元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「第9回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その2)

2012-03-31 06:46:55 | プア・オーディオへの招待
 このイベントは「ハイエンド」と銘打っているだけあって、展示されているのは高額商品が中心だが、その中でも飛び抜けて高価なスピーカーが南アフリカのVIVID AUDIO社のG1 GIYAと、イスラエルのYG ACOUSTICS社のANAT IIIである。価格はいずれも700万円を超える。

 実はG1 GIYAは数年前のフェアでも試聴したのだが、高い再生能力に感心したものの“心底スゴい”というレベルには達していなかった。低域と高域に不自然な“重さ”があり、これが音のヌケを阻害していると思ったものだ。しかし今回は米国CONSTELLATION AUDIO社の超弩級アンプで駆動したせいか、まことに堂々としたパフォーマンスを披露していた。



 音場は上下左右と前後方向にどこまでも広がり、音像はソリッドで少しの乱れも無い。スピード感や解像度は最上級クラス。音色も明るく、朗々と響き渡る。欠点らしい欠点も無く、ある意味これが“オーディオの最終回答”と言えるかもしれない。ただし、大きすぎるサイズと奇態な外見は、いくら金持ち向けの商品といっても自宅に入れることに躊躇するケースも少なくないだろう。

 ANAT IIIはスイスのDARTZEEL社の、これまた超弩級のアンプでドライヴされていたが、G1 GIYAとは別傾向ながらかなりの高音質を披露していた。とにかく聴感上の低歪率とクリアネスに圧倒される。まさに、雑味ゼロの清涼な世界がどこまでも広がっているという感じだ。それでいて無機質な部分はなく、いつまでも聴いていたい明朗さと躍動感を併せ持っている。

 G1 GIYAが聴く者を力任せに引きつけるのに対して、ANAT IIIはじっくりと付き合える趣味性の高さが印象的なモデルだと思う。アルミ削り出しの振動板など、素材面でも興味深いものがある。デザインはユニークすぎるが、G1 GIYAほどの圧迫感はなく、一般家庭のリビングにも置けそうだ。

 両機とも非常識なほど高い機器だが、係員の話によると、欧米ではこのクラスのスピーカーをホームシアター用として“気軽に”導入するユーザーもけっこういるらしい。ならばそういう者達はピュア・オーディオ用にはどんなスピーカーを使っているのだろうか。どうやら世の中には、我々のあずかり知らぬ世界が存在しているようだ(笑)。



 英国TANNOY社のスピーカーは、米国JBL社の製品と並んで我が国では長らく“高級舶来スピーカー”の代名詞になっていたが、昔のオーディオマニアの多くがTANNOYをドライヴするのに使っていたアンプがLUXMANのモデルだった。よく考えて見ると、私はこの“TANNOYの上位モデルとLUXMANとの組み合わせ”を聴いたことがない。何しろ展示会などでは、TANNOYの輸入代理店であるTEACの上級ブランドESOTERICのアンプで駆動されるのが常だったのだ。

 ところが今回は、特別に代理店の枠を超えて両者のコラボレーションが実現した。組み合わせたのは、TANNOYのCanterburyとLUXMANの真空管式セパレートアンプ(CL-38uMQ-88u)である。一聴して、これは良い音だと思った。柔らかい音調だが、キレもコクもある。大きな奥行きを伴う音場に甘やかな余韻が漂う様子は、このコンビが大勢のマニアを魅了したことも納得出来る。とにかく、いつまでも聴いていたいサウンドだ。

 Canterburyを含む同社のPRESTIGEシリーズは、AVシステムの付属物みたいなトールボーイ型とコンパクト型ばかりが幅を利かせるオーディオ用スピーカーの中にあって、昔ながらの家具調のエクステリアを堅持している点で異彩を放っており、所有する満足度も高いだろう。また、低出力の管球式アンプでも十分な音圧が得られるほど高能率である点も大きなメリットだ。アンプに過度な予算を投入しなくても済むということは、ユーザーにとって有り難いことなのである。

(この項つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「第9回九州ハイエンドオーディオフェア」リポート(その1)

