元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「女は二度決断する」

2018-05-28 06:31:31 | 映画の感想(あ行)
 (原題:AUS DEM NICHTS)第90回アカデミー賞の外国語映画賞ドイツ代表作品ということだが、どうにもパッとしない内容。とにかく、主人公にまったく感情移入出来ないことが致命的で、鑑賞中はシラけた空気だけが周囲に充満する。また物語の背景が説明不十分であり、これでは高得点を付けるわけにはいかない。

 ハンブルクに住むカティヤは、麻薬売買で服役していたトルコからの移民であるヌーリと、彼の出所後に結婚。やがて息子が生まれて平穏な日々を送っていた。しかしある日、夫が働く事務所の前で爆弾が爆発し、ヌーリと愛息ロッコが死亡する。警察の捜査の結果、移民を狙ったテロであることが判明。容疑者は早々に逮捕され、裁判は有罪確実かと思われていた。しかし、わずかな証拠の不備により、被告は無罪になってしまう。悲しみに暮れるカティヤは、憎悪と絶望のあまり、ある重大な決断をする。



 確かに、カティヤの身に降りかかる災難は理不尽極まりない。しかし、全面的に同情出来るかというと、断じてそうではない。まず、いくら足を洗っているとはいえ、夫ヌーリは前科者だ。もちろん、そんな言い方は差別であるとの誹りを受けるだろうが、主人公の配偶者が一般人よりも“狙われやすい”対象であるのは事実だ。

 さらに極めつけは、彼女は麻薬常習者であること。しかも、あろうことか公判期間中に担当弁護士から麻薬を分けてもらっている。ドイツではどうだか知らないが、日本ならば即逮捕だ。身体中に意味ありげなタトゥーを彫り、なぜか場違いな理系のスキルを持っていて爆弾を簡単に製造したりする。そんな怪しげな女が悲劇のヒロインとしてスクリーンの真ん中に居座っても、観ているこちらは困惑するしかない。



 裁判そのものも噴飯物で、誰がどう見ても被告を有罪に持ち込む証拠は揃っている。百歩譲って第一審が不本意な結果になっても、控訴審では容易にひっくり返せる案件だろう。そのことを無視するかのように勝手な“決断”に突き進むヒロインの姿勢には、違和感しか覚えない。

 テロを行ったのはネオナチのグループであることが示されるが、見た目はカタギの者達がどうして狂信的な思想にハマり込んでいるのか、その具体的な理由を示す描写は無い。ひょっとしたらドイツでは説明不要な自明の理であるのかもしれないが、ヨソの国の人間としては“関係の無い”話だと片付けられよう。

 ファティ・アキンの演出はメリハリに欠け、ドラマティックな話であるにも関わらず盛り上がらない。主演のダイアン・クルーガーは熱演だが、前述のようにキャラクターの設定に難があるので、諸手を挙げての高評価は差し控える。
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「狩人」

2018-05-27 06:31:16 | 映画の感想(か行)
 (原題:I KYNIGHI )77年作品。監督のテオ・アンゲロプロスが本作の前に撮った「旅芸人の記録」(75年)に続き、1955年以降のギリシアの激動をの歴史を綴った作品だが、前作ほどのインパクトはない。もっとも、映画史に残る傑作である「旅芸人の記録」と比べるからそう感じるのであって、これはこれで非常に野心的で貴重な映画であると思う。

 76年の大晦日、雪に覆われたイピロス山中で、狩りに出かけた6人の男たちは、四半世紀も前の内乱で死んだゲリラ兵士の死体を発見する。今死んだばかりのような温かい血が流れる死体を抱え、湖畔のホテル“栄光館”に戻って思案する狩人たちは、これまでの人生を回想する。

 彼らは元政治家や軍人であった。米軍駐留の最中に、ゲリラを告発することによってホテルのオーナーになった者、58年の国政選挙で左翼が投票できぬように裏工作を画策していた選挙管理委員長、63年に起こった右翼のテロ事件で左翼から寝返って同志を密告した男など、いずれも“叩けば埃の出る身体”である。

