元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「プライベート・ベンジャミン」

2016-03-31 06:22:13 | 映画の感想(は行)

 (原題:Private Benjamin)81年作品。70年代後半に“女性映画ブーム”というのがあった。もっとも、これは日本の配給会社や映画雑誌が勝手に考案したキャッチフレーズで、実のところは自立的な女性を主人公にした映画が欧米で“たまたま”目立っていたというだけの話だ。一方ではアメリカでは80年代に入ると保守派の隆盛により、そのトレンドがハリウッドにも影響を与えるようになっていった。そんな中にあっては“女性映画”も無関係ではなかったらしく、コメディ仕立ての本作にその典型例を見ることが出来る。

 富豪の娘であるジュディ・ベンジャミンは2度目の結婚式を迎え、心は浮き立っていた。しかしながら新しい旦那は結婚後に急死。そんな傷心の彼女に近付いたのは、新兵募集係を務めるジム・バラード軍曹であった。彼は軍隊がどんなに素晴らしいところかを力説し、彼女を入隊させることに成功。さっそく新兵訓練のキャンプに赴いたジュディを待っていたのは、例によって鬼のような教官と過酷な訓練であった。

 元より世間知らずの彼女にとって毎日があり得ない展開の連続で疲労困憊してしまう。ところが、ひょんなことで実戦ゲームで思わぬ大勝利をもたらしたのをきっかけに、次第に軍隊の水に馴染んでいく。そして、ベルギーのNATO基地勤務に栄転すると共に素敵な彼氏もゲットする公算になり、彼女の人生は明るさを増してゆくのであった。

 何と、70年代の“女性映画”で描かれていたフェミニズム的なモチーフは、ここでは“軍隊に入れば達成できる”という結論にすり替えられている。確かに、生死隣り合わせの戦時では男も女も関係なく、その意味では“平等”なのかもしれないが、かくのごとき牽強付会には面食らうばかりである。

 ハワード・ジーフの演出には大きな破綻は無い。主役はゴールディ・ホーンで、いつものように“個人芸”で笑わせてくれるが、やればやるほど米軍のPR映画じみてくるのは何とも複雑な気分になってくる。加えてビル・コンティによる勇ましい音楽がそれを助長するのだから、観ている側は困惑するばかりだ(笑)。

 なお、この“軍隊に入れば人間的に成長する”というパターンは、翌年に作られる「愛と青春の旅だち」でも踏襲されているが、軍事面で混迷を極める昨今においては当分取り上げられることのないネタであろう。良い意味でも悪い意味でも、映画は時代にリンクしていくものなのだ。
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「父と息子の名において」

2016-03-28 06:37:46 | 映画の感想(た行)
 (原題:AU NOM DU PERE ET DU FILS )91年フランス作品。おそらくは日本未公開。私は92年の東京国際映画祭で観ている。監督のパトリス・ノワイア(1953年生まれ)はTV畑の出身。短編や産業映画をいくつか作っていたが、1990年、自身の映画会社を設立。長編は本作が初めての作品となる。

 1978年、ノワイア監督の父親は射殺された。パトリスは、14才になる息子を連れて父親の生まれたイタリアに向かった。精神的な傷を過去のルーツをたどることによって癒そうとしたのである。ナポリへ向かう途中、2人はさまざまな体験をする。うさんくさいヒッチハイカーを拾ったり、車を盗まれたり、若い女性と知り合いになって、親子で微妙な三角関係みたいになったり・・・・というような話が続く。

 監督本人と実の息子が出演して、監督ノワイアの実体験をもとに、親子の精神的軌跡をそのままドキュメンタリーのようにドラマ化した興味深い作品である。プライベート・フィルムというより私小説を連想させる。

 旅の終わりにいったい何があるのか。実は何もないのである。実家を見つけ出すことは出来ず、父親のルーツは不明のままだ。しかし、パトリスは父親にについて抱いていた憧れやコンプレックス、屈折したイメージをよみがえらせ、自分の人生を見つめ直し、前向きに生きようとする。そして自分の分身でもある息子を理解することが、彼の疑問に答えてくれる唯一の方法であることを発見する。父親の故郷への旅は、作者の内面への旅でもあった。

 実の親子だからということでもないだろうが、主演2人の演技の呼吸が実に自然だ。ドラマはゆっくりと、ケレン味がなく、静かに流れていく。淡々としたタッチの中に、ほのぼのとしたユーモアを織り混ぜ、味のある小品(上映時間1時間20分)に仕上がった。

