元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「アヒルと鴨のコインロッカー」

2007-07-31 06:46:07 | 映画の感想(あ行)

 予告編の、何となくチャラチャラした感じが“雰囲気だけで終わっている若者フィーリング映画(?)かもしれない”という憶測を呼び敬遠していたが、何気なく読んだ原作(by伊坂幸太郎)が思いがけず面白く、あえて鑑賞する気になった次第。それよりも、この筋書きは映像化するといっぺんで“ネタばれ”してしまう恐れもあり、そのあたりをどう料理するかも興味があった。

 結論として、なかなか健闘した脚色であるのは確かだが、それでも原作の完成度の高さには及ばない・・・・といったところだ。

 アパートに越してきた大学一年生の主人公を“書店強盗”に誘うナゾの隣人“河崎”。その“河崎”をめぐる女友達とブータンからの留学生、そしてペットショップの女店主らの複雑な人間模様。原作では話を主人公の一人称による現在のパートと、女友達の一人称による2年前のパートとが交互に描かれ、一方のパートには出てくるがもう一方には(出てきてしかるべきなのに)出てこないキャラクターを設定することにより、読み手にプロットの奥行きの深さを感じさせようという、巧妙な仕掛けが存在した。

 対して映画では画面に出してしまうと底が割れる危険性を回避するため、主要な時制を現在のパートに設定し、2年前は回想画面で処理させている。当然、原作では終盤に持ってきた“種明かし”も中盤に披露せざるを得なかったのだが、映画として大事なのは“その後”であったはずなのに、それがどうも上手くいっていない。

 そもそも“河崎”がどうして主人公に声を掛けたのかイマイチ分からない。その理由として登場人物たちが口ずさむボブ・ディランの歌と彼らの行動との接点について言及されるが、まるで取って付けたようだ。実を言えば原作もそのあたりの説得力は弱いのだが、伊坂幸太郎独特のテンポの良い語り口と会話の面白さ、そしてトリック(?)の秀逸さによって気にならなくなっている。

 ところが映画版では平板な説明的シークエンスを挿入する必要があり、どうしても求心力は低下してしまう。特にラストの処理は尻切れトンボのような印象だ。演出と脚色を担当した中村義洋は頑張ってはいるが、原作に追随するしかないような仕事に終わっている(有名小説の映画化という企画の中で動いているため仕方がないのかもしれないが)。

 キャスト陣では“河崎”役の瑛太が良かった。もっとも、それはプロットに準拠したルックスを持っているという意味であり、演技面では“手堅い”という次元を超えていない。女友達役の関めぐみ、回想場面で出てくる松田龍平も、とりたてて印象深くはない。主人公に扮した濱田岳は熱演だが、外見が冴えないので(失礼 ^^;)ここでは損していると思う。ロケは仙台でおこなわれ、原作の舞台も仙台なのだが、仙台でなければならない意味はあまり酌み取れなかった。
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参院選の結果に思う。

2007-07-30 07:15:45 | 時事ネタ
 予想通り・・・・というか何というか、参院選は与党の敗北だった。民主党の小沢代表が“野党が過半数を取れなければ政治家を辞める”なんてことを言ってた時点で、結果は見えていた。野心満々の彼が軽々しく政治家を辞めるはずもなく、これは野党の躍進をあらゆる“事前調査”の結果によって確信していたためだと思われる。

 各マスコミでは与党が負けた理由をいろいろと挙げているが(まあ、そんなのはマスコミでなくても誰だって分かるだろうけど ^^;)、大事なのは今後のことだ。

 民主党ではマニフェストとして年金問題や格差問題、少子化問題なんかを訴えていたが、残念ながら物事の根本が分かっていない。・・・・というより、本当は分かっているのだが口に出せないのかもしれない・・・・。社保庁の怠慢で紛糾した年金問題は別にして、格差や少子化の本当の原因は何かというと、景気が悪いからだ。“景気はすでに回復した”とマスコミは浮かれているが、バカ言っちゃいけない。申し訳程度のGDPの伸び率、一般庶民に蔓延する不況感、この状態でどこをどう見れば“景気は回復”なのか。本当の意味で景気が良くなり、一般ピープルにもカネが回るようになり、消費が増えて先行きが明るくなれば、格差も少子化も解決だ。

