元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」

2015-07-31 06:28:11 | 映画の感想(ら行)
 (原題:The Assassination of Richard Nixon)2004年作品。74年に旅客機を乗っ取ってホワイトハウスに激突させ、当時のニクソン大統領を暗殺しようとした未遂犯の実録映画。題材は面白いが、要領を得ない出来に終わっている。

 44歳のサム・ビックは事務機具のセールスマンの職を得るが、上司のいい加減な仕事ぶりに我慢が出来ない。妻は別居しており、私生活も恵まれていない。その不満はやがて社会に対する批判へと繋がり、反体制グループのブラック・パンサー党に入ろうとするが、けんもほろろに断られる。やがて友人と事業を始める夢も、家庭を再生させる算段も潰えてしまった彼は、ヤケを起こして時の大統領であるニクソンを暗殺しようとする。監督は本作の構想から完成まで5年をかけたというニルス・ミュラー。



 ショーン・ペンが社会から見放された男を実に楽しそうに演じているが、しょせん“常識人の側から理解しようと試みた犯人像”でしかない。彼は社会の不公正・不正義に対して憤る。しかし、その彼がどうして終盤にはピストルを振り回して乱暴狼藉に及ぶのか、そのへんの説明がない。いくら義憤に駆られようと、無実の者を傷つけては何もならないではないか。

 そういう自己矛盾こそがテロリストの特徴なのだ・・・・と言いたいのなら、最初から犯人の視点に寄りかかった作劇はしないことだ。作者がカタギの側にいるのなら“コイツはキ○ガイだ!”と決めつけて徹底して否定するしかない。それが常識だ。

 もしも“いや、彼は単なるキチ○イではなく、共感できるところがある”と言いたかったら、作り手も社会的常識を捨て去って外道モードをひた走るべきだ。もっとも、それが許されるのは一部の真に外道な作家だけ。この映画の作者のような中途半端な小賢しさで乗り切ろうとしている手合いには、その資格はない。主人公が指揮者レナード・バーンスタインを一方的に崇拝するくだりは、犯人の異常さが最大限に表出されてしかるべきだが、映画では平板な映像が流れるのみ。これじゃ、ダメ。

 結局一番印象的だったのは、主人公の妻を演じるナオミ・ワッツの髪の色だった。いつもはブロンドなのに、今回はブルーネット。果たして、どっちの色が本当なのだろうか(笑)。
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「ターミネーター:新起動/ジェニシス」

2015-07-27 06:23:25 | 映画の感想(た行)
 (原題:Terminator Genisys)話が滅茶苦茶だ。よくもまあ、こんな救いようもない欠陥品のシナリオを採用したものである。プロデューサーのオツムの程度が限りなく低かったのか、あるいは“裏の事情(?)”によりショボい脚本を使わざるを得なかったのかは知らないが、いずれにしろ観客をバカにした所業であることは間違いない。

 2029年、30年以上に渡る人類とスカイネットが作り上げたロボット軍団との戦いは、ジョン・コナー率いる人類側の勝利に終わろうとしていた。スカイネットの“本陣”が陥落する直前、敵はジョンの母親サラ・コナーを殺害することで彼の存在自体を消そうと、タイムマシンでターミネーターT-800を1984年に送り込む。人類側の志願兵であるカイル・リースはそれを追って過去に飛ぶが、転移の直前に彼はジョンが何者かに背後から襲われるのを目撃する。



 転送先の1984年ではなぜか先に転移したT-800が“オジサン型”の同機種によって倒されており、液体金属ターミネーターT-1000まで現れてカイルを襲う。彼らは次にスカイネットが起動する1997年に飛ぼうとするが、意味もなく“審判の日は2017年”という啓示めいたものがカイルの脳裏に去来し、勝手に行先を変更。そこで出会ったのは、未来で戦っていたはずのジョン・コナーであった。

 そもそも、土壇場の一発逆転でスカイネットがジョン・コナーを倒せたのならば、最初からT-800を過去に送り込む必要はなく、映画自体の存在理由も雲散霧消するではないか(爆)。サラが子供だった頃からボディガードを務めていたという“オジサン型”ターミネーターは、いったいどこから来たのか。またT-1000はどういう理由でいつから1984年に潜伏していたのか。

 他にも“青年型”のT-800のチップを装着しただけで簡単に動いてしまうタイムマシンとか、スピーカーのボイスコイルを接触させたら途端に戦力がダウンしてしまう敵の首魁とか、カイル達が2017年に再度やって来ることを主張していたベテラン警官を違和感なく受け入れていた周囲の皆さんとかいった、ポンコツなモチーフが山のように出てくる。これでは、作り手はマジメにストーリーを語ることを放棄していると思われても仕方がない。