2012-03-30 06:27:12 | プア・オーディオへの招待
 去る3月23日から25日にかけて、福岡市博多区石城にある福岡国際会議場で開催された「九州ハイエンドオーディオフェア」に行ってきたのでリポートしたい。今年(2012年)で第9回目となるが。今回は過去に行われていた“オーディオアクセサリーの聴き比べ大会”とか“優秀録音盤の発表会”とかいった特別企画は設定されず、純粋な展示会の体裁を取っていたので、その分参加者もじっくりと機器に向き合えたようだ。

 すべての機器を見て回ることは物理的に無理だが、私も久々に時間が取れたこともあり、かなりの数の展示製品を試聴することが出来た。オーディオシステムの音の傾向を決めるのはスピーカーなので、スピーカー中心に各機器のインプレッションを述べてみる。



 まず印象に残ったものとして、英国B&W社の新しいサブウーファーであるDB1を挙げたい。サブウーファーというのはホームシアターなどで低域を補強するために使われる装置であるが、本機は小型スピーカーと併せてピュア・オーディオでも使われることを想定している。

 特筆すべきは、サラウンド・システムなどに採用される「デジタル・シグナル・プロセッシング(DSP)」のテクノロジーが搭載されていることで、リスニング環境に合わせて、組み合わせるスピーカーとの最適なマッチングが可能だ。しかも、その設定はパソコンで行い、ソフトはB&W社のホームページからダウンロードされる。いわば、AVシステム機能のピュア・オーディオへの応用と言えよう。

 ピュア・オーディオの展示会でリファレンスとして使われることの多い同社製品が、このような仕様をフィーチャーしているのは面白い。会場では同社の805Dとのコラボレーションがデモされていたが、必要以上の低音の押し出しはなく、スムーズなレンジの広がりが実感できた。とはいえ上位の大型フロアスタンディング式のスピーカーと比べれば、低域の恰幅の良さでは後れを取る。あくまでもこれは、大型モデルを導入出来ない層のための“次善策”であろう。

 過去幾度かの試聴会で“最悪”の印象しか受けなかったPIONEERの高級ブランドであるTADのスピーカーは、今回はかなり様子が違った。同社のアンプとは別に、英国EAR社のアンプとプレーヤーで駆動するデモンストレーションが行われていたが、これが素晴らしい結果に結び付いている。音色表現が捨象されたような無味乾燥の展開に終始していたTADのスピーカーが、生き生きと鳴り響いているではないか。しかも、モノクロームだった音色にうっすらと赤みが射している。



 はっきり言って、これは誰もが知るTADの音ではない。MONITOR AUDIOATC等の英国ブランドのサウンドに共通するものがある。逆に言えば、いかにTADのアンプ類が設計コンセプトにおいて音楽再生を無視しているかの証左でもある。EARの社長もわざわざイギリスから来ていたのだが、日本の高額スピーカーを存分に“EAR色で”鳴らせたことに得意顔。EARの製品は特異なデザインも含めて、まさに“作った者の顔が見える”モデルだ。

 明るくて艶っぽい再生音でいつも参加者を魅了するイタリアのSONUS FABER社のスピーカーだが、今回は新製品のGUARNERI evolutionが紹介されていた。一見するとコンパクト型だが、実は専用スタンド(置き台)とセットになっている。台座部は硬度の高い花崗岩が採用され、支柱と台座の取り付け部分には特殊な構造が施されており、支柱より上を“浮かせた”ような様相を呈しているのが面白い。

 スピーカーのサイズを超えた深々とした音場が特徴的な製品である。もちろん音色はSONUS製品らしく光沢があり華やかだ。それでいて嫌味な部分や押しつけがましい箇所はない。オーケストラ曲等をとにかく重厚に鳴らせたいリスナーには向かないが、艶やかな美音をライト感覚(?)で楽しみたいユーザーにはベストフィットだと思う(まあ、かなりの高額機器だが ^^:)。

(この項つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「華氏911」

2012-03-25 06:50:30 | 映画の感想(か行)

 (原題:Fahrenheit 9/11 )2004年作品。同年のカンヌ国際映画祭で大賞を獲得したドキュメンタリー映画。監督マイケル・ムーアの政治的スタンス云々は別にして、純粋に“作品の出来そのもの”について言及すれば、この映画はとても評価できない。理由は、ほとんど映画的なスリルがないからだ。

