元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「Mr.Long ミスター・ロン」

2018-01-29 06:34:51 | 映画の感想(英数)

 随分と乱暴な筋書きである。展開は行き当たりばったりで、まさに御都合主義が横溢している。ならば面白くないのかというと、そうでもないのだ。それはキャラクター設定の妙に尽きる。強烈な印象を受ける人物を画面の真ん中に据えれば、映画はサマになってしまう。SABU監督としても「ポストマン・ブルース」(97年)以来の快作と言えるのではないか。

 台湾の殺し屋ロンは、ナイフを使った確かな仕事ぶりで“その筋”からの信望も厚い。ある時、彼は東京・六本木にいるヤクザを殺す仕事を請け負う。しかし、失敗して逆にピンチに陥ってしまう。相手のスキを突いて何とか逃げ出し、北関東のとある田舎町へと流れてくるが、日本語が分からない彼は途方に暮れる。そこで偶然知り合ったのが、心を閉ざした少年ジュンとその母親で台湾人のリリーだった。やがて地元の人々との交流も生まれ、ロンは得意の料理の腕を活かして牛肉麺の屋台を始める。それが成功し、ジュンとリリーとの間にはまるで家族のような関係性を持つに至るが、そこにヤクザの手が迫ってくる。

 主人公が“料理が得意な殺し屋”という設定は、やや無理筋ながらまだ許せる。だが、絶体絶命のロンが逃亡に成功する理由が、敵のボスに復讐しようとしている男が“偶然に”割り込んでくるというのは、都合が良すぎるだろう。さらに逃亡先で“偶然に”台湾人の親子に出会い、住み家として適当な廃屋が“偶然に”近くにある。さらに、ジュンとリリーを苦しめる地元の暴力団が、くだんの六本木のヤクザと“偶然に”繋がっているのだから呆れる。終盤の処理に至っては、あまりにも乱雑だ。

 しかし、主要登場人物の個性は際立っていて、かなり説得力がある。チャン・チェン扮するロンは無愛想で無口だが、内に秘めた激しい感情を鮮明に表現していて圧巻。活劇場面での乾坤一擲のナイフさばきも冴える。そんな彼が逃げ延びた町の者達との交流を通して、徐々に人間らしさを取り戻していく筋書きは予想通りながら、そのプロセスは丁寧に描かれていて説得力がある。

 薄幸を絵に描いたようなリリーの造型も良い。心の拠り所を見つけたと思ったら、そのたびに理不尽な境遇に追い込まれ、さらなる転落を強いられるヒロインを台湾女優イレブン・ヤオは懸命に演じる。諏訪太朗や大草理乙子、歌川椎子といった舞台畑の芸達者が顔を揃えているのも嬉しい。子役のバイ・ルンインや敵役の岸建太朗もイイ味を出している。

 地方都市の沈んだ雰囲気と、ギラギラした六本木や台北との対比は悪くない(古屋幸一のカメラは要チェック)。第67回のベルリン国際映画祭に出品されているが、この程度では正直受賞は無理だと思う(事実、無冠だった)。だが、捨てがたい魅力はある。観て損は無い映画だ。
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カズオ・イシグロ「忘れられた巨人」

2018-01-28 06:34:21 | 読書感想文
 2017年にノーベル文学賞を受賞したイシグロの小説は、2本の映画化作品(「日の名残り」と「わたしを離さないで」)は観ているが、読んだことがなかった。丁度良い機会なので、一冊手にしてみた。本書は2015年に執筆されており、現時点では最新作である。内容はかなり含蓄に富んでおり、読み応えがあった。しかしながら、いたずらに高踏的で読者にプレッシャーをかけるようなものではない。文体は平易でありながら、テーマは奥深いという、ある種理想的なスタイルを取っている。

 6世紀のイングランドは、サクソン人の侵入を迎え撃ったアーサー王は死去したものの、小康状態を保っていた。寒村に住んでいたブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスは、昔家を出て行った息子に会うために旅に出る。途中で“円卓の騎士”の一人であったガウェイン卿やサクソン人の騎士ウィスタン、そしてエドウィン少年に出会い、旅の道連れとする。



