元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「アイヌプリ」

2025-01-31 06:13:57 | 映画の感想(あ行)
 映画的興趣とは別の地平に位置するような作品だが、資料的な意義は大いにある。とにかく、取り上げられている事物が珍しく、こういうドキュメンタリー映画の形でまとめ上げてもらうと、幅広い層にアピールすることが可能になってくるだろう。また難解な部分はなく、平易なホームドラマとしての側面があることも認めて良い。

 舞台は北海道東部の釧路総合振興局管内にある白糠町。そこで伝統的な鮭漁のマレプ漁をはじめとしたアイヌ文化(アイヌプリ)を継承している人々を描く。映画の中心に据えられているのは、天内重樹とその一家だ。冒頭、彼の猟銃から放たれた銃弾が一発でエゾシカの脳天を貫くシーンはかなりのインパクトだ。しかし、続いて描かれる鮭漁に関しても、決して彼は余分な獲物を得ようとはしない。必要最小限に留め、自然の神に感謝して日々の勤めを全うする。



 もちろん、いくら彼がアイヌとはいえ、古来からの自給自足に近い生活を今も送っているわけではなく、ちゃんと地域社会の一員としての役割も果たしている(漁をするに当たっては年度ごとに当局側に許可申請するのだ)。その折り合いの付け方が彼の中で“完結”しており、それが家族や仲間たちにも共有されていることに感心した。

 特に小学生の息子とのやり取りは面白く、この子がなかなか利発で父親が伝えたいことを過不足なく咀嚼しているのも好印象だ。また、一家の長男は産まれて間もなく世を去っていることが語られ、そこから重樹と妻がどう立ち直っていったのか、観る者の想像力をかき立てる仕掛けも興味深い。

 アイヌの伝統や風習を紹介するくだりは、よく撮られている。監督の福永壮志が彼らの深い信頼を得ていたことが窺われよう。そして何よりエリック・シライのカメラによる自然の風景は、本当に美しい。日の出の神々しさや、夜の深い闇など、アイヌの人々が昔から向き合っていた世界が確かに映し出されている。
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「FPU 若き勇者たち」

2025-01-27 06:23:03 | 映画の感想(英数)
 (原題:維和防暴隊 FORMED POLICE UNIT)以前観た「ボーン・トゥ・フライ」(2023年)と同様、中国の国威発揚映画ということは分かる。ただ、それを別にしても良く出来た戦争アクション編であることは確かで、鑑賞後の満足度は決して低いものではない。各キャストは健闘しているし、何より設定自体が興味深い。本国で大ヒットしたというのも頷ける。

 国連は中国に、主要加盟国の平和活動ミッションとして組織警察隊(FPU)の出動を要請する。派遣先は、政府軍と反政府組織の武力紛争が激化するアフリカ某国だ。分隊長ユー率いる部隊は、その中でも最もヤバい地域を担当することになる。テロの首謀者は逮捕はされているが、裁判はまだ開かれていない。この部隊の任務は、重要な証言をする予定の政治活動家とその妻子を、公判までに無事に裁判所に送り届けることだ。当然のことながらテログループは証人を抹殺するため、その道中に大挙して襲ってくる。中国FPUは、限られた人員で決死の突破を試みる。



 あくまで治安維持のための警察官に過ぎない主人公たちが、成り行きとはいえ反政府軍と本格的な交戦状態に入るというのは無理がある。また、この地域を仕切る某西欧国の司令官が絵に描いたような事なかれ主義である点も、いかにも図式的だ。しかし、このような瑕疵をあまり感じさせないほどのパワーが本作にはある。

 前半の、敵スナイパーを追跡するシークエンスの、まるでパルクールのような離れ業の連続に唸っていると、次には大規模なカーチェイス場面も控えている。いったいどこから現われるのかと思えるほど、完全武装した敵が次から次に主人公たちを襲い、無事に証人たちを時間通りに送り届けることが出来るのかというサスペンスも盛り上がる。ユー隊長とチームの狙撃担当のヤンとの間には個人的な確執があり、その設定が後半に活かされる配慮も申し分ない。



 監督は武術監督出身のリー・タッチウだが、「インファナル・アフェア」シリーズの監督アンドリュー・ラウが製作総指揮に名を連ねていることが大きいだろう。ユーに扮するホアン・ジンユーとヤン役のワン・イーボーは、面構えと身のこなし共に合格点。それから、部隊の紅一点を演じるエレイン・チョンはとても美人だ。