 作者の中に反ブッシュあるいは反マスコミといった“結論”がまずあって、膨大なニュースフィルムをその“結論”に合致するように“編集”しているだけである。確かにその繁雑な作業をやり遂げたこと自体は評価できよう。ただし肝心の“語り口”が拙い。

 こういうネタは緻密なデータ分析を元にして観客に問いかけるのが本筋だと思うのだが、ここにあるのは“実はこうなのだ! 驚いたか!”といった一方的な決めつけに基づく大仰な口上ばかり。さらに自信満々で放ったはずのギャグもすべて空回りでは、観ていて虚しくなってしまう。ムーア得意の“アポなし突撃取材”もあまりなく、戦死した兵士の遺族へのインタビューも(内容は悲惨ではあるが)予想通りの展開しか示せない。

 この前作「ボウリング・フォー・コロンバイン」も突っ込みは浅かったが、テーマ選定の面白さと“観客に考えさせよう”という作者の冷静さだけは感じたものだ。しかし、この作品にはそれがない。単に自分の思うところをワーッと捲し立てているだけで、余裕も意外性もない。テーマだけが先行した映画が面白くなるはずもないのだ。

 アメリカの対外政策を広く問題提起させる意味では存在価値のある映画なのかもしれないが、本作を観るより関係文献をチェックした方がよっぽどタメになるのは言うまでもない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「戦火の馬」

2012-03-24 06:48:23 | 映画の感想(さ行)

 (原題:WAR HORSE )ヤヌス・カミンスキーのカメラによる、痺れるように美しい映像が本作の売り物だ。イングランド南西部でロケされた田園風景と自然の描写は、まさに天国的である。さらに戦闘シーン、背の高い草が生い茂る荒れ地から馬群がスッと姿を現し、流れるように敵陣めがけて突進していくダイナミズムは、一大戦国絵巻を眺めているような様式美を醸し出す。

 イギリスの農村に住む少年アルバートは父親が買ってきた馬のジョーイを可愛がるが、第一次世界大戦が勃発するとジョーイは軍馬として最前線へと送られてしまう。当初は馬好きの陸軍大尉に託されるが、ドイツ兵の若い兄弟、フランス人の少女と“飼い主”は次々に入れ替わる。アルバートもまたジョーイに会うべくフランス戦線に乗り込んでいく。

 この映画の主人公は、アルバートでもなければ彼を取り巻く者達でもない。馬のジョーイである。はじめはイギリス軍の“所属”であるが、戦場では独軍に拾われ、やがて辛い苦役を強いられるようになる。馬にとっては敵軍も味方も関係ない。目の前にある“障害”を切り抜けていくだけである。

 つまりは戦争なんてものは、利害の対立した国々に“たまたま”居合わせた人間達が“愛国心”というイデオロギーにより殺し合いを強いられている“状況”に過ぎず、それを馬の目を通して淡々と描写していくのみだ。

 そして戦争には正義も悪も無い。それぞれが大義を掲げ、膨大な戦費と人的被害を出しながら、結局は“勝ち負け”というドラスティックな結末が訳知り顔で待ち構えているに過ぎない。馬からすれば、まことにバカバカしい話だ。そして戦争自体も、多分にバカバカしいものなのだ。

 ただし、このような理屈の組み立て方は図式的でもある。ジョーイが辿る行程も、まさに御都合主義の連続だ。しかし、前述したような目覚ましい映像美と、程良い感銘度を伴うように練り上げられた各エピソードの数々により、そのあたりはあまり気にならない。構想から撮影開始までわずか7か月という駆け足の企画だったらしいが、そこはスティーヴン・スピルバーグ監督、ソツのない作劇を実現させている。

 アルバート役のジェレミー・アーヴァインは少し線が細い気がするが、エミリー・ワトソンやデヴィッド・シューリス、ピーター・ミュランといった渋目の英国人俳優で脇を固めているため、重量感は損なわれていない。そしてジョーイをはじめとする馬たちの“名演技”には瞠目させられる。相当な訓練を積んでいると思わせるが、それを可能にしてしまうのは、やはりハリウッド底力か。素直に感動に浸りたい観客、そして馬が好きな者にはもってこいの映画であろう。ジョン・ウィリアムズの音楽も申し分ない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「頬にキス」