 一方、この頃国全体が正体不明の霧に覆われ、そのせいで人々は断片的な記憶喪失に罹っていた。アクセル達も、息子が遠くで暮らしている理由さえ思い出せないのだ。この霧は雌竜が吐く息が原因であるらしく、ウィスタンはそれを退治しようとしていた。一行は悪天候に悩まされ、修道院で鬼に襲われるなど危うく殺されそうになるが、何とか切り抜けて雌竜が生息している場所までたどり着く。だが、そこで思わぬ真実が明らかになる。

 私の苦手なファンタジー物だが(笑)、完全な絵空事ではなく実在の土地を舞台に史実を交えながら展開するので、あまり違和感は覚えなかった。読んでいる間は題名にある“巨人”が出てこないじゃないかと訝しんだが、終盤でその“種明かし”があって納得する。

 世界は雌竜が吐く息によって憎悪や怨恨が“忘却”されてしまえば、それで一応の調和を見るのかもしれない。ところが、それらは取り敢えずは“忘れられた”ものではあるが、決して消滅はしていない。何かの拍子に表面化してしまう恐れもある。歴史において“忘却”の扱いを受けるに相応しい事実と、決して埋もれさせてはいけないモチーフがあるのは確かだ。だが、その取捨選択を取り間違い、あるいは権力による故意に誤った取捨選択が横溢してしまえば、世の中は乱れるばかりである。また、それは現代の世界のリアルなのだ。

 この複雑な状況をファンタジーの形で図式化したイシグロの意欲は、大いに評価して良い。妻を“お姫様”と呼んでいたわるアクセルをはじめ、各キャラクターは実によく“立って”いる。無常的なラストも印象的で、読む価値のある書物だと言える。
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「ルージュの手紙」

2018-01-27 06:31:08 | 映画の感想(ら行)

 (原題:SAGE FEMME)脚本があまり上等ではなく、筋書きの不備が散見される。ただ、キャストの演技と存在感でさほど退屈せずスクリーンに対峙できた。やはり映画において“スター”の占める割合は大きいのだろう。

 パリ郊外のモントレ=ラ=ジョリーの町に暮らす中年女性クレールは、助産婦として働きながら、女手ひとつで息子を育てあげてきた。この仕事に誇りを持っていたが、勤務先の病院が経営不振で閉鎖されることが決まり、自身の今後について悩んでいた。そんなある日、1本の電話が入る。その相手は、30年前に突如姿を消した血の繋がらない母、ベアトリスだった。彼女は父親の後妻で、奔放な生き方を貫いた挙げ句に家を出ていた。クレールの父は、ベアトリスがいなくなった事に耐えられず、自ら命を絶ってしまったのだ。

 かつてのパートナーの死も知らずに気ままな生活を長年送り、ここにきて“かつてのダンナに会いたい”という突然の連絡を義理の娘に入れるベアトリスに、クレールは困惑するばかり。だが、ベアトリスは難病を患っていて、余命幾ばくもない可能性があることが分かってくる。クレールは彼女に同情しつつも、相変わらず無軌道な言動をやめない彼女に手を焼く。そんなクレールの前に気になる男性が現れ、彼女の境遇も変わっていく。

 ベアトリスのキャラクターには納得出来ない。昔は好き勝手に振る舞い、やがて突然家を出る。そして30年も経った後、伴侶に会いたいとクレールに連絡を付けるが、相手が自分のために死んだことも知らない。自身の寿命があと僅かかもしれないという不安はあるが、気侭な生活はそのままだ。

 ならばクレールに感情移入が出来るのかというと、そうでもない。プライドを持って仕事に臨んでいることは分かるが、病院がもうすぐ無くなるにも関わらず、今の医療の有り様に疑問を持っているとのことで、再就職の活動もしない。それでは、自身のスキルが世の中に活かせないではないか。やがて重い腰を上げて求人を行っている職場を訪問してみるが、そこは絵に描いたようなハイテク(?)病院で、彼女は嫌気がさしてしまう。いくら医療テクノロジーが進歩しているとはいえ、熟練したスタッフを蔑ろにしている病院があるとは信じがたい。また、いつ発作を起こすか分からないベアトリスに自動車の運転をさせるシーンも愉快になれない。

