元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

米澤穂信「ボトルネック」

2011-05-28 06:57:30 | 読書感想文
 一見よくあるパラレルワールドを扱ったSF小説のように思えるが、娯楽性は極めて薄く、読後の印象は実に苦い。この本にファンタジー的な御膳立ての作品にありがちなドンデン返しやカタルシスを求めても、無駄なことだ。ならば面白くないのかというと、そうではない。少しでも“本を読んで考えさせられる”ことを求めているのならば、本書は価値があるといえよう。

 金沢市に住む高校生の主人公は、鬱屈した日々を送っていた。両親の仲は冷え切っており、兄は交通事故で植物状態、しかも付き合っていた彼女が不慮の事故でこの世を去ってしまう。捨て鉢な気分で足を運んだ東尋坊で、彼は断崖から転落。ところが死んだはずの彼は、気が付くと街中にいるではないか。

 腑に落ちぬまま自宅に帰ると、そこには見知らぬ“姉”がいて、自分自身は存在していないことになっている。どうやら“自分が生まれていなかった世界”に迷い込んでしまったらしい。彼は自らが不在であった世界の有様を見聞きするうちに、自分自身の存在価値は何なのかを自問自答していく。



 正直言ってこの作者の文体はさほど達者ではなく、歯切れが悪い。特に中盤まではストーリー展開が遅いせいもあり、読むのが苦痛に感じた。ところが終盤近くになると、エンタテインメントに振られたような設定とは裏腹な厳しいテーマ設定が明らかになり、けっこう引き込まれてしまう。

 自分は何のために生まれてきたのか、この世界にとっての“ボトルネック”とは何なのか、その回答が引き出されるラストはかなり辛い。特に最後に届くメールの一文など、ここまでやるかと思わせるほどの辛辣さだ。

 しかし、何があろうと、それでも人生は続いていくのである。本作の救いは、主人公がまだ若いということだ。これが中年以上の人間の身に降りかかったとしたら、シャレにならないだろう。まさに地獄に向かって一直線だ(まあ、それも小説としては面白くなるかもしれないが ^^;)。

 米澤は映画化された「インシテミル」(私は未読)の作者でもあるが、本作を読む限り目の付け所が通常とは半歩ずれたようなオフビートな妙味があると思った。また機会があれば著作をチェックしてみたい。
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「マーラー 君に捧げるアダージョ」

2011-05-27 06:32:35 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MAHLER AUF DER COUCH)大して面白くもない。今年(2011年)没後100年を迎えるグスタフ・マーラーの伝記映画だが、この屈折した大作曲家の生涯を真っ当に追うだけでは映画としてあまり興趣をもたらさないのは誰でも分かる。しかも昔ケン・ラッセル監督が「マーラー」において神経症的なアプローチを試みて成果を挙げたこともあり、今さら生半可なやり方では観客は納得しない。

 今回は精神分析医フロイトがマーラーの悩みを聞き、回想形式で妻アルマとの関係性を描くという方法を採用。このやり方自体はかなり興味深い。当時の傑物の一人であったフロイトと、天才コンポーザーとの丁々発止のやり取りの中で、マーラーの芸術の真髄を垣間見せてくれれば万々歳だ。

 しかし、この映画はどうにも生ぬるい。妻と年が離れすぎていたとか(19歳も下だったという)、そのころは珍しい女性の作曲家でもあったアルマがグスタフから作曲活動を封じられて、それが浮気の原因になったとか、まるで通り一遍のことしか述べられていのだ。幼い娘を亡くして落ち込んでいたというのも周知の事実で、特に強調するようなことでもない。

 私が知りたいのは、マーラーの苦悩がどう実際の音楽に投影されていたかである。内なる葛藤が、彼のパッショネートな作品群のどの部分に反映していくのか、それを突っ込んで描かなければ映画にする価値はない。

 監督はフェリックス・O・アドロンとパーシー・アドロンの親子だが、さほど才気は感じられない。登場人物が突如として作者からのインタビューを受けるというユニークなパートが挿入されるものの、興味深い話を聞けるわけでもなく、単に奇を衒った仕掛けに終わっているのには脱力だ。

