予告編の、何となくチャラチャラした感じが“雰囲気だけで終わっている若者フィーリング映画(?)かもしれない”という憶測を呼び敬遠していたが、何気なく読んだ原作(by伊坂幸太郎)が思いがけず面白く、あえて鑑賞する気になった次第。それよりも、この筋書きは映像化するといっぺんで“ネタばれ”してしまう恐れもあり、そのあたりをどう料理するかも興味があった。
結論として、なかなか健闘した脚色であるのは確かだが、それでも原作の完成度の高さには及ばない・・・・といったところだ。
アパートに越してきた大学一年生の主人公を“書店強盗”に誘うナゾの隣人“河崎”。その“河崎”をめぐる女友達とブータンからの留学生、そしてペットショップの女店主らの複雑な人間模様。原作では話を主人公の一人称による現在のパートと、女友達の一人称による2年前のパートとが交互に描かれ、一方のパートには出てくるがもう一方には(出てきてしかるべきなのに)出てこないキャラクターを設定することにより、読み手にプロットの奥行きの深さを感じさせようという、巧妙な仕掛けが存在した。
対して映画では画面に出してしまうと底が割れる危険性を回避するため、主要な時制を現在のパートに設定し、2年前は回想画面で処理させている。当然、原作では終盤に持ってきた“種明かし”も中盤に披露せざるを得なかったのだが、映画として大事なのは“その後”であったはずなのに、それがどうも上手くいっていない。
そもそも“河崎”がどうして主人公に声を掛けたのかイマイチ分からない。その理由として登場人物たちが口ずさむボブ・ディランの歌と彼らの行動との接点について言及されるが、まるで取って付けたようだ。実を言えば原作もそのあたりの説得力は弱いのだが、伊坂幸太郎独特のテンポの良い語り口と会話の面白さ、そしてトリック(?)の秀逸さによって気にならなくなっている。
ところが映画版では平板な説明的シークエンスを挿入する必要があり、どうしても求心力は低下してしまう。特にラストの処理は尻切れトンボのような印象だ。演出と脚色を担当した中村義洋は頑張ってはいるが、原作に追随するしかないような仕事に終わっている(有名小説の映画化という企画の中で動いているため仕方がないのかもしれないが)。
キャスト陣では“河崎”役の瑛太が良かった。もっとも、それはプロットに準拠したルックスを持っているという意味であり、演技面では“手堅い”という次元を超えていない。女友達役の関めぐみ、回想場面で出てくる松田龍平も、とりたてて印象深くはない。主人公に扮した濱田岳は熱演だが、外見が冴えないので(失礼 ^^;)ここでは損していると思う。ロケは仙台でおこなわれ、原作の舞台も仙台なのだが、仙台でなければならない意味はあまり酌み取れなかった。