元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「おもひでぽろぽろ」

2008-12-30 06:57:05 | 映画の感想(あ行)

 91年作品。この頃の日本映画界は質的にドン底にあった。新進気鋭の映像作家は出てこず、ベテラン陣も行き詰まっていた状況。その中にあって宮崎駿=高畑勲コンビの作り出す映像群だけが屹立したクォリティの高さを誇っていた。本作はその代表作だ(監督は高畑が担当している)。

 時代設定は1982年の夏。東京の大企業に勤めるOLのタエ子(27歳)は休暇を取って東北の山村に旅行した折、ふとしたはずみで小学校5年の自分を回想していく。ドラマチックな出来事があるわけではない。アニメーションとしては実に地味な題材ながら、これだけ見せてくれるのというのはすごい。

 人物描写のうまさに舌を巻く。キャリア指向でもなく、かといって結婚したい相手もいない、という平凡な20代後半の女性を等身大に、しかも魅力的にとらえた作品は、公開当時も今も含めた日本映画の中ではそう多くはない。登場してくる人々はすべてどこにでもいそうな、普通の市井の人々である。それでいて、皆とても存在感があり、観客が納得できるキャラクターになっているのは、作者の素材をとらえる目が確かなせいだろう。

 タエ子はその村で有機農業を推進しているトシオと出会う。タエ子より年下だが、頼りになる好青年だ。映画はそれから自然と人間のかかわりという重大なテーマに入っていく。ここで作者は都会=悪、田舎=善というような単純な図式は取っていない。一見自然に囲まれたような田舎の風景は、実は人間が自然と戦い、共存できるようになった結果なのだ。そしてそれを維持するためにはハンパではない努力が必要なことも示される。ただ、その主題はヒロインの人生の転機を描くというメインテーマの陰にかくれていて決して出しゃばることはない。このあたりも作者の節度が感じられて好ましい。

 そしてアニメーション技術だが、ハッキリ言って超絶レベルである。回想場面はソフト・フォーカスのようなリリカルな画調だ。観客の郷愁を誘うノスタルジックな場面の連続で、それだけで目頭が熱くなる。対して現在(82年)を描く部分は、驚異的リアリズムで圧倒される。これはもう実写とほとんど変わらない。セリフを先に収録してから画面を作るプレスコ方式が威力を発揮し、主人公の2人は声を担当する今井美樹と柳葉敏郎が本当に演じているのではないかと錯覚を起こさせるほどだ。しかし、千変万化する自然の風景と登場人物の思いきった構図など、ちゃんとアニメーションでしか出来ない映像をカバーしているのがすごい。

 アニメーションにしては異様にカット数が少ない。つまり、長回しが多くカメラの移動があまりない(アニメーションでこう言うのもヘンだけど)のも、落ち着いた雰囲気を出すのに貢献している。さらに原色を抑え、繊細極まりない中間色を多用していることがかなりの効果を上げている。そして回想場面でのナツメロはもとより、村の風景のバックに流れる東欧のエスニック・サウンドという音楽センスには脱帽した。都はるみの歌う主題歌に乗った感動のラストシーンまで、欠点らしいものは挙げることができない。高畑監督作としても「火垂るの墓」と並ぶ傑作である。
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Nmodeのアンプ類を試聴してみた。

2008-12-29 06:45:46 | プア・オーディオへの招待

 Nmode製品の試聴会に行ってきた。Nmode(エヌモード)とは聞き慣れない名前だが、それもそのはず、出来たのは今年(2008年)である。SHARPで1ビットのデジタルアンプを展開していた主任技術者が定年退職後に立ち上げたブランドだ。第一弾としてリリースされたのはプリメインアンプのX-PM1とCDプレーヤーのX-CD1である。

 X-PM1は1ビット方式ではないが、やはりデジタルアンプの形式を取っている。X-CD1はSACD対応を見送り通常CDの再生に特化した製品。見た目は(以前紹介した)SOULNOTEの製品と似ているが、聞けば筐体はSOULNOTEと共用とか。もちろん、中身は独自の設計ノウハウが取り入れられている。

 出てきた音の印象だが、もう見事なほどのフラット指向である。SOULNOTEのアンプを最初に耳にしたときに“フラットを基本にしている”と思ったものだが、Nmodeのアンプはさらにフラットだ。ただし、決して面白味のない製品ではない。色付けがない代わりに、駆動力に関しては端倪すべからざる実力を秘めている。試聴に使われたのはDynaudioの新製品Focus360と、Consensus AudioのLightning SE。Focus360は定価が約80万円。Lightning SEに至っては予価230万円という高級品で、いずれにしろ定価14万円弱のNmode製品とはアンバランスながら、両機とも違和感なく鳴らしていたのには舌を巻いた。

 特に興味を引いたのがFocus360で、このメーカーらしい音場の広さと微粒子状に降り注ぐ高分解能の明るい中高音が印象的。これで80万円とは、ひょっとして安いかもしれない(爆)。Nmodeのように駆動力とスピード性を身上としたアンプとの相性が良いようだ。最近発売されたスピーカーなのでエージング(鳴らし込み)が進んでおらず音は硬かったが、時間が経つと良い案配に仕上がってくると思わせる。対してLightning SEは過不足無く鳴るものの、やはり14万円弱のアンプでは幾分フットワークが重くてプラスアルファの魅力を出すには至っていない。McIntoshとかKRELLあたりの既存の高級アンプメーカーの製品を持ってきてケレン味たっぷりにドライヴした方が楽しいスピーカーだと思った。 

 いずれにしろ今回のNmode製品は、価格面で釣り合う20万円までのスピーカーならば、たぶん何の心配もなく持ち味を十分に出してくれるだろうし、30万円のスピーカーでもイイ線行けると予想する。私が知る限り、10万円台のアンプ類ではベストバイだ。同席していた設計者によると、X-PM1は、音質面に限って言えばかつてSHARPが出していたデジタルアンプSM-SX10(定価約25万円)とほぼ同等だそうだ。それを14万円で出せるのはガレージメーカーとしてのメリットだという。

 考えてみればおかしなことだ。商品というのは大量生産すれば安くなるはず。しかし、ピュア・オーディオ製品に関してはそれが通用しない。ただ、X-PM1とSM-SX10とを並べて見比べてみると、その理由が分かるような気がする。それは外観だ。見た目の店頭効果が高く、所有欲をそそるような出で立ちをしているのが大手メーカー品のようである。対してNmode製品はお世辞にも高級感があるとは言えない。実用一点張りだ。しかし、逆に言えば実用に即して商品を作れば、リーズナブルな価格で良い物が出来上がる。ガレージメーカーならばそれが可能だという事実は、ピュア・オーディオの将来を考える上で、何とも複雑な気分になってくるのは仕方がない。
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「あの頃ペニー・レインと」

2008-12-28 07:58:56 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Almost Famous )2000年作品。ロック・ジャーナリズム志望の少年ライターの奮闘を追うキャメロン・クロウ監督作。舞台となった73年のロック・シーンというと、ピンク・フロイドが「狂気」を発表し、デイヴィッド・ボウイが「アラジン・セイン」を、イエスが「危機」をリリース。レッド・ツェッペリンの「聖なる館」やイーグルスの「ならず者」もこの年だったかもしれない。この映画に出てくる「スティルウォーター」というバンドは架空のものだが、当時活動していた中堅アメリカン・バンドの数々(正直言って、あまり印象に残っていない)を代表しているものだろう。

 さて、映画の印象だけど、あまりパッとしない。原因は、主人公を取り巻く状況がほとんど“証文の出し遅れ”であるためだ。バンドの連中は“レコード会社の姿勢がどうのこうの”なんて言うが、音楽がビジネスである限り、バンド自体が“産業”に取り込まれるのは当たり前。“私たちはグルーピーじゃない。ミュージシャンに霊感を与える存在。バンド・エイドなの”とヒロインたちに言わせているのも“だから何だよ、グルーピーと同じじゃないか。ヘンな言い訳している分、グルーピー以下かもね”と片付けたくなる。

 こういう“ミュージシャンの取り巻きとして生きる方法もあってもいい”という捉え方は、当時リアルタイムで生きている人間にとってはその時点で意味のあるものかもしれないが、音楽業界の裏側がロクなものではないと誰もが知っている昨今にあっては“何を今さら”という印象しか受けない。ミュージシャンとの珍道中は単なる現実逃避である。そんなものに“甘酸っぱい青春の思い出だぞ。共感しろ”と言われても、そうはいかない。

 キャストについても特筆すべきものはないが、フランシス・マクーマンドとケイト・ハドソンがオスカーにノミネートされていたのは驚きだ。前者は“軽くこなした”だけ。後者は可もなく不可もなし。少なくともデビュー時の母親ゴールディー・ホーンの足元にも及ばない凡庸ぶりである。彼女たち程度の仕事をアカデミー賞候補に選ばなければならなかったとは、当時のアメリカ映画の不調ぶりがよくわかる(-_-;)。
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「バンク・ジョブ」

2008-12-27 07:09:00 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Bank Job)なかなか痛快なクライム・ストーリーだ。71年にロンドンで実際に起こった王室スキャンダルに関わる銀行強盗事件を元にしているが、何より注目すべきは設定の巧者ぶりである。

 金に困った中古車販売業者(実行犯)とその仲間、彼らに話を持ちかける女のバックに付いている英国情報部、王室スキャンダルを握っているマフィア、金庫に保管されている裏台帳の持ち主である風俗業者と暴力団、別のスキャンダルが発覚することを恐れる政治家、そしてもちろん所轄の警察と、三つ巴どころではない多士済々の勢力が暗躍し、こいつらの思惑が複雑に絡み合うのだから、観る側には一時の油断も許させない。

 さらには主人公の妻とくだんの女との確執まで描かれるのだからさぞかし“交通整理”が大変かと思いきや、そこは海千山千のロジャー・ドナルドソン監督、まさしく“グッド・ジョブ”な職人芸で全編をスマートにまとめてしまう。テンポ良く突っ走るかと思うと、リズムをあえて抑えたシークエンスもあったりして、まさに緩急自在である。上映時間も110分と、意味もなく長くはない。

 主演のジェイソン・ステイサムにはきっちりと得意のマーシャル・アーツを披露させる余裕まである。また、犯人達の手口が金庫室の下までトンネルを掘るというのが古風で嬉しい。往年の「掘った奪った逃げた」や「大脱走」などを彷彿とさせる。途中で“遺跡”まで発掘してしまうのだから、さすが歴史の深いロンドンが舞台だけのことはある。科白回しもハードボイルドを地で行くカッコ良さだ。

 そういえば70年代という時代設定もロンドンならば大掛かりな舞台セットを組まずとも、そのまま結果オーライなのが興味深い。地下鉄の描写なんか、今も昔も全然変わっていないと思わせる。マイケル・コールターのカメラによる、寒色系の画調も効果的だ。

 昨今のハリウッド製活劇みたいに、何から何まで説明してもらうような作劇に慣れた観客にとってはひょっとしてハードルは高いのかもしれないが、手練れのサスペンス映画好きにとっては堪えられない快作だと言えよう。それにしてもあっちの王室は奔放なんだね。周りの者は少しも気が抜けないだろうな(笑)。
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「スイミング・プール」

2008-12-26 06:28:36 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Swimming Pool )2003年フランス=イギリス合作。南仏を舞台に、女流作家を巻き込む謎めいた殺人事件を描く・・・・と書けば何やら通俗サスペンス劇みたいだが、「8人の女たち」や「まぼろし」などで知られるフランソワ・オゾンが演出を手掛けると一筋縄ではいかないシャシンに仕上がる。

 実際この映画は、思わせぶりなネタ振りとプロットの積み上げといったミステリー映画の意匠は一応揃ってはいるものの、辻褄の合っていない箇所が多く、ラスト近くのドンデン返し(らしきもの)に至ってはストーリー自体を放り出したような印象さえ受ける。まあ、ゲイで女嫌い(たぶん)のオゾン監督にしてみれば、ミステリー等には最初から興味はなく、オールドミスの作家と生意気な娘の無軌道ぶりを意地悪く描くのが主眼だったのだろう。そのスタンス自体に興味は持てないが、割り切って“映画の外見”だけを楽しもうと思えば、これはこれで観る価値はある。

 南仏の美しい風景と、ヒロイン役のシャーロット・ランプリングのシニカルな暗さとが織りなす絶妙のコントラスト。そして何よりプールの吸い込まれそうな青さと、若手女優リュディヴィーヌ・サニエの伸びやかな肢体(美乳だぜっ! ^^;)を見るだけでも入場料のモトは取れる。フィリップ・ロンビによる音楽も良い。
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「青い鳥」

2008-12-25 06:30:41 | 映画の感想(あ行)

 力作だが、重大な欠点がある。重松清の連作短編集の映画化で、吃音症の臨時教師と中学生たちの葛藤を通して、いじめ問題や教育について、そして人生において“大切なこと”を観客に問いかける中西健二監督作。

 主人公が受け持つクラスは以前いじめにより一人の生徒が自殺未遂を引き起こし、担任は心労により休職。マスコミにも取り上げられ、学校当局はもとよりクラス全員が十分反省した・・・・はずだった。すでに転校したくだんの生徒の机と椅子は片付けられ、事件は過去のものとして葬られようとしていた矢先、この臨時教員はそれらを倉庫から引っ張り出し、事件の風化を阻止しようとする。

 他の教員や父兄からの批判が渦巻く中、彼は“いじめた方が一からやり直すことこそ卑怯だ。いじめをしたという事を決して忘れてはならない。それが責任というものだ!”と言い切る。また、いじめに荷担したのではないかと悩む男子生徒や、事なかれ主義に終始する学校側もヴィヴィッドに描かれ、かなり見応えはある。

 しかし、冒頭述べたように欠点は存在する。それは、この映画自体が“いじめた側”からしか捉えられていないことだ。責任を持つとか、反省するとか、そんなのはいじめた側の事情に過ぎないのではないのだろうか。大事なのはいじめられた側の状況ではないのか。いじめ問題に関してよく勘違いしている向きがあるが、いじめというのは、いじめる方が“これはいじめである。いや、断じていじめではない”と勝手に判断するようなものではない。たとえ本人にいじめる気なんか全然なくても、いじめられた方がそれを“いじめ”だと思ったならば、それは立派な“いじめ”なのである。

 いじめを取り上げる際、いじめる側にばかり目が向いてしまったら、それは何の問題提起にもなっていない。本作はいじめられる側のことを“いろんな人間がいる”という一言で片付けてしまっている。これは欺瞞だ。単なるいじめと学校現場における“暴行”や“窃盗”などの犯罪との区別がまったく付いていない見方も罷り通っている昨今、いい加減いじめる側からの捉え方は止めたらどうなのだろうか。

 吃音の教師に扮した阿部寛と、後悔の念に駆られる生徒役の本郷奏多は好演だが、それ以外のキャストはステレオタイプの域を出ない。それにしてもオープニングとエンディングに流れる曲のワザとらしさには参った。もっと選曲のセンスを磨いて欲しいところである。
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「RUSH!」

2008-12-24 06:38:01 | 映画の感想(英数)
 新作「感染列島」が公開待機中の瀬々敬久監督による2000年作品。焼肉屋の若い店員と社長(実はヤクザ関係)の一人娘が仕掛けた狂言誘拐が、悪徳警官や自殺志願の男などの勝手な「乱入」により、予測不可能な展開を見せ始める。

 作劇はタランティーノの「パルプ・フィクション」やクリストファー・ノーラン監督「フォロウィング」と同じく、時制をバラバラにして各シークエンスの間にあるものを観客の想像力で補わせようという形式を取っているが、面白いのは物語の結末と各エピソードとの整合性がまったくないこと(しかも、その「結末らしきもの」も複数あったりする)。これは別に脚本の失敗ではなく、明らかに故意にやっている。要するに観客側で勝手にシークエンスを組み立てることで無数のストーリーが創出する可能性を示しているのだ。

 これはまた“複数の物語が別々に同時進行しているが、最後にはひとつに収斂されるのだろう”という観客の予想を覆してみせる挑発的行為でもある。こんな「禁じ手」を無理矢理に納得させるべく、演出・カット割りには細心の注意が払われており、観る側に疑問を差し挟むヒマを与えない。これもひとつの“映画的快感”なのだろう。同じ「禁じ手」でもブライアン・デ・パルマ監督の「ファム・ファタール」の下手くそな提示の仕方とは雲泥の差がある。

 キャスティングは非常に多彩で、哀川翔と竹内力の“お馴染みコンビ”をはじめ、大杉漣や阿部寛、柳葉敏郎に千原浩史、ヒロイン役に「シュリ」のキム・ユンジン、それにCM「一本いっとく?」のハニホー・ヘニハーまで出ているのだから笑える。一般公開時にはマイナーな扱いしか受けなかった映画だが、なかなかの快作なのは確か。
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「天国はまだ遠く」

2008-12-23 06:53:38 | 映画の感想(た行)

 たとえ死ぬほど悩んでいても、他人から見ればその悩みも大したことではない場合がある。反対に、端から見ればマイペースを絵に描いたような余裕たっぷりの人生を送っていても、人には言えない屈託を抱え込んでいるケースだってある。とにかく人の心は玄妙なものだ・・・・といった一見語るに落ちるようなテーマを斜に構えずに丁寧にすくい上げた、観る者の共感を呼びこむ佳篇である。

 失恋して仕事にも行き詰まり、自ら命を絶つ場所を求めて田舎町を訪れた若いOL。そこで出会ったのが、一人で民宿を切り盛りしながら自給自足の生活を送る青年。自殺が未遂に終わり、民宿に長期滞在することになった彼女と、悠々自適の毎日を送っているようでどこか影のある男との奇妙な共同生活を追う、瀬尾まいこの同名小説の映画化だ。

 面白いのは、よくありがちな“いつしか二人の間に恋心が生まれてどうのこうの”という展開には持って行かないこと。あくまで彼女は民宿の客であり、彼はそこの主人である。その距離感が的確だ。また、図式的な“都会は世知辛くて田舎は人情味があって良い”といった単純な構造も採用していない。周りの人間関係が変化することによって普段は気付かない自分の一面が垣間見えただけで、それが今回たまたま田舎の方だったという話だ。

 こういう“自分探し”をネタにした映画は変にベタついたり説教臭くなりがちなのだが、本作には扇情的なタッチは微塵もない。監督の長澤雅彦にとっても最良の仕事になったはずで、少しでもウェットな感触に近づくと巧みにそれを回避し、ユーモラスな方向に振っているのは実に納得できる。またその分ラスト近くのドラマティックなシークエンスが強く印象づけられることにもなった。

 これが映画初出演になる徳井義実は演技が硬いのは仕方がないとしても、なかなかの朴訥かつ頼りになる存在感を発揮している。やっぱりコメディアンはパフォーマーとしての基礎も出来ているのだろう。ヒロイン役の加藤ローサも好演だ。いかにもハーフという外見からか内面に踏み込んだ演技は苦手のように思われたが、今回はそれを逆手に取ったような“優柔不断でノンシャランな雰囲気”を造出するのに成功している。また、自分のオデコの前髪をふーっと吹くシーンなどは可愛らしい。今後は天然系若手コメディエンヌとしての道を歩んで欲しいものだ(笑)。

 舞台となる京都府宮津(天橋立の近く)の、秋から初冬にかけての風景は素晴らしい。民宿で出される料理も本当に美味しそうだ。ゆったりとした方言と時折現れる吉本興業の面々には楽しませてもらった。エンド・クレジットが流れた後のラストシーンは秀逸。春になれば二人の新たなストーリーが始まるのだろう。生きていれば必ず良いことがある。天国はまだまだ遠い(^^)。
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「眠る男」

2008-12-22 06:43:33 | 映画の感想(な行)
 96年作品。群馬県の山奥の村を舞台に、山の事故で意識を失い眠ったままの男(アン・ソンギ)を中心に、周囲の人々の生活を静かに描く。監督は「泥の河」などの小栗康平。初めて地方自治体が手掛けた商業映画としても公開当時は話題を呼んだ。

 さて、ハッキリ言ってしまおう。この映画は凡作だ。物語の“段取り”をすっ飛ばして、本筋のみを遠景ショットと固定カメラで暗示的に綴っていくこの監督の手法はその前作「死の棘」に接して重々承知しているが、決定的に違うのは、今回はその方法に必然性がまったくないことである。

 ベルイマンやテオ・アンゲロプロスを例に出すのは乱暴だと言われるなら、「幻の光」の是枝和裕あたりを思い浮かべてもいい。説明過多で予定調和のハリウッド作品や日本のTVドラマとは対極にある(と少なくとも本人は信じている)映像至上主義とやらのスタンスとは何か。セリフや余計なエピソードでドラマの本筋を語らせることを廃し、観客の想像力を信じて映像中心で勝負すること。あるいはセリフやナレーションでは説明できないテーマを映像の力で無理矢理ねじ伏せることだと思う。そういう必然があっての手法である。その上で極端な長廻しや固定ショットが効果的だと思うのなら、遠慮なく使えばいい。しかしこの映画は“映像派”どころか、とんだ説明過剰の三流ドラマである。“映像派もどき”と言ってもいい。

 ただ眠り続ける男。この素材を何らかの比喩やメタファーとして扱うこと自体、どうも無理くさい。せいぜいが“脳障害の自宅療養における有効性と問題点”などという文化映画的な結論にしか行き着かない。これを(私が想像するに)自然と人間との葛藤とか、生の無常とか、魂の問題とかいったご大層なテーマに結び付けるため、山のような“説明的映像”を挿入しなければならなくなった。

 熱帯雨林の乱開発により家族を失ったというタイ出身のジャパゆきさん(クリスティン・ハキム)のエピソードや、頭が弱いが自然体で暮らす青年(今福将雄)の話など予定調和の極みだ。在日朝鮮人の老婦人の扱いにしてもステレオタイプの域を出ない。対して役所広司扮する主人公は感情を表に出さないキャラクターとして描かれるが、大事なところで失笑ものの説明的セリフを吐く。田村高廣の世捨て人みたいな年寄りも類型的(あらずもがなの身の上話なんかも紹介される)。

 自己陶酔的な映像美とやらは、これまた見事なほど図式的。どこかで見たようなショットの連続だ。映像で語ろうとせず、説明的セリフの中継ぎあるいは引き立て役として長廻しなどの映像テクニックを使っているから、余計な部分が恐ろしく長い。1時間40分の映画だけど、20分で済む内容を引き延ばした印象しかない。だいたい、わざわざ韓国からアン・ソンギを呼んできて、ただ寝かしとくだけなんて芸がないではないか(笑)。
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「WALL・E/ウォーリー」

2008-12-21 07:23:27 | 映画の感想(英数)

 (原題:WALL・E)キャラクター設定は魅力的だが、話の辻褄が合っていない。29世紀、ゴミの山と化した地球を人類は見捨て、巨大宇宙船に移住したまま七百年間も引きこもっている。その間にゴミ処理ロボットが地球を掃除してくれる・・・・はずだったが、ほとんどはスクラップと成り果て、動いているのはただ一体だ。

 そのロボット・ウォーリーは長年にわたる駆動で計器類がおかしくなったのか、偶然に“意志”を持つようになり、人間が残していったミュージカルのビデオを見ながらいつの日か誰かと“手と手を取り合う”ことを夢見ている。このシチュエーション自体は悪くない。冒頭よりセリフの一切ないロボットと友人のゴキブリの“二人だけ”の映像だけで“ウォーリー”の内面まで描き出す演出力は、さすがピクサー作品だ。彼らの前に宇宙より現れるハイテク・ロボットのイヴの造型も実に上手いもので、一応“女の子”という設定も頷ける。

 イヴはウォーリーが見つけた植物の苗を目的に地球にやってきたらしいのだが、ところがよく考えると荒涼とした風景の中でどうして一本だけ植物が育っているのか不思議だ。この時代の地球には海もないようだ。ならば水はどうしたのか。ゴキブリがいるところを見ると大気はそれほど汚染されていないと想像出来るが、ほぼ何もない状態の地球に人間達が大挙して戻ってきてもメリットがあるとは思えない。

 しかも、彼らは機械に身の回りを世話してもらっている状況が長かったため、すっかり足腰が弱った挙げ句ブクブクと太っている。これで地球上で生活しようとしても、重力にさえ適応できないだろう。それに細かいことを言えば、ウォーリーを載せたロケットが巨大宇宙船に到着するのに通常の航行で、ラスト近くに巨大宇宙船が地球に戻る際にはワープ航法だというのは、どう考えても理に適っていない(いったいどこに位置していたのやら ^^;)。

 「ファインディング・ニモ」のアンドリュー・スタントンによる演出はテンポが良く、特に巨大宇宙船内でのチェイスや大規模なスペクタクル場面には思わず身を乗り出して見入ってしまう。ギャグの扱いも上手い。

 ただし「2001年宇宙の旅」のあからさまなパロディが時折挿入されるのは愉快になれない。もうちょっとスマートなネタの振り方を考えるべきだった。全体として“子供と一緒に観るには良い映画”ということになるのだろう。マジメに対峙するとタメ息が出ることは確かだ。
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