元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ゴーストバスターズ アフターライフ」

2022-02-28 06:23:31 | 映画の感想(か行)

 (原題:GHOSTBUSTERS:AFTERLIFE)正直言ってあまり期待はしていなかったのだが、実際観てみると面白い。84年の第一作と89年のパート2、そして2016年のリブート版と比べても、クォリティは上だ。以前の作品群が単なる大味なドタバタ劇に過ぎなかったのに対し、本作は主題に一本芯が通っている。やはりこれは、脚本の妙に尽きる。

 家賃を払えずに追い立てを食らったシングルマザーのキャリーと息子のトレヴァー、そして娘の女子中学生フィービーは、都会からキャリーの父が遺したオクラホマ州サマーヴィルの荒れ果てた農家に引っ越して来る。この地域では、活断層も無いのに原因不明の地震が頻発していた。ある日、フィービーは地下室で謎のハイテク装備の数々を発見。どうやら祖父が使っていたものらしいが、用途が分からない。そして床下にあった装置を誤って開封してしまうと、不気味な緑色の光に包まれたモンスターが出てくる。

 実はフィービーの祖父イゴン・スペングラーはかつてのゴーストバスターズの一員であり、この地区の廃鉱山の奥に封じ込められていた魔神ゴーザを見張っていたのだ。ゴーストの封印が解けたことで、魔神復活による世界の危機が迫ってくる。フィービーはクラスメイトのポッドキャストたちと共に、祖父の遺したメカを駆使してゴーストに立ち向かう。

 この映画の主要ポイントは家族劇である。早い話が、主人公がクリーチャーとのバトルを通して、自己のアイデンティティと家族の絆を確立するというビルドゥングスロマン(?)の体裁を取っている。行き当たりばったりにワチャワチャとゴーストと戯れていた過去の作品とは違う。

 身持ちの悪い母親と、グータラな兄。しかも廃屋寸前のボロ家に押し込まれ、これでは人生投げてしまいたくなるのも当然のフィービーだが、祖父との繋がりを切っ掛けに自分を取り戻し、そして周囲の者たちとの折り合いを付けていくという筋書きは、大いに納得できる。田舎町を舞台に繰り広げられるゴーストたちとのチェイス、そして賑々しいバトルシーンはかなりの盛り上がりを見せ、監督のジェイソン・ライトマンは第一作と第二作を担当した父親のアイヴァンよりも実力は上だ。さらに終盤には“あの人たち”も登場し、お馴染みのテーマ曲も流れるのだから嬉しくなる。

 フィービー役のマッケナ・グレイスは闊達な好演で、将来を期待させるものがある。キャリー・クーンやフィン・ウルフハード、ポール・ラッド、J・K・シモンズ、オリヴィア・ワイルドなどの脇の面子も良い。また、作品自体が今は亡きハロルド・ライミスに捧げられているのも感慨深い。続編が作られる可能性は大だが、チェックしたい気になってくる。
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「恐怖分子」

2022-02-27 06:53:53 | 映画の感想(か行)
 (英題:The Terrorizers )86年作品。今は亡き台湾の名匠エドワード・ヤンの初期作品にして代表作。映画全体を覆う緊張感と、ヒリヒリするような人物描写、そしてドラマティックな展開により、観る者を瞠目せしめる一編に仕上がっている。また、扱われるテーマは現時点でもまったく色あせず、むしろ深刻度は高くなっているように思う。

 台北の下町にある不良どものアジトが警官隊のガサ入れを受ける。そこから逃げ出した混血の不良娘シューアンの姿を、アマチュア・カメラマンのシャオチャンが撮影していた。身柄を確保されたシューアンは母親によって連れ戻され、自宅から出ることを禁じられる。ヤケになった彼女はイタズラ電話に興じるが、その電話に偶然出たのはスランプ気味の女流作家イーフェンだった。夫に話があると一方的にまくし立てるシューアンのデタラメな物言いを真に受けた彼女は、愛人のシェンと共に相手が指定した古アパートに出かけるが、そこにいたのは恋人と別れたばかりのシャオチャンだった。



 一本のイタズラ電話により、当事者の不良少女をはじめ作家とその夫、および愛人、カメラマン、そして警官ら、さまざまな者たちの間に大きな波紋が広がる。そしてそれは、各人が本来持っていた屈託や人間不信、人には言えない弱点をあぶり出し、加速しながら破局に向かってゆく。その様子は、まさに(後ろ向きの)スペクタクルだ。