 こうした要領を得ない展開の果てに、思わせぶりなラストが待っている。マルタン・プロヴォの演出は平板で、これでは評価出来ない。ただし、ベアトリス役のカトリーヌ・ドヌーヴが放つオーラは大したものだと思う。彼女が出てくるだけでパッと画面が明るくなるようだ。やっぱり“スター”は凄い。

 クレールに分するカトリーヌ・フロも、この年代の女性らしい慎み深さと、内に秘めたしたたかさを感じさせる妙演だ。クレールの交際相手を演じるオリヴィエ・グルメもイイ味を出している。それにしても、この邦題は終盤の小道具に由来しているとはいえ、往年のヒット曲のタイトルに似ていて紛らわしい(笑)。
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「IP5 愛を探す旅人たち」

2018-01-26 06:32:52 | 映画の感想(英数)

 (原題:IP5 )92年フランス作品。主人公の若者トニー(オリヴィエ・マルティネス)は、街中の壁にスプレーによる見事な作品を無断で残していく“アーティスト”だが、それが仲間の怒りを買い、グルノーブルへ(おそらく麻薬入りの)人形をトラック輸送する仕事をやらされるハメになる。相棒は同じアパートに住む黒人少年ジョッキー(セクー・サル)。

 ところが以前ジョッキーの部屋に来ていた看護婦グロリア(ジェラルディン・ペラス)が忘れられないトニーは、車を盗んで彼女のいるトゥールーズへ行こうとする。その途中で出会ったのが謎の老人レオンである。自然と対話することが出来るこの老人は、トニーたちの足出まといになるかと思えば、思わぬ機転で彼らを救ったりする。3人の奇妙な旅を描くロード・ムービー。

 何かジャン=ジャック・ベネックス監督に心境の変化があったのでは、と思わせるような作品だ。デビュー作「ディーバ」(81年)に代表されるように、相反する二つの事象を並べてそのコントラストにより主題を明らかにしていくという手法はこの作品にも共通している。「ディーバ」ではクラック音楽とロック・ミュージック、あるいはブランド志向とアンティーク趣味、そして今回は都市と自然、若者と老人、現実と幻想etc.

 しかし、ポップでスタイリッシュなタッチで現代的風俗をすくい上げる“映像感覚派”(なんじゃ、そりゃ)のベネックスが、いきなり正面から愛や友情や自然保護といった明快なテーマを描いているのは驚きでもある。しかもクライマックスは、病床にある老人へのジョッキーの延々と続くセリフによって成立している。ここでオーソドックスな映画ファンは納得して感動の涙を流すのかもしれないが、前作「ロザリンとライオン」(89年)の目もくらむ映像マジックに感動しまくった私としては“何か違うんじゃないの?”と言いたくなる。

 エコロジー・ブームに乗っかっただけという意見もあるようだが、私が思うに、これはレオン老人を演じるイヴ・モンタンへのオマージュではなかったのか。40年前に恋人を失い、その無念さを絶えず心の奥にしまいこんでいたレオン。実業家として成功はしたものの、満たされない気持ちで晩年を迎え、老人病院を抜け出して若者たちと旅に出る。そして最後になってやっと心の平穏を得る・・・・といった役どころを過不足なく演じられるのは、モンタンの豊かな人間性と円熟味をもって以外にないという判断からなのだろう。

 心臓の悪いモンタンが雨に打たれたり、裸で湖に入って行く場面は気になったが、実に絵になっていることは確かであり、神秘性さえも感じられる。ガブリエル・ヤレドの音楽も効果的だ。イヴ・モンタンは、この映画の撮影直後に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。数多い彼の出演映画の、これが最後の作品である。
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「否定と肯定」

2018-01-22 06:37:33 | 映画の感想(は行)

 (原題:DENIAL)映画の出来そのものよりも、題材と提示される事実にとても興味を覚えた。当然ながら映画は素材よりも中身で評価されるべきものだが、時として“例外”もあり得るのだろう。

 94年、アトランタにあるエモリー大学で講演中の歴史学者デボラ・E・リップシュタットは、突然イギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングから異議を唱えられる。リップシュタットはユダヤ人で、第二次大戦中のナチスによるホロコーストの研究に関して成果を上げていたが、アーヴィングはホロコースト自体が存在しなかったと主張するホロコースト否定論者だった。

