元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

松浦寿輝「あやめ 鰈 ひかがみ」

2009-02-21 06:29:12 | 読書感想文

 けっこうハマる本である。芥川賞を獲得した「花腐し」を含めて松浦の小説は今まで読んだことはなかったが、本書に接するだけでもその独特の美意識は他の追随を許さない次元に属していることがよく分かる。

 「あやめ」という名のスナックでかつての同級生との再会を待ち続ける男。魚市場で仕入れた鰈(かれい)を忍ばせたアイスボックスを持ったまま、いつ終わるともしれない“地下鉄での旅”に出かける男。そして、妄想上の“妹”との同居生活に恍惚とした喜びを覚える男。この三編のオムニバスであるが、エピソードや登場人物がそれぞれ微妙にクロスオーバーしていて、ひとつの長編として捉えることも可能である。

 三編に共通するのは、主人公はほとんど死んでいる点である。いわば死ぬ間際に見る夢を綴った作品だ。一見すればどれも“非業の死”と思われても仕方がない状況だが、彼らの夢は不思議なほど透徹した美しさを演出している。死ぬ前にふと感じた“出来ればああしたかった”という想いが、夢の中ではある程度実現される。

 しかし、すべて実現されるわけではない。期待していた結末にはどれも達しない。でも、この静かな悔恨の念こそが、死出の旅にはふさわしい無常観を掻き立てるのだ。意外と、誰しも死ぬ瞬間にはこういう“解脱”の境地に達するのかもしれない・・・・などと勝手なことを思ったりする。こういう、思いっきり後ろ向きのスタンスもたまには良いものである。文中に現れる仄暗いイメージやモチーフは味わい深い。文体も無理がなく簡潔だ。

 さて、ヴィジュアル面での喚起力が大きい本作は是非とも映画化してほしい。それも三人の監督に撮らせれば面白いと思う。候補としては黒沢清、石井聰亙、荒戸源次郎あたりか。音楽や美術が的確ならば、ベストテン入りは確実ではないだろうか(笑)。
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「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」

2009-02-20 06:25:51 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Curious Case of Benjamin Button )面白くない。理由は、この“年を経るほどに若返っていく主人公”という特異な設定が、何のメタファーにもなっていないからだ。単なるホラー映画やコメディならばともかく、2時間40分もかけて描く大河ドラマでこういう奇を衒ったモチーフを真ん中に持ち出すからには、確固としたコンセプトと堅牢なプロットが必要だが、本作にはそれが全くない。ただ“目先が変わって興味を引きやすいから”という下世話な意図で採用したとしか思えないのだ。

 冒頭近くに逆回りに時を刻む駅の大時計が出てくるが、時は第一次大戦直後で多数の犠牲者を出したことが市民の心に暗い影をさしていた頃にこういう小道具を出してきたこと自体は納得できる。つまり“時間が逆回りになって、死んだ者達が生き返って欲しい”という願望の象徴だ。しかし、このことが主人公の誕生が、一見リンクしているようで実はまったく関係のないことは作劇の未熟さとしか言いようがない。

 主人公は、ただ漫然と生まれて漫然と自分の道を進んでいくだけで、狂言回しとしての役割さえ与えられていない。ならばファンタジー性を前面に出してキッチュな路線で行くかというと・・・・それも不発。主人公が仲良くなる船長の造型などフェリーニの匂いが感じられるが、そのテイストを活かすような工夫も皆無だ。それどころか、交際相手との関係性などヘンに生臭くて中途半端にリアルなので、ストーリー展開がチグハグになっている。

 逆方向に年を取るベンジャミンの“若い頃”は、見かけは年寄りでも心の中は若者なのだから少しは悩んだりヤケっぱちになったりして当然だと思うのだが、それもない。いつも達観したようなポジションに落ち着いているというのは、一種の偽善ではないかと思う。須川栄三監督の「飛ぶ夢をしばらく見ない」のヒロインのように、一度“普通に”老人になって、それから若返るという筋書きにした方がまだ説得力があっただろう。

 脚本はあの愚作「フォレスト・ガンプ/一期一会」のエリック・ロスで、なるほどイヤミったらしいほど超然とした主人公像は共通している。しかし、少なくとも「フォレスト・ガンプ」にはアメリカ現代史を俯瞰しようというコンセプトがあった。対して本作はそれっぽい素振りはあるが、実質は見事なほど何もない。加えて監督が奥深いドラマなんて絶対作れないデイヴッド・フィンチャーなのだから、良い映画になるはずもないのだ。