 売り物であるはずのアクション場面も大したことはない。T-1000の造形なんて全然進歩していないし、活劇の段取りや見せ方も既視感を覚えるばかり。ハデな立ち回りが続くにも関わらず、眠気さえ催してしまった。アラン・テイラーの演出は凡庸で、展開にメリハリを付けることも出来ないようだ。

 久々シリーズに復帰したアーノルド・シュワルツェネッガーのはしゃぎぶりは笑って許せるかもしれないが、カイル役のジェイ・コートニーは大根だし、イ・ビョンホンはイロモノ扱いだし、J・K・シモンズは大して見せ場は無いといった具合に、キャストの動かし方にも難がある。救いはサラ役のエミリア・クラークが可愛くて巨乳なことぐらいだ(大笑)。

 製作陣は今後もこの調子でシリーズを重ねるつもりなのだろうか。恥の上塗りになるだけだから、止めておいた方が良いと思う映画ファンも少なくないはず。今から思えば、このシリーズの一作目と二作目は何と面白かったのだろうか。ああ、あの頃は良かったなあ(苦笑)。
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「タイムトラベラー きのうから来た恋人」

2015-07-26 06:45:32 | 映画の感想(た行)
 (原題:Blast from the Past )99年作品。期待しないで観たが、けっこう楽しめた。フレドリック・ブラウンの短編小説「ドーム」と似た設定ながら、本作はああいう暗くてシニカルな話ではない。また、これも共通する部分が多いと思われるジム・キャリー主演の「トゥルーマン・ショー」(98年)よりもはるかに良い出来だ。

 1962年10月。キューバにて米ソ間の冷戦の緊張が高まり、あわや核戦争という段階にまで達した頃、ロスアンジェルスに住む天才発明家のカルヴィンは、臨月を迎えたの妻ヘレンと共に、地下に作りあげた核シェルターに閉じこもって暮らすことになる。やがてシェルターで生まれたアダムは昔ながらの紳士のような男に成長。



 1997年、シェルターの自動ロックが解除され、カルヴィンはようやく地上に出ることが出来た。ところがチンピラだのドラッグ・クイーンだのに絡まれてショックを受けた彼は、あえなく寝込んでしまう。代わりにシェルターから出たアダムは、初めて見る外界に感激。あちこち歩き回った挙句に道に迷ってしまう。手持ちの野球カードを現金に替えようとディーラーに足を運ぶが、悪い業者にだまされそうになる。そんな彼を救ったのが店員のイヴ。それがきっかけで2人(アダム&イヴ)は付き合うようになるが、育ちが違い過ぎる2人にとって意思疎通は至難の業だった。

 SF風の御膳立てながら、内容は見事にラブコメだ(爆)。だが、当初から大風呂敷を広げているため、多少のくすぐったい描写も笑って済まされる。アダムは食前のお祈りは欠かさず、イヴのことを“お嬢さん”としか呼ばず、雨が降っただけで大騒ぎし、海を初めて見て大感激する。

 今時の女の子であるイヴは、そんなアダムに困惑するばかり。だが、真っ直ぐで邪気のない彼に惹かれるようになるのはお約束通りだ。さらに、イヴに助言するルームメイトのトロイ(デイヴ・フォーリー)がゲイである点も面白く、ドラマにメリハリを付けている。

 主演のブレンダン・フレイザーの絵に描いたような好青年ぶりは「ハムナプトラ」とは大きな隔たりがあってそれだけでも笑えるし、発明家夫婦に扮するクリストファー・ウォーケン&シシー・スペーセクのクセ者ぶりには大いに楽しませてもらった。ヒュー・ウィルソンの演出は快調で、ペドロ・アルモドヴァル作品の常連のカメラマンであるホセ・ルイス・アルカイネによる明るい画作りも要チェックだ。なお、イヴを演じるアリシア・シルヴァーストーンを初めて好ましいと思った(役柄のせいもあるが ^^;)。
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「リアル鬼ごっこ」

2015-07-25 06:26:26 | 映画の感想(ら行)

 呆れて笑ってしまった。先日観た「ラブ&ピース」に続く園子温監督の奇天烈劇場だが、あの映画に存在した感動ポイント(のようなもの)は今回皆無。徹底的に自身の下世話な嗜好のみで塗り固められた悪ノリ作品である。決して広く奨められるようなシャシンではないが、“こういうものだ”と見切った上で接すれば、あまり腹も立たないだろう。

 女子高の修学旅行のバスの車中で、詩を書くのが好きな生徒・ミツコは、車中でペンを落として拾おうと身をかがめた。するとその瞬間、突風が吹いてバスの上半分が吹き飛ばされ、ミツコ以外の乗客すべての上半身と下半身が真っ二つになるという惨劇が起こる。突風はバスを降りて逃げ惑う血塗れのミツコをなおも追い回し、居合わせた行楽客も巻き添えにする。山中に逃れた彼女はいつの間にか見知らぬ高校に辿り着く。すると驚いたことに、周囲の生徒たちはミツコを知っており、何事も無かったかのように接してくるのだった。

 一応、山田悠介の同名小説を元にはしているが、内容は完全なオリジナルだ(そもそも、園監督は原作を読んでもいないという)。ミツコは正体不明の“鬼”から逃げ回るうちに、いつの間にかケイコやいづみという別の女に“変身”していく。要するに全体がこの世のものではない“別の世界”のハナシであり、それはたぶんアレじゃないかと思っていたら、終わり近くになってその通りだったというのが示されるのだから脱力してしまった。

 しかしながら、起承転結じみたものを期待するような映画ではないので、ストーリーがどうのと目くじらを立てるのはお門違いである。これは作者の個人的な好みである“若い女のパンツと血しぶきの跳梁跋扈”をボーッと眺めるためだけの作品なのだ(爆)。終盤でヒロインが“私たちで遊ぶな!”と絶叫するシーンがあるが、それは言うまでもなく園監督自身に向けられている。だが、そう言い募っても“遊んでどこが悪いんじゃ! ワシの勝手だぁ!”と開き直られるのがオチなのだが・・・・(笑)。

 ミツコを演じるのは映画初主演のトリンドル玲奈で、けっこう頑張っているようだが、演技面では未熟そのものなのでさほど印象に残らず。これは同じくヒロインに扮している篠田麻里子と真野恵里菜についても言える。惹句によれば“キャストは女ばかり”ということだったが、ラストで斎藤工が変態っぽい役で出てきたのには失笑してしまった。他の出演者の中では、ミツコの友人に扮した桜井ユキの不敵な面構えと身体のキレの良さが印象に残る。今後も注目していきたい。
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「TAXi 2」

2015-07-24 06:17:21 | 映画の感想(英数)

 (原題:Taxi 2)2000年作品。リュック・ベッソン製作・脚本で大ヒットしたカー・アクションの続編。へなちょこだった前作と比べると、格段に楽しめる。1時間半という上映時間も含めて、観てトクをしたような気になる明朗娯楽編だ。

 マルセイユのタクシー運転手ダニエルは、チューンしたプジョーを乗り回すスピード狂。警察当局からも目を付けられる問題児だ。恋人リリーとの結婚を控えて彼女の両親への挨拶を済ませ、仕事面では日本の防衛庁長官を迎えるリリーの父ベルティーノ将軍を猛スピードで空港まで送り届けて彼に気に入られる等、公私とも絶好調である。

 ダニエルは長官をパリまで送る任務も引き受けるが、その途中で忍者の装束に身を包んだ謎の武装グループの襲撃を受け、長官と女刑事ペトラを連れ去られてしまう。ダニエルはペトラをひそかに愛している気弱な同僚刑事のエミリアン、そして日本の情報部員ユリと協力して人質を奪還すべく、大々的なバトルに突入する。

 例によって“えせ日本”ネタが満載なのだが、映画全体がおちゃらけなので笑って済ませられる。それどころか、ちゃんと日本人役に日本人キャスト(たぶん)を配しているので日本語部分が不自然にならず、この点はハリウッド映画よりはマジメかもしれない(笑)。個人的には女刑事のスカートまくり上げての格闘シーンや、忍者部隊の動きのしなやかさ(防衛庁長官誘拐シーンの手際の良さには笑った)、パリの街を疾走する日本ナンバーの怪しい黒い三菱車などにすっかり楽しんだ。

 ジェラール・クラウジックの演出は快調で、細かいことを気にせずに勢いで突っ走っている。主演のサミー・ナセリをはじめフレデリック・ディーファンタル、エマ・シェーベルイといった面々も楽しそうに仕事をしており、今や有名スターの仲間入りをしたマリオン・コティヤールがライトな役柄で出ているのも嬉しい。
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Nmodeの新型アンプを聴いてみた。

2015-07-23 06:22:03 | プア・オーディオへの招待
 国内主要ガレージメーカーのひとつであるNmodeの新作アンプ、X-PM100を試聴することが出来た。駆動するスピーカーはDynaudio、プレーヤーはPS AUDIOの製品である。以前同社の下位モデルであるX-PM7に接したことがあり、その高音質に驚いたものだ。当然のことながら上位機であるX-PM100にはより高いパフォーマンスが期待されたが、実際に聴くと予想を上回る。これはかなりの優れものだと感じた。



 X-PM7は質感は良いが大型スピーカーや低能率のスピーカーの駆動に不安を残した。対してこのX-PM100は、ドライヴ能力が懸念される部分がどこにも無い。全域に渡って音の取り出し方が強靭で、見事に筋肉質。余計なケレンは見せずに、ワイドレンジと高解像度で聴く者をねじ伏せてしまう。特に低域のスピード感は素晴らしく、時折ハッとしてしまうほどの生々しさだ。各社のフラッグシップ級のスピーカーを繋げて鳴らしたくなるほどのポテンシャルを感じる。

 これはたぶん、物量投入された電源部がモノを言っているのだと思う。大型トランスを導入した結果、残念ながら図体はデカくなったが、その分再生音の足腰の強さに繋がっていると想像する。各部品も厳選されたものが使われているようだ。



 本モデルの価格は48万円(税別)である。おそらく聴感上の物理特性においてはこのクラス随一だと思われる。もちろん各社のモデルを一斉に並べて聴き比べたわけではないので断言はできないが、少なくとも質感の高さをとても強く印象付けられた製品はこの価格帯では他に見つからない。

 X-PM7と同様、トーンコントロールもなければヘッドフォン端子もなく、リモコンさえ付いていない。多機能を重視するユーザーにはまるで“お呼びでない”モデルだが、音質最優先のリスナーに対しては大きくアピールすると思う。本機の音に接したら、他のアンプのサウンドが“俊敏さに欠ける”と感じることも多々あるだろう。本当にこのブランドがリリースする製品は面白い。
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「雪の轍」

2015-07-22 06:21:55 | 映画の感想(や行)
 (原題:Kis Uykusu)インテリぶったオッサンが、延々とグチをこぼす映画。別にそれ自体がイケナイということではないが、セリフの扱い方には興趣が乏しく、映画として面白味が無い。これで3時間16分も引っ張ってもらっては、観る側にとっては辛いものがある。

 トルコの景勝地カッパドキアにあるホテル・オセロを経営する元舞台俳優のアイドゥンは、父の遺産を受け継いで何不自由ない暮らしを送っている。しかも妻は場違いなほど若く、妹は嫁ぎ先から出戻ってはいるが、それによって彼の生活に何か支障が生じるわけでもない。しかし、冬が訪れて観光客は一人また一人と去って行き、次第にホテルが雪に閉ざされていくにつれ、それぞれが胸に秘めていた思いが表面化する。



 アイドゥンはなかなか進まないトルコ演劇史の執筆に思い煩い、同時に“自分の人生はこれで良いのか”という気持ちも時折浮かび上がっていく。妻は無為に過ごすことに嫌気がさし、僻地の学校を支援する運動に没頭するようになる。妹は慇懃無礼な兄の態度に何かと難癖を付ける回数が多くなった。一方、アイドゥンから土地と家を借りている一家は借賃を滞納するようになり、家主との関係はギクシャクしている。

 主人公の気持ちは分からないでも無い。いくら生活に困っていないといっても、住んでいるところは外界から離れたリゾート地で、一般社会にコミット出来ないという焦りがある。だが、彼一人でホテル業を立ち上げたわけでは無く、演劇界にもさほど大きな実績を残していない。妻や妹にしても然りで、現状に不満があるといっても、それは自分のまいた種によりそういう境遇にいるだけの話であり、そこから抜け出すだけの度量も勇気も無い。そういうことを自覚するためだけに、この長大な上映時間と山のようなセリフが必要なのだったかというと、いささか疑問だ。



 ハッキリ言ってしまえば、同様のネタをたとえばウディ・アレンあたりが扱うと、ウィットと笑いと捻りを利かせつつも、1時間半程度に収めてしまうのではないか。道に迷ったインテリおやじの独白よりも、生活に困窮している借家の一家にもっとスポットを当てて描いた方が、ドラマティックな展開になったかもしれない。