 また、昔イタリアからフランスに移住した人々が数多くいたこと、彼らの苦難の歴史も初めて知った。上映後に舞台に出てきたノワイア監督は、映画に描かれた通りの静かな人物であったことを覚えている。なお、同監督のそれからの仕事ぶりは情報が入ってこない。残念ながら、フェイドアウトしたということなのだろうか。
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「リリーのすべて」

2016-03-27 06:38:18 | 映画の感想(ら行)
 (原題:THE DANISH GIRL )感銘を受けた。同じく性的マイノリティを扱った「キャロル」(2015年)と比べても、志の高さや描写の的確さ等で大きく差を付ける。たとえ題材が特異でも、作品の求心力は確固としたドラマツルギーと巧みなキャラクター設定で決まることを再認識できた。

 1920年代のコペンハーゲン。風景画家として活躍するアイナー・ヴェイナーは、肖像画家である妻のゲルダと結婚して6年、誰もがうらやむ仲の良い夫婦だった。あるときゲルダは、友人でバレエダンサーのウラの肖像画を仕上げるため、都合により来られなくなったウラの代役モデルになってくれと夫に依頼する。仕方なくシルクのストッキングと白いチュチュを身に当てるアイナーだったが、図らずも胸がときめいてしまう。それは、幼い頃から心の中に抱えていた自身の“性”に対する違和感が表出した瞬間だった。



 出来上がった絵は評判を呼び、ゲルダは作品のモデルは親戚筋のリリーであると称して、女装した夫の絵を描き続ける。やがてアイナーは本来男である自身の“性”を捨て、リリーとして生きていくことを決意。当時は前例のない性別適合手術を受けることになる。実話を元にしたデイヴィッド・エバーショフの小説「世界で初めて女性に変身した男と、その妻の愛の物語」の映画化だ。

 何より感心したのは、主人公がどのように自らの“性”について疑問を抱き、やがて後戻り出来ない地点に向かって疾走するのか、それを具体的かつ感情を込めて描いている点だ。このあたりが“何となくそうなってしまった”という感じでお茶を濁していた「キャロル」とは決定的に違う。鏡の前で男性器を股の間に隠して身もだえする場面、覗き部屋の女の動作を真似して必死で“女らしさ”を追い求める姿など、リリー(アイナー)の激しいパッションが画面に横溢して息苦しくなるほどだ。男性としての生活を荒涼とした風景画に託した設定も悪くない。

 さらに、変わっていく夫を見守るしかないゲルダの諦念や、彼らを支える友人ハンスの困惑も過不足無く捉えられている。特に“アイナーはもういない”と観念したゲルダが、それでも彼を支えていくという至純の夫婦愛に駆られるくだりは、切ない感動を呼ぶ。



 監督トム・フーパーは今までで一番良い仕事をしている。展開や演出リズムに乱れが無い。主演のエディ・レッドメインはオスカーを受賞した「博士と彼女のセオリー」(2014年)よりも本作のパフォーマンスは数段ヴォルテージが高い。まさに名演と言って良いだろう。ゲルダに扮したアリシア・ヴィキャンデルの演技も素晴らしい。悲しみを抑えた佇まいにはグッとくる。

 アレクサンドル・デスプラの音楽とパコ・デルガドの衣装デザインは文句なし。ダニー・コーエンのカメラによる映像は見事としか言いようが無く、いささか出来過ぎの感はあるが、各ショットは目覚ましい美しさを見せつけている。
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最近購入したCD(その32)。

2016-03-26 06:36:31 | 音楽ネタ
 最近はBlu-specCDやSHM-CD、HQCDなど、従来型CDに比べて高音質を謳った種類のディスクが出回っているが、それらは概ね素材面での違いをアピールしている。だが、マスタリングから原盤製作まですべての工程を追い込んでクォリテイの向上を狙ったCDが以前から存在していた。それが日本ビクターが開発したXRCDである。これはSACDのような特殊規格ではないので、通常のCDプレーヤーでも再生可能だ。

 今回紹介するのは、ジャズ・ヴォーカルを中心にした楽曲のコンピレーションをXRCDとして仕上げたBEST AUDIOPHILE VOICESのシリーズ第三巻である。収録されているのはジャネット・サイデルやレベッカ・ピジョン、藤田恵美などのシンガーによる有名曲のカバーで、どれも親しみやすく誰でも楽しめる内容である。



 特に音質の良いマスターテープを選んでXRCD仕様で提供しているためか、音はかなり良い。音像の粒立ちや清涼な音場にその特質があらわれていると思う。内容がオムニバスであるため録音状態は楽曲ごとに違うのだが、通して聴いても統一感が失われることがない。選曲と曲順には細心の注意が払われているということだろう。

 XRCDはこの他にも何枚か所有しているのだが、どれも音質・内容は満足できるものだ。厚めの紙ジャケットも高級感があって良い。しかし、XRCDは高価だ。一枚が4千円近く、気軽に手を出せるものではない。とはいえ、従来型CDをブラッシュアップすることによってここまでサウンドを練り上げられることを知るだけでも、手にする意義はあると思う。

 アン・ヴォーグやTLCなど、女性ヴォーカルによるソウル・グループは以前から多数存在していたが、2005年のデスティニーズ・チャイルドの活動終了により一段落した感があった。しかし、ここにきて久々に大物の風格を漂わせる新人がデビューした。それが女性ヴォーカル3人組のキングである。



 2011年にデジタルのみでリリースされた楽曲が業界筋で大評判になり、ケンドリック・ラマーやロバート・グラスパーのプロジェクトに参加。プリンスの前座をつとめたりエリカ・バドゥから賛辞を送られたりと、その実力は早くから知れ渡り、今回自らプロデュースも手掛けたデビュー・アルバム「ウィー・アー・キング」を満を持してリリースした。

 とにかく、各楽曲のレベルが恐ろしく高い。キャッチーなフレーズを抑えた浮遊的なグルーヴが全編にわたって展開されるが、メロディ・ラインやアレンジは細部に至るまで考え抜かれている。EDMの要素は取り入れられているものの、決して金属的にはならず温度感を伴ったサウンド世界を現出。精緻なハーモニーはリスナーを包み込むように迫ってくる。

 また、録音が上質であるのも特筆して良いだろう。彼女たちはヴォーカルだけではなく楽器演奏も達者だというから、ライヴでも盛り上がるかもしれない。最先端のソウルミュージックをチェックする意味でも、聴き逃せないアルバムだと思う。



 数多く存在するエレクトロポップ・バンドの中で、最近面白いと思ったものにスコットランドはグラスゴー出身の3人組チャーチズ(CHVRCHES)が挙げられる。昨年(2015年)にリリースされたセカンド・アルバムの「エブリ・オープン・アイ」は各ナンバーの仕上がりに差がありすぎた前作に比べ、アルバムとしてのまとまりが出てきていると思う。

 曲調はレトロだが、メロディ・ラインがポップで親しみやすく、かつクールで陰影がある。サウンド・デザインは精密で、全体的に厚みがある。たぶん日本のテクノ・バンドなんかよりも“音数”は多いだろう。そもそもオーソドックスなロックをやっていたメンバーが集まっているせいか、軽佻浮薄な展開にならないのが良い。

 そして何といってもこのグループの“売り物”は、紅一点ローレン・メイベリーのヴォーカルであろう。透き通るような声質で、実にキュートだ。ちなみに、彼女のルックスはアイドル並に可愛い(笑)。あとの2人は見るからにオッサンであるが、このギャップも面白い。

 録音はそれほど上質ではないが、昨今のJ-POPよりは数段聴きやすい。テクノ系や女性ヴォーカルが好きなリスナーならば、手に取って損の無いアルバムだと言える。
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「家族はつらいよ」

2016-03-25 06:30:46 | 映画の感想(か行)

 面白い。山田洋次監督が「男はつらいよ」シリーズ以来久々に手がける喜劇だが、乗りまくる演出で劇場内は何度も哄笑に包まれた。もちろん笑いだけではなくペーソスも適度に織り込まれており、鑑賞後の満足感は大きい。こういう幅広い層に受け入れられそうなコメディは昨今の日本映画でも珍しく、その意味でも存在感は屹立している。