 繰り返すが、この映画は中国当局のPR目的という側面が大きく、そのあたりに納得出来ない観客も少なくないだろう。だが、実際に中国のFPUは各地に派遣されて実績をあげているようで、映画化して悪いわけではない。日本でも自衛隊のPKOを題材にした映画が作られても良いと思ったほどだ。
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「ルー・ガルー 人狼を探せ!」

2025-01-26 06:06:20 | 映画の感想(ら行)

 (原題:LOUPS-GAROUS)2024年10月よりNetflixから配信されたフランス製のファンタジーコメディ映画。正直言って、あまり上等なシャシンではない。劇場でカネ取ってこの程度のものを見せられれば腹も立つだろう。だが、テレビ画面だと何とか我慢は出来る。一種のタイムスリップ物としてのテイストも盛り込まれていて、その興趣は確かにあると思う。

 田舎町に住む一家が、ある日偶然に古びたボードゲームを見つける。早速皆でプレイしてみると、何と15世紀末に全員タイムスリップしてしまう。元の時代に戻るには、毎晩姿を現す恐ろしい人狼(じんろう)たちを退治し、そいつらが持っているカードをすべてボードに装着しなければならない。また、どういうわけか一家にはその世界では特殊能力が備わっており、彼らはそれを駆使して人狼に立ち向かう。

 この設定はアメリカ映画「ジュマンジ」(95年)からの流用だと思う視聴者も多いだろう。だが、出来の方は“本家”には及ばない。そもそも。主なモチーフは「ジュマンジ」で出尽くしていて、現時点でこのネタをやるのは“証文の出し遅れ”だろう。もっとも作り手の方はそれを承知しているらしく、何とか新味を出そうと腐心している。それは、この一家の構成だ。

 主のフランクとスザンヌの夫婦は共に再婚。それぞれに連れ子がいて、肌の色も違う。そしてスザンヌは弁護士だ。そんなプロフィールを中世の人間に説明しても、誰も理解しない。それどころか、読み書きが出来る女性は魔女扱いされる始末。そのあたりのギャップが笑いを呼び込むが、映画全体を押し上げるほどではない。

 監督および脚本担当はフランソワ・ユザンなる人物だが、才気も個性もさほど感じられない。クライマックスのバトルシーンはそこそこ盛り上がるものの、やはりハリウッド作品などと比べると見劣りするのは否めない。ラストに用意されているオチも、大して効果的ではない。

 とはいえ、祖父役としてジャン・レノが出ているのは注目すべき点だ。彼もいつの間にか70歳を超えていて、劇中では認知症に罹患したキャラクターだが、中世にタイムスリップした時には健常者になって活躍するのだから、けっこう感慨深い。スザンヌ・クレマンにリサ・ド・クート・テシェイラ、アリゼ・クニー、ラファエル・ロマンといったその他のキャストは馴染みはないが、皆破綻のない仕事ぶりだ。
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「366日」

2025-01-25 06:20:01 | 映画の感想(英数)
 呆れてしまった。ストーリーが斯様に冴えないシロモノであるにも関わらず、そこそこ名の知れたキャストが集められた上で映画が撮られ、堂々と全国拡大公開されてしまう不思議。そしてこんな低級なシャシンに対して“泣けた”とか“感動した”とかいう評価が少なからず寄せられるという、身も蓋もない事実。これが日本映画およびそれを取り巻く状況の実相かと思うと、とことん憂鬱な気分になってくる。

 2003年、沖縄に住む高校1年生の玉城美海は、偶然に同じ高校の3年生である真喜屋湊と出会う。音楽の趣味が合う2人は意気投合し、湊の卒業を機に本格的に交際が始まる。湊は音楽を作るという夢があり、東京の大学に進学。2年後には美海も上京して同じ大学に通うことになるが、その後音楽会社への就職がスンナリと決まった湊に対し、通訳の仕事を希望していた美海の就職活動は上手くいかない。そしてある日突然、湊は美海に別れを告げて去ってしまう。

 原作があるわけではなく、沖縄出身のバンド“HY”の同名楽曲をモチーフに作られたオリジナルストーリーだ。まず、とにかく観客を泣かせることしか考えていないような、無理筋の展開には閉口する。冒頭、2024年において美海が病で余命幾ばくも無いことが示されるが、湊の母親も病気で若くして世を去っており、さらには湊も体調を崩して入院するという、この“難病三連発”は一体何の冗談なのかと思ってしまった。

