元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ドリフト」

2013-05-31 06:26:50 | 映画の感想(た行)

 (原題:Drift )特別に出来の良い映画ではないが、それなりにソツなく楽しませてくれる。またサーフィンを題材にしているだけあって、喚起力に富んだ映像は要チェックだ。

 60年代後半、シドニーに住んでいたアンディとジミーの幼い兄弟は、母親に連れられて暴力的な父親のもとから逃げ出し、オーストラリア西海岸の小さな街に移り住む。70年代に入り、成長した二人はサーフィンを楽しみながらも平凡な生活を送っていたが、ある日流れ者のような生活を送るカメラマンのJBと出会う。

 JBの自由な生き方に影響を受け、自身の夢を実現させることが人生の醍醐味だと確信した二人は、一念発起してサーフショップを立ち上げる。しかし、何とか商売を軌道に乗せることができた矢先、有名プロを広告塔にした大手サーフィン用具メーカーが進出してきたり、ヤク中になった仲間がマフィアとのトラブルに巻き込まれる等、行く手に暗雲が立ちこめる。モーガン・オニールとベン・ノットの共同監督による、実話を元にした映画だ。

 冒頭、母親が眠りこけている父親の懐から車のキーを盗み出し、二人の子供と共に家を後にするシーンはなかなか印象的だ。主人公達が小さい頃に受けたトラウマが、その後の屈託の多い二人の生き方に何かと暗い影を落としていることを示している。このプロローグの部分だけがモノクロで撮られているのも効果的だ。そして、序盤で登場人物のバックグラウンドの描写を“固めて”しまえば、あとは多少展開が冗長でも大きな減点にはならない。

 二人が興したビジネスは山あり谷ありだが、ドラマ的には予想の範囲内だ。兄弟の友人がドラッグの取引に手を出して身を持ち崩すくだりが作劇のアクセントにはなっているが、さほどインパクトのある話とは思えない。それよりもJBとの関係性をもっと突っ込んで欲しかった。この頃の世相を浮き彫りにして、けっこう興味深い展開になったかもしれない。

 だが、本作のサーフィン・シーンは平板になりそうな中盤以降をキッチリと引き締める。押し寄せる壮大な波と、それに無謀にも挑むサーファー達。カメラワークはダイナミックで、息をもつかせない。

 主人公の兄弟を演じるのは、共にオーストラリア出身のマイルズ・ポラードとゼイヴィア・サミュエル。そんなにメジャーな人気を持つ俳優ではないが、けっこうナイーヴな演技を見せてくれて好感度が高い。ルックスも良いので、今後売れてくるかもしれない。ヒロイン役のレスリー=アン・ブラントも可愛い。JB役はサム・ワーシントンが担当しているが、存在感を買われての出馬だと思われ、役柄自体はあまり能動的ではないので少し残念だ。

 しかしまあ、こういう青春ドラマを見ていると、自分も若い時分に何かに熱中しておけば良かったと、つくづく思ったりする(笑)。どうも、何となく若い頃を過ごし、それから何となく年を重ね、将来は何となく老後を迎えるような気がしてならない。どう考えてもこのままでは面白くないので、今からでも熱中するものを探そうかと思っている今日この頃だ。
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中古オーディオ製品を扱う店に行ってみた。

2013-05-30 06:38:57 | プア・オーディオへの招待
 福岡市中央区大名に、中古オーディオ機器の専門店「ハイファイ堂」の福岡店がある(本店は名古屋市)。数年前にオープンし、何度も店の前は通るのだが今まで一度も入ったことがなかった。しかし実家にあるオーディオアクセサリーを処分する必要が生じたため、その相談も兼ねて先日初めて行ってみた。

 まず驚いたのが、陳列棚にONKYOのアンプA-817が置いてあったことだ。80年に発売されたこの製品は、かつて私も学生の頃に保有していた。後継機種が出たため処分価格で店頭に出ていたこのモデルを、私はバイト代を貯めて買った。自室で音を出してみると、今まで使っていたアンプとは一味違った清廉なサウンドが流れてきて感激したものだ。

 そういえば最初に購入したCDプレーヤーを繋いだのもこのアンプだった。ただし使い始めて4年経つ頃に表示ランプが次々と点灯しなくなり、修理に出すのも面倒なので、買って5年目で他機種に乗り換えるため処分した。しかしそれでも、今まで使用したアンプの中ではかなり好きな音だったことは間違いない。