 クリムトやアルバン・ベルクなどの多くの天才アーティストが輩出した世紀末ウイーンの雰囲気もあまり出ていないし、何よりデジカムで撮影した薄味の安っぽい画面も勘弁して欲しい。演奏はエサ=ペッカ・サロネン&スウェーデン放響という有名どころを起用しているにもかかわらず、ついに最後まで映像と音楽がシンクロしてダイナミズムを生み出すには至っていなかった。

 マーラー役のヨハネス・ジルバーシュナイダー、アルマに扮したバルバラ・ロマーナー、共に悪くない演技だけに、作品コンセプトと演出の詰めの甘さが気になってしまった。観る価値のある映画とは言い難い。
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「ドリヴン」

2011-05-26 06:39:08 | 映画の感想(た行)
 (原題:Driven)2001年作品。アメリカを中心として開催されていた独自のフォーミュラカーレース「CART」(2003年に終了)に参戦したレーサー達の戦いを描くレニー・ハーリン監督作だ。

 この監督らしい、見事なまでに中身がスッカラカンの映画である。けっこう多彩なキャストを揃えているわりには、何も演技させていない(させることができない)ところも彼らしい。でも、ハデなレースシーンだけが主眼のこの作品ではそれも許される(笑)。公道でフォーミュラカーを爆走させるという(もちろん、レースの一環ではない)無茶苦茶な場面もあったりして、何も考えずにボーッと観る分にはもってこいの映画だ。

 何より元花形レーサーに扮するシルヴェスター・スタローンと、チームオーナー役のバート・レイノルズが並んでいるだけで、何やらが画面全体に貫禄みたいなものが漂ってくる。この二人に比べれば、一応主役のキップ・パルデューは影が薄い(まあ、仕方がないが)。また、日の丸をバックにシンクロを披露するエステラ・ウォーレンには苦笑した(さすが元カナダ代表 ^^;)。
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「阪急電車 片道15分の奇跡」

2011-05-25 06:36:50 | 映画の感想(は行)

 まあまあ良かった。監督の三宅喜重はテレビ出身の演出家であるせいか、語り口が平坦で底が浅く、それでいて説明過多だ。映像面でもパステル調の色遣いで小綺麗にまとめてはいるが、奥行き感に乏しい。本来ならば凡作で片付けてしまいたいエクステリアなのだが、話の内容はけっこう面白い部分が少なくない。キャストも万全だ。トータルで見て“中の上”といったところか。観賞後の印象もそう悪いものではない。

 有川浩のベストセラー「阪急電車」の映画化で、阪急電鉄の支線を舞台に、それに乗り合わせた人々の人間模様と哀歓を描く。阪急阪神ホールディンググループが全面バックアップしており、全編“本物”のロケーションだ。それぞれのエピソードが最初は独立しているようでいて、映画が進むに連れて互いにクロスしていく。そのタイミングは結構巧みだが、それは脚本の非凡さと言うよりもたぶん原作の手柄だろう。

 結婚寸前に婚約者を職場の後輩に寝取られてしまい、腹いせに花嫁よりもゴージャスな衣装を着て披露宴に出席する女の話は、なかなか楽しめた。単なる復讐談ではなく、実行したはいいがやがて自己嫌悪に囚われ、途中で一人去るしかないのが泣かせる。さらに、会場を後にする彼女に式場担当者が声を掛けるというくだりも秀逸で、ささくれ立った心をポジティヴな方向に振らせる切っ掛けとして機能させるあたりが心憎い。

 地方から関西の有名大学に進学するが、周りに馴染めない男女学生同士の出会いを描いたパートも好きだ。手探りで自分達の立ち位置を確認しようとする、青春期特有の甘酸っぱさが前面に出ていてアピール度が高い。手作りのオブジェ(?)を嫁に押しつける食えない老女とその孫娘との関係性も楽しめる。