 本当は、景気を回復させるには財政の“効果的な”大盤振る舞いしかないのだが、いまだに財政出動イコール無駄な公共事業だとか、財政赤字を昂進させるだけとか、そういったナイーヴすぎる見方が世の中を覆っていて、迂闊に財政政策のことを言い出せない雰囲気だ。たとえば、民主党が公約に掲げている子育て支援だが、ハッキリ言ってあの程度の支出額では焼け石に水である。思い切って“子供が3人の家庭には年400万円ぐらいを無条件で進呈”ぐらいの施策を打たないと絶対解決しない。

 民主党をはじめとする野党は、小手先の政策ではなく、日本が直面する諸問題はマクロの経済問題であることを国民に分からせ、思い切った景気対策こそが全ての解決の鍵であることを粘り強く政府や国民に訴えるべきではないかと思う。
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「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」

2007-07-28 06:56:39 | 映画の感想(は行)

 極端な自意識過剰女を演じている佐藤江梨子や、漫画家志望の根暗なその妹に扮する佐津川愛美の演技など、まったく大したものではない。私見だが、ああいう“最初からぶっ飛んだ役”は、当初の“掴み”さえ分かればあとはノリで何とかなるのだと思う。彼女たちのような基本的演技力がままならない者にとっては“都合の良い役”だったのではないだろうか。

 対して真に凄みを感じさせるのはサトエリの兄嫁を演じる永作博美だ。実際、この映画は彼女のためにあると言っても良い。貞淑で働き者の農家の嫁・・・・という設定ながら、実は異常な生い立ちを持ち、そのために“家族”に対して異常なほどの執着を見せるが、本人は夫とのセックスレス生活を長年続けていて自ら“家族”を持つことに関して完全に腰が引けている。そのアンビバレンツな精神構造が映画が進むにつれジリジリと表面化し、徐々に狂気の世界に足を踏み入れてゆくプロセスは圧巻と言えよう。永作の実力のほどを見せつける怪演である。

 だが、どちらかというと脇のキャラクターである彼女が目立ってしまったこと自体、本作の不成功ぶりを印象づけるものだ。どうしようもない姉妹二人の泥仕合など、観ていて鬱陶しいだけで何のカタルシスもありゃしない。ヘンな連中におかしなことをやらせて、それを作者が勝手に面白がっているだけみたいな印象を受けてしまう。まずは、舞台となる石川県の片田舎のリアリティを徹底的に描出すべきではなかったか。現実が描けてこそ非現実が活きるのは常識以前のことである。

 これが劇場用長篇デビューとなる吉田大八監督はCM界出身らしく、なるほどテンポは良く凝った映像処理も手慣れたものだが、観客の心にグッと迫る求心力の発揮は、まだまだのようだ。今後の精進を望みたい。

 それにしても、佐藤江梨子のようなアマゾネス的ルックスの女優は、邦画界では本作みたいな現実離れした役しかやらせてもらえないのは仕方がないのだろうか。この映画はカンヌ映画祭にも出品されたことだし、海外進出してみるのも面白いかもしれない・・・・と、勝手なことを言ってみる(^^;)。
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「屋根裏の散歩者」

2007-07-27 06:48:59 | 映画の感想(や行)
 三原光尋監督による4回目の映画化作品が先ごろ公開されたが(私は未見)、今回紹介するのは92年に作られた3回目の映画化である。面白いのは、公開当初2つのヴァージョンが存在したこと。“一般公開ヴァージョン”と“インターナショナル・ヴァージョン”である。さてどこが違うかというと、一般公開版はR指定、対して私が観た方は成人指定なのである。つまりエッチな場面が長いということだが、正直言って“この程度?”といったレベル。単なる話題作りだったようだ(爆)。

 御存知江戸川乱歩の原作を映画化したのは実相寺昭雄監督。昭和初頭の東京の下町で、下宿屋に住む青年(三上博史)が退屈のあまり屋根裏を利用した完全犯罪を考える。犯行は成功したかに見えたが、同じ下宿の住人である明智小五郎(嶋田久作)に見破られる、というストーリー。