 あれから20数年経って、久々に本機に接すると、懐かしさがこみ上げると共にその上質なエクステリアに感心してしまう。定価は約7万円だったが、ヴォリュームつまみはアルミ無垢で高級感がある。他のスイッチの操作感も確かなものがあり、よくもまあこの価格で出来たものだと思う。当時はそれだけオーディオは世間的に認知された趣味であり、たとえエントリークラスであってもメーカーはコストを掛けられたのだろう。



 YAMAHAの名器とも言われるスピーカーNS-1000Mの中古品も展示・実働されていた。70年代半ばから90年代にかけて長い間作られていたモデルで、私も幾度となく試聴している。そして、私がスピーカーを買い換える度に候補機となった製品でもある。

 あの頃は、何度聴いてもこのスピーカーの音が“手ぬるい”と感じたものだ。元々モニター用として作られたものなので、余計なケレン味はなく素直な展開だ。その点ではよく出来ていると思ったが、私はハイファイ度を強調したようなシャープ系の音が好きだったので、その度にDIATONEの製品に軍配が上がっていたのだ。

 ところが、現時点で改めて聴いてみると、なかなか良い音であることが分かる。対して、あれほど好きだったDIATONEの音は、年を重ねた今では肌に合わなくなってしまった。もしもこのNS-1000Mを買っていたならば、今でも飽きずに付き合えていたのかもしれない。

 SONYが86年にリリースしたアンプTA-F555ESXも、20数年ぶりに目にすることが出来た。定価は13万円ほどだが、重量が26kgもある。SONYはこの頃は重厚長大路線を取り、他社も追随した。世の中がバブルに向かう中、オーディオの世界でもバブリーな製品群が市場を席巻していたわけだ。今から考えると信じられないが・・・・。

 同じ中古品でも、普通の家電品と違ってオーディオ機器は、その製品が発売されていた頃を体験している者にとってはノスタルジアをかき立てられるものだ。今のところ個人的には中古物件を導入する予定は無いが、思わぬ出物があれば買ってしまう可能性もゼロではない(笑)。このショップに限らず、中古品のオーディオ機器を扱っている店には時折チェックを入れるのも面白いと思った。
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「ブルー・ストリーク」

2013-05-27 06:34:27 | 映画の感想(は行)
 (原題:Blue Streak )99年作品。お手軽アクション映画の典型なのだが、設定が面白く、キャストも好調。まあ、アラを探せばいくらでも出てくるが、この程度の作品をマジに批評してもしょうがない(笑)。

 二千万ドルの巨大ダイヤモンド“ブルー・ストリーク”が保管されていたロスアジェルスの高層ビルに泥棒が入る。ただちに警察がビルを包囲するが、賊の一人マイルズは逮捕される寸前に換気口にダイヤを隠す。数年後、出所したマイルズが隠していた宝石を回収しようと、元のビルのある場所に行ってみたら、何とそこは警察署になっていた(爆)。一計を案じた彼は警官になりすまし、署に潜り込むことに成功。しかし、ダイヤを付け狙うかつての仲間が暗躍しはじめ、事態は紛糾してくる。



 そもそもリニューアルされたセキュリティシステムが完備しているはずの新築の警察署に、一般人(しかも前科者)が簡単に入り込めるはずが無い。さらにはマイルズの“正体”に薄々気付いていながら、あえて彼と一緒に仕事をしている周りの警察官連中も噴飯物だ。

 けれども、主演のマーティン・ローレンスの口八丁手八丁と、相棒のカールソンに扮するルーク・ウィルソンとの“漫才コンビ”ぶり、そして監督レス・メイフィールドのテンポの良い演出を見せつけられると、どうでもいい気になってしまうのだから面白い。

 ギャグの振り方は万全で、終盤にはハラハラする場面もあり、退屈させない。上映時間が1時間半とコンパクトなのも良い。この後に作られたローレンスの代表作「ビッグ・ママス・ハウス」シリーズも観たくなった。
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「きっと、うまくいく」

2013-05-26 06:08:48 | 映画の感想(か行)

 (原題:3 IDIOTS)手が付けられないほど面白い(笑)。インド製娯楽映画だから多種多様なテイストがてんこ盛りであることは当然だが、本作は“他の作品”のように、話の辻褄が少々合っていなくても歌と踊りと勢いで乗り切ってしまおうというパターンが見受けられないのだ。お手軽のように見えて、ドラマツルギーの整合性はしっかり取れている。しかも、社会派的な視点も(抑制の効いたタッチで)盛り込まれており、鑑賞後の満足感は実に高い。