 ただし、傍若無人な“関西マダム”連中と付き合うハメになった主婦の話や、交際相手からの暴力に悩まされる女子大生のエピソードは、あまり展開に工夫がなく冗長な印象を受ける。さらに、脳天気な年上の彼氏と付き合っている女子高生を取り上げたパートや、イジメに苦しむ小学生の話はつまらない。

 特にイジメられる子供に対して“挫けないで生きましょう”みたいなことを言うのは絶対に禁物だ。子供というのは表面上は強がっていても中身は脆かったりする。私だったら“辛かったら学校なんか行かなくて良い”とでも言うだろう。

 とはいえ中谷美紀をはじめ、南果歩や玉山鉄二、勝地涼、谷村美月などの演技派を揃え、珍しく老婆役に徹した宮本信子やワンポイントリリーフの安めぐみや大杉漣、さらには人気子役の芦田愛菜まで出てくるのだから、画面はなかなか賑やかだ。そして一番印象に残ったのが、戸田恵梨香の素晴らしい脚線美(笑)。見ていて惚れ惚れしてしまった。今後も出し惜しみなんかしないで欲しい(爆)。
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「ロマンスX」

2011-05-24 06:36:52 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Romance )98年フランス作品。交際相手から構ってもらえなくなった女教師が、他の男どもとの行きずりの関係を繰り返すというメロドラマ(のようなもの)。

 とにかく、ひたすら退屈な映画だ。設定や描写は昔の日活ロマンポルノと似ているところもある。ただ、意味もなく○○プレイとか××責めとかいった扇情的な場面が出てくるが、緊張感においてロマンポルノに遠く及ばない。思わせぶりで言い訳めいたモノローグで場を繋ぐばかりで、欲望にひた走ろうという“覚悟”がないのだ。

 監督は「堕ちてゆく女」などの女流カトリーヌ・ブレイヤだが、必死に“オシャレな女性映画なんですよー”という外見を取り繕うとしているところなど、さほどアタマの良い演出家とも思えない。主演のキャロリーヌ・デュセイも色気のない女で、鑑賞意欲を大いに減退させる。見て損した作品だった。
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「まほろ駅前多田便利軒」

2011-05-23 06:35:50 | 映画の感想(ま行)

 パトリス・ルコント監督の諸作にも通じる“冴えない男二人のロードムービー(別に旅はしないが ^^;)”として、味わい深い内容になっている。ただマッタリと時間が流れていくわけでもなく、適度にミステリーや恋愛沙汰なんかも織り込んで退屈させない。それどころか人生の極意みたいなものも垣間見せる。地味だが見応えのある映画だ。

 東京都町田市をモデルにしたまほろ市の駅前で便利屋を営む多田の元に、中学時代の同級生である行天が転がり込む。実は多田は中学生の時に誤って行天に大ケガを負わせている。もちろんその時の傷は癒えているが、後ろめたい気持ちは今でも消えず、行天の“仕事のパートナーにしてくれ”という頼みを断れない。

 最初は傍若無人な行天の態度に閉口していた多田だが、人に警戒心を抱かせない独特の雰囲気を持つ彼の存在感により、それまでの無為な日々がほんの少し変質してゆくのを感じ取っていく。

 直木賞受賞作でもある三浦しをんの原作を読んだときには、この二人には風采の上がらないオッサンをイメージしていた。ところが映画版では瑛太と松田龍平という今風の若衆を起用しているため、観る前は違和感を覚えたのは事実だ。しかし実際に作品に接してみると、主演二人の“(たとえ今は逆境でも)どん底には落ちそうにもない風体”が却って楽天的な空気を醸し出し、肩に力が入らずに最後まで観ていられる。

 本当は、切迫した状況に置かれているのは彼ら二人ではなく顧客をはじめとする周囲の連中の方だ。何もかも放り出して夜逃げする家族、子供の面倒を全く見ない親、ヤクの売人やストーカーに付きまとわれている水商売の女たちetc.