 実相寺監督作品は好事家の間では評価が高いが、私はあまり買わない(テレビドラマ演出作では面白いものもあるが)。鼻につくケレン味やハッタリめいた田舎芝居風演技が目立ち、胃にもたれてくるのである。

 でも、この作品に限っては臭みがよく抑えられており、あまり気分を害さずにすんだ。大時代なセリフ回しや凝りまくったカメラワークもほどほどで、ちょいとSMかがった場面もサラッと流している。キャスティング面では明智役の嶋田がいい雰囲気を出している。少し考えると三上と役を逆にした方がよいような気がするが、意外性の勝利といったところだ。宮崎ますみ扮する狂女が出てきたときには、ちょっとヤバイと思ったものの、演技を暴走させてなくてホッとした。

 しかし、観客はわがままなもので、あまりマトモだと物足りなくなってくるのだ。やはり主人公の内面の狂気のえぐり出し方が足りない。過剰なナレーションでごまかしているのがミエミエである。そして何より、屋根裏の造形が不満だ。暗くうっそうとした、それでいて人間の暗い欲望を暗示させる凶々しい魅力をたたえた場所にしてほしかった。意味なく明るいのも困りものだ。

 この原作は過去に70年と76年に映画化されているが、興味深いのは76年の田中登監督版だ。日活ロマンポルノの一本として作られたものだが、キネマ旬報のベストテンにも入ってるし、スチール写真見ただけでその異常性と耽美性がうかがえる。機会があれば観たいものだ。
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「ファウンテン 永遠につづく愛」

2007-07-26 06:48:17 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Fountain)何やらトンでもないものを観たような気がした。ヒュー・ジャックマン&レイチェル・ワイズの主演による時空を超えた恋物語・・・・という触れ込みだが、印象としてはどこぞの新興宗教のPR映画みたいである。

 余命幾ばくもない妻が書き綴る物語は、中世スペインを舞台にしたカソリックがらみの宗教抗争劇から、なぜか旧約聖書にある“生命の樹”が南米にあることになり、そこに赴く女王の親衛隊の冒険談に発展。それと平行して主人公の精神世界みたいな“空間”が映し出され、そこで“座禅”を組んで瞑想にふけっていると生死の境にあるはずの妻が現れ“物語を完成させて”と懇願する。また脳外科医でもある主人公の動物実験に“南米から持ち込まれた樹”の一部が使われ、それが脳腫瘍に効果があるかどうか逡巡するうちに、同じ病に冒された妻は危篤状態になって、かと思うと次は二人の過去が何度もフラッシュバックするうちに、くだんの“空間”は上昇を続けて、一方南米の奥地にたどり着いた親衛隊長は“生命の樹”の奇跡に遭遇するのだが・・・・といった、ほとんど支離滅裂のストーリーが観客を完全無視して展開される。

 監督・脚本は「レクイエム・フォー・ドリーム」などの鬼才ダーレン・アロノフスキーだが、この浮世離れしたストーリーは、おそらく彼の中で何らかの宗教的インスピレーション(?)が生成されたのだろうと思わせる。何かそういうきっかけになった出来事があって、はからずも“あっち側”に足を踏み入れてしまったのだろう。

 先ほど某宗教団体のPRみたいだと書いたが、これは何も“布教”を目的としたものではないから、個人的な信心の発露というレベルである。ただし困ったことに作者はこれを“普遍的なもの”だと捉えているようだ。この意味で、本作は日本映画史上屈指の怪作である橋本忍監督「幻の湖」と通じるところがある。

 おそらくは時が経てばカルト作品として一部の好事家から“評価”されるのだろうが、今回それをリアルタイムでスクリーン上で観られたということに価値があったのかもしれない(爆)。なお、クリント・マンセルwithクロノス四重奏団による音楽は素晴らしく、サントラ盤だけは文句なしにオススメだ。
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「リード・マイ・リップス」

2007-07-25 07:10:13 | 映画の感想(ら行)