 アンゲロプロスは得意のワンシーン・ワンカット技法、そして時間と空間を縦横無尽にランダムアクセスさせることにより、彼らが荷担した負の歴史を鋭く切り取って行く。さらには幻想的なシーンをも取り入れ、個々の出来事の残虐性・衝撃性をより一層強調する。そしてラストのペシミズムは観る者を慄然とさせるだろう。

 しかしながら、「旅芸人の記録」が主人公たちが単に歴史の狂言回しとしての役割だけではなく、ドラマの中心に位置していたのに対し、この映画の登場人物は歴史の証人とはいえ、過去を追想している主体に過ぎない。また、パンフレットなどで予備知識を仕入れないと映画に入って行けないのは、ちょっと辛いのも事実。

 見事にバランスのとれた構図。色彩感覚の鋭さ。効果的な音楽(ルキアノス・キライドニスが担当)。3時間近い上映時間であるが、少しも飽きさせない作者の力量には感心する。ヴァンゲリス・カザンやベティ・ヴァラッシなどのキャストは全然馴染みが無いが、アンゲロプロスの映画は知名度のある俳優を起用すると求心力が低下する傾向があるので、これでいいのかもしれない。
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「君の名前で僕を呼んで」

2018-05-26 06:33:33 | 映画の感想(か行)

 (原題:CALL ME BY YOUR NAME)退屈極まりない映画だ。ここにあるのは、すべて上っ面だけ。何もアピールするものが無いし、そもそも何も描けていない。斯様につまらないシャシンがオスカー(脚色賞)を獲得するとは、今年度(第90回)のアカデミー賞のレベルの低さが分かろうというものだ。

 83年の夏。17歳のエリオは、例年のように両親と北イタリアにある別荘に滞在している。父パールマンは、アメリカの大学に勤務するギリシア・ローマ美術史の教授で、母のアネラは翻訳家。エリオは申し分ない環境の元で、音楽活動や読書に打ち込んでいた。彼の前に、24歳の大学院生オリヴァーが現れる。オリヴァーはパールマンの助手としてアメリカからやってきたのだ。

 エリオの隣の部屋に泊まることになった彼は、ルックスも知性も申し分ない男だった。ある日友人達とバレーボールに興じていたエリオの肩に、オリヴァーの手が触れる。それをきっかけにして、2人は互いを意識するようになる。やがて彼らは懇ろな仲になるが、夏の終わりと共に、オリヴァーが去る日が近付いていた。

 最大の欠点は、エリオとオリヴァーがどうして同性愛関係になったのか、まったく背景が示されていないことだ。2人とも、以前から同性に興味があったようには全く見えない。それが肩に触ったの何だのという些細な事から、いつの間にか深い間柄になってゆくという筋書きには、説得力の欠片も無い。

 ただ何となく、フィーリング(?)でそうなったという図式が漫然と展開されるだけならば、当然のことながらそこにあるはずの激しいパッションや懊悩などはスッ飛ばされる。かと思えば、エリオがオリヴァーのパンツを頭から被ったり、果物相手にマスターベーションを“何気なく”敢行したりといった、単なる思いつきで笑いもインパクトも無いモチーフが並べられ、まさに脱力するしかない。

 監督ルカ・グァダニーノの名前は全く馴染みが無いが、シナリオをジェームズ・アイヴォリィが担当していることには驚いた。アイヴォリィといえば「モーリス」(87年)の監督だ。同じくゲイを扱ったあの映画にあった容赦ないタッチが影を潜め、微温的な“くすぐり”に終始する本作に接するに及び、やっぱり老いは隠せないものだと感じ入った。

 ギリシア・ローマ美術が重要な素材になることはなく、もちろん舞台が北イタリアである必然性も見当たらず、薄っぺらな描写が延々と続いた後、取って付けたような“結末”が恥ずかしげも無く横たえられた幕切れを観るに及び、思わず“カネ返せ!”と叫びたくなった私だ(笑)。主演のアーミー・ハマーとティモシー・シャラメは健闘していたとは思うが、作品の内容が斯くの如しなので、評価するわけにはいかない。
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「黄泉がえり」

2018-05-25 06:20:18 | 映画の感想(や行)
 2003年東宝作品。熊本の阿蘇地方で突如死んだ者がよみがえり始めた。しかも当時の姿のまま数百人規模で。厚生労働省の調査員である主人公は真相を解明するために故郷・阿蘇に戻ってくる。熊本在住のSF作家・梶尾真治の同名小説(私は未読)を映画化したファンタジー。監督は塩田明彦。

 「どこまでもいこう」(99年)「害虫」(2002年)などで知られる塩田監督は子供やティーンエイジャーの扱い方が素晴らしくうまい。この映画でも老母の前に現れる幼い頃死んだ息子や、20代の男の前に現れる「年下の兄」などにまつわるエピソードは情感豊かで心に滲み入るものがあるし、自殺した男子中学生とガールフレンドとのくだりなんかは泣けてくる。



 ところが肝心の主役二人がまったくダメ。草なぎ剛は官僚どころか勤め人にも見えないし、もとより大根の竹内結子の演技など全く期待出来ない。たぶんそれまでマイナー系作品しか手掛けていなかった塩田監督には、こういう(おそらく監督自身が望んだキャスティングではなく、しかもあまり上手くない)当時の若手人気タレントの扱い方に慣れていないのだろう。

 意図的なカメラの長廻し等、何とか監督のペースに合わせようと努力はしてみるものの、最後まで精彩を欠いたままだ。クライマックスは竹内の死んだ元恋人をよみがえらせるのどうのという話になるが、それまでの二人の扱い方がイマイチ決まらないためほとんど盛り上がらない。

 しかも、舞台となる野外コンサート会場---柴咲コウ(本作では歌手としてのRUI名義で出演)の歌が延々と必要以上に流れる---の描き方がテレビドラマ並みにショボく、観ていて面倒くさくなってしまう。さらに悪いことに、オチが読める(暗然)。

 真相を明らかにしない不可思議なファンタジーとしては水準はクリアしているが、同じようなネタの大林宣彦監督「異人たちとの夏」(88年)の後塵を拝しているのは確かであろう。ただ、公開当時はヒットを記録し、3か月以上のロングランを達成した。一説にはSF色の強い原作を大幅に改変し、メロドラマに仕立てたおかげと言われている。
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「レディ・プレイヤー1」

2018-05-21 06:25:37 | 映画の感想(ら行)

 (原題:READY PLAYER ONE)面白い。ただ、観客を選ぶと思う。ネット環境に幼少の頃から浸っている若年層や、こういう世界に最初から縁の無い高年齢層は観てもピンと来ない可能性があるが、40歳代から60歳代半ばまでの者ならば楽しめるだろう。観る者の琴線に触れるような大道具・小道具が目白押しで、しかもそれらが絶妙のタイミングで出てくるというのは、好きな者にとってはまさに堪えられないのだ。

 2045年。環境は悪化して異常気象が続き、対して政治は無策で、それによって経済は荒廃して貧富の差が拡大。ほとんどの者がスラム街で暮らさざるを得ない状況に陥っていた。辛い現実から逃れるように、人々はバーチャルネットワークシステム“オアシス”の中に入り浸り。そんな中、“オアシス”の開発者であるジェームズ・ハリデーがこの世を去る。彼は“遺言”として、仮想世界内に隠された3つの謎を解き明かした者にすべての財産を譲り渡すというメッセージを残していた。