 ブラッド・ピットの老けメイクは巧妙で、ケイト・ブランシェットの熱演も評価して良いとは思うが、二人とも俳優としての存在感が先に出ていて役柄からは完全に浮いている。クラウディオ・ミランダによるカメラワークは万全で、衣装デザインや美術も悪くないのに、出来がこれではそれも虚しい。正直、アカデミー賞候補にならなければ最初から観ていなかった映画だ。
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「ZONE」

2009-02-19 06:28:25 | 映画の感想(英数)
 海外で評価の高い映像クリエイター・伊藤高志の作品について述べてみたい。私が彼の作品を観たのは某映像フェスティヴァルにおいてである。そこで上映されたのは4本だ。

 まず88年の「悪魔の回路図」。新宿副都心の高層ビルを中心としてカメラが回転し、周りの風景を写し取っていく。つまり、画面のまん中に高層ビルが回転しており、その他の映像は刻一刻別の画面に切り替わっていくわけだ。それをコマ早送りやネガポジ反転やソラリゼーションなどの処理を施して、よく見る風景を異次元のような空間に作り変えている。

 89年の「ミイラの夢」。廃虚の一本の柱の接写から、カメラが数百メートルほどバックしまた戻る。今度は別のビル群の壁の接写からこれもカメラがずーっと引いてまた戻る。この“ブランコ運動”の繰り返しを、カメラ速度やアングルを少し変えながら延々と続ける。けっこう不気味な映像でありながら、ヘンなトリップ感さえ覚えてしまった。そして91年の「VENUS」。団地をバックに作者の妻子(だと思う)のスナップ映像と周囲の風景が“ブランコ運動”を繰り返す。前回の手法に加え画面分割などのテクニックを披露。ただ、この3本は映画というより
技巧の羅列といった感が強い。金取って見せるものではないな・・・・と思っていたら、4本目「ZONE」でびっくりした。

 「ZONE」は95年の作品。無機的なマンションの一室で繰り広げられる、首のないミイラと子供の人形が織りなす悪夢的イメージの炸裂。前3作で使われたテクニックはもちろん、反転する鏡のイメージや極端な遠近法で狭い部屋を無限の空間のように表現したり、部屋の外に何か巨大なものがいるような錯覚を与えたり、走り回る鉄道模型や飛遊する豆電球の乱舞など、奔放なイメージが強烈な音楽(前3作はBGMはない)をバックにスクリーンを闊歩する。単に技巧の羅列ではない、まさしく作者の魂の叫びというかそれに付随した遊び心というか、観客の心に迫る対外的なアピール度は非常に高い。超シュールでありながらグロさもスノッブさも希薄で、娯楽性さえ感じられる映像のアドベンチャー。たった15分だけど存分に楽しませてもらった。

初期のオタクっぽさから外に向かってブレイクアウトした作者の軌跡が興味深い。ハッキリ言ってこの監督のプロフィールなどについてはよく知らないのだが、一般映画に参画しても良いような才能だと思った。実験映画界にも面白い人材がいるものだ。
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「ノン子36歳(家事手伝い)」

2009-02-18 06:26:16 | 映画の感想(な行)

 熊切和嘉監督が得意とする“ダメ人間の開き直りぶり”が本作でも賑々しく取り上げられている。東京で芸能人をやってはみたが、結局あまり売れずに結婚生活も破綻して、逃げるように秩父の山中にある実家(神社)に戻ってきた三十路半ばのノブ子。毎日ゴロゴロしているだけで、何をやるわけでもないのだが、そんな彼女が興味を持ったのが神社の祭りでヒヨコを売ろうと頼み込んできた青年。

 通常だと、この若い男が“一見さえない奴だが、実は良いところもあって・・・・”という筋書きになりそうなのだが、まったくそうならない。彼は口では“いつか世界に進出してやる”と言うものの、実際はテキ屋の親分にも世話になった神社の神主(ノブ子の父親)に対しても根回しの一つも出来ない、単なる甲斐性無しだ。さらに東京からは芸能エージェントを立ち上げたというノブ子の元夫がやってきて、また一緒にやろうと言う。だが、デカいことをブチ上げる彼も実は借金で首が回らない敗残者だ。