 (原題:Sur mes levres)2001年作品。難聴の女性が仮出所中の男が出会ったことにより犯罪に巻き込まれてゆくというフランス製サスペンスだが、面白いのはヒロインが耳が不自由であることが原因でピンチに陥るという、いわば「暗くなるまで待って」の難聴版のような展開が絶無であること。

 不動産デベロッパーで社長秘書をしている主人公は、ボーイフレンドもいなければ化粧気もない。与えられた仕事は的確にこなすが、同僚や上司が障害者に対して抱くイメージ通りの“地味な女性”を装っている。しかし彼女の内面では野心や欲望が渦巻いており、得意の読唇術を利用した社内の情報掌握にも長けている。そんなヒロインが前科者の助手を雇ったことをきっかけに次第に本性をあらわにしていく過程が実に興味深い。助手に命じて同僚を罠にかけて仕事を横取りするのを皮切りに、彼から持ちかけられたマフィアからの現金強奪作戦に嬉々として協力したりする。

 演じるエマニュエル・ドゥヴォスが“開き直った女のふてぶてしさ”を絶妙に表現していて圧巻(セザール賞の主演女優賞を受賞)。しかも全く下品にも粗野にもならないところが素晴らしい。手持ちカメラによる接写主体の撮影、及び主人公の補聴器の有無により音響を制御しヒロインの主観的な世界をサウンド面から追求しているところなど、物語そのものが一人の女性の内的状況を反映したセンシィティヴなものであることを強調している点はさすがフランス映画である。

 監督は「天使が隣で眠る夜」のジャック・オディアール。相手役のヴァンサン・カッセルの存在感も捨てがたく、これは久々のラヴ・サスペンスの佳篇と言えよう。
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「傷だらけの男たち」

2007-07-24 06:53:40 | 映画の感想(か行)

 (原題:傷城)「インファナル・アフェア」シリーズのアンドリュー・ラウ&アラン・マック監督が、トニー・レオンと金城武を主演に迎えて放つクライム・サスペンス。これは前半だけに限れば、傑作「インファナル~」の第一作に匹敵するほどのヴォルテージの高さだ。

 恋人の自殺が原因で酒びたりの生活を送るようになった元刑事の私立探偵(金城)と、大富豪の娘と結婚し順風満帆の人生を送っている(はずだった)ベテラン刑事(レオン)。ところが刑事は義父を惨殺する。冒頭に彼の乱暴な捜査方法が紹介されることから、何らかのサイコパスではないかという疑念を含みつつ、そのダークサイドを巧みに隠しながら、捜査をリードしていくフリをする彼と、彼の妻から要請されて真相を追求する私立探偵との、虚々実々の駆け引きが緊張感たっぷりのタッチで描かれる。

 鋭いカッティングと荒涼とした画面。それに恋人が自殺した真の理由をいまだに理解できないでいる探偵の苦悩を織り込んで、ヒリヒリするような心理サスペンスが展開。観客を圧倒する。返還以来の香港の社会的不安定さを照射しているあたりもポイントが高い。

 しかし、事実が明らかになってゆく中盤以降は、単なる因縁話にストーリーがシフトダウン。確かに事件の解明という点では理にかなった筋書きかもしれないが、前半の、得体の知れない不安感は見事に雲散霧消してしまう。要するに“語るに落ちる”展開なのだ。もっと一捻りも二捻りもできる余地があったのではないか。本作を観るにつけ、最後までテンションが落ちなかった「インファナル~」の第一作の素晴らしさを再確認せずにはいられない。

 それでもキャストの頑張りは観て損はないほどの求心力を作品に与えている。珍しく悪役に回ったトニー・レオンの、ふてぶてしくも苦悩に満ちた表情は、映画の設定に説得力を持たせているし、金城武も斜に構えた態度を真摯な演技への対応によりクサくなる一歩手前のところで踏みとどまっている。金城のガールフレンド役のスー・チーもいつもの陽性なキャラクターで作劇にメリハリを付けているし、刑事の妻役のシュー・ジンレイは彼女のストイックな持ち味を十二分に活かした名演だ(何より、実にイイ女である ^^;)。チャン・クォンウィンの音楽も快調。