 以前ならば仕事だけさっさと片付けて引き上げていた多田だが、何事にも首を突っ込みたがる相棒の行天のために、否応なく彼らの人生に関与していくことになる。それによって、多田が心の奥底に閉じこめていた屈託が表面化し、同じようにトラウマを抱え込む行天と真に分かり合えるようになるプロセスは感銘を受ける。

 監督の大森立嗣は前作「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」と同様に今回も寂しい若者達を取り上げてはいるが、あの映画で描かれた狭い人間関係の中で沈んでゆくばかりの登場人物とは違い、視野を広げることによって何とか明日に繋げようとする希望が感じられ、観ていて心地よいものがある。

 主演二人の仕事ぶりは確かだし、片岡礼子や本上まなみ、柄本佑、岸部一徳といった脇のキャラクターも良い味を出している。また監督の身内である大森南朋と麿赤兒が顔を出しているのも楽しい。岸田繁(くるり)による音楽は快調で、まほろ市の街の風情と共に、記憶に残る映画になった。
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「夏至」

2011-05-22 06:58:02 | 映画の感想(か行)
 (原題:A la Vertical de L'ete)2000年作品。トラン・アン・ユン監督の三作目で、ヴェトナムの首都ハノイを舞台に、母親の命日に集まった三姉妹の人間模様を追う。

 この監督は近年「ノルウェイの森」で才気煥発なところを見せたが、それにしたってデビュー作「青いパパイヤの香り」を超えてはいない。処女作イコール最高作で終わってしまった映画作家もけっこういるとは思うが、トラン・アン・ユンもそうなるのだろうか。

 繊細極まりない色調と堅牢な画面構成、ゆったりとしたテンポの演出は快いものの、それらは「青い~」における手法の二次使用。しかも今回はネタが通常のホームドラマなので、展開のバリエーションも限られる。少なくともここには「青い~」のようなストーリーの独自性はない。

 ケレンに走りすぎたこの前作「シクロ」(96年)よりはマシだが、可もなく不可もなしの出来に終わってしまったようだ。それにしてもこの三女、カマトト過ぎるぞ(笑)。
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「八日目の蝉」

2011-05-21 07:19:01 | 映画の感想(や行)

 なかなかの力作だとは思うが、重大な欠点がある。それは、男性の描き方が淡泊に過ぎることだ。妻がいる男の子供を身ごもった希和子は出産をあきらめ、しかし思い余って男の家に忍び込み、女の赤ん坊を誘拐して逃亡。4年後にその子・恵理菜は家に帰されるが、彼女が成長して大学生になると、またしても家庭を持つ男の子供を妊娠してしまう。

 要するに本作のヒロイン二人は“身持ちの悪い女”なのだが、当然のことながら責任は彼女たちだけにあるのではない。避妊することも考えず不用意に孕ませた男の側の態度は、指弾されてしかるべきだ。ところがこの映画は、男の責任をほとんど追及していない。

 ダンナに浮気された妻の攻撃は、いい加減な夫ではなく希和子の方に向いてしまう。恵理菜の交際相手に至っては、劇中で姿を消す有様だ。もちろん、彼女たちが“男には非はないし、だいたい男なんて種付けの役割しかない”と割り切るのは勝手だ。しかし、一般世間ではそんなのは通用しない。スキャンダルが発覚すれば、浮気した男は容赦なく吊し上げられる。

 そもそも認知および親権の扱いはどうするのか。本人達の意向には関係なく、そういう“型にはめる”ような在り方を要求してくるのが世の中というものだ。それらをネグレクトして“母性とは何か”などといった抽象的な事象に拘泥してもらっても、こちらは困惑するだけである。

 さらに、強引すぎる設定を何とか言い繕うためか、希和子の逃げ込み先にカルト宗教のコミューンのような場所をセッティングしている。これはいくら何でも御都合主義ではないのか。仰々しい割に“駆け込み寺”としての存在価値しかないこの教団の描き方は、作者の宗教に対する斜に構えた姿勢の現れかもしれないが、正直取って付けたような印象しかない。

