元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

ちょっと休みます。

2006-05-25 22:44:11 | その他
 最近仕事がシャレにならないほど忙しくなり、ゆっくり文章を作成する時間もあまり取れません。で、申し訳ありませんが、2~3週間ブログの更新を停止致します。

 必ず復帰しますので、その時はどうぞよろしくお願い致します。でわ。 ->ALL。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「かもめ食堂」

2006-05-25 22:38:48 | 映画の感想(か行)

 確かにとても肌触りが良い映画だ。北欧ヘルシンキの清涼な空気、神秘的な白夜、粘着度のカケラもないサラサラとしたキャラクターの登場人物達etc.トゥオモ・ヴィルタネンのカメラも、近藤達郎の音楽も、アンニカ・ビョルクマンによる美術も、そして井上陽水が歌うエンディング・テーマ「クレイジーラブ」も、すべては観る者にとっての心地良さ(リフレッシュの手段?)という、決して広くはないが狭くもない特殊ニーズに合致するように作られている。その意味での商品価値は極上だ。

 しかし、劇映画としての歯応えはまるで無きに等しいことも、指摘しておかねばならない。

 冒頭、小林聡美扮するヒロインがモノローグで“母親が逝った時より猫が死んだ時の方が悲しかった”という意味のことを語るが、たとえそれが本心だったとしても、たかが畜生の死を肉親の死の上に置くようなことを平気で述べるこの女の精神構造はどうなっているのだろうと思ってしまうのだ。

 たぶん、彼女は母親と正常な関係性を構築できなかったのだろう。それは何も親と激しく対立したとか、虐待されたとか、そういう明確に反目が表に出るような事態に陥ったということではない。表面的には普通の親子だが、深いところでのコミュニケーションを達成できず、何となく月日を重ねることしか出来なかった“可哀想な人”であることが窺える。

 これは一緒に“かもめ食堂”を切り盛りする他の二人(片桐はいり、もたいまさこ)も同様で、おそらく日本では“何となく”生きてきて、それが真に他者の心に踏み込まざるを得ないケースに遭遇した時に、それに対応できるほどの成熟度が低く、ただ“逃げて”きただけなのだろう。

 傷つくことも傷つけることも怖くて仕方がない彼女たちは、異国で商売することの辛さにやがては直面したとき、それに耐えられずにまた“逃げて”しまうはずだ。そして今度は別の国で同じことの繰り返し。

 観る側が所謂“環境ビデオ”あるいはファンタジーみたいな捉え方をして割り切ってしまえば、これはこれで申し分のないシャシンだ。でも、マジで“こんな生き方って素晴らしい”みたいなことを思ったりしたら、それはちょっと困るね(笑)。

 萩上直子の監督作に接するのは初めてだが、ドラマ運びに破綻はなく技巧面では問題はない。ただしプラスアルファの“凄み”を出そうとすれば、これからもこういう映画ばかり作っていて良いのかという懸念がある。

 あと関係ないけど、劇中に出てくる料理があまり美味しそうではないのには参った。これじゃ社員食堂のA定食並みではないか(爆)。もっと食材を画面の中にシッカリと据え、ウンチクのひとつでも披露すべきでなかったか。意外と作者は“食”に対して執着していないのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ブロークバック・マウンテン」

2006-05-24 06:52:24 | 映画の感想(は行)

 (原題: BROKEBACK MOUNTAIN )1963年~80年代という時代背景、ワイオミング州の美しい自然、そしてグスターボ・サンタオラヤによる叙情感あふれる音楽etc.こういう設定を得たことでこの映画の成功は約束されたようなものだ。これがたとえば現代の新宿二丁目あたりが舞台だったら、あまりの小汚さに大抵の観客は“引いて”しまうだろう(爆)。

 快作「ウェディング・バンケット」を観ても分かるように、アン・リー監督はゲイを描く時にも全く気負いがない。ゲイ自体が何か特別に注目される(あるいは貶められる)事柄であることを前面に出さずに自然体に扱っており、ドラマの動きをゲイを取り巻く“環境”の方に振っている。それが「ウェディング~」ではゲイに対して比較的鷹揚な東洋人コミュニティの間で話が展開したからああいう結末になったのであり、偏見の激しい一昔前のアメリカ中西部を舞台にした本作ではこういう痛切極まりない話になる。素材に対する作者のスタンスは実に冷静だ。

 通常の不倫映画として捉えてもレベルが高い。互いに惹かれつつも世間体のために意に添わぬ“正常な”結婚をした二人。それでも相手のことが忘れられずに人の目を盗んで逢瀬を繰り返す彼らに、今ではもう滅びかけた純愛路線の真髄を見るようで、ただただ感服した。

 ヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールの演技は申し分ないが、それぞれのパートナーに扮したミシェル・ウィリアムズとアン・ハサウェイも素晴らしい。真相を知りつつも健気に世間体を取り繕い、でもやがて開き直るしかない境遇を、文字通り身体を張った演技で見せきって圧巻だ。

 余韻たっぷりのラストを含め、ドラマとしての完成度は高い。同性愛を扱った映画では傑作「風たちの午後」に迫るヴォルテージの高さだ。アカデミー賞は本作がふさわしかったと言える。それが成せなかったのは、何らかの“政治的背景”があると勘ぐられても仕方がないだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「怖がる人々」

2006-05-23 06:51:55 | 映画の感想(か行)
 94年作品。イラストレーターの和田誠が「麻雀放浪記」「怪盗ルビイ」に続いて手掛けた劇場用映画の第三弾。本作は奇妙な味の短編5本のオムニバス。こういう構成の作品は「トワイライト・ゾーン」「世にも奇妙なアメージング・ストーリー」とか、日本でも「バカヤロー!」シリーズなどがあるし、大して珍しいものではないが、軽妙洒脱な和田誠の演出でどのように料理するか興味があった。

 5本の中で面白かったのは日影丈吉原作の「吉備津の釜」である。父親が病気になり、家計を支えなければならなくなった娘(熊谷真美)。しかし、折からの不景気で働き口は見つからない。途方に暮れて入った一杯飲み屋で知り合った奇妙な女(清水ミチコ)から、“山崎”という人が職を世話してくれると聞き紹介状を手渡される。彼女は翌日水上バスに乗ってその山崎なる人物に会いに行く。途中、彼女は幼い頃親しかった口上売り“吉備津の釜”のおじさん(フランキー堺)から聞かされた怪談話を思い出す。昔々、この川では大晦日に舟を出すと川の精の怒りを買って祟りがあると言われていた。若い船頭(杉本哲太)が頼まれて仕方なく大晦日に舟を出すと、さっそく怪異現象に遭遇。運の強い船頭は難を逃れるが、数日後、彼は川岸で見知らぬ男から手紙を山奥に住む友人に届けてくれと頼まれる。気安く引き受けたものの、奇妙に思った彼は、途中、山寺の和尚のところに寄るのだが・・・・。やがて彼女は、自分が置かれている状況がこの怪談話と似ていることに気付き、不安感を募らせる。そして・・・・、というお話。

 ヒロインの回想シーンから架空の怪談話に入っていく構成がユニーク。二重・三重構造の展開は、伝奇性と現代的な設定とを両立させることに成功している。また、主人公の孤独感を無理なくあらわす丁寧な演出にも感心した。

 椎名誠原作「箱の中」は基本的にワン・アイデアの話で、映画化するには物足りない。平山蘆江の「火焔つつじ」は新劇調の展開で悪くないが、オチにたどりつくまで少々長ったらしいのが難。「乗越駅の刑罰」と「五郎八航空」は皮肉にも筒井康隆の小説を映像化する際の難しさを露呈してしまうことになった。原作の方が断然面白い。過去の筒井作品の映画化で納得できたのは「ウイークエンド・シャッフル」(監督:中村幻児)だけである。

 何やら、原作の概略だけを綴っている感じもして、オムニバスにせずに1本の映画としてキッチリまとめてほしかった。多くのゲスト出演者やラスト・クレジット部分の撮影風景の紹介などはとても楽しめたが、逆にそれらが目立つことは内容が薄いことも示していて、素直に喜べない。気の利いた企画であることは確かだが、ビデオ的に小じんまりとまとまりすぎてしまったようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「望郷」

2006-05-22 06:54:41 | 映画の感想(は行)
 93年作品。時代は昭和15年の夏。鹿児島の豪商の息子である主人公の少年・窪田操は父の事業の失敗のあおりを受けて、母とは生き別れ、預けられた親類の家でもつらい目に会う。夜逃げした父親と再会したのもつかの間、バクチに負けた父のせいで住まいを点々とするハメに。操はさらに過酷な生活を強いられることになるが・・・・。実業家・窪田操の自伝的小説「ぼっけもん」の映画化で、監督は「旅の重さ」(72年)「津軽じょんがら節」(73年)などの斎藤耕一。

 とにかく、主人公が遭遇する不幸の釣瓶打ちには圧倒されてしまう。父には見捨てられ、盲目の母は家族と別れた挙げ句早死にし、姉(細川直美)は芸者としてたたき売られ、弟は飢え死に、妹はしらない間に里子に出される。叔母(可愛かずみ)をはじめとする親戚連中の情け容赦ないイジメと中傷、やがて全国を放浪する主人公は盗みをはたらいて官憲にも追われ、オマケに片思いの少女(喜多島舞)には完全にフラれてしまう。

 この一点の救いもない不幸の洪水は、主人公に同情するとかいう次元をはるかに超えて、一種のスペクタクルと言えるんじゃないだろうか。

 それにしても人間の本性を暴き出すかのようなシビアーな演出はまさに確信犯。冒頭、父の店で実直そうに働いていた使用人たちは、経営が行き詰まったと見るや、店の物を勝手に持ち出し、にわか強盗に変身。苦労して探し出した姉はすっかり水商売が板についてきて、主人公を邪魔者扱い。特に一見優しそうで後に残忍な面を見せる親類の描写など、“ここまでやるかぁ”と言いたくなるような徹底ぶり。これがすべて実話だというのもすごい(こんな境遇から身を起こし、ひとかどの実業家として成功したという原作者のパワーは恐るべきものがある)。しかしまあそんな描写が違和感なく見られるのは、作者の確固とした人間観察の賜物であろう。このへんが凡百のシャシンとは全く異なる。

 そして、主人公はちゃんと人間性豊かなキャラクターとして設定してある。演じる秋月健太郎は映画初出演だったが、ナイーブな好演。母(竹下景子)の優しさが印象的。そして圧巻は父を演じる田中健である。バチあたりの道楽者には違いないが、どこか憎めぬ魅力を持ち、息子をないがしろにしていると思わせて実は一番主人公のことを思っている。このピカレスク的魅力は日本映画ではめったにお目にかかれないキャラクターで、彼を見るだけでこの映画を観る価値はあろうというものだ。

 一見“文科省特選”みたいな雰囲気のタイトルを持つこの映画、なかなかあなどれない。山崎義弘のカメラによる映像も美しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「20世紀ノスタルジア」

2006-05-21 18:51:08 | 映画の感想(英数)
 97年作品。都内の高校に通う遠山杏(広末涼子)は、ある日清洲橋の上でビデオカメラを持った転校生の片岡徹(圓島努)に声をかけられる。彼は“自称宇宙人”で、地球人の滅亡時からタイムトラベルで現在に調査のためやってきたのだという。さらに彼は自分の身体に宿った宇宙人が分裂しかかっているので、杏の身体を貸してほしいと申し出る。初めはあっけにとられる杏だが、徹の飄々とした雰囲気に心を動かされていく。「百代の過客」などで知られるドキュメンタリー作家、原将人が初めて撮った商業用映画である。

 何でも公開当時は一部で高い評価を得たらしいが、ハッキリ言って私はどこがいいのかわからない。要するに、破滅願望(?)を持った少年がガールフレンドとの出会いで前向きに生きるようになりましたという、陳腐きわまりない話を奇をてらった映像で安易に仕上げただけ。テーマが陳腐でも演出力とアイデアで観客をねじ伏せることは十分可能なのだが、ここにはそういう意志も努力も見つけられない。演技未熟なキャストが扮する高校生カップルがじゃれ合っているだけの、ママゴトみたいな映画以前のシロモノだと断定したい。

 なぜかミュージカル仕立てになっているのだが、広末のド下手な歌が素人臭い映像をバックに繰り広げられるのは茶番以外の何物でもない。

 百歩譲って“地球は破滅する”という少年の妄言を何か意味のあるように映画に刻みつけようとするならば、たとえば少年がビデオで撮る東京の風景をそれらしい“世紀末的デカダン映像”にするとかいった工夫がなければいけないのに、すべてがフツーの画面なのには呆れはてた。

 “年若い観客にはわかる”という評論もあったようだが、こんな技巧的にも内容的にも貧困な作品はマトモなティーンエイジャーもパスするはず。それを“若者なら受け付けるはず”とあらずもがなの評価を下している評論家は、若者を馬鹿にしている。

 そして一番気になるのが、二人はずっと(お互いそばにいるにもかかわらず)ビデオカメラのファインダーを覗いたままであり、ビデオ画面を通じてしか会話しない。対してビデオカメラなしの場面では互いに顔を合わせることは少ない。つまりはオンラインのみでしかコミュニケーションができず、オフラインでは会話もできないどうしようもない連中ではないのか? こんなオタクな連中の話なんぞどうでもいいや、と思っていたら、某映画祭にゲストで来ていた原監督は、寝るとき以外は16ミリカメラを手放さないという筋金入りのオタクだった(>_<)。

 オタクな奴がオタクな思い入れでオタクに撮っただけの、私にはカンケーない、本当につまらん映画だ。広末のファン(今はあまりいないだろうけど ^^;)以外は観る価値はないね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「寝ずの番」

2006-05-20 08:56:00 | 映画の感想(な行)

 津川雅彦が“マキノ雅彦”名義で初演出に臨んだ喜劇で、葬式をネタにしたお笑い篇という点から言っても伊丹十三の「お葬式」を意識していることは間違いない。だが、出来そのものは遠く及ばず(暗然)。

 ギャグの切れ味が極めて悪く、予想できるオチを必要以上に引っ張ったシークエンスばかりが目立つ。まったく落語家に見えない中井貴一をはじめ、いつも通りの岸部一徳、魅力のかけらもない木村佳乃、思わせぶりなエロエロ演技に終始する高岡早紀、老いばかりが目立った堺正章など、俳優の動かし方も大したことはない。長い上映時間も苦痛だ。

 しかし、ならば存在価値はないかといえば、全くそうではない。観客席の大部分を占めたシニア層は実に良く楽しんでいることが分かるのだ。高齢の観客を置いてゆくようなテンポの早さや、マニアックな仕掛けは皆無。すべてがノンビリした展開速度で、ターゲットとする客層のバイオリズム(?)にしっかり合致する。これは、高年齢のセグメントという、今後の邦画界のマーケティングの超有望な対象を囲い込んでゆくにふさわしい試みであると思う。しかも、テレビでは絶対やれない“放送禁止用語ネタ”も満載で、映画ならではの商品性をアピールするのも忘れていない。

 こういう方法論を“年寄り臭い!”と片付けてはならない。移り気な若年層を狙ったテレビ局がらみの企画やアニメーションなんかよりも、興行上の“安全パイ”としては数段確実な番組展開であると思う。その可能性を垣間見せてくれる点で、この映画は観る価値があるのではないかな。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ケープ・フィアー」

2006-05-19 06:55:15 | 映画の感想(か行)
 (原題:Cape Fear)91年作品。自分を14年も監獄に入れた張本人である弁護士一家に出所後、執拗な復讐を仕掛ける狂気の男と弁護士との血みどろの死闘。ジョン・D・マクドナルドの原作をJ・リー・トンプソンが映画化した「恐怖の岬」(62年)の再映画化である。

 とにかく主人公マックスを演じるロバート・デ・ニーロの血も涙もない殺人鬼ぶりに圧倒される。冒頭近くで、刑務所の中で筋力トレーニングに励むマックスの、入墨を施した身体、ザンバラの髪、壁に貼られたスターリンの肖像などから、常人ではない雰囲気が漂う。そして逮捕されたときには文盲だったが、今では哲学書や法律書まで読みこなすインテリに成長している。残忍さと知性を兼ね備えた始末の悪い変質者。加えて警備厳重な弁護士の屋敷に易々と忍び込む神出鬼没さも見せる。

 デ・ニーロはこの役を、「羊たちの沈黙」などのレクター博士みたいな現実離れした犯罪者ではなく、ひょっとして実在するのではないかと思い込ませる生々しいキャラクターに仕立てている。この頃の役にのめり込むデ・ニーロの演技では、「レナードの朝」よりも「レイジング・ブル」(80年)の主人公に通じるこの役を私は評価したい。

 この映画は見事なまでに感情移入できる登場人物が出てこない。主人公マックスはもちろん、ニック・ノルティ扮する弁護士は仕事に私情を持ち込む信用できないタイプで、保身的で弱気なくせに、手だけは早いというイヤな奴だ。ジェシカ・ラングの妻はすぐヒステリーを起こし、ジュリエット・ルイス演じる娘は露出狂のアバズレだ。しかも、事件が終わっても一家が和解するわけでもない。後味の悪さが残るだけだ。

 しかし、それでもなおこの映画は面白い。監督のマーティン・スコセッシは「タクシー・ドライバー」(76年)、「グッドフェローズ」(90年)などでデ・ニーロとコンビを組んでいるが、今回はスピルバーグが主催するアンブリン・プロの製作ということもあって、自らの持てる映画テクニックを駆使した良質の娯楽作品となっている。最初は些細なイヤガラセから始まって、ジワジワと弁護士一家を追いつめ、最後には襲いかかる、という「ジョーズ」のサメみたいなマックスの扱い方はスリラー映画の王道だ。

 不安気に動き回るカメラ、効果的な小道具の使い方、随所に見られるエロチックさ(特に、マックスが学園の講堂で娘の唇を奪うシーンのイヤラシさは、そこらへんのアダルトビデオが束になってもかなわない)、笑えないブラックユーモア、ラストのスペクタクル。見所満載の内容に感心しながら、この手口はヒッチコックに近いなーと思っていると、案の定、「めまい」のスタッフが3人入っている。今まで気が付かなかったが(←気付けよ! ^^;)、スコセッシ監督も相当のヒッチコック信奉者だということがわかり、興味深かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「マイ・レフトフット」

2006-05-18 06:48:48 | 映画の感想(ま行)
 (原題:My Left Foot)89年作品。あふれる涙をぬぐいきれないような映画でも、数日で忘れることがあるように、始終冷静で観ることができても感動が心の底にいつまでも残る映画というのも確実に存在する。この映画はその典型であろう。

 この映画の主人公クリスティ・ブラウンは実在の人物で、優れた画家・詩人・作家である。彼が他の人々と少し違うのは、生まれつきの重度の脳性小児マヒで、わずかに自由のきくのが左足だけという体であることだ。彼はその左足で絵を描き、タイプを打った。そういう人物の伝記映画だから、作りようによっては、とんでもないお涙頂戴の感動を押し付けてくる下世話なシャシンになるところである(大昔の日本映画によくあったパターン)。ところが、この映画は痛快なほどクールでドライである。身障者を健常者と変わりなく一人のちゃんとした人格を持った人間としてとらえている(考えてみればそれが当り前のことだが、映画ではことのほかそれが難しい)。

 もちろん、観る者を感動させずにおかない場面もある。知恵遅れと思われていた子供の頃の彼が身重の母の危機を左足でドアを叩いて近所の者に知らせたり、床にチョークでMOTHERと綴ってみせたり、長じて、近所の連中とのサッカーで左足でシュートを決めたり、といったシーン。しかし、それらは意外なほどあっさりとした描写で無駄がない。

 映画は彼を一種の天才扱いはしていない。失恋もすれば、嫉妬もする。自殺未遂までやると思えば、冒頭の彼の自伝出版記念コンサート席上で看護婦をナンパしたり、といった等身大の人間として扱っているところがすばらしい。

 こうしたクリスティの成長には、たとえ貧しく、父親は飲んだくれのしがない煉瓦職人とはいえ、母親をはじめ父や兄弟たちみんなの暖かい愛情(決してべとつかない)が不可欠であった。それゆえに、健常者のなかに入って普通に暮らして好結果を得たのだろう。そのへんが決して教訓調ではなく、ドキュメンタリー・タッチで描かれ、効果をあげている。舞台はアイルランドのダブリン、オール・ロケによる映像も美しい。

 クリスティを演じるのがダニエル・デイ・ルイスで、すばらしい演技をみせている。アカデミー主演男優賞をとったのも当然と思われる。

 観る者に生きることの貴さ、生きる勇気を与えてくれる秀作だ。これが映画初演出のジム・シェリダンの腕も達者である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シリアナ」

2006-05-17 06:51:30 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Syriana )ジョージ・クルーニーやマット・デイモンが出ているお気軽サスペンス映画だと思って劇場に足を運んだ向きも少なくないようで、私の周りに座っていた若い観客は終映後に一様に絶句しているか首を捻っていた(笑)。

 これが初監督になるスティーブ・ギャガンは「トラフィック」の脚本家である。あの映画のように本作も複数のストーリーを同時進行させ、膨大な情報とともに目まぐるしく場面をチェンジする作劇を採用しているが、石油利権をめぐる複雑怪奇な陰謀を描いたこの映画の方が観る側にとってのハードルは高い。少しでも画面から目を離すと置いて行かれるし、それ以前に予備知識がないと登場人物達の行動目的さえ分からない。何しろいきなり“84年のベイルートのあの事件は・・・・”なんてセリフが説明なしに出てくるぐらいなのだから。

 しかし本作が国際情勢の紹介に終始した教条的なだけの映画かというと、さにあらず。たぶんこの作品で扱っているネタを完全に理解している観客はほとんどいないだろうが、それでもこの“何だか分からない国際的覇権争い”を文字通り“正体不明の怪物”として位置づけていること、つまりはホラー映画のモンスターのように見立てて、登場人物がそれと対峙したりそれから逃げ回ったりする様子をサスペンスフルに描くという、一種の娯楽映画として捉えると、これはこれで大変面白いのだ。

 同じようなネタを扱っていながら、結局ネタ自体に負けていた「華氏911」とは大違いである。

 エピソードの中で印象に残ったのは、やはり普通の青年がテロリストとして仕立て上げられる過程だろう。最初はアラブ人のための互助会組織みたいだったイスラム神学校が、やがて不気味な正体をあらわすくだりはかなり怖い。カルトの真実の一面を垣間見る思いである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする