのアンプやスピーカーのデモンストレーションだと思っていたのだが、実際は違った。何と今回のレクチャーの主眼は、MASTER CLASSと命名された同ブランドの音楽ソフトウェアだったのだ。

 音楽ソフトとはいっても、iTunesのような単なるプレーヤー兼ファイル管理用アプリケーションではない。これはイコライザーである。あらゆる種類の音楽ファイルのトーン・バランスを補正することが可能で、いわば聴感上の帯域を自分好みにカスタマイズ出来るというシロモノだ。しかも、補正したファイルはそのまま保存が出来るという。

 私は技術的なことに関しては疎いのでハッキリしたことは言えないが、早い話が、とても良く仕上げられた(アプリケーション上の)トーン・コントロールらしい。80年代にレビンソンは“透明なトーン・コントロール”という触れ込みのチェロ・オーディオ・パレットという規格を発表したことがあったが、今回のMASTER CLASSはそれをデジタル領域で実現したということだろう。



 このソフトウェアの機能が実際どの程度の威力を発揮するのか、あるいはどういった局面で使うのがベストなのか、それは現時点では未知数である(まだ市販されていない)。ただ印象的だったのが、この製品を開発するに当たって基準にしたのは、かつてのレコードやアナログ・テープが主流だった頃のオーディオの楽しさであるということだ。

 つまりはCDの出現以来デジタル・アイテムがオーディオ界を席巻してきた中で、自分で工夫しながら好みの音を追求していた昔ながらのアナログ・オーディオの醍醐味を、アプリケーション上で再現しようというコンセプトを持っているらしい。やはりオーディオの(方法論としての)メイン・ストリームはアナログであると、レビンソン自身も認知しているのだろう。

 なお、本ソフトはマッキントッシュ専用。ウインドウズ用をリリースする予定は無いらしい。

 会場ではフラッグシップ機のスピーカーであるM1が鳴らされていた。これは価格が一千万円を優に超える。確かに物理特性が高く練り上げられ、かつウェルバランスで聴きやすい音なのだが、これが果たして一千万円以上の価値があるかどうかは意見が分かれることだろう。ともあれ超ハイエンドオーディオ機器の値段設定は、私の理解の外にある(爆)。

(この項つづく)
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「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」

2014-03-30 06:16:38 | 映画の感想(な行)

 (原題:Nebraska)アメリカンドリームも過剰な国粋主義も過ぎ去った時、あとに残されたのは虚飾を剥ぎ取られた“素”のアメリカと、身近なかけがえのない人々との絆だけであった。諦念の底に見つける優しさと一筋の希望とを描き出す、アレクサンダー・ペイン監督による米国の秀作。

 モンタナ州に住む酒浸りで頑迷な老人ウディの元に届いた“あなたは100万ドルの宝くじに当たりました。賞金をネブラスカ州まで取りに来て下さい”という手紙。もちろんこれはインチキであり、雑誌を売り込むための詐欺まがいの商法に過ぎない。しかしウディはそれを信じ、何度となく賞金を受け取りに行くために家出するが、そのたびに警察に保護されて連れ戻される。

 次男のデイヴィッドは、この際だから一度気の済むまで父親の相手をしようと決心し、二人でネブラスカ州リンカーンまでの長距離ドライブに繰り出す。

 ウディにとって、ネブラスカ州は馴染みの無い土地ではない。何しろかつて住んでいたことがあり、今も親戚がいるのだ。ところが、そこで出会う父の昔の共同経営者だった男や親戚、そして友人達は、もはやウディに対して親愛の情など微塵も抱いていない。それどころか100万ドルの賞金の話が一人歩きし、彼がもうすぐ億万長者になると勘違いした連中が欲の皮を突っ張らかしてウディに対して金の無心を迫る始末。だが、昔から彼と付かず離れずのポジションを保ち、物事を冷静に見ていた一部の人々だけが、今も変わらぬ人情をウディに示す。

 ウディは裕福ではない。妻のケイトは口うるさい。デイヴィッドは電器屋を経営しているが、儲かってはいない。いいトシなのだが独身で、先日付き合っていた恋人からは別れを告げられたばかり。しかも相手が美人とは程遠い容貌だというのが泣かせる。かろうじて地元のマスコミの仕事をしている長男は堅実な生活を送っているものの、決して羽振りが良いわけではない。

 冴えない一家なのだが、何とかナアナアの気分で日々の屈託を抑え込んで暮らしている。それが認知症気味のウディの突飛な行動により、現実に正面から相対する状況に追い込まれる。ここで“家族崩壊に繋がる”というのはありがちな設定だし、実際そういう筋書きの映画も少なくないのだが、そこはヒューマニストのペイン監督、思い切りポジティヴな展開にしているのが心地良い。

 つまりは今ここで生きている場所だけが“リアル”であり、100万ドルの賞金とか、かつての仲間達との関係性とか、若き日のウディが垣間見たアメリカンドリームの残滓とか、そんな“非日常”に縋っても無駄なのだ。

 フェドン・パパマイケルのカメラによって映し出されたアメリカ中西部の風景は、捉えどころがなく殺風景である。これがアメリカの本当の姿なのだろう。それでも身を寄せ合って生きれば、ささやかな幸福ぐらいは掴み取ることが出来る。一家の新たな出発を暗示する終盤の、何と痛快なことか。

 ウディ役のブルース・ダーンのパフォーマンスは彼のキャリアの中でも最良の仕事のひとつであろう。次男を演じるウィル・フォーテもナイーヴな好演だ。口の悪い母親に扮するジューン・スキッブは儲け役だ。モノクロ画面の美しさ。マーク・オートンの効果的な音楽。今年度を代表するアメリカ映画だ。
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「M/OTHER」

2014-03-29 06:35:18 | 映画の感想(英数)
 近年は東京造形大学の学長としての仕事が忙しいせいか、スクリーンでは御無沙汰気味の諏訪敦彦監督が99年に撮った作品で、その年のカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を獲得している。実際優れた映画であり、観賞後の満足感は実に大きい。

 40代後半で離婚歴のあるレストラン経営者・織田(三浦友和)は、29歳のデザイナー、アキ(渡辺真紀子)と同棲している。ある日、織田の元妻が交通事故で入院し、退院までの1ヶ月ほど、彼が子供(俊介・8歳)を預かるハメになる。事前に何の相談もせずに子供を連れてきた織田に対し、アキは困惑を隠せない。やがて二人の間に目に見えない溝が生じてくる。

 たぶん“この男ってバカだね”と一言で片付けてしまう評もあるだろうし、私もそれに反論はしない。彼女に何も相談せずに大事なことを決め、本気で反省もしていない。しかも、子供がいなくなれば、また元のサヤに収まると信じ込んでしまう脳天気さ。これじゃ元のカミサンが出ていくのも当然。でも、そんな下世話な図式で終わっていないところがこの映画の侮れない点だ。



 誰がこの主人公を笑うことができるのか。人間関係なんて、そんなデジタルに割り切れるものじゃない。いいかげんで、ご都合主義で、ナアナアで済まして、何となく“雰囲気”だけで日々過ぎていく。誰でも程度の差こそあれ、この主人公のような優柔不断な面を持っているんじゃないか。目の前の問題をつい先送りしちゃうのではないか。それが“家族関係”ならなおのことだ。

 この映画は、登場人物同士の激しい葛藤や衝突はあまり描かれない。しかし、その点こそが素晴らしくリアルなのだ。ベルイマンの映画のように、内面の苦しみを赤裸々に表現する手法よりも、この“小市民的アプローチ”の方が、凡夫に過ぎない私の心に重くのしかかる。

 一緒に暮らしているとはいえ、いったい相手の何を知っていたというのか。私はなぜか織田よりも、異性であるヒロインのアキの方に感情移入してしまった。子供が生活に侵入した。ジャマくさいんだけど、付き合ってみれば可愛い。しかし、相手は男の先妻の子だ。うまく面倒を見れば見るほど、内面の屈託から逃れられない。またそんな自分に嫌気がさしてしまう。そして、家の中から自分の居場所がなくなってくる。観ていてたまらない気持ちになった。

 しょせんは気楽な同棲生活。お互い責任を取らないモラトリアムな立場にいた二人が、子供の出現により片方(アキ)は虚飾めいた生活から自分の人生に真に向き合うことになり、もう片方(織田)は相変わらずナアナアの生活を続けることにこだわる。前者に共感するものの、後者の気持ちもわかる。人間そのものを安易に断定してしまわない作者の確かな視線、冷静なスタンスには感服するしかない。

 ワンシーン・ワンカットの多用。ほとんど屋外に出ないカメラは、テーマに“逃げ道”を封じた作者の覚悟を感じさせる。シノプシスだけで詳細なシナリオを廃したいわゆる“マイク・リー的手法”が抜群の効果。2時間半の長尺ながら、一時たりとも退屈を感じさせない心理サスペンス。何気ない日常の中にこそドラマは潜んでいると言わんばかりの瞠目すべき秀作である。
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「キック・アス ジャスティス・フォーエバー」

2014-03-28 06:35:27 | 映画の感想(か行)

 (原題:Kick-Ass 2)確かに面白いのだが、前作ほどではない。まあこれは、パート1が“面白すぎた”ので、続編として割を食うのは仕方が無いのだろう。監督がマシュー・ヴォーンから新米(ジェフ・ワドロウ)にチェンジしているのも大きいと思う。

 町を裏から牛耳っていたフランク・ダミコ率いる悪者一味が、最弱ヒーロー“キック・アス”と非情なヒロイン“ヒット・ガール”によって全滅させられて数年が経ち、主人公達も平穏な日々を取り戻していた。しかし、正義の血がざわつくのを抑えられない“キック・アス”ことデイヴは、自警団を組織する謎の人物“スターズ・アンド・ストライプス大佐”と出会い、“ジャスティス・フォーエバー”なるヒーロー集団に参加。町に巣くう悪党を懲らしめる活動に勤しむことになる。

 一方、フランク・ダミコの息子であり復讐に燃える“レッド・ミスト”ことクリスは“マザー・ファッカー”と名を改め、豊富な資金に物を言わせて世界中から凶悪な殺し屋どもを集結させる。果たしてデイヴは正義を全うできるのか。

 前作での重要ポイントになっていた“現実世界と仮面ヒーローとの関係性”は影を潜め、もっぱら主人公達の成長と活躍を追っている。それはそれで良いのだが、どうにも“キック・アス”の造形は物足りない。

 前回の彼はヒーローを夢見る冴えない若造であり、オタク趣味が昂じて“空想”から“行動”に移そうするのだが、それが上手くいかずに四苦八苦するところに観客が共感できる余地があった。対して本作での彼はトレーニングを積んだおかげでマッチョであり、腕っ節もある程度強くなっている。しかもけっこう二枚目で、しっかり交際相手がいて、さらには同じヒーロー軍団の女性メンバーともいい仲になる。前作で患った“痛感摩耗症(?)”もいつの間にか治ったようで、これでは感情移入がしにくい。

 では“ヒット・ガール”ことミンディはどうかといえば、普通の高校生になれるのかどうか悩んでいる。まあ、考えてみれば前作であれほどの殺戮を重ねてきた彼女が簡単にカタギの生活に馴染むはずもなく、予想通りの展開になるのだが、エゲツない描写を交えてそれなりに見せきっている。でも、それほど印象は深くない。結局“マザー・ファッカー”だけが、アホのまんまで取り残された感じだ(爆)。

 気が付いてみれば、前作ほどのテーマ性が無いまま単なる“バトルもの”としてのルーティンに突入していて、作劇のインパクトには欠ける。活劇場面はよく練られていて飽きさせないが、殺し屋集団の中で活躍するのがロシアのオバサンだけで、あとは得意技も出さないままやられてしまうのは不満だ。

 アーロン・テイラー=ジョンソンとクロエ・グレース・モレッツの主役コンビは好調。特にモレッツは凄く可愛くなっており、またファンが増えることだろう。ストライプス大佐に扮するジム・キャリーやジョン・レグイザモら脇の面子も良い。パート3も作られる可能性は高そうだ。
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「月はどっちに出ている」

2014-03-24 06:36:36 | 映画の感想(た行)
 93年シネカノン作品。今や日本映画監督協会理事長にまで“出世”した崔洋一だが、私は監督としてはあまり評価していない。しかし、盟友(?)の井筒和幸みたいな才能皆無のボンクラではないことは確かで、たまに面白い映画を作る。本作は数少ないその“凡作・駄作ではない映画”のひとつだ。

 タクシーの運転手を務める在日朝鮮人の男と、日本に出稼ぎにやってきたフィリピン娘との恋愛沙汰を中心に、種々雑多な面子の“平凡では無い”人生をヴァラエティ的に描く、梁石日による小説の映画化。



 面白いのは、各キャラクターが実に“立って”いること。怪しげな大阪弁で啖呵を切るフィリピン娘をはじめ、女手ひとつで水商売を軌道に乗せた主人公の母、カミさんに見放されたパンチ・ドランカーの運転手etc.しかも、映画はそれぞれのバックグラウンドに過度に拘泥することはない。付かず離れずの絶妙な距離感をキープしたまま、主人公の個性を際立たせるツールとして機能させているあたり、侮れないものを感じる。

 正直言って、“国際化”とやらが取り沙汰されてきた90年代前半の空気感が後押ししているような気もするが(現時点で同じようなものを提示されても“何を今さら”と言われそうだ ^^;)、バブル崩壊後のカオスの一断面を捉えたという意味では、存在価値があるだろう。

 主演の岸谷五朗をはじめ、ルビー・モレノ、絵沢萠子、遠藤憲一、有薗芳記、萩原聖人、國村隼といった多彩な面々が濃いパフォーマンスを見せる。藤澤順一のカメラによる深みのある映像も印象深い。
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「ラヴレース」

2014-03-23 06:56:44 | 映画の感想(ら行)
 (原題:LOVELACE)題材は面白そうなのだが、脚本と監督の腕が三流なので凡打に終わっている。70年代初頭、フロリダの田舎町に住む若い娘リンダは一度妊娠中絶騒ぎを引き起こし、それ以来同居する敬虔なカトリック教徒の両親が“監視”するような形になり、息の詰まるような生活を強いられていた。

 ある日、リンダはバーの経営者チャックに見初められ、家から出たかった彼女はすぐに結婚する。最初は優しかったチャックだが、次第にロクデナシの本性をあらわして、果ては金に困ってリンダをポルノ映画に出演させる。その映画こそ一世を風靡した「ディープ・スロート」であった。70年代に社会現象にまでなったカルト作品に主演した伝説のポルノ女優、リンダ・ラヴレースの伝記映画である。

 いくらでも映画的興趣が掘り起こせそうなネタだ。時代性とポルノとの関係、ヒロインの内面の変遷、高圧的な両親の心理的背景(特に宗教との関わり)、暴力夫であったチャックの屈折、主人公を取り巻く業界人やセレブの生態etc.力量のある監督ならば、見応えのあるモチーフを引っ張り出せただろう。ところが、本作には見事なほど何も描かれていない。

 ロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマンの監督コンビの仕事ぶりは、無能そのものだ。どこをとっても平板で深みが無く、早い話が“テレビ三面記事”の再現ドラマと同等。しかも、事実を語ることさえしていない。映画ではラヴレースの出演作は「ディープ・スロート」のみという扱い方だったが、実際にはその他にも何本か出ている。またチャックはラヴレースとの離婚後にもう一人の有名ポルノ女優マリリン・チェンバースと再婚しているのだが、映画の中では詳しく言及されていない。

 主役のアマンダ・セイフライド(正式な発音はサイフリッドらしいけど)は確かに頑張っている。だが、劇中のポルノ映画と同じ演技をさせるわけにもいかないので、隔靴掻痒の感がある。チャック役のピーター・サースガードも頑張っている。しかし、生ぬるい演出と生ぬるい脚本のせいで、凄味がほとんど出ていない。

 母親に扮したシャロン・ストーンのあまりの老け具合にはびっくりしたが、彼女の“過去のフィルモグラフィ”を活かしたような設定は皆無。もったいない話だ。ジェームズ・フランコ、ロバート・パトリック、クロエ・セヴィニーといった脇の面子の仕事も大したことは無い。

 観終わって、アメリカのポルノ映画は完全にジャンク・ムービー扱いされていることを再確認した。かつての日本の成人映画のように、芸能界への登竜門としての側面はほとんど無い。「ディープ・スロート」はヒットはしたが、どこかうら寂しい雰囲気が付いて回るのも、むべなるかなである。
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「ザ・ハリケーン」

2014-03-20 06:15:18 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Hurricane)99年作品。1966年、ニュージャージー州においてボクシングのウェルター級チャンピオン、ルービン・カーター(通称ハリケーン)は身に覚えのない強盗殺人事件の犯人として逮捕される。翌年下された判決は終身刑であった。これは彼を蛇蝎のごとく嫌う刑事のデッチあげによるもので、ルービンは獄中で自伝を執筆。彼と司法当局との長い戦いが展開する。



 実話の映画化だが、さすがにノーマン・ジュイスン監督は昨今の駆け出し作家とは違い、堂に入った演出ぶりを見せてくれる。主演のデンゼル・ワシントンの力演を中心に、ドラマがカッチリとかみ合い、正攻法に徹する社会派ドラマの真髄を堪能できた。

 ただし、真正面からのアプローチであるだけに、クライマックスに至る展開がすべて読めてしまう難点もある。デボラ・カーラ・アンガーら3人のカナダ人の扱いなど、クセ球っぽいテイストも挿入されてはいるが、正当派社会告発劇としての構図にはあまり影響がない。このへんが、当時のアカデミー賞の作品部門候補からもれた原因ではないかと思う。個人的には終盤のロッド・スタイガーの登場が嬉しかった。
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「ラッシュ/プライドと友情」

2014-03-19 06:28:46 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Rush)ロン・ハワード監督らしい実録映画である。展開は精緻を極め、映像は練り上げられ、俳優の動かし方には淀みは無い。しかし、この監督の作品のほとんどがそうであるように、見終わっての印象は希薄だ。有り体に言ってしまえば、本作から得られたのは“こういう人物達が実在していた”という単発的な知識のみである。

 70年代、フェラーリに所属するニキ・ラウダとマクラーレン・チームに籍を置くジェームズ・ハントは、F1で熾烈なライバル争いを繰り広げていた。ところが、76年のドイツ・グランプリにおいてシーズン首位を走っていたラウダは大事故に遭遇してしまう。奇跡的に命は助かるが、生死の境をさ迷い続け、誰もが再起不能と思っていた。

 しかし、何とそれからわずか6週間後にレースに復帰。猛追するハントとの首位争いは、シリーズ最終戦の日本グランプリに持ち越される。奇しくもドイツ大会と同様の豪雨で、コンディションは最悪。果たしていかなる結末が待っているのか。

 ストイックな姿勢でレースに打ち込むラウダと、酒と女が大好きな陽気な男ハント。対照的ながらドライビングの腕は共にピカイチだ。そんな二人が互いに競い合うという筋書きだから映画の方も熱く盛り上がって当然だと思うのだが、実際はそうならない。

 断っておくが、何も“撮り方がヘタだからドラマに引き込まれない”ということではないのだ。二人のバトルは実にきめ細かく展開が練り上げられていて、またエピソードの積み上げ方に手抜かりは無い。並の映画とは一線を画す、巧みな作劇だと言える。ところが、映画が精密さを増すほど、観る側が受けるパッションは減少するのだ。

 主人公達の性格をあらわす各モチーフも、まさに“こういうキャラクターだから、こんな見せ方をしてみました”というような、過度に作り込まれた演出の底が見えてしまうような、そんな印象を受けてしまう。

 もっとも、ハワード監督の作品はいずれもそうであり、数少ない例外といえばアカデミー賞を獲得した「ビューティフル・マインド」ぐらいだ。あの映画はラッセル・クロウをはじめとするキャストが怜悧な演出を押しのけるほどの存在感を発揮していたため、目覚ましい求心力があった。対してこの「ラッシュ」には、ハワード演出を打ち負かすほどの面子は出ていない。ハントを演じるクリス・ヘムズワースも、ラウダ役のダニエル・ブリュールも、線が細い。

 映像はさすがに良く出来ていて、特にレース場面の迫力たるや相当のものだ。ハンス・ジマーの音楽も万全。しかしながら、いつものハワード作品と同様、諸手を挙げての高評価は差し控えたい。
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「スター・トレックIV 故郷への長い道」

2014-03-18 06:39:50 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Star Trek IV:The Voyage Home)86年作品。私が観た映画版(旧シリーズおよび新シリーズも含めて)の中では、一番面白い。米国では公開されてからシリーズ最高のヒットとなったらしいが、それも十分頷ける。

 パート3でのジェネシス装置をめぐるクリンゴン人との戦闘でエンタープライズ号は破壊されてしまったが、代わりにカーク提督たちはクリンゴンの宇宙船を分捕り、勝手に“バウンティ号”と名付け、地球へ帰還することにした。ところがその頃地球には、怪電波を発して地上の全システムを停止させる謎の宇宙船が接近していた。カーク提督たちはその異星人の目的がザトウクジラの探査であることを突き止める。

 彼らはなぜか大昔から地球のザトウクジラと交信していたのだが、最近(ここ数百年)になってその交信が途絶えたため、わざわざ様子を見に来たらしい。それもそのはずで、ザトウクジラは21世紀の時点ですでに絶滅してしまったのだ。彼らにザトウクジラの“無事”を確認させないと地球が危機に直面するため、お馴染みのクルー達は、20世紀末にタイムワープして絶滅前のザトウクジラを23世紀に連れ帰ろうとする。



 エイリアンとザトウクジラとの関係性は何なのかとか、どうしてバウンティ号はいとも簡単にタイムトラベルが出来るのかとかいった突っ込みは、今回は辞めておきたい。これはハードSFではなく、コメディなのだ。小難しいことは抜きにして、寸劇を楽しんでくださいといった御膳立てが効いている。

 主人公たちが踏み込んだのは、1986年のサンフランシスコである。当時の世相と、スタトレ軍団とのカルチャー・ギャップが笑いを呼ぶ。バスの車内で無礼な若者どもにお灸を据えたり、ドクター・マッコイが病院で難病患者をワンタッチで治してしまったり、パソコンに“話しかけて”起動させようとしたりと、美味しいネタが満載だ。

 主な舞台が宇宙ではなく陽光まぶしいカリフォルニアであるせいか、レギュラーメンバーたちもリラックスモードで、飛び交うジョークも好調である(笑)。監督はスポック役でもあるレナード・ニモイだが、手慣れた出来で安心して観ていられる。ウィリアム・シャトナーやディフォレスト・ケリー等のいつもの面子も好調だ。

 終盤、カーク一行が捕鯨のジャマをする漁船は日本の船ではなく、ノルウェーあたりのものであるのは御愛敬か。派手なドンパチも大仰なSFX場面も無く、エンタープライズ号だってほんの少ししか出てこないシリーズ中の異色作ながら、幅広い観客にアピールする内容だと思う。進行中の新シリーズにも、こういう肩の力を抜いたようなシャシンがあっても良いと思った。
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「ペコロスの母に会いに行く」

2014-03-17 06:34:38 | 映画の感想(は行)

 確かに楽しめる映画ではあるのだが、これがキネマ旬報誌2013年ベストワンをはじめとする各アワードを獲得するほど特に優れた作品なのかというと、首を傾げざるを得ない。森崎東監督作といえば2004年製作の「ニワトリはハダシだ」のヴォルテージの高さに圧倒されたが、あれに比べれば本作は“軽量級”という印象を受ける。

 主人公の雄一は長崎市に住む中年男で、広告会社に勤めるサラリーマンであったが、不真面目な勤務態度のためクビになってしまう。しかし彼は漫画を描いたり音楽活動をするという余技があり、さほど困った様子も無くマイペースに日々を送っていく。ただひとつの気掛かりは、父さとるの死を契機に認知症を発症した母みつえのことだ。

 徘徊したり、汚れたままの下着をタンスにしまったりするようになった彼女は彼の手に負えなくなり、ついには介護施設に預けることにする。母と離れて暮らすようになった雄一は、苦労した少女時代や暴力夫との生活といったみつえの過去に思いを馳せるのだった。

 自身の体験を元にした岡野雄一による漫画の映画化である。まず感心したのは、長崎の町の雰囲気がよく出ていること。前にも書いたが、私は幼少の頃に長崎市に住んでいたことがあり、個人的な思い入れが強い。だから「爆心 長崎の空」だの「解夏(げげ)」だのといった長崎を舞台にしていながら描写がスカスカの映画に対しては殺意さえ覚える(笑)。その点、本作の佇まいは実に良い。

 そして雄一役の岩松了をはじめ、みつえに扮する赤木春恵、今は亡き父親を演じる加瀬亮など、キャストが万全のパフォーマンスを披露しているのも嬉しい。若き日の母に扮した原田貴和子の仕事は、彼女のキャリアの中でも最良のものになるだろう。しかも妹の原田知世まで出ているのだから言うことなしだ。

 しかし、演出タッチが古くさいのは気になる。ドラマ運びや俳優の動かし方が、悪い意味で往年の松竹大船調だ。つまりは通り一遍なのである。ホノボノとした雰囲気にマスキングされてよく分からないかもしれないが、雄一とみつえとの関係性は、あまり深く突っ込んで描かれてはいない。少なくともみつえの過去を描くパートよりも比重は小さいと思う。

 ギャグも一応は面白いのだが、高年齢層向けの“ゆるい”ものであり腹の底からは笑えない。特に主人公と竹中直人扮するナゾの男とのハゲをネタにしたくだりは、あまりのワザとらしさに脱力してしまった。

 認知症に対するネガティヴな見方を払拭するようなモチーフや、みつえの過去と現在とがシンクロする場面は興味深いのだが、ハッキリ言ってしまえばこれは原作に網羅されているものであり、映画自体の手柄ではない。オリジナル脚本で勝負した「ニワトリはハダシだ」とは、このあたりが違う。
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