 しかし、以上のような不行き届きが散見されるにもかかわらず見応えがあるのは、キャストの頑張りに尽きる。希和子に扮する永作博美は、彼女の映画での仕事ではベストだ。屈折した母性がその張りつめた表情から迸る様子は圧巻といえよう。恵理菜を演じる井上真央は頑張っている。他の同世代の若手女優と比べれば役柄を余裕で引き寄せるようなオーラには欠けるが、精一杯努力してキャラクターを自分のものにしている。敢闘賞ものだ。

 余貴美子や市川実和子、風吹ジュンなどの実力派が持ち味を遺憾なく発揮し、田中泯は素晴らしい存在感でドラマを引き締める。そして主演の二人以上に良かったのが小池栄子だ。子供の頃のトラウマのおかげでコンプレックスの塊のような人生を歩んできたルポライターという、ヘタすればクサくて見ていられなくなるような役柄を、渾身の演技で実体化させている。今年度の助演女優賞候補となるべきパフォーマンスだ。

 成島出の演出は粘り強く、最後まで観客を引っ張り回すだけのパワーがある。藤澤順一のカメラによる美しい映像(特に小豆島の風景)も要チェック。音楽は安川午朗が担当しているが、挿入曲のジョン・メイヤーの「Daughters」が効果を上げている。とても諸手を挙げて評価出来るような作品ではないが、観て損はないとは思う。
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「シネ・リーブル博多駅」が閉館。

2011-05-20 06:36:12 | 映画周辺のネタ

 去る5月13日、福岡市博多区にあるミニシアター「シネ・リーブル博多駅」が閉館した。同館は99年にオープン。東京テアトル系列の小規模映画館として、大きな映画館では公開されにくい単館系の作品を手掛けてきた。80席と57席の二つのスクリーンを持ち、観客動員の実績は年間約6万人。ここ数年も黒字経営だったが「将来の収益見通しを考慮し、賃貸契約の更新期を迎えたのを機に閉館を決めた」(関係者談)とのことらしい。

 福岡市では近年「シネテリエ天神」や「シネサロン・パヴェリア」といったミニシアターが相次いで無くなっている。残っているのは天神地区の「KBCシネマ」だけになった。単館系作品をコンスタントに上映している映画館としては他に天神地区の「ソラリアシネマ」があるが、ここは元々東宝系の封切館であり、単館系作品の集客力に比べて劇場規模が大きすぎる。入居しているソラリアプラザビルが入場客数を減らしていることもあり、いつまで存続出来るか分からない。

 ただし、映画ファンとしては観たい作品が上映されればオッケーなのであって、それがミニシアターじゃないとダメだということはないのである。正直言って、今回閉館した「シネ・リーブル博多駅」は場内の環境は良くなかった。極端に小さなスクリーンに高低差のあまりないフロア。一番前の真ん中の席じゃないと真に満足出来る鑑賞が出来ないというのは感心しなかった。しかもロケーションが騒音の大きいゲームセンターの中で、映画館内にトイレもない(ゲームセンターと共用)というのは、観客にとって不都合だ。

 これは前に閉館した「シネテリエ天神」も似たようなもので、飲屋街の中という立地といい、狭い場内スペースといい、どう考えても積極的に足を運びたい劇場ではなかった。「シネサロン・パヴェリア」に至っては市の中心地から遠く離れていて、行くのに一日仕事だったことを思い出す。要するに閉館した映画館は、顧客マーケティングの面から言えば“淘汰されて当たり前”だったのだ。良い映画をやっているから客も来るはずだ・・・・という姿勢は、この不況下では通用しない。

 最近では首都圏においてもミニシアターは苦戦を強いられ、映画館といえばシネマ・コンプレックスの形態が主流になってきたという。これも、シネコンの方がビジネスモデルとして優れていたというだけの話だろう。従来型の映画館が姿を消すことに対して、ことさらに異を唱える必要性もない。