 湊が別れを切り出した時点で美海は妊娠していて、それを湊は長い間関知していなかったという謎な筋立て。美海の同級生だった嘉陽田琉晴は、失意のうちに帰郷した彼女のために一肌脱ぐのだが、これがまたアクロバティックな持って行き方で、到底納得できるものではない。

 あと、いちいち挙げるとキリがないほどの雑な部分が満載なのだが、私が特に愉快ならざる気分になったのは、美海と湊は音楽が縁で仲良くなり、彼も音楽業界に身を置いているにも関わらず、劇中に彼らに関係した音楽がほとんど鳴り響かないことだ。確かに“HY”のナンバーは申し訳程度に挿入されるが、最後まで主人公たちが本当に音楽好きであることを表現する仕掛けは無い。そもそも、湊と仕事を共にしてデビューする望月香澄の歌声さえ流れないのだ。

 新城毅彦の演出は凡庸極まりなく、見るべきものは無い。主演の上白石萌歌と赤楚衛二をはじめ、中島裕翔、玉城ティナ、溝端淳平、国仲涼子、杉本哲太など、演技が下手な面子は見当たらないだけに、この低調な作劇は噴飯物と言うしかない。

 あまり苦言ばかりを呈するのも何なので、唯一感心した部分もあげておこう。それは映像だ。小宮山充と西岡章のカメラが捉えた沖縄の風景は、目の覚めるような美しさである。舞台が東京に移ってからもヴィジュアルの上質さは維持され、どのショットも構図がキッチリと組み立てられている。中身は無視してカメラワークだけを楽しむ分には良いかもしれない。
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「山の焚火」

2025-01-24 06:22:35 | 映画の感想(や行)
 (原題:HOHENFEUER)85年作品。ストーリーだけに着目すればとんでもないインモラルなシロモノであり、単なる怪作として片付けられるところだ。しかし、この舞台設定とキャラクター配置によって、何やら神話の世界のような雰囲気を醸し出している。ヌーボー・シネマ・スイスの旗手として知られるフレディ・M・ムーラーによる作品で、85年のロカルノ国際映画祭にて大賞を獲得している。

 アルプスの奥地で、荒れた農地とわずかな家畜にすがってささやかに生きる4人の家族が主人公。十代半ばの息子は、生まれつき耳が聞えない。だが、しっかり者の姉のサポートもあり健やかに育っている。ある日、些細なことで息子は父親と仲違いし、家を飛び出して山小屋で一人暮らしを始める。姉はそんな弟を心配してたびたび小屋を訪ねるのだが、やがて何と姉の妊娠が発覚してしまう。思いがけない近親相姦に激高した父親は、猟銃を持ち出してすべてを終わらせようとする。



 バックに控えるアルプスの大らかな自然の風景に対し、序盤から登場人物たちの周囲には神経質なくらいに繊細な緊張感があふれている。それをさらに強調するのが音響だ。風の音やハチの羽音、または柱時計の針音などが、静謐な情景の中で効果的に扱われている。まさに何かが起きる“予感”が画面の隅々にまで漲っている。そして、その中に生きる息子の思春期独特の肉体の焦燥感も浮き彫りになっていく。その切迫感が、観る者をとらえて離さない。

 姉と弟との性交渉というモチーフも、こういうドラマ設定の中ではごく自然に納得させられるのだ。もちろん作者は彼らの行為を異常なものとして扱っておらず、その罪を批判する姿勢も見せない。このような設定では“自然なもの”として描かれているのだ。しかし、親の世代のモラルとしては許されない。

 終盤の筋書きと、それに続くエピローグは、一般的な道徳律の世界から離れた“彼方の次元”へと旅立つような映画的スリルを味合わせ、圧倒される思いである。ピオ・コラーディのカメラによる映像は痺れるほど美しく、作品の格調高さに貢献している。トーマス・ノックにヨハンナ・リーア、ロルフ・イリック、ドロテア・モリッツらキャストはすべて好演。なお、タイトルの意味はラストシーンで分かるのだが、実に深い余韻を残す。
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「ビーキーパー」

2025-01-20 06:30:30 | 映画の感想(は行)
 (原題:THE BEEKEEPER )お馴染みジェイソン・ステイサム御大主演のアクション編だが、彼が出た映画の中では一番面白い。何よりも話がよく出来ている。そしてそれを盛り上げる演出もある。もちろん、アクション場面については言うことなしだ。フラリと映画館(シネコン)に入って、肩の凝らない活劇編をチョイスしてみたら、思いがけなく引き込まれ得した気分になれるという、娯楽作品の王道みたいなシャシンである。