 監督はトルコの巨匠と言われるヌリ・ビルゲ・ジェイランだが、日本公開は本作が初めて。第67回カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを受賞しているが、大きなアワードの受賞作が必ずしも良い映画とは限らないというのは毎度のことだ。

 主演のハルク・ビルギナーをはじめメリサ・ソゼン、デメット・アクバァといった顔ぶれは馴染みは無いが、いずれも悪くない演技だ。カッパドキアの景観は見もので、バックに流れるシューベルトのピアノ・ソナタも効果的。しかしながら、映画自体が無駄に冗長なので、あまり積極的に評価はしたくはない。
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「EMMA」

2015-07-21 06:20:01 | 映画の感想(英数)
 (原題:SKYGGEN OF EMMA )88年デンマーク作品。子供をダシに使ったサスペンス編としてはリュック・ベッソン監督の「レオン」(94年)やジョン・カサヴェテス監督の「グロリア」(80年)などが挙げられるが、本編も小品ながら気の利いた出来だ。

 1930年代のコペンハーゲン。11歳のエマは裕福な家庭に生まれ、甘やかされて育ってきた。折しもアメリカでは、大西洋無着陸飛行に成功したチャールズ・リンドバーグの息子が誘拐されて殺されたという事件があり、デンマークにもそのニュースは伝えられて話題になっていた。そこでエマは両親がどの程度自分を気に掛けているかを試すため、家出を思い付く。



 エマは知り合いの子の親が経営する安食堂へ身を隠し、やがてその近くに住む貧しい中年男メルテと出会って仲良くなる。そして、何かと世話を焼いてくれた彼への恩返しのつもりでエマはある小さな犯罪を決行するのだが、それが思わぬ大事に繋がり、メルテを窮地に追い込んでしまうのであった。

 エマが孤独なら、同僚からさえ蔑まれて生きるメルテも孤独感に苛まれている。2人が心を通わせて親子のように親密になっていくのに、そう時間は掛からない。エマは利発だが所詮は子供で、自分の言動がどういう結果になるのかは分かっていない。だが、それは家事や育児を放棄して遊び呆けている彼女の母親の愚かしさにくらべればずっとマシなのだ。この映画では、女はエマを除いては誰も感じが良くなく、嫌われているように見えるのが面白い。

 セーアン・クラーグ・ヤーコプセン監督の作品を観るのは初めてだが、話の面白さで見せようとしているあたり、かなり手慣れた職人監督といった印象を受ける。特にドラマの後半に挿入される下水溝での逃亡シーンは実にスリリングで盛り上がる。エマを演じるリーネ・クルーセは達者な子役だが、メルテに扮したボリエ・アールステットの抑えた演技も光る。時代考証も興味深く、観て損は無い佳作と言えよう。
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「予告犯」

2015-07-20 06:17:28 | 映画の感想(や行)

 決して上等な映画ではないのだが、とても重要なテーマを扱っているおかげで、最後まで飽きずに画面に対峙することが出来た。また、本作の内容と似たようなことがいつ起きるか分からない時勢であることが、より一層この映画の存在感を大きくしている。

 頭から新聞紙を被った謎の男が、集団食中毒を起こしながら知らぬ存ぜぬで開き直る食品加工会社に対して制裁を加えると通告する動画がネット上に投稿される。そして間もなく食品加工会社の工場が放火によって炎上する。警視庁サイバー犯罪対策課のキャリア捜査官・吉野絵里香は捜査を始めるが、それを嘲笑うかのごとく第二・第三の事件が発生。やり口をまねする者も出現し、ついには政治家の殺害を予告する動画までアップされる。筒井哲也による同名コミックの映画化だ。

 この愉快犯は当初は悪質な食品メーカーをターゲットにしているが、その後はネット上でバカをやらかした“小物”を何人か血祭りに上げ、次は政治家という具合に行動に一貫性が無い。終盤にこのテロの本当の目的が語られるのだが、もう少し頭の良さそうな手口を考えても良かったのではないか。対する警察側も、班長の吉野のプロフィールこそ後半で簡単に紹介されるが、その他の連中のキャラクター設定は完全スルーであり“ただいるだけ”の状態だ。

 しかしながら、犯人グループが置かれた立場と、一方的にそれを糾弾するだけの吉野のスタンスとの間に屹立している“壁”の存在は、現代社会の鮮やかな縮図であると言える。吉野も犯人グループのリーダーである奥田宏明も、恵まれない幼少時を送っていた。だが、吉野は自力で這い上がり、今ではこの若さで警察内ではエリートコースを歩んでいる。