 さて、「シネ・リーブル博多駅」で上映していたタイプの映画は、今後どこで公開しくれるのか。たぶんある程度はシネコンが引き継ぐだろう。具体的には、キャナルシティ博多にあるユナイテッドシネマだと思う。以前より単館系作品を何回か手掛けたことがあったが、新しい博多駅ビルに出来たシネコン「T・ジョイ博多」との差別化を図るために、独自色を出してくるはずだ。単館系作品の公開はその戦略の一つになる。

 だが、いくら何でも「シネ・リーブル博多駅」でのレイトショー作品のような極端にマニアックな映画は、シネコンではやってくれないだろう。総体的に福岡市内での単館系作品の上映本数は減ると思われる。これも時代の流れといえば仕方がないのかもしれない。

 今思い出したが、実は東京テアトル系列の劇場は「シネ・リーブル博多駅」だけではなかったのだ。博多区中洲に「シネリーブル博多」という映画館があった。元は日活系の成人映画館だったが、ミニシアターとして98年に再出発。意欲的な作品展開を見せていた。ところが途中で経営母体が変わったらしく、単なる二番館に成り下がり、2000年にはあえなく閉館。わずか2年弱の命に終わったが、それはいかがわしい(?)歓楽街の真ん中という立地も関係していたのだろう。改めて、ロケーションの重要さを痛感する。
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「タクシードライバー」

2011-05-19 06:34:30 | 映画の感想(た行)

 (原題:Taxi Driver )76年作品。ロバート・デ・ニ―ロとマーティン・スコセッシ監督のコンビによる初期の作品で、カンヌ国際映画祭の大賞受賞作。有名な作品だが、私は今回のリバイバル公開(午前十時の映画祭)で初めて目にした。

 夜のニューヨークを走り続けるベトナム帰りで元海兵隊のタクシー運転手が、腐敗しきった現代社会に対する怒りや孤独感から次第に常軌を逸した行動をするようになる。そして“幼い娼婦を救うことが自分の使命だ”と思い込んだ彼は、悪の巣窟に単身殴り込みを掛ける。このストーリーはよく知られているので、ここで詳細に説明する必要もないだろう。

 公開当時は過激なバイオレンスシーンが話題になったらしいが、本作の真の見所は主人公が凶行を終えた後の終盤部分である。以下ネタバレになってしまうが、ギャングどもを片付けた彼はあろうことか街の英雄になってしまうのだ。私はこのくだりに、先日のアメリカ軍によるオサマ・ビン・ラディン殺害事件を重ね合わせてしまう。

 この映画の主人公の行動は、明らかな連続殺人であり重罪だ。いくら相手が悪者であろうと、当初相手が彼に何か危害を加えたわけではなく、正当防衛も適用出来ない。同じように、ビン・ラディンの暗殺も断じて順法行為ではない。勝手にヨソの国に出掛けて行って、お尋ね者を逮捕もせずに問答無用で撃ち殺す。ほとんどテロだ。

 そして、アメリカ国民はそのテロの成功に熱狂して大喜び。自分たちのチンケな正義感とやらが満足出来れば、どんな違法なことをやっても“無理が通れば道理が引っ込む”とばかりに居直ってしまう。

 スコセッシ監督はこういう困った風潮に対して異議を唱えるために本作を手掛けたのかどうかは分からないが、今観ると苦いものが込み上げてくるのを抑えられない。いずれにせよ、アメリカというのは所詮こういう国であるということを肝に銘じて国際情勢を俯瞰すべきであろう。

 若い頃のデ・ニーロはカミソリのような切れ味を感じさせて圧巻。娼婦役で出演するジョディー・フォスターは当時13歳ながら、人並み外れたオーラを纏っている。この映画でアカデミー助演女優賞にノミネートされた彼女は、以降キャリアを順調に積み上げていくことになる。主人公と付き合うハメになる選挙事務所の職員に扮したシビル・シェパードも魅力的だ。

 マイケル・チャップマンのカメラが映し出す、気怠いニューヨークの夜の風景。それを引き立てるのは、これが遺作となったバーナード・ハーマンによるクールなジャズの調べ。観る価値のある快作だと思う。
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