 リップシュタットは彼を相手にする価値も無い人間と見なして適当にあしらうが、後日アーヴィングは彼女を英国の裁判所に名誉毀損で提訴する。イギリスでは被告側に立証責任があるため、リップシュタットは相手が標榜する“ホロコースト否定論”を崩さなければならない。ユダヤ系人脈の援助もあり、彼女のために英国人による大弁護団が組織される。そして2000年1月、審議が王立裁判所で始まった。リップシュタット自身の回顧録の映画化だ。

 ハッキリ言って、こういうネタでわざわざ裁判を起こす方がどうかしている。しかも、アーヴィングは弁護人も立てておらず、まるで法廷を自身の“演説会場”とでも思っているような雰囲気だ。しかし、裁判所で歴史的事実の検証なんか実施出来るはずもなく、あくまで内容は名誉毀損があったかどうかである。映画も史実の詳細については言及していない。そもそも2時間程度では総括できないので、的確な措置である。しかも、歴史の重みをアウシュビッツの現地調査の場面で一気に語ってしまう処理も申し分ない。

 そして驚いたのは、弁護士チームは公判中に被告のリップシュタットにまったく発言を許さず、ホロコーストの生き残りも証人として出廷させていないことだ。もしもそれを実行してしまうと、話がセンチメンタリズム方向に振られてしまい、裁判としても映画自体も“終わって”いたはずで、これは冷静な対処法だと言いたい。やはり裁判に勝つには“戦略”が必要なのだ。

 レイチェル・ワイズ演じるリップシュタットはヒステリックで自己主張のみが強く、まったく共感できない。弁護団は沈着冷静で職務を遂行していくが、あまり面白味のある描き方はされていない。もうちょっとケレンを効かせて欲しかったというのが正直な感想だ。とはいえ、ライトな娯楽派であるミック・ジャクソン監督としては、健闘している部類だろう。

 ハリス・ザンバーラウコスのカメラによる寒色系の深みのある画面、ハワード・ショアの堅実なスコアは認めて良い。敵役のティモシー・スポールをはじめ、トム・ウィルキンソン、アンドリュー・スコット、ジャック・ロウデンといった渋い顔ぶれが揃っているのも嬉しい。
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「さらば青春の光」

2018-01-21 06:19:23 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Quadrophenia)79年イギリス作品。若造だった頃にリアルタイムで観ているが、大した出来ではないと思った。たぶん、今見直しても評価は変わらないだろう。ただ、思慮の足りない若者がいかにも陥りそうなディレンマと破局の一典型として“資料的な”意義はあり、何より時代背景の60年代の風俗の再現は、この映画の存在価値を確実なものにしている。

 64年ロンドン。若者ジミーは退屈な仕事にも両親との無味乾燥な関係にも嫌気がさし、モッズ仲間のデイヴやチャーキーらとスクーターでの暴走や敵対するロッカーズたちとのケンカに明け暮れていた。彼が憧れていたのは、モッズのカリスマ的存在であるエース・フェイスだった。ニヒルで沈着冷静、それでいて面倒見が良いエースのような存在になりたいと思っていたジミーだが、拡大するロッカーズとの抗争は警察の介入を招き、立場が危うくなる。



 一方でジミーは自室にあった薬物を母親に見つかって家を追い出され、仕事もクビになる。付き合っていた彼女はデイヴに寝取られ、事故によって愛用のスクーターも失う有様。そんな彼に追い打ちをかけたのが、あれだけカッコ良かったエースが、実はホテルのベルボーイで、客にヘイコラしているのを目撃したことだ。絶望したジミーは、捨て鉢な行動に出る。

 この主人公には全く感情移入できない。自堕落な生活をやめられず、勝手に不幸を引き寄せているだけだ。しかも、頼りにしていたエースが地道に働いているのを見て、独りよがり的に世の中全体を悲観してしまう。エースみたいな若造がそう簡単に社会的成功を手にできるはずもなく、それどころか就職難のイギリスで堅気の仕事にありついているだけでも、ジミーよりは数段マシな生活を送っているのは言うまでもない。

