元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「地下鉄のザジ」

2009-12-26 07:12:43 | 映画の感想(た行)

 (原題:Zazie dans le metro )1960年作品。ニュープリントでのリバイバル上映をやっていたので足を運んでみた次第。有名な作品だが、実は私は観たことがなかった。で、今回実際に接してみて、心底驚いた。この個性とセンス、比類無き映像感覚とノリの良さは、まさにカルト映画の極北に位置している。当時20歳代だったルイ・マル監督の才気のほどが分かる一作だ。

 小学生の女の子ザジ(カトリーヌ・ドモンジョ)は母親に連れられてパリにやってくる。母親はとうの昔に旦那と別れており、パリに来たのは“恋人”と会うためだ。その間、ザジは2日間だけ叔父のガブリエルの家に預けられることになる。ところが、乗るのを楽しみにしていた地下鉄はストでお休み。落ち込むザジだが、怪しげなキャバレーの舞台に立っているガブリエルをはじめ、周囲には奇人変人がいっぱい。地下鉄のことを思い出すヒマもなく、次々に持ち上がる騒動に巻き込まれていく。

 ハッキリ言って、これは戦前のサイレント時代にたくさん撮られたドタバタ喜劇のカラー・トーキー版である。チャップリンやキートンによって作られたそれらの映画のヴォルテージの高さは、モノクロ映像とサイレントという二大要素によって支えられていたと言えよう。どんなにシュールな作劇が展開されようと、色彩と音がネグレクトされた世界での話なので、まさに“何でもあり”という決まり事が作者と観客の間には締結されていた。ところが画面に色が付き音声が流れるようになると、映画が実世界に近づいてくると同時にサイレント時代のような無茶な作劇が出来なくなってくる。そんな筋書きを打ち破ったのが本作だ。

 サイレント喜劇のエッセンスを巧みに現代風にアレンジしている。その中でも、ザジがヴィットリオ・カプリオーリ扮する胡散臭い紳士とパリの街で追いかけっこを演じるシークエンスは素晴らしい。絶妙のカット割りと編集技術。そしてスピード感。今のようにCG合成なんか存在しないはずなのに、この場面の特撮効果は現代の映画よりも上である。

 さらにキートン映画を彷彿とさせる集団チェイス・シーンや、フィリップ・ノワレが披露するエッフェル塔でのヨタヨタ演技など、あまりにも見事で、笑う前に感心してしまうシーンの連続だ。さすがに後半になると緩慢な場面も目立ってくるが、パイ投げならぬスパゲッティ投げの大立ち回りや、ラストのザジの“決め台詞”などでしっかり踏みとどまってしまう。パリの名所・旧跡がいっぱい出てくる観光映画としての側面も見逃せない。

 マル監督は後年は出来の良くない映画もけっこう作ってはいるのだが、「死刑台のエレベーター」をはじめ、この時期の彼は“天才”と言える。サイレント時代の先人に対して敬意を払っているあたりも気持ちが良い。必見の快作だ。
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「センターステージ」

2009-12-25 06:27:00 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Center Stage)2000年作品。ニューヨークの名門バレエ団、アメリカン・バレエ・カンパニーへの登龍門である学校に入学したヒロイン(アマンダ・シュール)を中心に、ダンサーたちの挫折と栄光を描く。監督は「私の愛情の対象」などのニコラス・ハイトナー。

 さて、本作はバレエ映画だ。でも、その題材を現時点で扱うこと自体が辛い。なぜならバレエ映画には過去に「赤い靴」だの「愛と喝采の日々」だの「愛と哀しみのボレロ」だのといった秀作・佳作が目白押し。よほど目新しいネタを振らない限りアドバンテージは取れないと思うが、この映画ではどうだったか。正直言ってあまり気勢のあがらない結果になってしまったようだ。

 舞台となるバレエ学校を丁度アラン・パーカーの「フェーム」の芸能学校みたいに描いて青春群像を捉えようとしたのはわかるが、登場人物の設定・配置や扱われるエピソードがメチャクチャ陳腐。しかも腹芸を見せられるような達者なキャストも少ないし、演出も演技指導も表面的。あらずもがなの結末にはタメ息が出た。