 高偏差値で知られる工科大学に入学したファルハーンとラージュー、そしてランチョーの三人はたちまち意気投合。ヤンチャが過ぎて学内でたびたび大騒動を巻き起こし、通称“3バカトリオ”として悪名をとどろかせる。すったもんだの挙げ句に何とか卒業にこぎつけるが、ランチョーだけが姿を消してしまう。それから10年経ち、ランチョーが街に戻ったと聞いた二人は彼を見つけようとするが、やがて意外な事実が明らかになってくる。

 映画は三人の在学中の出来事と、10年後のランチョーを探す旅とを平行して描く。二つの時制を交互に展開させるという手法は目新しいものではないが、監督ラジクマール・ヒラニの演出力は強靱で、それぞれに大きなドラマを複数用意し、しかもそれが互いのプロットの伏線を形成するという巧者ぶりを見せつける。それらがラストに結実して高い感銘度をもたらすのだから、まさに文句の付けようが無い。

 さらに、インド社会を覆う大きな問題にも言及する。それは、グローバル化だ。世界的な競争の激化が巻き起こり、競争に負けた国内産業は衰退する。結果、労働者の賃金の低下や失業がもたらされる。とにかく、金を稼ぐ能力が最優先され、それと相容れないものは容赦なく切り捨てられる。

 基礎的研究を完全無視して大企業への就職率アップだけに向かって邁進するこの大学の学長のスタンスも、その典型である。工学よりもやりたいことが他にあるファルハーンの悩みも、貧しい家族を支えようとするラージューの苦闘も同様だ。そしてランチョーの本当の生い立ちが明らかになるくだりは、思わず考えさせられてしまった。

 主演の三人は好調だが、中でもランチョー役のアーミル・カーンが際立っている。飄々として、それでいて自主性があり、自説を曲げない好漢を本当に魅力的に演じている。聞けば彼は40歳を過ぎているとのことだが、堂々と大学生を演じているのもアッパレだ(爆)。他の二人を演じるマドハヴァンとシャルマン・ジョシも実に良い。ヒロイン役のカリーナー・カプールも言うこと無し。

 次から次へと現れる見せ場はそれぞれがドラマティックで、各々のネタで一本の映画が出来てしまうほどだ。ギャグも満載で、場内は幾度となく笑いに包まれた。しかし残念ながらインド映画得意のミュージカルシーンは2回しかない(しかも、そのうち1回は野郎だけ ^^;)。上映時間がもう少し延びても良いから、あと2,3曲は挿入して欲しかった。とはいえ、(少し絵葉書的だが)美しい映像も相まって、これだけ無条件で観客を楽しませてくれる映画はそうないだろう。必見の作品だ。
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「評決のとき」

2013-05-25 06:55:07 | 映画の感想(は行)
 ※注意! ラストを明かしています。

 (原題:A Time to Kill)96年作品。ミシシッピー州の田舎町で起こった黒人少女暴行事件。犯人の白人二人組はすぐに逮捕されるが、怒りに燃えた少女の父親(サミュエル・L・ジャクソン)は連行される二人組を射殺。第一級殺人罪で起訴された彼の弁護に当たるのは知人でもある若手弁護士(マシュー・マコノヒー)。法学部の女子学生(サンドラ・ブロック)の助けを得て困難な裁判に挑む弁護士の周囲にはやがてKKK団や黒人解放同盟などが暗躍し始める。果たして裁かれるのは、肌の色か、正義か、愛か(←当時のチラシより抜粋 ^^;)。

 結末を言ってしまおう。被告は無罪になってメデタシメデタシだ。えっ、何かの間違いじゃないかって? ホントである。繰り返すが、悪い二人組を殺した奴が陪審員の同情を買って無罪になる話だ。これってコメディ? ファンタジー? いいや、ジョン・グリシャムの原作だから大マジな話だ。



 もし、この父親の立場だったら誰でも同じことをしたくなるだろう。でも、たぶんその場合は死刑覚悟だ。捕まったあとで泣き言も弁解もしないつもりだ。ところがコイツは、逮捕後に事の重大さに気付き、うろたえ、必死で無実を訴える。弁護側は被告の心身喪失状態を主張して無罪を狙い、検察官(ケヴィン・スペイシー)はその裏をかこうとする。このあたりは法廷物の常道だが、結末がこうなってくるとただの茶番としか見えなくなる。

 前にも書いたが、アメリカの法律を含む英米法には判例を重視したいわゆる“コモン・ロー”とは別に、超法規的な法曹界の伝統である“エクイティ”なるものが存在する。エクイティは“衡平法”と訳され、判例のないケースではその折々の社会的状況などを考慮して、裁判官が“道徳的な”判断を勝手にして良いという認識である。

 本作にはそのエクイティの“効力”が大々的に紹介されている。ハッキリ言って、これでは仇討ちを容認する江戸時代と同じではないか。“目には目を”が大手を振ってまかり通る西部劇の世界である。

 私がウンザリしたのは、この黒人が二人組を射殺するのに使った銃が猟銃でもなければ護身用のピストルでもなく、軍用の自動小銃だったということだ。こんなものが貧しい黒人層に行き渡っている事実。それを問題にもしない法廷側。さらに、ラストの弁護士とこの黒人がニコやかに談笑する場面など“殺人者の分際で能天気にパーティなんぞやってんじゃねー!”と叫びたくなった(爆)。

 2時間半のウダウダ長い上映時間の中には、KKK団の妨害など総花的にエピソードが詰め込まれているが、どれも行きあたりばったりの展開で少しもサスペンスが盛り上がってこない。弁護士役の、ちょっと顔のいいだけで“典型的な熱演”しかできないマコノヒーはこの頃は新人だから仕方ないとして(本当はそれじゃいけないんだけど)、サンドラ・ブロックは何しに出てきたのか最後までわからないし、どのキャラクターをとっても表面的な扱いで感情移入できない

 監督はジョエル・シュマッカーだが、彼のフィルモグラフィの中では出来として下から数えた方が早い。観なくても良い映画だ。
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「ビル・カニンガム&ニューヨーク」

2013-05-24 06:26:38 | 映画の感想(は行)

 (原題:Bill Cunningham New York)人間の“器の大きさ”に対して、思い切ったアプローチを敢行している映画だと思った。またそれを可能にした作者の粘りと求心力にも感服する。

 このドキュメンタリー映画が描く素材は、50年以上もニューヨーク・タイムズ紙のファッション欄を担当しているビル・カニンガムなる老カメラマンである。服飾に対する審美眼は随一で、際だった着こなしの人物を求め、日々ニューヨークの街を自転車で走り回り、写真を撮りまくる。

 ファッション界では彼を知らぬ者はいないほどだが、被写体は有名人や業界関係者に限らない。身なりが格好良かったら、通行人だろうと宅配のニイちゃんだろうと構わずカメラを向ける。反対に、どんなにドレスアップしていても“お仕着せ”の服しか身に付けていないセレブには見向きもしない。彼にはそんな自由な態度が許されてしまう性格の良さと人脈の広さがある。また、そのファッションに関する深遠な知識により、デザイナーの作品における過去の“引用元”までも指摘してしまう。

 けれども、服飾に多大な興味を持っている当の本人の身なりはというと、完全に無頓着なのが面白い。年がら年中、作業員が着るような安いジャケットに身を包んでいる。さらに、彼はこのトシになっても独身で、カネにも地位にも興味を持たない。食べることについても関心は無く、豪華なパーティに出席しても料理や酒にはまったく手を付けない。彼が住むアパートの部屋は写真のキャビネット以外のものは何もないと言って良く、とにかく人生のすべてをファッションとカメラに捧げているのだ。

 我々凡人から見ると、カニンガムの生き方は痛快に思える。自分の趣味・嗜好に属さないものはすべて切り捨て、これと決めた道をただひたすらに突き進み、年を重ねる。まるで世の中を超越したかのような存在だ。

 ところが、確かにカニンガムは世間一般の価値観から外れたところにいるが、残念ながら彼の人間としての“器の大きさ”は常人よりも“少しばかり目立っている”という程度なのである。しょせんカニンガムは新聞社のスタッフに過ぎない。後世に名を残すような天才ではないのだ。

 本物の天才ならば、服飾を極めたついでに他の分野でも端倪すべからざる存在感を見せるはず。けれども“器の大きさ”に限界のある彼としては、ファッションに対する造型を深めるために他のことを“捨てる”しかなかった。それが明らかになるのが終盤の展開で、作者の鋭い質問により思わず“素”の顔を見せてしまう。

 一芸に秀でてはいても、それは人間としての平凡な“幸せ”を犠牲にした上での話なのだ。このあたりを垣間見せただけでも、監督リチャード・プレスの長年の苦労(構想8年)が報われたと言えよう。対象を漫然と追っただけの凡百のドキュメンタリー作品とは、格が違う。

 それにしても、ニューヨークという街、そしてそこに暮らす人々の何ともファッショナブルなこと。一度は行ってみたいと思わせる。映画館を出た後、カニンガムの被写体となり得る通行人がいるかどうかと気を付けて歩いてみたが、まことに遺憾ながらこの福岡の街にはあまり見つけられなかった(笑)。
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「ヘアー」

2013-05-20 06:30:37 | 映画の感想(は行)

 (原題:Hair)79年作品。68年からブロードウェイで上演された同名のミュージカルの映画化。ハッキリ言って、映画の内容よりも、あの時期に映画の企画として取り上げられたことが興味深い。

 ベトナム戦争の最中である60年代後半、オクラホマの田舎町から徴兵を間近に控えた若者クロードがニューヨークに旅行にやってくる。戦争に行くことに何の疑問も持たなかった彼だが、そこで出会ったヒッピーの一団により大きなカルチャー・ショックを受ける。上流階級の娘とのアヴァンチュールも経験し、徐々に反戦思想に染まっていく彼だが、運命の悪戯はクロードとヒッピーのリーダーとを窮地に追いやっていく。

 ブロードウェイでの上演は70年代初頭に終わっている。考えてみれば当たり前で、アメリカがベトナムから撤退しヒッピー・ムーヴメントも終焉を迎えてしまえば、取り敢えずはこのネタには“用は無い”のである。2009年からリヴァイヴァル上演が始まって高い評価を受けたが、これは紛糾する中東情勢とそれに関与するアメリカの姿勢にリンクしてのことであろう。

 では、本作が作られた79年には何が起こっていたかというと、イラン革命である。しかし、この映画はそれより前に製作が決定しているので、直接は関係ないはずだ。要するに、波風の立っていない時期に作られたわけで、このあたりがどうもチグハグな印象を受ける。

 監督はミロス・フォアマンだが、出世作「カッコーの巣の上で」や後の「アマデウス」に見られた才気はあまり感じられない。演出リズムは平板で、映像面にも特筆されるようなものはない。さすがに音楽は良いが、オリジナル通りであり映画の手柄ではない。クロード役のジョン・サヴェージをはじめトリート・ウィリアムズ、ビヴァリー・ダンジェロといったキャストの仕事にも突出したものはなく、全体としては凡作に終わっている。

 そういえば70年代後半にロック・シーンを震撼させたセックス・ピストルズのジョニー・ロットンが“俺は髪の長い奴らが大嫌いだ。ヒッピーなんか虫酸が走るね”と言い放ったが、そういう“空気”の中での本作の製作は無謀であったのかもしれない。
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「これからの人生」

2013-05-19 07:12:46 | 映画の感想(か行)
 (原題:La vie devant soi )77年作品。パリの下町のアパートで娼婦の子供たちを預かりながら暮らすユダヤ人老女とアラブ人の少年との交流を描くモーシェ・ミズラヒ監督作。アカデミー外国語映画賞やロサンゼルス映画批評家協会賞などを獲得している。

 やはり時代背景を抜きにしては評価出来ない作品だ。製作当時としては複数の人種が一つ屋根の下に暮らすというモチーフは有り得なかったはずで、その意味での目新しさはあったのだろう。さらに、ユダヤ人とアラブ人とが心を通わせるというストーリーも斬新だったはずだ。

 ただし、現時点ではさほど珍しくもない。平穏な生活の中にも戦争の傷跡が見え隠れするという設定も、それ単体ではインパクトを与えられるものでもない。しかし、主演女優シモーヌ・シニョレの力演を見ていると、そんなことはどうでも良くなってくる。

 彼女のキャリアからするとほとんど“遺作”の域に入る仕事だと思うが、本作でのパフォーマンスは素晴らしい。苦難の時代を生き抜いてきた重みと、それを声高に訴えるでもなく静かに人生の終わりを迎える諦念とが入り交じるヒロインの内面を、的確な演技で表現している。彼女は本作でセザール賞の主演女優賞を獲得しているが、それも頷けよう。