 そんな男達をノブ子は一度は信じてみようという気になったのは、自分はダメだけど本当は“ダメではない部分”が残っていると思い込んだせいである。この映画は、ズバリ言えば“どこか取り柄があると思っていたダメ人間が、実は何もないことを自覚する”までを描いている。

 普通に考えれば、自分のダメさ加減を思い知らされるのは辛いことだ。しかし、実際にはダメであるにもかかわらず、必死に“私はダメな奴ではない。何か得意科目があるはずだ”と信じ込んで悪戦苦闘するのは、もっと辛くて悲しいことである。ダメな自分を受け入れることから始めた方が、ずっと楽に生きていける。無理をすると、ロクなことはない。肩肘張らなくても、ダメ人間にだって生きる権利ぐらいはあるのだ。

 淡々とした中にシビアさを織り込む熊切演出は好調。主演の坂井真紀は諸肌脱いでの熱演で、女優としても一皮剥けた感じだ。相手役の星野源は強い印象は受けないが、役柄上はこれでいいと思う。元夫の鶴見辰吾はまさに怪演と言うしかなく、このキャラクターを使ってもう一本撮れそうだ(笑)。

 そしてノブ子の友人を演じた新田恵利に昔のアイドルの面影が全然なくなり、今や根性の悪そうなオバサンに成り果てていたのはビックリ。月日の流れは残酷である。設定の面白さやストーリーの奇抜さでは熊切監督の前作「青春☆金属バット」には及ばないが、これはこれでまとまりの良い辛口の佳篇だと思う。観る価値は十分ある。
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「夢」

2009-02-17 06:28:12 | 映画の感想(や行)
 90年作品。巨匠・黒澤明監督によるオムニバス形式の映画で、文字通り「夢」の物語が8つならんでいる。各エピソードの前には「こんな夢を見た」というタイトルが入り、前作「乱」やその前の「影武者」とは違った作者のプライベート・フィルム的性質の作品だ。で、私はこの巨匠がどんな「夢」を描いてくれるのかと、楽しみにしていたのだが・・・・。

 第一話「狐の嫁入り」は一番マシな作品だ。霧のかかった森の中を行く狐たちの行列が楽しく(凝ったメイクと振付けで見せる)、ファンタジー性も十分だ。はっきり言ってこの映画はここで終わっていた方がよかった(でもそれじゃ長編映画にはならないが)。第二話「桃の精」も、まだ許せる。「日本昔ばなし」みたいなストーリーもさることながら桃の木の精霊たちがみせる雅楽と舞は、海外の映画ファンにも受けただろう。

 で、ここからあとはまったくダメ。第三話「雪あらし」は、単なる「雪女」の話。ストレートでまったく面白くないし、冒頭の雪山をさまよう男たちの息遣いが延々と続くあたりは“かんべんしてよ”と言いたくなる。第四話「トンネル」は実に珍妙。戦争で生き残った隊長の前に死んだ部下の亡霊が出てきて、彼らに自分たちが死んだことを納得させる話。延々と続く元隊長の演説にはうんざりしたが、ラスト、“まわれ、右!”の号令であっさりと亡霊たちがトンネルの中に消えていくところだけは笑った。第五話「鴉」はゴッホの絵の中を主人公が歩き回る場面が精妙なSFXで描かれているが、ただ、それだけの作品。

 第六話「赤富士」第七話「鬼哭」は核の恐怖を描く・・・・といえばきこえはいいが、実に説教臭いつくりで、観ていて不愉快だった。ヘタクソな特撮が画面をよりいっそう盛り下げてくれる。第八話「水車のある村」は前の二話の回答ともいうべき作品、とはいっても、笠智衆が出てきて“やっぱり自然はエエのう”と、ありがたい説教をしてくれる退屈極まりないハナシである。ラストで延々と続く“葬式踊り”にあきれているうちに、観ているこちらも“夢”の中・・・・。

 「夢」とタイトルがついているのに、ほとんどのエピソードに“夢”がない。こういう形式の映画ならもっともっと想像力を発揮して、文字通り「夢」のような映像で観客を圧倒してほしかった(もちろん。悪夢だってかまわないが)。本作に限らず、カラーになってからの黒澤作品は全盛期のモノクロ作品の足元にも及ばない。
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「大阪ハムレット」

2009-02-16 06:32:26 | 映画の感想(あ行)