 一方、奥田も何とか頑張ってマトモな社会人になろうと努力するのだが、無理がたたって身体を壊し、一時的に社会からドロップアウトしてしまう。やっとの思いで復帰して職にありつくが、そこは酷いブラック企業で彼は爪弾きにされる。奥田の仲間の境遇も似たようなもので、つまりこの犯罪はずっと世の中から落ちこぼれてきた者たちの“反乱”という側面を持っている。

 そして、作者が肩入れするのは犯人グループの方だ。吉野は自分が逆境から抜け出してカタギの生活を手にしたことで、誰でもそうなることが可能だと思っている。さらに、それが出来ないのは当人の努力が足りないか、あるいは悪いのは何でも社会のせいにしてしまう甘ったれだと決めつけている。

 しかし、それは違うのだ。世の中には、努力の仕方も分からない者もいる。また奥田のように、頑張りが裏目に出てさらなる逆境に追いやられる者だっている。吉野だって、今の自分があるのは努力だけではなく運や周りの者のフォローがあったからだろう。彼女のように、自分の成功は全て自己の努力の賜物であり、負け組に甘んじている連中は自己責任であると勝手に断定している者が何と多いことか。この、他者の事情を考慮しようともしない“思い上がりの風潮”こそが世の中を閉塞させ成長を阻害する元凶なのだと指摘する、本作の志は決して低いものではない。

 中村義洋の演出は決してスムーズではないが、題材に引っ張られて破綻の無い仕事ぶりだ。奥田役の生田斗真はカッコつけているところが気になるものの、鈴木亮平や濱田岳、荒川良々といった脇の面子に助けられて何とか持ちこたえた。吉野に扮した戸田恵梨香も、ハード一辺倒ではない面を見せる終盤で表現力の幅を示す。またブラックな経営者に扮する滝藤賢一や腹黒い政治家を演じる小日向文世など、悪役もけっこうキャラが立っていて楽しめる。
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「レッド・バイオリン」

2015-07-19 06:36:27 | 映画の感想(ら行)
 (原題:The Red Violin)98年カナダ作品。本作で第72回アカデミー賞作曲賞を獲得したジョン・コリリアーノの音楽は素晴らしい。とにかく官能的で目覚ましい美しさに溢れ、聴く者を恍惚とさせる求心力を発揮。それだけで入場料のモトは取った気になる。

 モントリオールのオークション会場で往年の名器“レッド・バイオリン”が売りに出される場面から始まり、映画はこの楽器が作られた1681年に遡る。高名なバイオリン職人ブソッティは妻子を失った夜、迸る情念をバイオリンの製作に向ける。1972年、そのバイオリンはオーストリアの修道院に渡り、天才児と呼ばれたカスパーが手にする。彼は驚くべきパフォーマンスを連発してセンセーションを巻き起こすが、無理が祟り若くして世を去る。



 1893年、イギリスの作曲家で演奏家のホープがこのバイオリンを手に入れ、インスピレーションを得て大きな成果を上げる。しかし、何かに魅入られたように彼は自ら命を絶ってしまう。1965年、文化大革命の最中にある上海に渡ったバイオリンは、あやうく廃棄されそうになるが、持ち主のシャンはバイオリンを町の音楽教師に託す。そして現代、中国政府がこのバイオリンをオークションに出品。鑑定を担当したモリスには、ある計画があった。

 映画自体はスケールの大きなオムニバス風大河ドラマという感じで、見応えのあるシーンも少なくない。特に中国の文革の場面など、欧米の映画であることを忘れるくらいに描写に力がある(バイオリン・ケースを火に投げる場面は強烈だ)。しかし、舞台が現代に戻ってからの結末の持って行き方は拍子抜け。もっと破天荒な展開でアッと言わせて欲しかった。

 フランソワ・ジラールの演出は最後のパートを除けば悠然としたタッチで重量感を醸し出す。アラン・ドスティのカメラ、フランソワ・セグワンの美術、いずれも良好。キャストではブソッティ役のカルロ・チェッキとシャンに扮したシルヴィア・チャンの熱演が光る。対して狂言回し役みたいなモリスを演じたサミュエル・L・ジャクソンはイマイチ。別に彼でなくてもやれた役だ。なお、イギリスのパートで出てきたグレタ・スカッキは、やっぱり“ヌード要員”であった(笑)。

 バイオリン独奏はジョシュア・ベル、オーケストラはエサ・ペッカ・サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団という手堅いスタッフを集めているのも注目で、サントラ盤も要チェックである。
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