2012-03-23 20:03:30 | 映画の感想(は行)
 (原題:Kannathil Muthamittal )2002年製作のインド映画。私は2004年のアジアフォーカス福岡映画祭で観ている。主人公は9歳の女の子で、彼女は誕生日に、実の親はスリランカに住んでいることを教えられる。内戦のため赤ん坊の頃に赤十字に保護され、インドに里子に出されたのだ。彼女は両親を探しにスリランカに行くことを決心する。

 「ボンベイ」や「ザ・デュオ」で知られるマニラトナム監督は“鋭い社会派メッセージと娯楽ミュージカルの融合”という芸当が出来る世界でも数少ない作家の一人だが、この作品を観る限りヴォルテージが落ちているような印象を受ける。何より音楽シーンが弱い。欧米や日本のポップスのプロモーション・ビデオと同じなのだ。



 もちろん、凡百のビデオ・クリップより数段質は高いが、インド映画らしいダイナミックな群舞等の、観客を引き込む仕掛けは皆無。たぶんミュージカル場面はほどほどにしてドラマを強調したいという作者の意向があったのだろう。しかしこの映画の本編は、難民問題というヘヴィな題材を取り上げている割には掘り下げが浅い。

 スリランカ内乱の本質的な状況は表面的に言及するのみで、さっさと親娘再会のメロドラマに焦点を移してしまったのには閉口した(しかも、展開は冗長そのもの)。シビアな素材を上手く料理できないのなら、歌と踊りで圧倒させれば良かったのである。主人公の少女を演じる子役が全く可愛くないのにも参った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「AIKI」

2012-03-20 06:43:06 | 映画の感想(英数)
 2002年作品。21歳のボクサーの主人公は交通事故で下半身不随になり、自暴自棄の日々を送る。そんな時、合気柔術の奥深さに触れた彼は、道場に入門して修行に打ち込んでいく。不慮の事故で大ケガを負った青年の再起を描く人間ドラマ。監督は天願大介。

 加藤晴彦扮する主人公が合気柔術と出会うまでの展開が長すぎる。身障者の苦悩をじっくり描こうという意図はわかるが、誰でも思いつきそうなエピソードを何の工夫もなく並べているに過ぎない。ここはシビアな展開を一つか二つ序盤に用意するだけで良く、早いとこ単純なスポ根路線に邁進すべきだった。



 桑名正博や火野正平などの脇のキャラクターが必要以上に“立って”いるのもマズイ。加えて永瀬正敏や佐野史郎ら“友情出演”組も目を引いてしまう。これらは監督の顔の広さを誇示するだけで、映画としては何のプラスにもなっていない。この作品の設定では、主人公と石橋凌演じる師範、ヒロイン役のともさかりえ以外に大きなスポットが当たってはいけないのだ。

 クライマックスの試合場面は頑張って撮っているが、いまひとつパワーとキレの良さが欲しいところ。結局、この映画で一番インパクトがあったのは、エンドクレジットのバックに出てくる本物の“車椅子の達人”だった。題材をウソ臭く見せないための配慮だろうけど、ストーリー自体がそれに負けてしまってはどうしようもない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「小便小僧の恋物語」

2012-03-19 06:33:48 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Manneken Pis)96年作品。ブリュッセルにやってきたハリー(フランク・ヴェルクライセン)は子供時代に目の前で家族を列車事故で失うという悲しい経験があり、そのため人前で感情を表すことができない。ある日、路面電車の運転手ジャンヌ(アンチュ・ドゥ・ブック)と知り合い好きになったハリーは金色の靴を彼女にプレゼントするが、彼女が“愛してる”と告白したことで二人の関係がしっくりいかなくなる。監督はベルギーの新鋭フランク・ヴァン・パッセル。95年のカンヌ映画祭で新人賞を獲得している。