 ならばバレエ場面で大量得点を狙いたいところだが、ヒロインが好意を寄せるクーパー役のイーサン・スティーフェルの名人芸を除けば、過去の作品群に比べて技巧や振り付けに特筆すべきものはない。せめて舞台監督役のピーター・ギャラガーが踊る場面でも出してウケを狙ってほしかった(笑)。
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「パブリック・エネミーズ」

2009-12-24 06:26:59 | 映画の感想(は行)

 (原題:Public Enemies)退屈な映画だ。もっとも、それは予想していた。何しろ監督がマイケル・マンである。彼は何度となく犯罪ドラマを手掛けているが、いずれも極端な温度感の低さが特徴だ。もちろん、クライム・サスペンスはすべてホットに生々しく撮らねばならないというキマリはない。クールに一歩も二歩も引いた地点から題材を捉えるという手法も有効な場合が多いのだ。だがマン監督作品はどれもその立ち位置が曖昧である。

 冷めているようでいて、銃撃シーンの撮り方に代表されるように、局所的な部分では過度な執着ぶりを見せる。また、ドラマのトーン自体が寒色系であるにもかかわらず、主人公像は不必要に暑苦しいダンディズムを付与されている。要するに、映画作りに対するスタンスがチグハグなのだ。同様に映画の出来自体もチグハグに終わっている場合が多い。

 ならばどうして一線での仕事が回ってくるのかというと、たぶんあの清涼でスタイリッシュな映像タッチがハリウッドにおいては希少価値があるのだろう。ジャズをはじめとする音楽への造詣も高く、選曲に非凡なものを見せるというのも大きな要因かもしれない。

 さて、本作は1930年代の大恐慌時代に名を馳せた銀行強盗、ジョン・デリンジャーの実録映画である。デリンジャーを描いた映画は過去に何本かあり、有名なのがジョン・ミリアス監督版だ。あの作品が公開されたのは70年代前半で、当時は今と同様に不景気だったということを考えると、デリンジャーは庶民の財産をかすめ取る銀行屋に一泡吹かせたいとの風潮が高まると映像で取り上げられる“ヒーロー”なのかもしれない。

 とはいえ、この映画ではデリンジャーのヒロイックな面はほとんど描かれない。それも、ちゃんと狙いがあって描かないのではない。描けないのだ。マン監督に登場人物の心理描写なんかを求めること自体が間違っているのである。作劇面でも、ただ史実を漫然と並べるだけで、そこに作者の骨太なポリシーなんかは全く感じられない。

 主人公はどうしてこのような犯罪に手を染めたのか、なぜ交際相手の女は彼に付いて行こうと決めたのか、FBI長官の職務上のアイデンティティははどこにあるのか、デリンジャーを追いつめるパーヴィス捜査官が事件解決後に取った行動の真意は何なのかetc.大事なことは何一つ語られていない。反面、時代考証や美術・衣装はかなりよく練られており、逆に言えばその範囲内で作者だけが自己満足しているようなシャシンである。

 ジョニー・デップ、クリスチャン・ベイル、マリオン・コティヤール、スティーヴン・ドーフといった多彩なキャストも効果無く、上映時間は意味もなく長い。時間を割いてまで観るような映画ではないのは確かだ。
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「シッピング・ニュース」

2009-12-23 06:43:22 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Shipping News )2001年作品。事故死した妻に裏切られ、失意のうちに父の故郷であるニューファンドランド島にやってきた中年男が、北国で人の暖かさに触れ、自分自身を取り戻していく物語。監督は「HACHI 約束の犬」や「ショコラ」などのラッセ・ハルストレム。

 意外にも、けっこう良かった。ケヴィン・スペイシーがとても“心に傷を負った純情男”に見えないってのはマイナスだが、その他のキャスティングが非常によい。頑固一徹オヤジのスコット・グレンをはじめ、海千山千のピート・ポスルスウェイト、いくぶん食わせ者のジュディ・デンチ、今回は珍しく雰囲気がいいジュリアン・ムーア、そして圧巻はケイト・ブランシェットである。血も涙もない極悪色キチ○イ女を伸び伸びと演じていて実に痛快。「ロード・オブ・ザ・リング」での気取った役どころよりずっと良い。今後はこの路線で行ってほしい。

 内容はハルストレム監督おなじみの“やや浮世離れしたコミュニティ内で主人公が癒やされる話”であるが、多分に図式的とはいえ撮り方が丁寧で同監督のアメリカでの作品の中では一番良い(とはいえ、母国スウェーデンで撮った傑作「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」には及ばないが ^^;)。何よりカナダ・ニューファンドランド島の荒々しい自然を捉えた映像は素晴らしく、それだけで観る価値はある。野趣にあふれた音楽も要チェック。
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「アンナと過ごした4日間」

2009-12-22 06:35:51 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Cztery noce z Anna)ひたすら暗いだけの映画である。孤独な中年男が、家の向かいの看護婦寮に住むアンナに興味を持ち、ついには4日間の無断家宅侵入に至るという話。ポーランドの名匠と言われるイエジー・スコリモフスキ監督の17年ぶりの新作だが、私は彼の映画を観たことはなく、どういうスタイルを持っているのか不明だ。しかし本作を観る限り、大した力量とは思えない。

 相手の女が寝入っているところへ忍び込んで、意味不明な振る舞いをする中年男の話といえば、まず思い出すのは若松孝二監督の「水のないプール」(82年)だろう。鬱屈した日々を送る地下鉄職員が、夜な夜な若い女の部屋に侵入しては妙な行動を取るという設定の映画だが、主人公役の内田裕也の飄々とした持ち味と乾いたユーモアが画面を横溢し、アナーキーでありながら愛嬌のある快作に仕上がっていた。対して本作は愛嬌のカケラもない。

 主人公のレオン(アルトゥール・ステランコ)の行動はすべて“語るに落ちる”ものだ。私生児であり、孤独であり、コミュニケーション不全であり、だから他人と心を通わせることが出来ず、気になる異性に対しても及び腰の態度しか取れない。自分のつまらなさを自覚してはいるが、何とかしようとするほど甲斐性があるわけでもない。見ていて鬱陶しいだけだ。

 もちろん、ダメな奴を主役にしてはイケナイという決まりはなく、撮りようによってはいくらでも映画的興趣が出てくる。しかしこの映画はそのあたりが決定的に欠けている。つまらん奴をカメラがただつまらなく追っただけだ。

 血塗られた手首や川を流れていく牛の死骸とかいった禍々しいイメージが積み上げられるが、それらは単に奇を衒ったものとしか思えない。さらにはヘリコプターの轟音とか疾走する救急車のサイレンといった、思わせぶりなサウンドも出てくるが、何の効果もない。作者の自己満足に終わっている。寒村の荒涼とした雰囲気は良く出ているが、取り立てて評価出来るほどの映像ではない。一部時制をバラバラにする“小細工”も見受けられるものの、まったくの不発に終わっている。要するに、観る価値のない映画だ。

 なお、本作の配給は紀伊国屋書店が担当している。どうして配給業に乗り出そうとしたのかは不明だが、エンドユーザーに対する映像ソフトの販売元がこの世界に参入してくるのは、ちょっと面白いと思った。同業他社も参入すれば興味深い展開になるのではないだろうか。
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「あげまん」

2009-12-21 06:15:47 | 映画の感想(あ行)
 90年作品。監督は伊丹十三。「あげまん」ってのは、上昇運をもたらす古語で、本作はその“あげまん”の芸者をヒロインに、彼女にかかわって幸運に恵まれ成功の道を歩む男、逆に見放されて没落していく男などを描いている。

 公開当時は“あげまん”という言葉を先に流行語にして、それから映画をヒットさせようとするミエミエの戦術が効を奏して、かなりの観客の入りになった。でも、はっきり言って、これほどつまらない映画もない。伊丹監督の作品では「お葬式」や「マルサの女」の2本のように、題材を彼なりにマジメにとらえた映画が好きである。しかし「タンポポ」や「マルサの女2」の人をおちょくった下品な映画は嫌いだ。「あげまん」はその「タンポポ」路線の決定版ともいうべき低調な映画である。

 この女主人公ナヨコ(当時既に少々鼻についてきていた宮本信子)は何を考えているのかさっぱりわからない。赤ん坊のときに親に捨てられ、芸者として仕込まれ、否応なく生臭坊主に水揚げされ、囲われて2号生活のかたわら短大に通い、やがてダンナに死なれてOL生活、といった境遇なのはいいとして、彼女はどういう考えを持った女性か、あるいはどういう性格か、はたまた可愛いのかただのバカなのか、そういうところが全く描かれないまま、周りの男どもが「あげまんだっ。あげまんだっ。」と騒いでいるだけという、ほとんど内容のない映画だ。

 それではただのコメディなのだろうか。それにしては、たびたび挿入されるギャグの面白くなさはどういうことか。ヒロインにかかわる各キャラクターにしても、アブラぎった政治家やトシとった政府の黒幕、ホモの銀行頭取、“さげまん”の若い女、などなど、作っている本人は面白いつもりだろうが、どいつもこいつもただウルサイばっかりでちっとも中身がない。旧かなづかいの字幕がシーンが変わるごとにでてくるが、これがいかにもインテリ助平ふうでいやらしい。

 だいたいヒロインのナヨコという名前は7月4日に拾われたから、というのは、公開時期が近かったオリヴァー・ストーン監督の「7月4日に生まれて」のあきらかなパクリであり、その着想の底の浅さにはげっそりである。そういえば、強引なつくりで観客をひっぱっていくところは伊丹監督はオリバー・ストーンと似ていなくもない。しかし、あちらにはベトナムでの悲惨な体験からくるパワーがあるが、この映画の伊丹には目先のウケを狙った挑発だけしかなかった(-_-;)。
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「アンを探して」

2009-12-20 07:13:31 | 映画の感想(あ行)

 稚拙な作りだとは思うが、ほんの少し惹かれる箇所もある。17才の日本人少女が、亡き祖母の初恋の相手を探して「赤毛のアン」でお馴染みのプリンス・エドワード島を単身訪れるという話だ。

 まず、主役の穂のかという若い女優がどうも受け付けない。かなり地味な顔立ちで、演技のカンもそれほど良いとは思えない。ここではただ一人異国を旅している設定上、周囲と打ち解けない頑なさを表現しているという見方も出来るが、それ以前に未熟な印象を受ける。いくらマイナー作品とはいえ、このレベルでどうして主役を張れたのか不思議に感じていたが、聞けば“とんねるず”の石橋貴明の娘らしい。要するに親の七光りである。

 彼女を取り巻く人間模様もどこか図式的で、ホスト役の中年女性と彼女に何やかやとモーションを掛ける隣家のオッサンの二人はまだいいとして、あとの面々は観ていて気恥ずかしい。周囲には日本人の観光客がけっこういて、中には住み着いているのもいるが、何やら取って付けられたように存在感がない。

 極めつけはこの島を取材しに来る姉妹だ。プリンス・エドワード島イコール「赤毛のアン」というイメージを打ち破りたいという編集者である姉は、その意気はいいのだが具体的に何をしたいのか分からない。姉にくっついてきた妹は、物見遊山と男漁りにしか興味がないらしい。しかも、演じる紺野まひると高部あいの要領を得ない演技スタイルも相まって、まったく実体感のない宙に浮いた存在になっている。

 ただし、終盤にヒロインが何とか人との付き合い方を会得するあたりは、常套ながら普遍的な感銘を味わえる。自分だけの価値観に閉じこもっていては、道は開けない。それを自覚するまでにちょっと時間が掛かりすぎた気もするが、若い者が成長してゆくのを見るのは、悪い気はしないものだ。

 監督の宮平貴子は「セント・ヒヤシンス物語」などのクロード・ガニオン門下だということだが、演出力はまだまだである。だが、プリンス・エドワード島の美しい風景がそれをある程度はカバーする。デジカムによるあまり上質とは言えない画像からでも、この風光明媚さは十分伝わってくる。そして島と本土とを結ぶ長大な橋も存在感たっぷりだ。

 主人公の世話を焼く中年女性に扮するのはロザンナだが、意外にも映画初出演らしい。劇中で彼女は日本人の夫と死に別れたという設定だが、どうしても今は亡き相方の出門英を思い出してしまう。祖母役の吉行和子は今回はケータイ画像のみの出演。それでも印象が強いのは女優としての“格”であろうか。隣人のジェフを演じるダニエル・ピロンも良かった。
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「ニキータ」

2009-12-19 06:48:48 | 映画の感想(な行)

 (原題:Nikita)90年作品。今はほとんど“終わって”いる感じのリュック・ベッソン監督だが、この頃は才気走っていた。特に本作は良質のアクション映画の見本のようなシャシンだ。必要最小限のアクションを駆使して、素晴らしい緊迫感を獲得することに成功している。

 話は自称ニキータ(アンヌ・パリロー)の少女が仲間と麻薬欲しさに薬局へ押し入る。そして、駆けつけた警官をニキータは射殺。ニキータは逮捕され、裁判の結果、死刑が確定。しかし、それは表向きだった。ニキータの戦闘能力に目を付けたフランス政府のある機関が命を救う。そして彼女は政府機関のセンターでスナイパーとしての訓練を受ける。

 いわば女版の政府直営のゴルゴ13だ。しかし、フランス映画は単なる女殺し屋アクションにはしない。彼女は教官のボブ(チェッキー・カリョ)に恋をする。さらに架空のカバーを貰ったニキータは街で自分の本当の身分を隠して、マルコ(ジャン=ユーグ・アングラード)と同棲をする。危険な恋と隣合わせで危険な任務を遂行するのだ。

 よくアクション映画というと、物量作戦で銃をバリバリ撃ちまくり、息つく暇もないほどハデな場面を並べればそれでいいとする風潮が一部にはあるようだが、そういうのは映画とは言わないのだ。緩急のリズムのつけ方が大切だ。アクションは量だけでは観る者を納得できはしない。それがほんのわずかのシーンでも、演出センスによって強烈な印象を残す。

 この映画では銃を使用したアクションシーンはわずか4か所しかない。その中でアンヌ・パリローがデザート・イーグルという大型拳銃を使用するシーンがある。これを一目見れば、わかる方には彼女が銃の射撃訓練(それもただ撃つだけではなく、人間を相手にしたコンバットシューティングの訓練)を受けたことが明白だ。アンヌ・パリローは映画に出る前に脚本と監督を担当したリュック・ベッソンと共に1年間格闘技、射撃などの特訓を積んだそうだ。この点は本当に日本映画は見習わなければならない。本物を作るには、本気で取り組まなければならないのだ。

 ドアごしに愛を打ち明ける恋人の告白を聞きながら、ライフルでターゲットを狙撃するシーンの、緊張と抒情が入り交じった映像の高揚感。ラストの切ない別れ。フランス映画らしいキメの細かい内面描写と、切れ味鋭い暴力シーンの対比が見事だ。また、この作品はニキータが少女から大人の女になる過程も素晴らしいタッチで描いていて、青春映画としても水準以上の出来を示す。
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「カールじいさんの空飛ぶ家」

2009-12-18 06:15:28 | 映画の感想(か行)

 (原題:UP)冒頭の十数分間で“勝負あった”という感じだ。主人公のカールじいさん(声:エドワード・アズナー)が幼い頃に後に妻となる女の子と知り合い、長じて一緒になり、子供は出来なかったけどそれなりに幸福な生活を送り、やがて病気で彼女を亡くすまでが簡潔に描かれる。

 主人公のプロフィールを紹介すると同時に、彼が歩んできた人生は地に足が付いた堅実なものであったことを示している。これは決して作者の頭の中で考えただけの奇を衒ったハナシではない。観る者誰もが共感出来る、普遍性の高いモチーフだ。しかも語り口は流麗の極みであり、一片の無駄もない。ここの部分だけで涙してしまう観客もいるのではないだろうか。

 ここでドラマの土台をしっかりと押さえておけば、あとの展開が荒唐無稽でも許してしまえる。正直言って、カールじいさんが住処に無数の風船を付けて、かつて妻と一緒に行くと約束した南米の奥地目指して旅立ってからのくだりは少々子供っぽい。ジャングルの中で出会った人物が、味方だと思っていたら突然悪役の本性をあらわすというのは唐突に過ぎるし、喋る犬達の造型も(見た目は面白いけど ^^;)ドラマ上必然性があるのかと思ってしまう。

 しかも、空飛ぶ家での“旅行”は呆気ないほどすぐ終わる。途中で嵐に巻き込まれたり障害物に邪魔されたりといった紆余曲折はあるものの、アッという間に目的地の近くに着いてしまうのだ。それから地上でのやり取りが延々と続くのだが、さほど作劇が工夫されているとは思えない。

 しかし、序盤の十数分間がモノを言い、かような作り話をいくら展開させようと、映画そのものが瓦解する気配は微塵もない。それどころか、終盤の扱いが冒頭の部分と連動して本作のテーマを浮かび上がらせる働きをする。それは、失うものが多くなる人生の幕切れに近付いても、その気になれば新しく得るものだっていくらでも出てくるということだ。

 主人公は妻を失い、住処を失い、もちろんそれ以前に高齢のため仕事まで失っている。空飛ぶ家と共に旅に出たところで、風船の浮力は長くは保たない。だが、冒険の果てに彼は“出会いは別れの始まりかもしれないが、別れもまた出会いの始まりである”という真実に到達するのだ。エンドタイトルのバックに映し出される画像は、それを表現するかのようなポジティヴな輝きに満ちている。

 ピクサーによる映像処理は相変わらず凄い。特にクライマックスの“空中戦”の場面には、思わず身を乗り出してしまう。ピート・ドクターの演出は快調で、ギャグの扱い方も秀逸。中でも年寄り同士の格闘場面には大笑いさせられた。全ての年齢層にアピールする良作だと思う。ディズニー=ピクサーの作品は、今後も追いかけることになると思う。
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「MONDAY」

2009-12-17 22:15:09 | 映画の感想(英数)

 2000年作品。ごく普通のサラリーマンが、酔った勢いで起こしてしまった連続殺人事件を描いたコメディだが、さっぱり盛り上がらない。

 たぶん脚本段階では面白かったのだろう。それを映像化する際に“キャストの自然なリアクションを期待する”とかで必要以上に各シークエンスが間延びし、結果として少しも笑えない。映画におけるギャグとは、多くの場合“計算されたタイミングとハッタリと力技である”と信じている私にとって、キャストの不愉快な猿芝居におんぶにだ抱っこ状態のこの作品のコンテンツは唾棄すべきものでしかない。

 しかも、それを全編延々と引っぱったせいで、終盤のオチ(らしきもの)が全然サマになっておらず、出るのはタメ息とアクビだけ。しかも長い。

 主演の堤真一をはじめ松雪泰子、大河内奈々子、西田尚美、安藤政信、大杉漣と多彩な顔ぶれを揃えているだけに、実にもったいない。もしも同じネタをTVドラマで気の利いたディレクターが手掛ければ、30分もかからないだろう。サブ監督も、「ポストマン・ブルース」が面白かったぐらいで、あとは完全に地べたを這いずり回っている感じだ。俳優業に専念した方が良いと思う。

 ただし、このドラマの前提だけはちょっと興味深い。主人公が月曜日の朝に見知らぬホテルの一室で目覚める、昨晩は酔っ払って何をしていたか憶えていない、すでに勤め先では業務が始まっているだろう、一週間の始めから出遅れてどうする・・・・といった切迫した心境に陥る。でもその反面“どうでもいいじゃないか”といった捨て鉢な気持ちにもなる。

 このやるせない“サラリーマンにとっての月曜日”の空気感を鮮明に描き出したのは、本作の唯一の取り柄だと言って良いだろう。私だって月曜日の朝は、何もかも放り出してしまいたい衝動に駆られることも時折あるのだ(笑)。
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