 映画はこの甘ったれた主人公に対する批判精神さえ持ち合わせず、ジミーの行動を思い入れたっぷりに追うだけ。ダメ人間のケースモデルとしての価値はあるかもしれないが、映画的興趣が伴わないのであれば、それは評価するに値しない。

 ただし、この頃の若者文化の紹介という点では、興味を惹かれる。モッズやロッカーズのファッションは全然垢抜けていないが、こういうスタイルが隆盛を極めたという事実の提示には意味があると思う。フランク・ロッダムの演出は平板。主役のフィル・ダニエルズをはじめ、(エースに扮したスティングを除いて)キャスト陣は概ねパッとしない。

 なお、本作はザ・フーのアルバム「四重人格」を元にしている。そのため音楽だけはノリが良くて盛り上がる。話によると、ザ・フーのギタリストで本作の脚本にも参加したピート・タウンゼントは、主役は元セックス・ピストルズのジョン・ライドンに演じて欲しかったと後年語っていたらしい。
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「キングスマン:ゴールデン・サークル」

2018-01-20 06:29:10 | 映画の感想(か行)

 (原題:KINGSMAN:THE GOLDEN CIRCLE)前作(2014年)に比べると大幅に落ちる出来映え。設定や脚本を練り上げないまま、見切り発車的に製作された感が強い。やはりヒット映画の続編の作り方は難しいのだろう。

 突如現れた謎の敵“ゴールデン・サークル”の攻撃により、スパイ機関“キングスマン”の拠点が、ロンドンのサヴィル・ロウにある本部を含めすべて壊滅してしまう。生き残ったのは前回の主人公エグジーと、教官兼メカ担当のマーリンの2人だけ。彼らはアメリカにある似たような組織“ステイツマン”の存在を知り、協力を得るためケンタッキーまで赴く。

 バーボンの製造工場の内部に本拠地を構える“ステイツマン”は、“キングスマン”とは大違いのアメリカンなチームで、エグジー達とは折り合わない。一方“ゴールデン・サークル”の女ボスのポピーは麻薬取引に関して世界を震撼させるような計画を企て、米大統領を脅迫する。果たしてエグジーとマーリンは“ステイツマン”の面々と協力して事態を打開できるのだろうか・・・・という話だ。

 長い歴史を誇っていたはずの“キングスマン”が、呆気なくほぼ全滅してしまうのは違和感がある。しかも、前作での扱いが大きかったキャラクター達も一緒に消滅だ。これ以外でも、本作では無駄に多く登場人物が死んでしまう。かと思えば、死んで当然と思われる者達はしっかりと生き残る。果ては前回で退場したはずの“あの人”までが性懲りも無く現れるに及び、早々に観る気が失せてきた。

 ハデな見せ場は多いが、前作のような卓越したアイデアは見られない。舞台こそワールドワイドになったが、007シリーズの亜流のような印象を受けてしまう。“ステイツマン”の描写はもっとコテコテに盛り上がって然るべきだが、どうも薄味だ。西部劇風の格好をすればサマになるとでも思ったのか。それではダメだ。

 “ゴールデン・サークル”の悪巧みは、ひょっとすると(ある意味では)世界平和に貢献するのかもしれない。事実、劇中にもそういう意見を表明する者は存在するのだが、主人公達はヒューマニズム(?)の姿勢に則って頭から否定する。これはあまりにも安易で、そのことが終盤の後味の悪さに繋がっている。

 売り物のグロ描写には今回はユーモアが感じられず、ただ残酷なだけだ。特に“人間ミンチ”にはドン引き。関係ないが、私はジェームズ・グリッケンハウス監督の「エクスタミネーター」(80年)に似たようなシーンがあったことを思い出した。あの映画はシリアスなタッチでエグい場面にもカタルシスはあったが、本作はただの悪趣味としか思えない。

 マシュー・ヴォーンの演出はメリハリが無く、これまで順調だったキャリアも停滞しそうだ。タロン・エガートンをはじめジュリアン・ムーア、マーク・ストロング、ハル・ベリーといった面々には覇気が感じられない。チャニング・テイタムやジェフ・ブリッジスは別に出てこなくてもいいような役柄だし、エルトン・ジョンの登場も特にインパクトは無い。一応ヒロイン役のハンナ・アルストロムは、ハッキリ言ってブサイクだ(笑)。何やらまた続編があるような終わり方だが、この調子ならばあまり期待は持てないだろう。
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「トレスパス」