 たちまち激しい争奪戦が勃発。両親を亡くした17歳のウェイドも参戦するが、レースを支配して“オアシス”を我が手に収めようとする巨大組織も暗躍を始めていた。ウェイドは女性プレーヤーのアルテミスや仲間たちと協力し、その陰謀を阻止するために立ち上がる。

 有り体に言えば、本作のテーマは“現実こそがリアルだ(ヴァーチャルはリアルではない)”ということだろう。それは当たり前のことなのだが、昨今では“ヴァーチャルにも現実とは違う価値のある何かがある”といった風潮、およびその認識に導こうとする“動き”があると感じる。もちろん、それは欺瞞なのだ。現実以上にリアルなもの、あるいは現実と比肩しうる価値観なんかが、ヴァーチャルの中にあるはずがない。

 監督スティーヴン・スピルバーグが属している世代(および中年層)では、こういうネタを描く際は斯様な真っ当なスキームを提示する以外の選択肢は無い。あとは“語り口”の問題だ。さすがに海千山千のスピルバーグは、ここでも観客を最後まで引っ張る力技を発揮している。

 ヴァーチャル世界と現実にそれぞれ見せ場を用意して同時進行することによって、作劇面での相乗効果を高めることに成功。さらには“オアシス”の中に現れる、懐かしくも嬉しいコンテンツの洪水には、すっかり嬉しくなる。いちいち挙げるとキリがないので詳細は割愛するが、それでも“ガンダムVSメカゴジラ”のくだりには手を叩きたくなった。

 主演のタイ・シェリダンをはじめオリヴィア・クック、サイモン・ペッグ、森崎ウィンといった若手の面々には馴染みは無いが、皆けっこう良い演技をしている。ベン・メンデルソーンやサイモン・ペグ、マーク・ライランスといったベテランもしっかりと脇を固めている。ヤヌス・カミンスキーの撮影はいつも通り手堅い。音楽はいつものジョン・ウィリアムズではなく、アラン・シルヴェストリが起用されているのが珍しい。やはりデロリアンが登場するので「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のスタッフに声を掛けたのかもしれない。
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「ゴスフォード・パーク」

2018-05-20 06:15:00 | 映画の感想(か行)
 (原題:GOSFORD PARK)2001年作品。アカデミー脚本賞を受賞したロバート・アルトマン監督作で、1930年代のイギリス上流階級人士の生態を、使用人たちの視点で描いた集団劇である。結論から言えば、アルトマン作品としては演出のテンポもラストのオチも弱く、特筆するほどの出来ではない。少なくとも「ナッシュビル」(75年)や「ザ・プレイヤー」(92年)あたりと比べれば見劣りがする。

 その日、郊外に建つカントリー・ハウス“ゴスフォード・パーク”には、週末のハンティング・パーティが開かれようとしており、次々と人が集まってきた。ホスト役は屋敷の主であるマッコードル卿とシルヴィア夫人。お客は俳優や映画プロデューサー、伯爵夫人ら貴族の面々など、かなり物々しい。バックヤードでは召使たちが入り乱れ、目の回るような活況を呈していた。



 ところがその晩、殺人事件が発生。被害者はマッコードル卿で、容疑者は、その時パークにいた人間すべてだった。なぜなら卿は、ほとんどの人間と関わりを持っていたのだった。経済的・血縁的な動機が誰にでもあり、警察の捜査は難航する。

 米国中西部出身のアルトマンがどうしてこういうネタを扱ったのかよく分からないが、アメリカで評価されたのは、アカデミー会員の伝統的な“イギリス・コンプレックス”のためだと邪推する。舞台は英国で、マギー・スミス、クリスティン・スコット=トーマス、ヘレン・ミレン、エミリー・ワトソン、ジェームズ・ウィルビィ、アラン・ベイツといった豪華なキャストのほとんどがイギリス人。時代に翻弄される上流階級の実相を描き、加えて英国貴族の優雅な所作とそれに対する皮肉を垢抜けたタッチで追っているものだから、基本的に田舎者のアメリカ人はそれだけで感服してしまうのだろう(笑)。

 個人的にあまり感想はないが、ジェニー・ビーヴァンによる衣装デザインだけは本当に見事だった。特に、登場人物たちが狩りに出かける際のツイードのアンサンブルは素晴らしい。鑑賞したときは思わず茶のツイードの上着を購入したくなった私である。パトリック・ドイルによる音楽も申し分ない。
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「ザ・スクエア 思いやりの聖域」

2018-05-19 06:23:07 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE SQUARE)つまらない。作品の狙いは分かる。しかし、仕掛けと段取りがあまりにも稚拙。典型的な“自己満足映画”である。一応、第70回カンヌ国際映画祭の大賞受賞作なのだが、有名アワードを獲得した映画が上質とは限らないというのが“定説”であることを、不本意ながら今回も再確認することになった。

 ストックホルムにある現代アート美術館の学芸員であるクリスティアンは、順調にキャリアを重ねて各界有名人の知り合いも多い。次の展示会の企画は“ザ・スクエア”と銘打ったもので、地面に描かれた正方形によって平等の権利を謳うという参加型アートだ。さっそく彼は美術館の宣伝を担当する広告代理店と打ち合わせるが、代理店側はクリスティアンには内緒で突飛なプロモーションを企んでいた。

 ある日、クリスティアンは街角で携帯電話と財布を盗まれてしまう。GPS機能を使って犯人の住むアパートを突き止めるが、相手を特定は出来ない。そこで全戸に脅迫めいたビラを配って犯人を炙り出すという作戦に打って出る。数日後に無事に盗まれた物は手元に戻るのだが、不用意に蒔いたビラのせいで住民とのトラブルを抱え込んでしまう。一方、広告代理店が行った無謀なPRが原因で美術館のホームページが“炎上”し、クリスティアンは謝罪会見を開くことを余儀なくされる。

 要するに、鼻持ちならないインテリや、いい加減なギョーカイ関係者や、そしてコミュニケーション不全に陥っている世間一般の風潮などを、ブラックユーモア仕立てで笑い飛ばそうという魂胆である。だが、このやり方はよっぽど上手くやらないと、結局は笑い飛ばされる対象が作者自身になってしまうという“ブーメラン効果”がはたらいてしまうのだが、本作は見事にその轍を踏んでいるあたりが痛々しい。

 クリスティアン自身の不遜でスノッブな態度をはじめ、チャラチャラした広告屋や、やたらうるさい彼の二人の娘、クリスティアンに病的に付きまとうガキ、懇ろになるチンパンジーを飼っているワケの分からない女、慇懃無礼な各界VIPの面々など、出てくるのはどれもロクでもない奴だ。

 そして“分かる者だけ分かれば良い”という現代美術の胡散臭さも示される。全編を覆う不快な雑音と、取って付けたようなハイ・ブロウ(?)な音楽が、作者の“自信過剰だが、実は底が浅い”という軽量級ぶりを強調している。

 リューベン・オストルンドの演出は冗長で、ヤマもオチもメリハリもなく、ひたすら退屈だ。主演のクレス・バングをはじめ、エリザベス・モスやドミニク・ウェストといった顔ぶれは馴染みが無いが、見終わった後は良い印象も無い。とっとと忘れてしまいたい映画である。
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「9時から5時まで」

2018-05-18 06:19:30 | 映画の感想(英数)
 (原題:9 TO 5)80年作品。封切り当時はかなりヒットしたコメディだ。なるほど、その理由は察しが付く。大企業で働く3人のOLが、ストレスのたまる日常を吹き飛ばすべく、思い切った作戦に打って出る。しかも、ブラックユーモア仕立てでネタ自体は“ほどよく”辛辣だ。しかし、公開時点でも明朗すぎて緩いタッチが目立った本作、今見直せば随分と軽量級に映って物足りなく思うだろう。時代の流れというのは、そんなものだ。