 タイトルにある恐怖分子とは、誰もが心の中に持っている疑心暗鬼であり、それはコミュニケーションの不全によって熟成される。普段は体裁を取り繕っているため表に出ないが、何かの拍子で顕在化し暴走する。ハーフであるため周囲から阻害されているシューアンをはじめ、登場人物とそれを取り巻く社会的環境との関係はまさに“崖っぷち”の状態に達しているが、これは現時点で見ても決して他人事ではない。特にコロナ禍などで社会の分断が進んでいる今の状態は、この恐怖分子は限りなく増長している。

 E・ヤンの演出は才気走っており、どのショットも濃厚な密度が感じられる。ドラマ運びはキレ味満点で、映像展開は実に非凡だ。特にラストの恐るべき処理には観ていて鳥肌が立った。チャン・ツァンのカメラによる台北の町並みはノスタルジックで、かつ殺伐として異世界の雰囲気をも感じさせるという独特のもの。コラ・ミャオにリー・リーチュンシェン、クー・パオミン、ワン・アン、マー・シャオチュンといったキャストはいずれもクセ者ぶりを発揮。ウォン・シャオリャンの音楽も効果的だ。
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「パーフェクト・ケア」

2022-02-26 06:55:53 | 映画の感想(は行)
 (原題:I CARE A LOT)これはつまらない。設定こそ目新しさはあるが、果たしてこれがリアリズムに準拠しているのかどうか不明。出てくるキャラクターは誰もがウソ臭いし、そもそも皆魅力が無い。ストーリー展開に至っては生温くて話にならず、鑑賞中は何度も中途退出しようと思ったほど。この程度のシャシンが本国では評価され、主演女優が第78回ゴールデングローブ賞の主演女優賞を獲得しているのだから、呆れてしまう。

 ボストン近郊で法定後見人の仕事をするマーラ・グレイソンは、高齢者に対するケアで実績を上げ、裁判所からの信頼も厚い。ところが彼女は裏で医師や怪しげな介護施設とグルになって、身寄りの無い年寄りから財産を搾り取るという超悪質な人物だった。そんな彼女が次のターゲットに定めたのが、親族のいない資産家の老女ジェニファーだった。

 まんまと医者にニセの診断書を書かせてジェニファーを施設に放り込むことに成功したマーラだったが、それから彼女の周りに怪しげな連中がうろつくようになる。実はジェニファーの息子はロシアン・マフィアのボスで、身寄りが無いという経歴はすべて偽装されたものだった。こうしてジェニファーの身柄をめぐって、マーラとマフィアとのつばぜり合いが展開する。

 いくらアメリカの福祉政策がいい加減だといっても、果たしてマーラがおこなっているような詐欺行為が罷り通るものか、甚だ疑問だ。もっとも、日本にも生活保護ビジネスなんてのがあるが、あれは実に反社会的行為ながら仕組みは分かる。対して、本作に描かれたような手口は(たとえ実在するとしても)現実感を欠く。

 また、マーラの造形が薄っぺらで悪女としての凄みが無い。彼女は仕事仲間のフランと同性愛関係にあるのだが、セクシャル度はほぼゼロだ。そして最大の敗因が、マフィア側の出方が稚拙なこと。いつからロシアン・マフィアはこんな手ぬるい仕事に終始するようになったのだろうか。事故や自殺に見せかけて始末するなど、甘い。これがシシリアン・マフィアやメキシコの麻薬カルテルだったら、問答無用でマーラたちをバラバラにしてブタのエサにしていたところだ。

 さらに、マーラが人間離れした“体術”を見せるに及び、完全に観る気が失せた。取って付けたようなラストも噴飯ものだ。ジョナサン・ブレイクソンの演出はテンポが悪く、ブラックなギャグも上滑りしている。主演のロザムンド・パイクをはじめ、ピーター・ディンクレイジ、エイザ・ゴンザレス、クリス・メッシーナ、そしてダイアン・ウィーストといったキャストはいずれも精彩を欠く。マーク・カンハムの音楽も印象に残らない。
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「BeRLiN」