 また名カメラマンのネストール・アルメンドロスによる深みのある映像も要チェックだ。特に終盤の、暗い部屋にろうそくが灯るシーンの美しさは絶品である。

 原作はロマン・ガリー(エミール・アジャール名義)の同名小説だが、監督のモズラヒはエジプト出身であり、おそらくはユダヤ系とアラブ系との相克を体感しているはずで、そのあたりも本作に反映していたものと思われる。音楽はフィリップ・サルドで、これも良い。
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「ごめん」

2013-05-18 06:51:01 | 映画の感想(か行)
 2002年作品。年上の少女に一目惚れした小学6年生の男の子の大奮闘を描く冨樫森監督作品。ひこ・田中による同名小説の映画化だ。これは面白かった。冒頭の、主人公の「精通」をめぐる爆笑ものの騒動により観客を引き込んだ後、終盤の疾走感あふれる怒濤の(?)クライマックスまでイッキに見せる。

 語り口も“大人から見下ろした”ような扱い方をせず、子供の視点をキープするように努めている。だから主人公をめぐるクラスメート等の各エピソードが絵空事にならない。



 そして、主人公の住む街が大阪市郊外でヒロインが京都市在住という設定もポイント高い。それぞれの街の雰囲気が二人の温度差に微妙に影響しており、カルチャー・ギャップ的なおかしさを生んでいる。

 主役の久野雅弘と櫻谷由貴花はイイ味出しているし、河合美智子や國村隼ら脇のサポートは万全。大友良英の音楽も気が利いている。残念ながら冨樫監督はこのあと“語る価値のある映画”を撮っていないが、今一度の奮起を期待したいものだ。
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「L.A.ギャングストーリー」

2013-05-17 06:28:17 | 映画の感想(英数)
 (原題:GANGSTER SQUAD)ブライアン・デ・パルマ監督の「アンタッチャブル」(87年)に似た映画である。警察のはぐれ者グループのターゲットになるのが実在のギャングで、スタイリッシュな銃撃シーンがあるところも共通している。ただしクォリティとして「アンタッチャブル」には及ばない。ならば“単なる二番煎じ”として片付けて良いかというと、そうもいかないのだ。何しろこの映画は十分に面白いのだから(笑)。

 1949年のロスアンジェルス。マフィアのボスであるミッキー・コーエンは、腕っ節の強さと当局側に対する狡猾な買収工作により街を支配していた。こうした状態を打破すべく、市警本部長はジョン・オマラ巡査部長をはじめとする6人の特殊部隊を組織し、警察官の権限を逸脱した荒っぽい手段でコーエン一味に戦いを挑む。



 身も蓋も無いことを言ってしまうと、本作が好印象なのは“製作時期”が大きく関係していると思う。もしも「アンタッチャブル」の公開に近い時点で製作されていたら、あるいはカーティス・ハンソン監督の「L.A.コンフィデンシャル」(97年)の直後に作られていたら、完全に無視されていた可能性が高い。真っ当な(?)ギャング映画をあまり見かけなくなった昨今だからこそ、大きな存在価値を獲得したと言えよう。

 しかも、この映画には“時事ネタに少しでもコミットしよう”などという下心も無い。絵に描いたような単純明快さ、そしてまるで西部劇のようなキャラクター設定で、娯楽映画ファンを喜ばせることにのみ専念している。この割り切りの良さはポイントが高い。



 キャスティングも良い。ジョン・オマラに扮するジョシュ・ブローリンは直情径行型の面構えでギャングどもに睨みを利かせ、一見軟派な二枚目のライアン・ゴズリングは、いざという時にガッツを見せる。荒野のガンマンみたいなロバート・パトリックや、強面の本部長役ニック・ノルティの登場も嬉しい。ヒロイン役のエマ・ストーンは(こういう雰囲気のシャシンでは)少々可愛すぎるかもしれないが、作品に花を添えている。

 そして何と言ってもミッキーに扮するショーン・ペンが光っている。元ボクターという設定で、絞り込んだ肉体と凶悪な目付きでギャングのボスを怪演。終盤には(意味もなく)プローリンとの鉄拳ファイトの場面まで披露するというサービスぶりだ。

 お手軽コメディの作り手だと思っていたルーベン・フライシャーの演出は、今回はなかなかハードボイルドなタッチでテンポも良い。ケレンたっぷりの活劇シーンなど、力業も見せつけている。暖色系でまとめた画調やセンスの良い衣装等も見逃せず、けっこう見応えのある作品に仕上がった。観る価値はある。
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