 なかなか面白く観た。大阪らしい笑いと人情に溢れている・・・・とは陳腐なフレーズだが、本作はまさにその通りなのだ。たとえ大阪の風土が苦手な観客でも(笑)、少なくともこの映画を観ている間だけは大阪の街が好きになってしまうような、そういう魅力を持ったシャシンである。

 一家の主が突然死して、母親と3人の息子だけになってしまった家庭に、葬儀の途中に突然やってきた“父の弟と名乗るオッサン”がそのまま居着いてしまう。しかも、まだ女盛りの母と夫婦同然の生活に突入する。年齢より老けてみられる中3の長男は大学生と偽って偶然知り合った女子大生と交際中。中1の次男はヤンキー道まっしぐらで、小4の三男は学校で“ボク、女の子になりたい!”と口走って大騒ぎになる。

 原作は森下裕美の同名連作短篇コミックだが、3つのエピソードを抜き出して一本にまとめているという。通常、こういう作り方は総花的でまとまりの悪いものになりがちだが、本作の脚色(伊藤秀裕と江良至が担当)は上手い。普通に観ている限りでは複数の元ネタの寄せ集めとは思えない。

 この一家がこれだけの“異常事態”に際してまったく崩壊の兆しを見せないのは、それぞれが良い意味で“自立”しているからだろう。その中心になるのは松坂慶子扮する母親だ。めったなことでは動じない、それでいて自分の考えを押し付けるわけでもなければ、ヘンに“引いて”しまうこともない。ただそこにいるという存在感と清濁併せ呑むキャパシティの大きさが、少々の厄介事も帳消しにしてしまうのだ。加えて、明け透けな大阪弁のやり取りが、登場人物達が持つ屈託を微妙に緩和してゆく。

 正直言って不良中学生が担任教師から“キミはハムレットみたいやな”と指摘されて、本当にシェイクスピアを読むようになるとは思えない(笑)。しかし、好奇心を持って自由に生きることを奨励しているようなこの一家の空気が、違和感を払拭することになる。血の繋がりは重要ではなく、互いを信頼して一緒に歩むことこそが“家族”なのだと、ちょっと考えれば臭いテーマを大阪特有のあっけらかんとした語り口で納得させてしまう、この映画の力感は並大抵のものではない。

 光石冨士朗の演出はテンポが良く、ギャグも決して外さない。キャスト面では松坂の他に“オッサン”役の岸部一徳が絶品。図々しいのにマメで憎めないキャラクターを飄々と演じきっている。息子たち3人も達者だ。フィルム撮りではないので画面が荒いのが残念ではあるけど、まずは観る価値十分の佳作である。
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「カリートの道」

2009-02-15 07:23:29 | 映画の感想(か行)
 (原題:Calito's Way)93年作品。ブライアン・デ・パルマ監督とアル・パチーノが「スカーフェース」(83年)以来10年ぶりに組むギャング映画。公開当時はけっこう評判が良く、どんなにいい映画かと期待して劇場に足を運んだ私を待っていたものは、果たして何だったのだろうか。

 パチーノ扮するギャングの大物が5年ぶりに刑務所から出てくる。するとすっかり街は別の奴らに牛耳られており、極道稼業のはかなさを感じた主人公は足を洗う決意をする。だが、そこは昔気質のヤクザ。世話になった仲間、特に出所を助けてくれた弁護士(ショーン・ペン)への義理を忘れるわけにはいかない。周囲への借りを返さなければ安心してカタギにもなれないと、少しずつ悪事の片棒を担ぐうち、いつの間にか泥沼にはまっていき、もはやいっぱしのワルと化した弁護士の頼み引き受けたのが運のつき。別のギャングとの抗争に巻き込まれていく。

 あきれたのは、ストーリーが100%読めることである。話自体は昔から日本のヤクザ映画でも何百回と繰り返されたパターンで、しかも映画の冒頭に物語の最後の場面を持ってくることから結末もわかっており、意外性のカケラもない作品である。別に使い古された話が悪いというわけではないが、なぜこれを今やらなくてはならないのかさっぱりわからない。

 しかも、読めるのはストーリーばかりではない。アクション・シーンの段取りから間の取り方、カメラワークまで含めて、すべて底が割れている。極めつけは、例の“階段落ち”を今回も懲りずにやっていることで(今回はエスカレーターだが)、他にやることはないのかと思ってしまう。ここまでくると、落ち目の芸人がやる一発芸とそう変わらないではないか。

 デ・パルマ監督のその前の作品「レイジング・ケイン」が今までのネタの大判振る舞いなら、今回は“ネタがないから開き直ったぞー”という感じか。「スカーフェース」もあまり好きな映画じゃなかったが、脚本がオリヴァー・ストーンだけあって、何やら病的な迫真性がドラマを引っ張っていた。しかし「カリートの道」には何もない。

 パチーノのは演技は彼としては凡庸なレベル。印象に残ったのはけっこう大胆な肢体を見せるヒロイン役のペネロープ・アン・ミラーぐらいか。全篇に流れる70年代ポップスも必然性がなく、曲目も超ダサイ。同じ70年代ロックを使った「レザボアドッグス」のカッコ良さとは雲泥の差だ。あまり観る価値はない。
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「チェ 39歳別れの手紙」

2009-02-14 06:28:45 | 映画の感想(た行)

 (原題:Che Part Two)前回同様、面白くない。キューバ革命後、政府の要職を放り出し、革命のグローバルな展開を狙ってボリビアで活動を続けていたチェ・ゲバラ(ベニチオ・デル・トロ)の死を描く伝記映画第2部だが、歴史のうねりが個人を飲み込んでゆくようなダイナミズムはまったく感じられない。それどころか、観ていて“歴史の勉強”にすらならない。

 たぶんゲバラは机上の知識と論理以外には“戦い”しかなかった人物なのだろう。キューバで革命政府が発足した後の、閣僚としての実務運営には全く向いていなかったと思われる。だから、次なる“戦い”を探して各地を転々としたのだ。そんな彼が目を付けたのがボリビアで、横暴な政府と貧困を強いられる民衆という、革命にはもってこいの環境が整っていると思い込んだ。

 しかし、十分な事前のリサーチの不足により失敗。国民の理解は得られず、既存の反政府組織との意思の疎通は上手くいかないばかりか、せっかく募った仲間も次々と脱落してゆく。ただし、映画はゲバラのそんなディレンマを深く描こうとはしない。単に山の中を移動し、時々は戦闘行為はあるものの、ただ漫然と終末に向けてのカウントダウンが進むだけだ。

 ドラマ運びに山も谷もなく、淡々と進む平板なドキュメンタリー・タッチの映像に、観ているこちらはイライラするばかり。おそらくは作者のスティーヴン・ソダーバーグにとってのゲバラ像は自身の中で“完結”していたのではなかろうか。愛着と尊敬を集めた革命のカリスマとしてのゲバラは、ソダーバーグが本作の企画を練っていた段階で、映画として活写すべき存在というより、個人的趣味や研究の対象でしかなくなってきたのだろう。だからこのような密度の極めて薄いシャシンしか残せなかったのだ。

 そういえば十代の頃、テレビの洋画劇場でリチャード・フライシャー監督による「ゲバラ!」という作品を見たことがある(69年製作)。主演はオマー・シャリフでカストロにジャック・パランスという重量級のキャストで、音楽はラロ・シフリンだった。アメリカ側から描いていたとはいえ、けっこう面白かったことを覚えている。ああいう平易な捉え方がこの素材を活かせる方法ではなかっただろうか。
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「ニック・オブ・タイム」

2009-02-13 06:29:14 | 映画の感想(な行)

 (原題:Nick of Time)95年作品。ロスアンジェルスのユニオン・ステーションで、税理士のワトソン(ジョニー・デップ)は刑事と名乗る男(クリストファー・ウォーケン)に幼い娘もろとも車の中に拉致される。1時間半以内にある人物を殺さなければ娘の命はないと言われ、拳銃を渡されしかも男は一時も監視の目を緩めない。暗殺の標的はカリフォルニア州知事(マーシャ・メイスン)だった。孤立無縁のワトソンは娘を救出できるのか。

 なかなか面白いサスペンス劇である。とにかく脚本がいい。平凡な男が白昼アッという間に陰謀に巻き込まれていく恐怖。事態が進むにつれ敵はウォーケン扮するナゾの男だけではなく、あたり一面悪者だらけということが明らかになる。その蟻地獄に落ちていくような不条理とも言える設定。特に味方だと思っていた奴が何の遠慮会釈なく悪の正体を見せる場面のショックは相当なもので、ほとんどホラー映画のノリでたたみかけてくる。しかもこの“1時間半以内”というのを、本当に上映時間の1時間半で見せるという“「真昼の決闘」方式”を採用しているため、臨場感は文字どおりリアルタイムで迫ってくる。

 そして、手堅い職人監督の評価しかなかったジョン・バダムは今回は“映像派”に変身。冒頭の、時計の内部の精密描写が拳銃のそれにシンクロしていくタイトルバックに感心していると、主人公が駅に到着する前の列車のシーンでの手持ちカメラによる即物的な表現や、駅構内の逆光を活かした何やら表現主義的な画面処理など、まさにやりたい放題。圧巻は、ワトソンがビルの吹き抜けに突き落とされ、下の池まで落ちる間に捕らわれた娘がシースルーのエレベーターに乗って上がっていくのを見るシーンである。ヒッチコックもかくやと思われる見事な映像処理で、しかもこのくだりにはオチがあるという用意周到ぶり。

 アメリカ映画だから最後には事件は解決するのだろうと予想はするが、中盤まで一分の救いもないデッド・エンドな状況に追い込まれた時点で、ほとんど先が読めなくなってしまった。スリラー映画はこうでなければ。

 珍しくフツーの男を演じるJ・デップがイイ味を出している。ウォーケンの怪演は言うまでもない。一見荒唐無稽な話だが、ひょっとしたら実際あるかもしれないと思わせるのも、この作品が成功した証拠である。まさにスマッシュ・ヒット。
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「エグザイル/絆」

2009-02-12 06:24:31 | 映画の感想(あ行)

 (原題:放・逐 EXILED )キネマ旬報の2008年度ベストテンにもランクインしている評判の香港映画だが、私にはさほど出来の良いシャシンとは思えない。これはひとえに脚本無しで撮影が進められたことが関係しているのだろう。筋書きがどうなるのか、出演者がそれを知らなければ、どのような方向性で演技を積み上げればいいのか皆目分からない。

 もちろん、シナリオ抜きで場当たり的に撮っていく手法も場合によっては有り得る。ただそれは、ストーリー自体も即物的であるケースに限られる。キャストの“素”のリアクションがドキュメンタリー・タッチで活きるような無手勝流のシャシンでこそ、脚本を除外した撮り方が許されるのだ。しかし本作は典型的なノワール映画。活劇としての起承転結が一応は配置されたプログラム・ピクチュアとも言える性格の作品で、シナリオを提示せずにバタバタと撮影を進めることに意味があったとは思えない。事実、非常に不自然な作劇に終始し、観た後の余韻はひたすら希薄である。

 中国に返還される直前のマカオ。組織から逃げ出した若いやくざを追って、かつての仲間たち4人が彼の隠れ家の前に集結する。当然、彼ら5人の過去の確執やら何やらが吹き出して一悶着あると思ったら、それっぽいポーズだけですぐさま“仲良しグループ”に変貌してしまう脳天気さにまず脱力。そしてロクな説明もないまま彼らは共同して香港マフィアのボスと敵対し、そしてマカオのギャングのボスにも対峙し、果ては金塊の輸送車襲撃という唐突なモチーフが現れるに及んで、作者はまともに物語を追うことすら放り出していることを実感できる。

 それでもアクション場面が優れているのならば多少のストーリーの破綻にも目をつぶるが、これがまた低調の極み。芸もなくパンパン撃ち合うだけで、魅せるための“呼吸”や“リズム”を工夫した形跡は全くない。それに弾丸が相手に当たるとパッと赤い霧みたいなものが飛び散るのだが、この映像処理は本当に安っぽい。何かの冗談かと思うほどだ。

 それではこの映画の見どころは何かというと、強いてあげれば“カッコつけ”だと思う。なるほどアンソニー・ウォンらが演じる登場人物達は必要以上に気取った所作を取るし、それはサマにもなっている。茶系を活かした透き通るような映像も効果的だ。でも、カッコだけでは面白くならない。カッコつけるばかりで中身はカラッポのシロモノを押しつけられた観客こそいい面の皮だ。ジョニー・トー監督作としても「ザ・ミッション/非情の掟」や「マッド探偵(ディテクティブ)」より数段落ちる。どうしてこの映画が評論家連中にウケが良いのか、さっばり分からない。
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