 まず良かった点をあげよう。主役二人のキャラクターが素敵であること。幼いときの精神的ショックで髪の毛が抜け、施設生活が長く、感情がないという悲惨な境遇でありながら飄々とした持ち味で人を惹きつける。その実、表情の奥底には悲しいほどの諦念が窺えるハリーを共感を得るほどに体現化したヴェルクライセンの演技には感心するばかり。

 チビで垢抜けない下町の娘で、全然美人じゃなくって、若いのかトシなのかわからないが、表情や動きのチャーミングさと輝くような笑顔で画面をさらってしまうドゥ・ブックの演技も素晴らしい。二人とも演劇畑の出身らしいが、これからも映画に出続けてほしいと思わせる逸材だ。

 さらに、箱庭のようなブリュッセルの下町の風情や、路面をすべるように走る電車の存在感。二人が住むアパートの庶民的な雰囲気もいい。管理人のおばさんや、レストランで働くハリーの同僚たちなど、脇のキャラクターの扱いも万全だ。

 次に良くない点をあげる。実はこれは致命的な欠点なのだが、話が盛り上がらないのだ。テンポが遅いわりに展開が行きあたりばったりだし、前振りだけで中身のないエピソードが漫然と続く。ラスト近くのストーリーの持っていき方など、伏線も何もなしでアッという間に悲劇になり、最後の幻想シーンも取って付けたようだ。

 “ヤマなし、オチなし、意味なし”の趣向が中盤からずーっと続き、これじゃいくらキャラクターが良くても観ていて退屈でしかない。もっとドラマティックに振った演出はできないものか。素材はいいんだけどね。本当はけっこうギャグに走ったエピソードもあったらしいが、編集の段階ですべて切り捨てたとのこと。残念。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西村賢太「苦役列車」

2012-03-18 06:50:50 | 読書感想文

 父親は性犯罪者で、高校にも行けずにその日暮らしの港湾労働で生計を立てている主人公の貫太は、気がついたら19歳になっていた。とはいえ、相も変わらぬ自堕落な生活。友人もガールフレンドもおらず、住処は追い出されそうで、救いは一杯のコップ酒と風俗店通いだけ。そんな彼が同僚のアルバイト学生と知り合ったことをきっかけに、生活に変化が訪れたように思えたのだが・・・・。私小説作家の西村賢太による第144回の芥川賞受賞だ。

 正直、どうしてこの作品が芥川賞を獲得したのか分からなかった。これはどう見たって、直木賞候補がふさわしい(笑)。芥川賞というのは、同時受賞した朝吹真理子の「きことわ」のような小説にこそ進呈されるべきものだ。ダメな人間の内面をリアリズムで描出している点は純文学的かもしれないが、陰惨さや暗さとはさほど縁がない。それどころか、どこか楽天的でポップな雰囲気さえ漂ってくる。

 作者の西村の自伝的内容だと言われるが、貫太も文学に興味があり微かなインテリ臭も感じられる。単なるドン詰まりの人間から醸し出される絶望的なオーラは、あまり見られない。それは貫太が自分のことを“俺”でも“オイラ”でもなく“ぼく”と呼んでいることでも、純文学の世界によく登場する破滅的人間とは一線を画していることが窺える。

 たとえばそんな貫太が思わぬことで何かの事件に巻き込まれ、無手勝流のスタンスで事態を打開していく・・・・というような、このまま娯楽小説になるようなプロットをくっつけても、何ら違和感の無いようなキャラクターなのである。それはつまり、自伝的要素を表に出しながらも、モチーフに対して没入していないことを意味している。まさしくエンタテインメント性を獲得した作劇と言えよう。

 とはいえ、生活描写は非常にリアルで感心させられる。その日暮らしを自己正当化してダラダラと続けるみっともなさや、賃金と性欲処理と食欲に関するバランスシートの記述も絶妙だ。ここまで身も蓋も無く描いてくれると、却って清々しさまで感じてしまう。

 西村は本作以外にも結構な数の著作があるが、これを機会に目を通してみたいと思った。そして本作は山下敦弘監督によって映画化されるが、それも楽しみだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「灼熱の魂」

2012-03-17 06:52:05 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Incendies ) はっきり言って“有り得ない話”である。しかし、ストーリーの背景とキャラクターの配備を徹底的に煮詰めれば、かくも求心力の高いドラマに結実する。まさに題名通りの“灼熱のドラマ”であり、観る者を最初から最後まで画面に釘付けにするヴォルテージの高さを誇る。観て良かったと思える力作だ。

 カナダのケベック州に住む双子の姉弟、ジャンヌとシモンの母親が精神的ショックにより衰弱し、間もなく息を引き取る。亡くなった母親ナワルからの遺言を受けた二人は、今まで遭ったことのない父親のこと及び兄の存在を知る。遺言により父親と兄への手紙を託された二人は、母親の故郷レバノンへ初めて足を踏み入れることになるのだが、そこで明らかになったのは、驚くべき真相だった。

 長い内乱でレバノン国民が疲弊していた時期、キリスト教徒であったナワルが最初に身籠もったのは、イスラム教徒の子であった。彼女は村を追い出され、子供も無理矢理に施設に預けられてしまう。一時は都会に住む叔父宅に身を寄せたナワルだが、やがて自分の子供を探し出すために過酷な旅に出る。その行程は筆舌に尽くしがたいほどの困難の連続だ。テロ組織に加わったために刑務所に収監された彼女を、さらなる不幸が襲う。

 まるで運命の悪戯としか言いようのない筋書きだが、冒頭近くの異教徒の子を宿したナワルを親族が簡単に射殺しようとする理不尽なシーンに代表されるように、この土地のこの時代は不条理こそが“日常”だったのだ。いや、このインモラルな状況が“日常”になってしまった地域は今でも世界各地に存在しているし、その歪みは周辺国に対しても悪影響を及ぼしている。

 しかし、こんな激烈な状況を経ても、彼らは生き続けなくてはならない。作者はキリスト教徒と回教徒、両方の血を受け継いだジャンヌとシモンに何とか希望を託そうとする。だが、それは前に観た「サラの鍵」のラストで描かれた未来への希望よりも、儚いものかもしれない。しかし、そうするしか取るべき道が無い。託さざるを得ない。その切迫感が観る者を圧倒させる。

 ドゥニ・ヴィルヌーヴの演出は強靱で、退路を断ったかのような“覚悟”が全編に漲っている。ナワルの生い立ちと、レバノンを訪れたジャンヌの行動とが同時進行していく作劇を採用しているが、この編集が絶妙で、過去と現在とを繋ぐ悲劇の正体を暴くような終盤の展開に向かって、二つの物語が絡み合いながら疾走していく様子は圧巻だ。主役のルブナ・アザバル、そして共演のメリッサ・デゾルモー=プーランとマキシム・ゴーデットの演技も素晴らしい。

 90年代にレバノンの内戦は一応終結したとされるが、隣国シリアは不穏な動きを見せており、根本的な解決からは程遠い状況だ。この地に平和が訪れることを、願ってやまない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「タイタス」

2012-03-16 22:50:00 | 映画の感想(た行)
 (原題:Titus )99年作品。シェイクスピア作の悲劇「タイタス・アンドロニカス」の映画化。ローマ帝国の武将タイタスに対する皇帝の后女王タモーラの復讐を描く。シェイクスピア演劇の中で最もスプラッタ度の高い作品であり、ケレン味たっぷりに楽しませてくれるかと思っていたが、実際観てみると大したこともない。

 ユニークな衣装や美術、そしてハッタリかませた音楽で押しまくる最初の10分間はさしおいて、物語が進むにつれシラーッとした気分になってきた。そもそもタイタスの悲劇の原因がさっぱり分からない。たぶん彼は軍人としては優れていても、人間としては小人物(単なる憂国オヤジ)だったのだろう。



 しかし演じるアンソニー・ホプキンスはどうにも立派かつ狡猾に見えて、タイタスの中にあるはずの弱さや愚かしさが全然見えない。彼の行動がチグハグに見えるのはそのせいで、おかげでドラマが底の浅いものになってしまった。特にラスト近辺は演出が行き詰まって自爆しており、無惨と言うほかない。

 監督ジュリー・テイモアはブロードウェイ・ミュージカル「ライオン・キング」の演出で知られるが、映画の方はこのデビュー作をはじめとして、どうもパッとしない。演劇に専念した方が良いと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする