(原題:The Assassination of Richard Nixon)2004年作品。74年に旅客機を乗っ取ってホワイトハウスに激突させ、当時のニクソン大統領を暗殺しようとした未遂犯の実録映画。題材は面白いが、要領を得ない出来に終わっている。
44歳のサム・ビックは事務機具のセールスマンの職を得るが、上司のいい加減な仕事ぶりに我慢が出来ない。妻は別居しており、私生活も恵まれていない。その不満はやがて社会に対する批判へと繋がり、反体制グループのブラック・パンサー党に入ろうとするが、けんもほろろに断られる。やがて友人と事業を始める夢も、家庭を再生させる算段も潰えてしまった彼は、ヤケを起こして時の大統領であるニクソンを暗殺しようとする。監督は本作の構想から完成まで5年をかけたというニルス・ミュラー。
ショーン・ペンが社会から見放された男を実に楽しそうに演じているが、しょせん“常識人の側から理解しようと試みた犯人像”でしかない。彼は社会の不公正・不正義に対して憤る。しかし、その彼がどうして終盤にはピストルを振り回して乱暴狼藉に及ぶのか、そのへんの説明がない。いくら義憤に駆られようと、無実の者を傷つけては何もならないではないか。
そういう自己矛盾こそがテロリストの特徴なのだ・・・・と言いたいのなら、最初から犯人の視点に寄りかかった作劇はしないことだ。作者がカタギの側にいるのなら“コイツはキ○ガイだ!”と決めつけて徹底して否定するしかない。それが常識だ。
もしも“いや、彼は単なるキチ○イではなく、共感できるところがある”と言いたかったら、作り手も社会的常識を捨て去って外道モードをひた走るべきだ。もっとも、それが許されるのは一部の真に外道な作家だけ。この映画の作者のような中途半端な小賢しさで乗り切ろうとしている手合いには、その資格はない。主人公が指揮者レナード・バーンスタインを一方的に崇拝するくだりは、犯人の異常さが最大限に表出されてしかるべきだが、映画では平板な映像が流れるのみ。これじゃ、ダメ。
結局一番印象的だったのは、主人公の妻を演じるナオミ・ワッツの髪の色だった。いつもはブロンドなのに、今回はブルーネット。果たして、どっちの色が本当なのだろうか(笑)。
44歳のサム・ビックは事務機具のセールスマンの職を得るが、上司のいい加減な仕事ぶりに我慢が出来ない。妻は別居しており、私生活も恵まれていない。その不満はやがて社会に対する批判へと繋がり、反体制グループのブラック・パンサー党に入ろうとするが、けんもほろろに断られる。やがて友人と事業を始める夢も、家庭を再生させる算段も潰えてしまった彼は、ヤケを起こして時の大統領であるニクソンを暗殺しようとする。監督は本作の構想から完成まで5年をかけたというニルス・ミュラー。
ショーン・ペンが社会から見放された男を実に楽しそうに演じているが、しょせん“常識人の側から理解しようと試みた犯人像”でしかない。彼は社会の不公正・不正義に対して憤る。しかし、その彼がどうして終盤にはピストルを振り回して乱暴狼藉に及ぶのか、そのへんの説明がない。いくら義憤に駆られようと、無実の者を傷つけては何もならないではないか。
そういう自己矛盾こそがテロリストの特徴なのだ・・・・と言いたいのなら、最初から犯人の視点に寄りかかった作劇はしないことだ。作者がカタギの側にいるのなら“コイツはキ○ガイだ!”と決めつけて徹底して否定するしかない。それが常識だ。
もしも“いや、彼は単なるキチ○イではなく、共感できるところがある”と言いたかったら、作り手も社会的常識を捨て去って外道モードをひた走るべきだ。もっとも、それが許されるのは一部の真に外道な作家だけ。この映画の作者のような中途半端な小賢しさで乗り切ろうとしている手合いには、その資格はない。主人公が指揮者レナード・バーンスタインを一方的に崇拝するくだりは、犯人の異常さが最大限に表出されてしかるべきだが、映画では平板な映像が流れるのみ。これじゃ、ダメ。
結局一番印象的だったのは、主人公の妻を演じるナオミ・ワッツの髪の色だった。いつもはブロンドなのに、今回はブルーネット。果たして、どっちの色が本当なのだろうか(笑)。