2022-02-25 06:33:18 | 映画の感想(英数)
 95年作品。映画としての質は評価するに値しないレベルだが、製作された頃の時代の雰囲気とヒロイン役の女優の魅力により、何とか記憶に残っている作品だ。また、印象的なセリフがあり、それだけでも存在価値はあるだろう。監督の利重剛は、なぜか本作で95年度日本映画監督協会新人賞を受賞しているが、これも“時代の空気”のなせる技だと思う。

 某放送局の撮影クルーは、風俗業に関するドキュメンタリー番組を制作していた。彼らがネタとして採用したのは、キョーコと名乗るホテトル嬢だ。彼女は風俗店に1年半ほど在籍した後、突如として姿を消した。しかし、彼女を慕う者は意外なほど多い。取材中に撮影班はキョーコが住んでいたアパートに張り込むが、そこに現れたのは鉄夫という青年だった。彼はキョーコと一緒に住んでいたが、数ヶ月前に彼女は出て行ったという。鉄夫もまた、キョーコを忘れられない男の一人だった。何とか彼女を見つけ出そうとする撮影スタッフの奮闘は、いつしか番組制作会社の社長まで巻き込んでいく。



 まず、どうして登場人物たちがキョーコを追い求めるのか、さっばり分からない。彼女は“壁”のかけらが入っているという袋をお守りのように首から下げていたというが、それが何らかのメタファーになっているわけでもない。そもそも数多い関係者へのインタビューを経ても、キョーコの具体像が一向に見えてこないのには閉口した。

 後半に映し出される鉄夫とキョーコのアバンチュールみたいなくだりも、描き方が弛緩していて退屈極まりない。それに、取材を受ける面子が石堂夏央に大島渚、岡村隆、鴻上尚史、松岡俊介、福岡芳穂など不自然なほど多彩な顔ぶれであり、疑似ドキュメンタリーとしての妙味がスポイルされてしまった。

 ただし、このワケのわからない曖昧なものを漫然と追いかけ、そうすることによって何とかなるだろうといった、不確実な楽観性は90年代の雰囲気をよくあらわしている。当時はバブルが崩壊して世の中全体が沈静化していた頃だ。それでも前向きになれる物があるはずだといった、アテにならない願望だけはあった。この映画のキョーコの存在、そしてフワフワとした思わせぶりな映像は、まさにその感覚だ。しかし、しばらくすると儚い期待は打ち破られ、真に衰退に向かって行くことになるのは皮肉なものである。

 キョーコに扮した中谷美紀はこの年に映画デビューしており、そのフレッシュな魅力は忘れがたい。ただし永瀬正敏にダンカン、山田辰夫、あめくみちこ、萩原聖人といった他のキャストは精彩を欠く。撮影は篠田昇だが、どうも小綺麗な展開に終始しているようで、訴求力は万全ではない。
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「愛と喝采の日々」

2022-02-21 06:29:45 | 映画の感想(あ行)
 (原題:The Turning Point )77年作品。70年代後半に日本の興行界で“女性映画”のブームがあったらしい。しかし、本来の意味での“女性映画”は、戦後間もない頃のアメリカ映画のトレンドの一つであり、70年代の映画シーンにおいては“公認”されていない。ただ、当時は所謂“翔んでる女”だの何だのといった流行り物があり、配給会社がそれに乗っかっただけの話だろう。もっとも、当時の“女性映画”には上質なものが目立ち、そういう傾向の作品を興行側でプッシュしてくれたのは有り難いとも言える。本作もその中の一本だ。

 オクラホマシティで開かれたアメリカン・バレエ・カンパニーの公演を、地元の主婦ディーディー・ロジャースとその旦那ウェインと子供たちが観に来ていた。実は彼女は昔このバレエ団のダンサーであり、センターの座を狙えるほどの腕前だったのだが、今は引退して夫と共にバレエ教室を経営している。



 ディーディーはトッププリマのエマと20数年ぶりに再会するが、その夜開かれたパーティで、エマはバレエの才能を有するディーディーの長女エミリアにプロダンサーになることを強く勧める。ディーディーとエマは、かつて大舞台での主役やウェインをめぐって争ったライバル同士だった。複雑な思いに駆られるディーディーは、それでも娘をニューヨークに送り出す。名シナリオライターであった、アーサー・ローレンツのオリジナル脚本の映画化だ。