 主人公のアダム・クレイは、アメリカの片田舎で養蜂家(ビーキーパー)として隠遁生活を送る謎めいた中年男。ある日、土地を提供してもらっている老婦人エロイーズがフィッシング詐欺に遭って全財産をだまし取られ、絶望のあまり自殺してしまう。復讐を誓うアダムは、詐欺グループを叩き潰すべく行動を開始。実は彼は世界最強のエージェント組織“ビーキーパー”に所属していたことがあり、並外れた戦闘力と独自の情報網を駆使してターゲットを追い詰める。



 ネットにおける詐欺犯罪はどこの国でも問題になっており、これを題材にした時点でアドバンテージは確保されていると思うが、本作はさらに突っ込んだ筋立てを用意している。この詐欺組織のバックにはCIAなどの政府当局が控えているのをはじめ、大統領官邸も一枚噛んでいるというエゲツなさ。その詐欺行為でかき集めたカネがどのように使われているかが明らかになるくだりには、呆れつつも感心するしかない。

 言い換えれば、今はここまで大風呂敷を広げないと単純な肉体アクション編は存在感を発揮できないのだろう。主人公の抜け目ない行動は御都合主義と映るかもしれないが、ステイサムのキャラの強さで押し切っていて、ある意味安心感さえ漂ってくる。また闇雲に大暴れしているようでいて、直接は悪事に関係の無い警察や軍の構成員たちはノックダウンさせるに留め、敵組織の幹部及びそれに雇われた悪漢どもは容赦なく始末するという、そんな“区分け”がキッチリ出来ているのも好印象である。

 デイヴィッド・エアーの演出は闊達かつスムーズで、1時間45分という適度な尺も相まって実にタイトな感触だ。エミー・レイバー=ランプマンやジョシュ・ハッチャーソン、ボビー・ナデリ、ミニー・ドライヴァー、フィリシア・ラシャドなどの面子の仕事ぶりは申し分なく、ジェレミー・アイアンズが悪役に回っているのも面白い。なお、この映画内での大統領は女性である(演じているのはジェマ・レッドグレーヴ)。現実では女性が米国のトップに座るのは、まだ先の話だろう。
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「セキュリティ・チェック」

2025-01-19 06:17:26 | 映画の感想(さ行)
 (原題:CARRY-ON)2024年12月よりNetflixから配信されたサスペンス編。これは楽しめた。劇場公開しても良いほどのレベルだ。舞台設定とキャラクターの扱いは、レニー・ハーリン監督の「ダイ・ハード2」(90年)との共通性を見出す向きも多いだろう。ただし、本作の筋書きはよりアップ・トゥ・デイトであり、主人公の造型も等身大に近付いている。それだけ訴求力が大きい。

 ロスアンジェルス国際空港の運輸保安局員として勤務しているイーサン・コーペックは、実はかつて警察官を目指していた。しかし微妙な理由で採用されず、今は冴えない日々を送るのみだ。そんな中、クリスマスイヴに手荷物検査係に回された彼は、謎の男から脅迫を受ける。首都ワシントン行きの機内に持ち込まれる予定の危険物を見逃さないと、同じ空港に勤める妊娠中の恋人ノラの命は無いというのだ。イーサンは事態を打開すべく、テロリストとの戦いに身を投じる。



 イーサンは「ダイ・ハード2」の主人公ジョン・マクレーン刑事よりも、さらに非力だ。もっともマクレーンもそんなに敏腕というわけではないが、前作で大きなヤマを解決した実績があり、警部補という階級も保持している。対してこのイーサンはしがない空港職員で、腕っ節も強くない。そんな“一般人”が巨悪に立ち向かうハメになるというのは、アピール度が高い。

 そして、テロリスト側の思惑も捻っていて、単に危険物を仕掛けるだけではなく、この事件が起こったらどこが疑われて結果的にどうなるといった複雑な計算もカバーしている。また、運び屋と調整役が別々のスタンスで動いているあたりは上手い処理で、事件発生に気付いた女性刑事が外部からフォローするというサブ・プロットも的確だ。ジャウム・コレット=セラの演出は前作「ブラックアダム」(2022年)よりもさらにレベルが上がったようで、弛緩した部分が見受けられず、最後までドラマを引っ張ってくれる。

 アクション場面は予算はさほど投入されてはいないが、アイデアが豊富で飽きさせない。特に手荷物集積場での格闘シーンは、先の読めない展開もあってかなり盛り上がる。主演のタロン・エガートンは“普通の男”を懸命に演じ、「キングスマン」シリーズ出演時よりも成長が認められる。ソフィア・カーソンにダニエル・デッドワイラー、ジェイソン・ベイトマン、テオ・ロッシなどの他のキャストも申し分ない。
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「型破りな教室」

2025-01-18 06:16:56 | 映画の感想(か行)
 (英題:RADICAL )とても感銘を受けた。この“問題のある学校が型破りな教師の奮闘により改善に向かう”という設定の学園ドラマは、それこそ昔から多数作られており、題材としては陳腐とも言える。しかし、本作の内容は小賢しい突っ込みを軽く跳ね返すほどの強靱な求心力が確保されているのだ。しかもこれが実話というのだから、驚くしかない。

 アメリカとの国境近くにある、メキシコのタマウリパス州北東のマタモロスの小学校に、出産のため辞職した6年生の担任の代役としてセルヒア・フアレス・コレア教諭が赴任してくる。この学校を取り巻く環境は過酷で、周囲には麻薬密売組織などの反社会勢力が蔓延っており、生徒たちもそれらと無関係ではいられない。また貧困に喘いでいる家庭も多く、学校内も設備は不足し、教員は事なかれ主義の者ばかり。



 結果として学力は国内最底辺で、6年生の半数以上が卒業を危ぶまれる始末。だがフアレスは、生徒たちの興味を惹くような今までにないユニークな授業を敢行する。当初は学校側も戸惑うが、フアレスの熱意は次第に周りに伝わってゆく。

 まずは、この学校および街の状況の劣悪さに驚く。もちろん、先進国以外での公的教育現場というのはどこも良好とは言えないのだが、このマタモロスから国境を隔てたほんの40km先に、スペースX社が運営するケネディ宇宙センター第39発射施設が存在するという構図はかなりショッキングだ。最先端のテクノロジーの集積所の隣に、メキシコでも最悪の場所が存在している、この絶望的な格差を見せつけられると慄然とするしかない。

 しかし、フアレスは挫けない。単なる詰め込みの教育ではなく、真に生徒たちが各科目に興味を持てるようなメソッドを駆使し、少しずつ状況を改善していく。そのプロセスに無理はなく、こうすればこのような結果が付いてくるという、誰にでも納得出来るような組み立て方だ。特に、ゴミの山の隣に暮らす女生徒パロマが教師によって自身の進む道を見出すくだりは、実に感動的。なお、彼女も実在の人物であり、今は期待の若手研究者として活躍しているという。

 反面、マフィアの抗争が学園内にも波及して悲劇を生む様子も容赦なく示される。そんな残酷な事実がありながら、それでも前を向いて進もうとするフアレスと生徒たちの姿には感銘を受ける。脚本も手掛けたクリストファー・ザラの演出には、わざとらしいケレンを廃した真摯さが伝わってくる。

 フアレス役のエウヘニオ・デルベスは最高の演技。校長先生を演じたダニエル・ハダッドをはじめ、ジェニファー・トレホ、ミア・フェルナンダ・ソリス、ダニーロ・グアルディオラなど子役たちも万全だ。なお、この学校はそれから全国トップの成績をおさめるようになり、フアレスも引き続き現場で頑張っているのだという。
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「近頃なぜかチャールストン」

2025-01-17 06:16:56 | 映画の感想(た行)
 81年作品。監督は岡本喜八だが、彼の全盛期は60年代か、強いて言えば70年代半ばまでだろう。本作もそれほどアピール度は高くない。同監督のファンで、全作品をチェックしたいと思っている映画ファン以外には、現時点ではあまり奨められないと思う。しかしながら、この年のキネマ旬報ベストテンにはランクインしており、リアルタイムで鑑賞していれば印象は変わったかもしれない。

 不良少年の小此木次郎は悪さをしてブタ箱に入れられた際、そこで無銭飲食で捕まった年嵩の男たちと知り合う。彼らは自分たちを独立国であるヤマタイ国の国民と名乗っており、次郎は呆れつつも興味を持つ。後日、それぞれ釈放されるものの、次郎は彼らのことが気になってガールフレンドのトミ子と一緒にヤマタイ国を探す。



 すると何と、そこは行方不明になっている次郎の父親が彼らに無償で貸していた物件だった。次郎はヤマタイ国に乗り込むが、スパイ容疑とやらで捕まった挙げ句に、無理矢理に“帰化”させられてしまう。こうして若造と怪しい老人たちとの奇妙な共同生活が始まる。

 オッサンどもは製作当時からすれば戦中派ぐらいだろうが、別に先の戦争に対する屈託や物言いが横溢するわけではなく、ただ何となくバカなことをやっているだけだ。しかしながら、やたら年寄り臭くなることは何とか回避されている。その理由はたぶん、脚本に岡本御大だけではなく次郎に扮する利重剛が加わっているからだろう。

 彼は本作が撮られた時期はまだ二十歳前であり、ヤマタイ国創立などという年寄りのお遊びを一歩も二歩も引いた地点から見ていたと思われる。その醒めた立ち位置は、ヤマタイ国の地下に不発弾が見つかったり、保険金殺人事件を追う刑事たちが勝手に話に加わったり、さらに関西から来た殺し屋が乱入してきたりといった荒唐無稽な筋書きを前にしても少しも揺るがない。いわばキャラクターに媚びないようなテイストを取り入れていることが、本作の(岡本喜八の映画としては)特異性を際立たせて評論家筋にウケたのだろう。

 しかも、意味も無くモノクロで撮られている点も好事家の興味を引きやすい。利重剛以外のキャストは、財津一郎に本田博太郎、小沢栄太郎、田中邦衛、殿山泰司、岸田森、寺田農、光石研、速水典子など、かなり豪華。タミ子役の古館ゆきも良い味を出している。なお、音楽担当は大御所の佐藤勝で、ここでも安定した仕事ぶりを見せている。
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「神は銃弾」

2025-01-13 06:16:03 | 映画の感想(か行)
 (原題:GOD IS A BULLET )99年に刊行されたボストン・テランによる原作は英国推理作家協会賞の最優秀新人賞をはじめ各アワードを獲得し、日本での翻訳版も日本冒険小説協会大賞を受賞するなど、かなりの評判を博している。私も十数年前に読んで好印象だったことを覚えているが、これを映画化するにはハードルが高かったと思われる。かなりの長編であることはもちろん、主要キャラクターであるヒロインの造型が圧倒的で、演じられる女優がそう簡単に見つかるはずがない。ところが今回の映画版ではそのあたりがクリアされていて、それだけで評価したくなるシャシンだ。

 メキシコ国境近くの町に住む刑事ボブ・ハイタワーは、ある日突然にカルト教団“左手の小径”に元妻とその再婚相手が殺されるという災難に見舞われる。しかも、中学生の娘は教団に誘拐されて行方が知れない。ボブは何とか娘を探そうとするが、法の限界があって上手くいかず、警官の職を捨て独自に行動することを決める。そんな彼が出会ったのが、かつてそのカルト教団に誘拐されたものの生還を果たした経験を持つ若い女、ケース・ハーディンだった。2人は協力して“左手の小径”に立ち向かう。



 このケースの、蓮っ葉でいながら純情で、極限状態の中で主人公と衝突しながらも決して諦めないという性格は、長い原作を最後まで読者を釘付けにするほどの存在感を示していた。これは容易に映像化できる個性ではないはずだが、本作の主演女優であるマイカ・モンローは見事に仕事をやり遂げている。まるで原作から抜け出してきたかのような佇まいで、このキャスティングは大成功だ。

 とはいえ、2時間半の上映時間でも小説版をフォロー出来ていない。ボブの元妻らが襲われた原因も、明示されていない。その事件の関係者らしき登場人物たちも出てくるが、唐突な感じは否めない。そして何より、熱心なキリスト教徒だったボブが、題名通り“神は銃弾だ”という結論にたどり着くプロセスも不十分である。

 ところが監督のニック・カサヴェテスは“そんなもどかしさは、派手な場面の釣瓶打ちでカバーしてやる!”とばかりに、程度を知らないバイオレンス描写を畳み掛けてくる。見ようによっては、まるでスプラッタ映画だ。しかし、そんな大暴れの背景は主人公たちの憤怒に裏打ちされているので、無理矢理な印象はあまり受けない。

 ボブに扮するニコライ・コスター=ワルドーは熱演だし、敵の首魁を演じるカール・グルスマンも憎々しい。また、教団に関係の深い得体の知れぬ男の役をジェイミー・フォックスが担当しているのも効果的だ。そして特筆すべきは、撮影監督は香取健二という日本人である点だ。どういう経歴でどのようなテイストを持った人材なのかは分からないが、荒涼とした中西部の風景の捉え方は上手いと思った。
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