 夫と離婚して自立するハメになったジュディは、運良くロスアンジェルスにある複合企業に就職が決まる。だが、上司の副社長フランクは横暴な人物。彼の元先輩社員のバイオレットをはじめ、部下をアゴでこき使っていた。かと思えば、彼は金髪巨乳秘書のドラリーに執着し、彼女が既婚者であるにも関わらず、何かとちょっかいを出す。果てはフランクがドラリーと浮気してモノにしたというデマを流すに及び、彼女たちは怒り心頭。ジュディとバイオレット、そしてドラリーは共同して副社長をやりこめる戦略を練る。



 確かにフランクは自己中心的な上司だが、極悪人というほどではない。対する女性3人組も、副社長からのセクハラやパワハラを受けているとはいえ、その迷惑度合いは現在のブラック会社なんかの比ではなく、コメディのネタになってしまうような誠に可愛いものだ。

 しかもヒロイン達は正社員であり、身分不安定な契約社員でもなければ、決して安月給でコキ使われているわけでもない。話の背景や前提がそのようなものである限り、いくら自分勝手な上司を懲らしめようとも、リアルでエゲツない方法は採用されずにファンタジー方面に振られるしかないのだ。それを笑って済ませられるかどうかで、本作の受け取り方は違ってくる。

 主演のジェーン・フォンダとリリー・トムリン、ドリー・パートンは好演で、何より“華”がある。副社長に扮するダブニー・コールマンも怪演だ。そして何よりパートンが歌う同名のテーマ曲が楽しい。コリン・ヒギンズの演出は無難にまとめているが、前作「ファール・プレイ」(78年)ほどの冴えは感じられない。引き続きそのフィルモグラフィを追いたかったが、彼は若くして世を去ってしまった、残念なことである。
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「ジュマンジ ウェルカム・トゥ・ジャングル」

2018-05-14 06:39:38 | 映画の感想(さ行)

 (原題:JUMANJI:WELCOME TO THE JUNGLE )95年製作のパート1に比べると、やはりヴォルテージは落ちる。しかしながら、これはこれで一応まとまった出来映えであり、最後までさほど退屈しないでスクリーンに向き合えた。あれこれ難しいことを考えずに時間を潰すにはもってこいのシャシンだ。

 96年、海岸で“ジュマンジ”と書かれた古いボードゲームを見つけ自室に持ち込んだアレックスは、一夜のうちに“ジュマンジ”がテレビゲームに変身していることに面食らう。早速ゲームを始めたアレックスだったが、そのまま行方不明になる。

 それから約10年後、高校の地下室で居残りを命じられた4人の生徒(男子学生のスペンサーとフリッジ、女生徒のマーサとベサニー)は、そこで“ジュマンジ”というテレビゲームを見つけ、面白半分に始めてしまう。すると彼らはゲームの中に吸い込まれ、危険がいっぱいのジャングルの中に放り出される。そこでは悪者ヴァン・ペルトがジャガーの石像から宝石を盗み出したため、世界滅亡の危機に瀕していた。4人は先に来ていたアレックスと協力し、宝石を石像に戻そうとする。

 前作の“ジュマンジ”はレトロな双六で、それ自体に味があったが、今回は古いとはいえテレビゲームだというのは芸がない。各キャラクターには3つのライフが与えられ、それを使い果たすと“消滅”するという設定は、まあ普通のRPGみたいで凡庸だ。出てくるクリーチャーの造型や、アクション場面の段取りにも、それほど際立った点は見当たらない。

 だが、普遍的な“若者の成長ドラマ”のルーティンを踏襲していることは評価して良いし、観ていて気持ちがいい。ゲームが開始する前の4人は、それぞれが自分勝手でイヤな奴である。ところがゲームの中では実世界とは異なる外観を押し付けられ、さらに力を合わせないと逆境を跳ね返せないという状況を強いられる。ならば互いを信頼し、切磋琢磨するしかない。またその過程が終盤のハートウォーミングな場面に繋がっていることも、実に好ましい。

 演技面ではゲームの中のキャラクターに扮したドウェイン・ジョンソンやカレン・ギランが、普段とは“かなり違う”役柄を振られているのがおかしい。そしてジャック・ブラックの“おネエ演技”には笑った。対して、若造どもが影が薄いのは仕方がない。強いて挙げれば、ベサニー役のマディソン・アイズマンが印象に残る程度(小柄だが、表情が豊かで可愛い)。

 ただし監督のジェイク・カスダンはソツなく仕事をこなしてはいるが、父親のローレンス・カスダンほどの才気は感じられない。幕切れは続編を暗示させてはいないが、本国では大ヒットしているので、パート3も無理矢理作られるのかもしれない(笑)。
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「タクシー運転手 約束は海を越えて」

2018-05-13 06:28:50 | 映画の感想(た行)

 (英題:A TAXI DRIVER )高い求心力とメッセージ性、そして十分な娯楽要素をも兼ね備えた、見応えのある佳編である。また東アジアの激動の現代史を振り返る意味でも、存在価値は大いにある。韓国で1200万人を動員する大ヒットを記録したのも頷けよう。

 1980年、全斗煥が率いる新軍部は全国に戒厳令を布告。対して国民の間では反軍部民主化要求の動きが出ていたが、特に野党指導者の金大中の出身地とされていた全羅南道にある光州市では激しいデモが起こっていた。ソウルのタクシー運転手であるマンソプは、ドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーター(ピーター)から“通行禁止時間までに光州に行ったら大金を支払う”との依頼を受け、検問を潜り抜けて光州市内に入る。

 軍が全てを掌握している光州の状況は外部に知られておらず、そのハードな実態を目の当たりにしたマンソプは絶句するしかなかった。留守番をさせている小学生の娘が気になるため、早いとこ危険な光州から逃れたいマンソプだったが、我が身を省みず取材を続けるピーターや、知り合った大学生のジェシク、親切にしてくれた現地のタクシー運転手ファンらを見捨てるわけにはいかず、自分なりに身体を張って奮闘する。ヒンツペーターの体験を基にした実録映画だ。

 首都ソウルが取り敢えずは日常を保っている間に、そこから車で行ける距離にある光州からは情報が遮断され、軍が民衆を弾圧する地獄のような状態にあったという構図は実にショッキングだ。

 軍はデモ隊を打擲するだけでなく、容赦なく発砲(実際には百数十人もの死者が出ている)。あたりは戦場と変わらない有様だ。そんな中でも、決死の覚悟でカメラを回すピーターのジャーナリズム精神や、人情に厚い光州市民、そしてタクシー運転手という立場を一歩も逸脱することなく、出来ることは全てやろうとするマンソプの心意気などに感動してしまう。

 チャン・フンの演出はパワフルで、序盤のコミカルなタッチから中盤以降のシリアス路線、さらにはカーチェイスなどの活劇シーンも盛り込み、一時たりとも観る側を退屈させることはない。マンソプに扮するソン・ガンホの演技は、彼の数多いフィルモグラフィの中でも上位にランクされる。

 一見、自分のことしか考えていないような主人公が、実は一番責任感が強く、誰よりも行動力があることを映画の進行と共に徐々に浮き彫りにしていくプロセス、そして演技の“呼吸”の見事さには感心するしかない。彼がいることで、韓国映画界は大いに救われていると思う。ピーターを演じるトーマス・クレッチマンも好演。ユ・ヘジンやリュ・ジュンヨルなど、派手さは無いが味のあるキャラクターが映画を盛り上げる。

 それにしても、光州事件をはじめ韓国の現代史は決してホメられるものではないが、それでもあえて映画の題材として取り上げているのは見上げたものである。対して、同じくアジアの一員である日本の映画界は一体どうしたものか。映画のネタになりそうな時事問題は、それこそ沢山あるはずだが。
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