 要するに、人生の分岐点において仕事の第一線を選んだ女性と、家庭に入ることを選択した女性との確執が題材になっているのだが、正直言ってこの御膳立ては古い。現代ならば、仕事と家庭を両立できるような方法はいくらでも考えられる。ただ、主人公二人が現役だった頃には選択肢は多くはなかったのだ。

 とはいえ、ドラマの図式は時代を感じさせるものの、この“仕事と家庭”という対立概念(のようなもの)は今でも消え去ってはいない。仕事一筋に生きる者も、家庭を第一に考える者も、もっと別の生き方があったのではないかと思い返すことはある。しかしながら、しょせんは自分で選んだ道だ、折り合いを付けてポジティヴに進むしかない。映画が主張したいことは、要するにそのことなのだ。

 このシンプルとも言える筋書きを映画的興趣を大いに高める次元にまで押し上げているのは、まずはキャスティングだ。主演はシャーリー・マクレーンとアン・バンクロフトで、まさに横綱相撲級の演技と存在感を見せる。特にこの2人が掴み合いのケンカをする終盤近くの場面は、笑ってしまうほどのスペクタクル。このシーンだけで入場料の元は取れる。そして劇中で大々的に展開されるバレエのシーンの、何と見事なことか。ミハイル・バリシニコフが登場してのステージなど、この男の周りには重力が無いのではと思ってしまうほど。

 ハーバート・ロスの演出は職人技で、ドラマをどんどん盛り上げていく。エミリア役のレスリー・ブラウン(凄く可愛い)をはじめ、トム・スケリット、マーサ・スコット、アントワネット・シブリーなど、脇の面子も万全。第50回米アカデミー賞では10部門で候補に挙がったものの、無冠に終わったのは不思議でならない。
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「真夜中乙女戦争」

2022-02-20 06:30:32 | 映画の感想(ま行)
 いわゆる“中二病”が炸裂しているような映画で(笑)、酷評も目立つのだが、個人的には気に入った。いくらドラマが絵空事でも、上質のエクステリアと力づくの演出、そして魅力的なキャストさえ用意できれば、かなりの訴求力を獲得するものなのだ。もちろん、成功例は多くはないが、本作はそれがサマになっている稀有なケースである。

 関西から上京して独り暮らしを始めた男子大学生の主人公は、恋人はおろか友人さえも出来ずに捨て鉢な気分で毎日を送っていた。そんな中、ふとした気まぐれで入部した“かくれんぼ同好会”なる怪しげなサークルで、美人で聡明な四年生の先輩に出会い、胸をときめかせる。一方、学内ではボヤ騒ぎが頻発していた。



 主人公は偶然犯人らしき男を目撃して後をつけるが、男は得体のしれない雰囲気と巧みな話術で周囲を煙に巻く“黒服”と呼ばれる、一種の怪人だった。“黒服”と意気投合した主人公は仲間を増やし、数々のイタズラを仕掛けるが、やがてその集まりは主人公の手には負えないテロ組織と化していく。作家Fによる同名小説の映画化だ。

 コミュニケーション能力の低さを棚に上げて“オレはこんなものじゃない。ただ、今は本気出していないだけだ”と勝手に思い込んでいる痛々しい主人公が、思わぬ非日常に遭遇して自身の不甲斐なさを痛感させられるという、大して中身のない話を思いっきり粉飾して強引に観る者に押し付けて納得させようとする、監督(脚本も担当)の二宮健の実力はかなりのものである。

 近作「チワワちゃん」(2019年)でも強く印象付けられた、ケレン味たっぷりの映像処理は今回も健在で、時に目覚ましい美しさを醸し出している。特にラストの構図など、目を見張るしかない。“黒服”の暴走と四年生の先輩のリアリストぶりの板挟みになって翻弄させられる主人公の姿は、いわば自業自得であり同情できない。“黒服”との決着の付け方も呆れるしかないが、これもまた“若気の至り(?)”だと、笑って済ませたくなる。

 主演の永瀬廉は元々ジャニーズ系で、とても大学内で孤立してしまうようなルックスではないが(笑)、内面的表現には非凡なところを見せる。“黒服”の柄本佑は相変わらずの怪演で、臭さ一歩手前の異形を見せつける。先輩役の池田エライザはデビュー時の固さはすっかり取れ、エロ可愛い魅力を存分に振り撒いている。歌唱のシーンも素晴らしい。篠原悠伸に安藤彰則、山口まゆ、渡辺真起子といった脇の面子も悪くない。そして、ビリー・アイリッシュによるエンディング曲も効果的だった。
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「前科者」

2022-02-19 06:22:17 | 映画の感想(さ行)
 同じく“前科者の更生”をテーマにした西川美和監督の「すばらしき世界」(2021年)に比べると、随分と落ちる内容だ。題材に対するリサーチが甘く、キャラクター設定は不自然で、筋書きは説得力を欠く。何でも、TVドラマ版が前年放映されたとのことで、詳しいことを知りたければそっちの方を見ろということなのか。だとすれば不親切極まりない話である。

 元受刑者のフォローをする保護司の阿川佳代は、この職に就いて3年目。コンビニ店員の仕事と掛け持ちであるが、やりがいを感じていた。彼女が新たに担当するのは、殺人の罪で服役していた工藤誠だ。更生生活は順調で、佳代も誠が社会人として立ち直ることを期待していた。しかし、誠はある日忽然と姿を消す。同じ頃、連続殺人事件が発生。被害者は、過去に誠と何らかの関係があった人物ばかりだ。警察の捜査が進む中、佳代は必死になって誠の行方を追う。香川まさひと&月島冬二による同名コミックの映画化だ。



 まず、佳代がどうして保護司になったのか、その理由が不明確。彼女は昔暴漢に襲われたことがあり、それならば警察官や法曹関係者を目指すのが自然であり、保護司の仕事に興味を持つというのは筋違いだ。誠が弟の実と出会うのは偶然にしても出来すぎだし、佳代の幼馴染の滝本真司が事件を担当している刑事だというのも、完全な御都合主義。しかも、被害者たちは同じ町に今でも住んでいることになっている。

 佳代が一軒家に独り住まいしている背景も説明されない。そもそも、保釈中の殺人犯の保護司を佳代のような年下の若い女子が務めること自体、かなりの無理筋だ。他にもいろいろと突っ込みたい箇所はあるのだが、それらを糊塗するかのように、登場人物たちは滔々と説明的セリフを並べ立てる。正直言って、観ていて途中から面倒くさくなってきた。

 岸善幸の演出はいかにも“テレビ的”で、深味がない。特に、佳代と真司との取って付けたようなラブシーンには閉口してしまった。主演の有村架純をはじめ、森田剛、磯村勇斗、葉竜也、マキタスポーツ、石橋静河、北村有起哉、リリー・フランキー、木村多江と、キャストはけっこう豪華ながらいずれも精彩を欠く。岩代太郎による音楽も印象に残らない。それにしても、有村と磯村が並ぶとNHKの朝ドラ「ひよっこ」を連想してしまう(笑)。
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最近購入したCD(その40)。

2022-02-18 12:47:15 | 音楽ネタ
 英国の世界的シンガーソングライターであるエド・シーランが、2021年秋に発表した4枚目のアルバム「=(イコールズ)」はすでに好セールスを達成しており、ここであえて紹介する必要は無いとは思ったのだが、あまりのクォリティの高さに言及せずにはいられなかった。とにかく“捨て曲”が存在せず、どのナンバーも濃密な魅力を放っている。

 特に、家庭人としての自覚を探求したり、師であり友人でもあったマイケル・グディンスキーの逝去に接しての心情を綴った曲など、歌詞の内容も円熟味を増している。また、大ヒットしたシングル「バッド・ハビッツ」では、身を固める前の奔放な生活を振り返る余裕まで見せる。そしてもちろん曲調はポップで親しみやすく、メロディは訴求力が高い。



 それにしても、今までのアルバムタイトルが「+(プラス)」「×(マルティプライ)」「÷(ディバイド)」と続いたものの、この新作が「-(マイナス)」ではないのが、シーランのスタンスを象徴していて興味深い。彼にとって“マイナス要因”なんか埒外のことなのだ。そういう前向きな姿勢で、これからも意欲的な作品を発表してもらいたい。

 コペンハーゲンのピアニスト、ニコライ・マイランドが2015年に発表したトリオ作品「リービング・アンド・ビリービング」は、最近よく聴くジャズのディスクだ。とにかく肌触りの良いナンバーとパフォーマンスがずらりと並べられ、いわば“正統派北欧系美メロ(?)”とも言えるテイストを存分に堪能できる。



 最近のピアノトリオのトレンド(みたいなもの)がどうなっているのか分からないが、たまに耳にする新録音のディスクは、ヘンに高踏的だったりフリージャズっぽかったり、あるいは甘々のムード音楽仕様だったりと、あまり積極的に聴きたくないものが目立っていた。その点このCDは“甘すぎず、辛すぎず”の絶妙な線をキープしており、誰にでも奨められる。

 曲はマイランドの自作が中心だが、ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」のカバーなども入っており、飽きさせない。さらに、デンマークの歌姫シーネ・エイが参加しているのも嬉しい。録音の質は中の上といったところだが、各楽器の定位もしっかりしており、決してイヤな音は出てこない。こういうタイプのディスクが増えてほしいものだ。

 73年創設の、スウェーデンのBISレーベルはクラシック音楽中心のレコードブランドとして有名だが、内容が手堅いことでも知られている。私の知る限り、このレーベルの商品で失望したものは見当たらない。少なくとも、独グラモフォンやSONYなどのメジャーレーベルより、品質は安定していると思う。今回紹介するのは。ヴィヴァルディのイタリア・リュートのための作品全集だ。



 リュートを担当しているのは、名手ヤコブ・リンドベルク。他にはニルス=エリク・スパーフ(ヴァイオリン)、モニカ・ハジェット(ヴィオラ・ダモーレ)、およびザ・ドロットゥニングホルム・バロック・アンサンブルといった面子が顔を揃える。84年から85年にかけて、ストックホルム郊外のペトラス教会で録音されている。

 演奏は良い意味での中庸をキープ。一般には馴染みのないナンバーばかりだが、どれもしみじみと聴かせる。音質はレベルが高く、リュートの音が実にまろやか。各楽器の距離感も上手く再現されている。そして特筆されるのがホールエコーだ。演奏陣と背後の壁とがかなり離れていると思われ、反響がスッと後方に消えていくあたりは絶品である。このレーベルのディスクは、機会があればまた手にしたいと思う。
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「香川1区」

2022-02-14 06:19:48 | 映画の感想(か行)
 面白く観た。ドキュメンタリー映画の快作「なぜ君は総理大臣になれないのか」(2020年)の“続編”で、前回が“主人公”である小川淳也衆議院議員の人物像を追った作品であったのに対し、今作は選挙戦そのものを題材にしている。選挙自体がひとつのドラマであるから、この映画も当然ドラマティックな“筋書き”になるが、作者はそこを開き直って勧善懲悪のストーリーに仕立て上げている。その割り切り方が天晴れだ。

 立憲民主党の小川議員は2003年の初出馬から選挙区では1勝5敗と大きく負け越し、比例復活当選に甘んじていた。香川1区での彼の対戦相手は、前デジタル改革担当大臣である自民党の平井卓也だ。世襲議員であり、地元財界をガッチリ固めた平井の牙城を崩すことは小川にとって困難だと思われたが、2017年の総選挙では差は縮まっている。



 そして迎えた2021年秋の第49回衆議院議員選挙。平井の周囲にはスキャンダルめいた噂が飛び交い、小川にも勝ち目が出てきたように思われた。ところがそれでも平井は手強く、さらに日本維新の会から別の候補者が名乗りを上げるに至り、事態は混迷の度を増していく。

 知っての通り、先の総選挙では香川1区においては小川が勝利している(しかも投票締め切りの瞬間に当確が出た)。だから映画の“結末”は分かっている。そこまでどのように観る者を引っ張っていけるか、それが映画のポイントだが、作者は巧妙にプロットを積み上げて飽きさせない。まず、平井を利権にまみれた俗物に設定し、対して小川をいわゆる庶民派に据えた。事実もほぼその通りで、この対立構図は実に分かりやすい。

 平井の街頭演説に集まるのは、地元財界から“動員”が掛かった者が多くを占める。小川陣営は自らの主張と政治姿勢だけで聴衆を集めている。この違いは実に大きい。さらに、選挙戦も終盤に近付くと当初は余裕をかましていた平井候補は焦りの色が濃くなり、やがて八つ当たり的な批判に走るあたりも愉快だ。また、小川候補も絶対的な善玉ではなく、維新の会に対する言動は明らかに不適切(田崎史郎の指摘の方が正しい)。ただ、そのことが映画の中では小川の人間臭さにも繋がっており、作劇上の瑕疵にはなっていない。

 斯様に2時間半以上の尺がありながら楽しませてくれたことは事実だが、劇中には題材に対する問題点も挙げられている。まず、小川が自転車に乗って道行く者たちに挨拶して回るシーンに代表されるように、我が国における選挙戦が旧態依然とした名前の連呼とイメージ戦略に終始していることだ。立会演説会や戸別訪問もできない現状は、民主主義の危機を暗示している。そして、政策を訴える場面が少ないのも憂慮すべきことだ。もちろん、当選しても政策を実行しない例は多々あるのだが(苦笑)、最低限のスタンスは明示してしかるべきである。

 さて、今回めでたく当選した小川だが、立憲民主党の代表選には決選投票にも残れなかった。これは、同党に危機管理意識が働いたと思われる。今年(2022年)初めに放映された討論番組に出演した彼は、現実無視の空想論を捲し立てていた。まるで昔の社会党である。これでは野党第一党の党首は務まらず、党員が敬遠したのも当然だ。

 とはいえ“たとえ51対49で勝ったとしても、負けた49の側の意見も尊重するのが民主主義だ”という小川の認識は正しい。もしも私が香川1区の有権者だったら、やっぱり彼に一票を入れると思う。それだけ今の与党(および維新)の増長ぶりは甚だしい。
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「野蛮人のように」

2022-02-13 06:16:03 | 映画の感想(や行)
 85年作品。封切り時は正月映画の目玉として公開され、事実それなりの興行成績を上げたのだが、実はそれは併映の那須博之監督の「ビー・バップ・ハイスクール」のおかげである。当時テレビで興行評論家の黒井和夫が“7対3の割合で「ビー・バップ~」が引っ張っている”と言っていたらしいが、観客の反応を見ていればそれは明白だった。とにかく何とも形容しようのないシャシンで、評価出来る余地はない。

 主人公の有楢川珠子は15歳のとき作家デビューして早々に頭角を現したものの、20歳になった今ではスランプ気味だ。アイデアが浮かばない夜、彼女は気晴らしに仕事場である海辺のコテージを飛び出し、六本木まで車を走らせる。一方、六本木の風俗店の用心棒を務める中井英二は、兄貴分の滝口から突然電話で呼び出される。

 中井が指定された場所に出かけてみると、滝口は誰かに撃たれて負傷しており、そばには彼が属する山西組の組長の死体が転っていた。実はこれは滝口の偽装殺人だったのだが、彼は中井に“犯人は組長の情婦で、水玉のブラウスに白いパンツを着ていた”とデタラメを吹き込む。ところが、六本木にやってきた珠子は偶然にも同じ服装をしていた。これまた偶然に珠子と遭遇した中井は、彼女ともども事件をもみ消そうとする組織の連中から追われることになる。

 話自体はかなり剣呑で、流血沙汰も少なからずあるのだが、陰惨な印象は受けない。ならばポップな線を狙っているのかというと、それにも徹し切れていない。何とも煮え切らないシャシンだ。展開は行き当たりばったりで、作劇のテンポはかなり悪い。キャラクター設定もいい加減で、珠子はとても作家には見えないし、中井はカッコ付けただけのチンピラだ。

 ヒロインたちが悪漢どもと攻防戦をやらかすのは海辺の小屋なのだが、いかに危機突破のためとはいえ、仕事場を爆破して笑っていられる作家なんていないだろう。斯様な不手際を回避するには、攻防戦の場所をどこか別の場所に変えることで容易に達成するのだが、作者にはその程度の配慮も見られない。また、単純娯楽編という触れ込みのはずだが、カメラワークは不自然に凝っているあたりも痛々しい。

 監督と脚本担当は川島透だが、当時の彼には才能は感じられなかった(その後いくらか持ち直したが、今は何をやっているのか不明)。珠子に扮した薬師丸ひろ子はこれが角川事務所を辞めてからの第一作だが、どうやら作品の選定を間違えたようだ。相手役の柴田恭兵をはじめ、河合美智子に太川陽介、清水健太郎、ジョニー大倉、寺田農とキャストは多彩だが、上手く機能していない。ただ、音楽担当が加藤和彦であるのは、多少の興味は覚えた。
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