この前惜しくも逝去した植木等の代表作にして日本製コメディ映画史上に残る快作。昭和37年、東宝作品。このころに全盛を誇った東宝の「サラリーマンもの」の一本として作られている。
植木演じるところの主人公平均(たいら・ひとし、と読む)はまったく調子のいい男。会社をクビになっても何のその。飲み屋で知り合った(と、いうより無理矢理におごらせた)ある洋酒会社の部長(谷啓)の話を聞いてその会社の社長(ハナ肇)の家に押しかけ社長の翌日のスケジュールを聞き出し、社長が世話になった国会議員の側近だと称し、いつの間にかその会社に入ってしまう。そして係長、部長、とまたたく間に出世街道まっしぐら。一時は会社を乗っ取った社長のライバルによって追い出されるものの、最後は怒濤の大逆転を図る・・・・という、とんでもないストーリー。
この主人公のキャラクターがスゴイ。口八丁手八丁でどんなピンチもひょいひょいと切り抜け、イヤなことはすべて人まかせ。脚本も徹底して御都合主義で、すべてが主人公にとっていい方に展開していく。
さらに効果的に挿入されるのは植木とクレージー・キャッツ歌うところの思想のかけらもない能天気な歌で、必然のないシーンでも強引に登場人物が歌いまくる。これは非常にシュールである。こんな話をマジメに作ってしまった当時の日本映画のパワーをまのあたりにする思いである。
この映画ができた時代は高度成長期のまっただなか。映画のヒーローは必ずその時代の人々の願望をあらわすものだというが、平均みたいな軽薄でC調で、やることなすこと濡れ手で粟のオイシイ稼業。マジメな奴らをコケにして明るく楽しく人生をわたっていく、という主人公像は一見痛快だが、実社会はこんな野郎は決して受け入れられるはずもないのは明白。
で、今はどうかというと、こんな男でさえヒーローにはなり得ないほど、世の中がシラケきってしまっているとは言えないだろうか。少なくとも日本映画については見かけの興行収入とは裏腹に、もはや単純明快なヒーローは存在しないかのごとくつまらない映画が目立ち、せいぜいがノスタルジーにまみれた後ろ向きのチンケな“夢”でお茶をにごしている。これじゃあ面白くない。
私としては少々ぶっとんではいても、この映画の主人公を支持したい。まったくこのように世の中を渡っていけたらどんなにか楽しいだろう。
“人生で大事なことはぁ、タイミングにC調に無責任。とぉーかぁーくこの世は無責任。コツコツやる奴ぁ、ゴクローサン!!”(テーマ曲の一節です)。
植木演じるところの主人公平均(たいら・ひとし、と読む)はまったく調子のいい男。会社をクビになっても何のその。飲み屋で知り合った(と、いうより無理矢理におごらせた)ある洋酒会社の部長(谷啓)の話を聞いてその会社の社長(ハナ肇)の家に押しかけ社長の翌日のスケジュールを聞き出し、社長が世話になった国会議員の側近だと称し、いつの間にかその会社に入ってしまう。そして係長、部長、とまたたく間に出世街道まっしぐら。一時は会社を乗っ取った社長のライバルによって追い出されるものの、最後は怒濤の大逆転を図る・・・・という、とんでもないストーリー。
この主人公のキャラクターがスゴイ。口八丁手八丁でどんなピンチもひょいひょいと切り抜け、イヤなことはすべて人まかせ。脚本も徹底して御都合主義で、すべてが主人公にとっていい方に展開していく。
さらに効果的に挿入されるのは植木とクレージー・キャッツ歌うところの思想のかけらもない能天気な歌で、必然のないシーンでも強引に登場人物が歌いまくる。これは非常にシュールである。こんな話をマジメに作ってしまった当時の日本映画のパワーをまのあたりにする思いである。
この映画ができた時代は高度成長期のまっただなか。映画のヒーローは必ずその時代の人々の願望をあらわすものだというが、平均みたいな軽薄でC調で、やることなすこと濡れ手で粟のオイシイ稼業。マジメな奴らをコケにして明るく楽しく人生をわたっていく、という主人公像は一見痛快だが、実社会はこんな野郎は決して受け入れられるはずもないのは明白。
で、今はどうかというと、こんな男でさえヒーローにはなり得ないほど、世の中がシラケきってしまっているとは言えないだろうか。少なくとも日本映画については見かけの興行収入とは裏腹に、もはや単純明快なヒーローは存在しないかのごとくつまらない映画が目立ち、せいぜいがノスタルジーにまみれた後ろ向きのチンケな“夢”でお茶をにごしている。これじゃあ面白くない。
私としては少々ぶっとんではいても、この映画の主人公を支持したい。まったくこのように世の中を渡っていけたらどんなにか楽しいだろう。
“人生で大事なことはぁ、タイミングにC調に無責任。とぉーかぁーくこの世は無責任。コツコツやる奴ぁ、ゴクローサン!!”(テーマ曲の一節です)。