 なお、トニー・レオンの部屋にあるオーディオシステムはB&O社のシステムで、高級オーディオ機器が画面に登場するのは「インファナル~」からの“約束事”かもしれない(^^;)。ただし、エンディングテーマとして流れる浜崎あゆみのデリカシーのない曲は願い下げだ。まあ、エイベックス・エンタテインメントが配給しているから仕方がないのかもしれないが・・・・。
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「あした」

2007-07-23 06:44:22 | 映画の感想(あ行)
 95年作品。今も相変わらず意欲的に製作を続けている大林宣彦監督だが、あまり食指が動かないのは、彼には秀作と同程度に駄作の数も多く、最近の作品もその類ではないかと思ってしまったからだ。その駄作群の中でひときわ“光っていた”のが本作。傑作「ふたり」に続く大林宣彦の“新・尾道三部作”の第2弾という触れ込みだったシャシンだ。

 嵐の夜に瀬戸内海で沈んだ連絡船。1年後、犠牲者の遺族・恋人に“午前0時に呼子浜で待っている”とのメッセージが届く。半信半疑で集まった彼らが見たものは、暗い海の底からこの世に一晩だけあらわれる連絡船の姿だった・・・・。原作は赤川次郎。

 敗因はズバリ、ドラマの対象を広げすぎて“集団劇”にしてしまった点である。これまでの彼の映画は作者の思い入れが強い主人公を中心に、濃密な描写で観客の琴線に触れるような演出スタイルをとっていた。それが集団劇だと密度が分散されて薄味になることは必至なのに、なぜに今回柄にも合わない形式に挑戦したのか。単なる伊達酔狂か、目先の新しさを狙っただけだろうか。いずれにしろホメられた態度ではない。

 集団劇を作る際、大林は残念ながらロバート・アルトマンのように、一見バラバラに見える個々の描写をジワジワと束ねて最後にアナーキーな結論をデッチあげる、といったイヤらしい力技や屈折しまくったシニカルさは持ち合わせていない。いつものように対象を真摯に描こうとすると、時間が足りずに尻切れとんぼのまま次のエピソードに移る。結果、別々に描けばそれなりの成果が出る素材であっても(たとえば妻と孫を亡くした老ヤクザの話など)、集団劇の中に埋没してまるで要領を得なくなる。

 冒頭、小学校の教室で児童たちが「浜辺の歌」を歌う場面から好きな男の子と離ればなれになる女の子のエピソードがある。明らかにこれが映画の中心となるような前振りだが、女の子の成長した姿である女子大生(高橋かおり)も呼子浜に来るにもかかわらず、彼女のエピソードは沈んだ連絡船とは直接関係ないのだ。チンピラになった昔の男の子(林泰文)のために意味もなく身体を与えるという、噴飯ものの結論しか与えられていない。

 連絡船に乗って死んだ水泳のコーチ(村田雄吉)を慕う女(洞口依子)のエピソードも、亡くなった社長をめぐる妻(多岐川裕美)と秘書(根岸季衣)の葛藤も、死んだ妻子を浜の外に連れだそうとする男(峰岸徹)の話も、すべて予定調和で底が割れている。演出と脚本の工夫があればボロの出ないエピソードでも、集団劇であるがために目が行き届かず、チンケなメロドラマに堕している。そして極めつけは、連絡船のデッキの上で歌うナゾの女(原田知世)。何しに出てきたのかわかんないし、原田のド下手な演技で画面がイッキにシラけてしまった。

 尾道ロケにもかかわらず、あの町の美点が出たのは冒頭だけ。呼子浜の描写など、どこで撮っても同じだ。これがまあ、2時間20分の長さ。大林って出来不出来がけっこう激しいけど、尾道を素材(いちおう)にこんなものしか撮れなかったという、ある意味“画期的な”映画だと思う(脱力)。
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「それでも生きる子供たちへ」

2007-07-22 07:27:45 | 映画の感想(さ行)

 (原題:All the Invisible Children)イタリアの女優マリア・グラッツィア・クチノッタらが世界の子供たちの窮状を訴えようと、イタリア外務省やユニセフ等の公的機関に働きかけて実現したオムニバス映画。7つの国の子供たちの“現実”を、7人の監督が描き上げている。

 一番インパクトを受けたのは、ルワンダのメディ・カレフ監督作品だ。貧しさ故にテロ組織に身を投じる12歳の少年。学校の爆破を命じられた彼が“本来の自分”に立ち返る瞬間を切々と描いている。もちろん、この筋書きは図式的だ。しかし、彼の置かれた立場、そして混迷を極めるアフリカ社会の現状は、シチュエーションの御都合主義を軽く圧倒してしまう。徹底した当事者意識に貫かれた本作を観れば、「ブラッド・ダイヤモンド」に関する元文科省官僚の評論家の“テロリストを悪く描いているのはけしからん”なるコメントがいかに妄言であるかが分かるだろう。

 対してジョン・ウー監督による北京を舞台にした金持ちの娘と親に捨てられた少女とを対比して描く一編は、作為的に過ぎて愉快になれない。有り体に言えばお涙頂戴路線である。これは真に切迫した環境にあるルワンダと、切迫さをオブラートに包んで上辺だけの成長を為し得た中国との違いだろう。

 スパイク・リーによるパートは、久しぶりにこの監督の良さが出ている。HIVキャリアになった黒人少女と、そのどうしようもない両親。しかし、そんな彼女の境遇よりもさらに辛い日々を送っているティーンネージャーたちが多数存在することが終盤で明らかにされる。あまりの悲惨さに慄然としてしまうが、それでも彼らは自らの悩みを打ち明けると共に、少しでも人生に向き合おうとしている。その健気さに目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。リー監督はこういう地に足が付いた題材を追いかけるべきで、向こう受けを狙い過ぎているのが長いスランプの原因かとも思ってしまった。

 さて、今回は日本を舞台にしたものがないのは不満だ。もちろん、日本の監督にオファーが来なかったのだろうが、邦画界ではこのようなネタを扱った作品が極少である上、それらも描写が甘かったり、はては是枝裕和監督の「誰も知らない」のような馬鹿臭い映画しかなかったりする。いくら興行的に上手くいっているとはいえ、社会的な題材に及び腰であるならば、しょせん昨今の日本映画の好調ぶりは“バブル”でしかないのであろう(暗然)。
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「トーク・トゥ・ハー」

2007-07-14 07:12:19 | 映画の感想(た行)

 (原題:Hable con Ella)2002年作品。ペネロペ・クルスにカンヌ映画祭での受賞をもたらした「ボルベール 帰郷」が公開中のペドロ・アルモドヴァル監督だが、かねてより彼の作風は全く肌に合わず「ボルベール 帰郷」も観る気はない。この作品にしても「アカデミー脚本賞受賞作だから」という、いわば“義務感”で観たのだが、やっぱりどこが面白いのかわからない。

 孤独な看護士が昏睡状態の女に一方的に抱く恋愛感情は、一切見返りを求めないという意味では「無私の愛」「究極の愛」だと言えなくもない。しかし、恋愛は両者の対等な関係があって成り立つべきものだと考える私にすれば「単なる疑似ストーカー行為(変態)」としか思えない。

 もちろん、映画の作り方としてはそんな「イレギュラーな行為」を突き詰めて、崇高な次元(至純の愛)にまで昇華して観客を力尽くでねじ伏せるという方法があることは承知している(実際の成功例も少なくない)。あるいは逆に徹底的に突き放してシニカルに笑い飛ばすやり方もあろう。ところがこの映画は対象からの「距離」が妙に中途半端なのだ。

 醒めているようでいて、ヘンに主人公に「共感」を抱いているようにも感じる。劇映画を作る際の作者のスタンスが明確ではないから、観ていて退屈なのだ。ひょっとしたら「男同士の微妙な連帯感(≒同性愛)」をメインにしたかったのかもしれないが、ゲイではない私にとって理解の外である。

 冒頭に登場するピナ・バウシュのバレエ「カフェ・ミュラー」をはじめ舞台場面は見所があるし、この監督独特のカラフルな画面造形も捨てがたいが、それだけでは長い上映時間を保たせられるわけもない。要するに「私とはカンケイのない映画」である。
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