 東京近郊(ロケ地は川崎市宮前区)に暮らす平田周造は、定年後は好きなゴルフと飲み屋通いに明け暮れ、悠々自適の生活を送っていた。ある夜、いつものようになじみの小料理屋から帰宅した彼は、その日が妻・富子の誕生日だったことに気づく。そんなことも忘れていた周造だったが、たまにはプレゼントでもしてやろうかと妻の希望を聞いてみると、彼女が持ち出してきたのは何と離婚届であった。プレゼント代わりに署名捺印をして欲しいと言うのだ。

 平田家は三世代同居であり、長男夫婦と孫二人、そして未だ独身の次男が一緒に暮らしているが、当然のことながら彼らはショックを受ける。別居している長女の夫は“義父さんの浮気が原因だ”と思い込み、私立探偵に調査を依頼するものの、騒ぎは大きくなるばかり。そんな中、次男が婚約者を家まで連れてくるが、ちょうどその時は離婚をめぐる家族会議が開かれる算段になっていた。すったもんだの末、ようやく富子は周造と別れたい理由を口にするのだった。

 思わぬトラブルが勃発して揺れに揺れる平田家だが、実は一番理想的な家庭であることが強調されている。祖父母がいて孫がいて、皆好き勝手に自己主張して、かなりうるさいけど賑やかで楽しい。劇中で小津安二郎の「東京物語」が挿入されるが、小津が描き続けた家族像とは正反対の、理想的な家族の姿が何の衒いも無く提示される。

 よく見ると、主人公達以外の家族はそんなに幸せには見えない。特に次男の恋人の家庭は“何となく不協和音を奏でて、何となくそれを受け入れた”というパターンである。実際にはそんなケースの方が多いのだろう。だが、そのことが平田家の特異性を浮かび上がらせることには決してならない。どんな家族にも、平田家のような有り様が現出するという可能性を示すという、作者のポジティヴな姿勢が感じられ、実に好ましい。

 周造役の橋爪功をはじめ、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、妻夫木聡といった「東京家族」と同様のキャストが顔を揃えるが、皆持ち味がよく出た好演を見せる。小林稔侍や風吹ジュンなどの脇の面子も的確。そして小津の「東京物語」の原節子と同じ役名で登場する蒼井優は主人公一家にとってのアウトサイダー的な存在だが、「東京物語」とは異なる立ち位置であるのは興味深い。もちろん、蒼井の演技も万全だ。

 ギャグの振り方は堂に入ったもので、ひとつひとつは使い古されたネタなのだが、絶妙のタイミングで繰り出してくるので退屈するヒマがない。久石譲の軽妙な音楽や、横尾忠則によるタイトルバックも花を添える。間違いなく本年度屈指の日本映画だ。
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「森の中の淑女たち」

2016-03-21 06:35:07 | 映画の感想(ま行)
 (原題:THE COMPANY OF STRANGERS )90年カナダ作品。監督のシンシア・スコットはこれがデビュー作だったという話だが、これ以降劇場用映画を撮ったという話は聞かない。元々ドキュメンタリーの作家であるから、たぶんその方面の仕事はやっているのだと思う。この映画はキャストも同様に馴染みのない名前ばかりが並ぶ。しかし、作品自体はかなりのハイレベルで、これは思いがけない才能だと感じた。

 ケベック州のモントレンブラントの森で一台のバスがエンストを起こして立ち往生する。乗客は高齢の女性ばかり7人で、黒人の女運転手ミシェルはエンジンの知識が皆無だ。最高齢のコンスタンスは少女時代にこの森にあるコテージで過ごした思い出があり、彼女たちはそのコテージに向かうが、今では廃墟になっていた。仕方なくその廃屋で共同生活を始めることになった8人だが、次第に彼女たちはそれぞれの特技とキャラクターを生かして役割分担をするようになる。



 別にドラマティックな出来事があるわけではない。森の中の廃屋での登場人物たちの暮しをカメラは静かに追うだけである。彼女たちの会話、クセや表情から一人一人が歩んで来た人生を浮き彫りにする。最初は見ず知らずだった彼女たちが、次第に連帯感を深め、年をとったことに対する絶望・諦めなどから解放されていく過程がしみじみと感動的に、しかもユーモラスに綴られる。老人を主人公にした映画ではマーク・ライデル監督の「黄昏」(82年)に匹敵する秀作だと思う。

 演技していることを全く感じさせない自然体の出演者たちがいい。会話のシーンがいつの間にか登場人物に対するインタビューのような形になり、若い頃の写真がカットバックで挿入される。平凡な老人に見えても決してその人生は平凡ではない。いや、ドラマティックではない人生なんて本当は存在しないのではないか、という作者の主張が伝わってくる。全体的に実験的とも言える手法を駆使しながら、肌触りは暖かく深い余韻を残す映画である。

 目にしみるカナダの自然の風景の美しさ。シューベルトやモーツァルトなどの室内楽を中心とした音楽もセンスがいい。
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「マネー・ショート 華麗なる大逆転」

2016-03-20 06:33:23 | 映画の感想(ま行)

 (原題:The Big Short )こいつは面白い。かなり硬派な題材を扱っているにも関わらず、観ていてワクワクするようなエンタテインメント性を横溢させ、長めの上映時間も全く苦にならず、最後までスクリーンに対峙できる。今年度アメリカ映画を代表する快作だと思う。

 2005年、変わり者で知られる金融トレーダーのマイケルは、不動産抵当証券の値動きを調べている中で、サブプライム・ローンが数年以内にデフォルトに陥る危険性があることに気付く。そのことを投資家や銀行に告げるが、誰も相手にしない。やがて彼は、信用リスクの移転を目的とするデリバティブ取引の一種であるCDSに目を付け、サブプライム・ローンが破綻した際に多額の保険金が下りる契約を投資銀行と独自に結ぶ。そんなマイケルのやり方を見たウォール街の若き銀行家ジャレドは、低所得者相手に見境なく住宅ローンを組ませている大手銀行を苦々しく思っていたヘッジファンド・マネージャーのマークに、CDSを大量に入手しておくべきだと勧める。

 一方、住宅関連の好景気に乗じてウォール街で一儲けしようとする若き投資家ジェイミーとチャーリーは、今は一線を退いた伝説の銀行家と呼ばれるベンにサポートを依頼する。ベンは彼らをフォローすることを承諾するが、同時に自らの情報網により住宅ブームがバブルに過ぎないことを察知する。そして2008年、遂に住宅ローンの破綻に端を発するマーケットの大混乱が起こる。マイケル・ルイスによるノンフィクションの映画化だ。

 リーマンショックの前にこの一大事を予想していた男たちを描いた映画だが、当然のことながら最初から最後まで経済ネタと金融用語のオンパレードである。登場人物たちの言動もエコノミストとしての業務メソッドに準拠しており、一般ピープルのそれとは掛け離れている。ならば堅苦しい映画なのかというと、全然そうではない。例えて言えば、これはジェットコースター式の娯楽編だ。

 監督のアダム・マッケイは、話が晦渋になることを徹底的に駆逐するため、全編をギャグとハッタリめいた大芝居で埋め尽くした。主要キャラクターが突然観客の方を向いて独白するのをはじめ、難しい用語を“有り得ない方法”で説明してくれたりと、まさにやりたい放題。それらが速射砲のように矢継ぎ早に繰り出されるのだから、退屈するヒマがない。また、その狂騒状態こそがバブルの本質であると喝破しているあたりも痛快だ。

 特に興味深かったのが、ナイーヴな庶民が業者の口車に乗って理不尽な住宅ローンを組まされるくだりと、格付会社が何の迷いも無く不良債権に高ランクの評価を与える場面だ。冒頭に“やっかいなのは何も知らないことではない。実際は知らないのに知っていると思いこむことだ”というマーク・トウェインの言葉が出てくるが、これはいい加減な仕事をしている金融業界の連中に対する批判であると同時に、表層的なトレンドに誤魔化されて危ない橋を渡ってしまう一般ピープルへの警鐘と見るべきだろう。

 主人公達に扮するクリスチャン・ベール、ライアン・ゴズリング、スティーブ・カレルは好調。ベン役のブラッド・ピットの“カッコ付けた役どころ”だけは愉快になれないが(笑)、脇の面子も含めて万全なキャストと言える。思わぬ形で登場するゲストの顔ぶれも面白い。

 なお、本作に対する低い評価が少なくないことは承知している。それらはおおむね“経済ネタに疎いから何が何だか分からない”というものだろう。まあ、どういう感想を持とうが個人の自由なのだが、今どきここに出てくる経済用語が皆目分からず全然聞いたことがないというのは、社会人として恥ずべきことだと思う。もちろん私もすべて理解したとは言い難いが(笑)、鑑賞後の“復習”によって問題のアウトラインぐらいは何とか掴んだつもりだ。

 そして、この映画ではリーマン・ブラザーズをはじめゴールドマン・サックスやメリルリンチ、スタンダード&プアーズなど、各法人が実名で出くるのには感心する。まあ、実録映画なので考えてみればそれも当たり前なのだが、もしも日本で同様のネタを映画で扱うことになれば、そうもいかなくなることは想像に難くない。このあたりはハリウッドに一日の長があると言えよう。
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「第2章」

2016-03-19 06:32:33 | 映画の感想(た行)
 (原題:Chapter Two )79年作品。ブロードウェイを代表する喜劇作家であるニール・サイモンの脚本の映画化作品では、やっぱり「グッバイガール」(77年)が一番出来が良いと思う。本作はそれから2年後に作られたが、クォリティは「グッバイガール」より少し落ちる。しかしながら、これはこれで悪くない仕上がりだし、サイモンの自伝的要素も興味深い。観て損は無いシャシンである。

 ニューヨークに住む売れない作家のジョージは妻を亡くし、その悲しみを忘れるため旅行に出かけるが、かえって妻のことを思い出してしまい憔悴して戻ってくる。一方、あまり仕事が無い女優のジェニーはダンナと別れたばかりで、見かけの明るさとは裏腹に落ち込んでいた。ジョージは弟のレオの勧めで、ジェニーは友人のフェイからの進言で、それぞれブラインド・デートを繰り返すが、ロクな相手にめぐり会えない。



 ある日、レオの手違いからジョージはジェニーと5分間デートをやるハメになる。ところが会った途端に互いを気に入り、本格的なデートに発展。やがて結婚までこぎつけるが、西インド諸島へのハネムーンに出発した2人を辛い出来事が待っていた。果たして困難を乗り越えて彼らは“人生の第2章”に踏み込むことが出来るのか・・・・といった話だ。

 互いに連れ合いと別れた大人の男女のアバンチュールを描く本作は、題材としてはありふれている。少なくとも男の側をエキセントリックな舞台役者に設定した「グッバイガール」に比べると、インパクトに欠けるのは否めない。加えて、監督のロバート・ムーアは職人ではあるが、アーサー・ヒラーやハーバート・ロスといった歴代のサイモン作品の映画化でメガホンを取った面々と比較するのはおこがましい。結果として、分かりやすいがメリハリには欠けるやや平板な出来になった。

 ただそれでも個々のシチュエーションやセリフの面白さに“サイモン印”は見て取れるし、終盤近くのジェニーがジョージに心境を打ち明けるシーンにはぐっとくる。主演のジェームズ・カーンとマーシャ・メイスンも好調だ。しかもメイスンはサイモンと結婚していたことがあり、そのあたりの楽屋落ち的な興趣もある。

 脇を固めるジョセフ・ボローニャとヴァレリー・ハーパーはコメディ・リリーフとして良い仕事をしているし、マーヴィン・ハムリッシュの音楽も冴えている。この映画の主人公達だけではなく、誰の人生にも第2章はもちろん、第3章や第4章だってある。一度や二度つまずいても、まだまだチャンスはあると思う。悲観せずに、ポジティヴに行きたいものだ。
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「おとうと」

2016-03-18 06:27:35 | 映画の感想(あ行)
 昭和35年大映作品。好き嫌いは別にして、この時代に撮られた映画としてはストイックな美意識が横溢していると思った。決して万全ではない家族の有り様を取り上げ、終わり近くには愁嘆場もあり、いくらでもメロドラマ方向に振ることが出来る題材ながら、作者の強靱な意志がそれを許さない。確かに見応えはある。

 時代は大正期。東京向島に住むげんと碧郎は共に学生で、三つ違いの姉弟である。父親は作家だが、母親は後妻であり、しかもリューマチを患っていて手足がきかず、ほとんど寝たきりだ。碧郎の素行はよろしくなく、万引きで補導されたのを皮切りに、不良仲間とつるんで危ない橋ばかり渡っている。ついには転校せざるを得なくなるが、新しい学校でもヤンチャぶりは直らない。一時期は乗馬に凝りだし、土手を疾走中に転倒して馬の足を折ってしまった。高い弁償金を払わねばならなくなった父親の態度は硬化し、家庭は暗くなるばかり。



 やがて、17歳になった碧郎を不幸が襲う。その頃は不治の病とされていた結核に罹患したのだ。げんは遠くない将来に訪れる弟との別れを覚悟するのであった。幸田文による同名小説の映画化である。

 まず強烈に印象付けられるのは、この作品で世界で初めて用いられた“銀残し”と呼ばれる現像手法である。カメラマンの宮川一夫が考案したもので、全体的な画調をモノクロとセピア色の中間のようなカラーに統一し、その中で特定の色彩を意図的に浮かび上がらせることによって、映像の求心力を高めようというメソッドだ。これが単に奇をてらったものではなく、象徴的に扱われる事物に限定してカラーリングを際立たせることにより、見事に“映像に語らせる”ことに成功している。

 登場人物の立ち振る舞いやセリフ回しは、かなり硬い。しかしそれは決してキャストの演技力不足によるものではなく、語り口がウェットに流れることを拒絶している作者のスタンスを表明している。しかもそれによって、スクエアーなタッチの裏に隠された各キャラクターの懊悩が浮き彫りになっていく。

 まるで親子や恋人同士のようなげんと碧郎との関係、身体が自由にならない境遇によって“神”に縋ってしまう母、凡夫に過ぎない自分の現状を受け入れざるを得ない父、それらの屈託が画面からヒリヒリと伝わってくる。さらにはラストの突き放したような処理は、まさに身を切られるようだ。

 市川崑の演出はキレがあって、なおかつパワフルだ。スクリーンの隅々にまで緊張感を行き渡らせている。げん役の岸惠子は女学生を演じるには年を取りすぎているが、後半に見せる着物姿などでは美しさが際立つ。碧郎に扮する川口浩は、ささくれ立った若者の心情を上手く表現して絶品だ。

 父親役の森雅之も渋くて良いのだが、母の田中絹代が“鬱陶しい中年女”を巧妙に演じて、まさに圧巻。浜村純や岸田今日子、仲谷昇、江波杏子といった脇の面子も、かなり濃い。また芥川也寸志の音楽が、劇中の不安感を煽るような不協和音を洗練された形で打ち出し、抜群の効果を上げている。
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「真夜中の虹」

2016-03-14 06:26:21 | 映画の感想(ま行)
 (原題:ARIEL )88年フィンランド作品。アキ・カウリスマキ監督のストイックな作風が如実に出た映画だ。もっとも近年は少しはテイストを変えてきている同監督だが、その原点を確認する上で要チェックの映画だし、何より観ていて面白い。

 住所不定で無職の中年男カスリネンに唯一残された財産は、亡き父が遺したキャデラックだけだった。その車に乗って彼はヘルシンキへ向かうが、途中のドライヴ・インで有り金を奪われてしまう。窮状を救ってくれたのは婦人警官のイルメリで、カスリネンは彼女とその息子リキと仲良くなる。それでも生活に困っていることには変わりなく、キャデラックまで売ってしまうが、偶然金を奪った犯人を見つけて揉み合いになる。だが逆に警官に逮捕されて収監される。それでもめげない彼は、同室のミッコネンと協力して脱獄。一度は手放した車を取り戻し、イルメリとリキを同乗させて南を目指す。



 とにかく、登場人物全員が無愛想で無口であるのには驚く。彼らの生い立ちも現在の生活も、決して恵まれてはおらず、もちろん笑顔なんかは見せない。皆、北欧の厳しい寒さの中にあって、口を開くのも億劫だと言わんばかりだ。

 しかし、これは決して暗い映画ではないのである。人と人との触れ合い、諦念と希望が入り交じった複雑な心情が横溢し、かなり饒舌なドラマ運びだと見ることも出来る。ただ、向こう受けを狙ったハリウッド大作の“明るさ”とは表現が対極にあるだけだ。74分という短い上映時間の中で、必要最小限のモチーフだけを練り上げられた形で提示する。しかも、ロードムービーと犯罪ドラマという娯楽映画の定番も押さえている。これはまさしく“プロの仕事”であろう。

 主演のトゥロ・パヤラはカウリスマキ映画にふさわしい強面で、不器用な主人公像を上手く表現していた。イルメリに扮するスサンナ・ハーヴィストも、まるで色気も愛想も無いが、何とも言えない人の良さがにじみ出ている妙演だ。原題の“アリエル”とは、主人公達が終盤に乗り込む船の名前だ。フィンランドを離れて新天地を目指す彼らの未来に幸多かれと願わずにはいられない。
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