2018-01-19 06:34:56 | 映画の感想(た行)
 (原題:Trespass)92年作品。久々にウォルター・ヒル監督の真骨頂を見たような気がした。かつては「ザ・ドライバー」(78年)「ロング・ライダース」(80年)「ストリート・オブ・ファイヤー」(84年)などの傑作群を放った彼も、80年代後半から作品に力が入らなくなり、「レッドブル」(88年)「48時間PART2」(90年)など凡作の連発。中には「クロスロード」(86年)なんていうワケのわからん映画もあったし、このまま終わってしまうのかと思っていたのだが・・・・。今回の「トレスパス」は、全盛期の作品ほどではないにしても、かなりの線はいってると思う。

 アーカンソー州フォートスミス。深夜、車の中で射殺される男のビデオ画面を見ていたギャングの親分KJとその子分たちは、犯人を郊外の廃屋に呼び出して片付ける算段を始める。一方、消防士のビンスとドンは、火事場で救出しようとした老人から“宝の地図”を無理矢理手渡される。それは50年前その老人が強奪した黄金製のカソリックの祭具(時価数百万ドル)の隠し場所を記したものだった。



 奇しくもその場所が前述のギャングたちが目指す郊外の廃屋の中。こうして殺人を目撃されたKJたちと、黄金を独り占めしようとする消防士たちの血で血を洗う戦いが始まる。重武装したギャングたちに対し、ビンスたちは拳銃一丁。しかしKJの弟を人質にとった彼らは、廃屋に住みついていたホームレスの老人の協力を得て、強行突破をもくろむ。果たして二人は助かるのか。そして黄金は誰の手に。

 まず、何がいいかというと、KJをはじめとするギャング連中の面構えだ。登場人物は消防士二人を除いて全員黒人である。こいつらがめちゃくちゃカッコいいのである。ビシッと高級スーツを着こなし、身のこなしもしなやかに、スクリーン上を走り回る姿が実に美しい。

 KJを演じるのはアイス・T、その一の子分に扮するのがアイス・キューブだと言ったら、音楽ファンはニヤリとするだろう。それに対し白人二人組(ビル・パクストン、ウィリアム・サドラー)は身なりも祖末で、明らかにダサイ。黒人偏重、白人逆差別の映画である(笑)。ノンストップのアクションが展開する一方、携帯電話やビデオカメラといった当時のハイテク小道具が抜群の効果をあげている。

 ヒル作品ではおなじみのライ・クーダーの音楽、そして二人のアイスによるノリのいいラップも当然フィーチャーされている。各キャラクターを短い時間で明確に描き分ける手腕、会話の面白さ、得意の夜のシーンこそないが、まぎれもなくこれはヒルのカラーを示すものだ。消防士という設定があまり生かされないことや、ラストが意外にあっけなかったりする欠点も目につくものの、まずは快作と言っていいだろう。観る価値はある。
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「希望のかなた」

2018-01-15 06:37:11 | 映画の感想(か行)

 (原題:TOIVON TUOLLA PUOLEN)アキ・カウリスマキ監督の持ち味が今回も全面展開しているが、そこにグローバル社会がもたらす問題点も巧みに挿入され、重層的で見応えのある作品に仕上がっている。2017年ベルリン国際映画祭の銀熊賞の受賞作だ。

 ヘルシンキの港に停泊していた貨物船の中から、煤まみれのアラブ系青年カーリドが現れる。彼は内戦が激化する故郷シリアのアレッポから逃げてきたのだ。いくつもの国境を越える長い旅路を経て、フィンランドにたどり着いたのも偶然に近い。だが、途中で唯一の肉親である妹と生き別れ、それだけが気がかりだ。入国管理局で難民申請をした彼は施設で暮らすことになるが、トルコに移送されそうになる直前、脱走する。

 一方、ヘルシンキで衣料品の卸業務を営んでいた中年男ヴィクストロムは、退屈な仕事も愛想が無い妻もイヤになり、家を出る。ポーカーゲームで大勝し大金を手にした彼は“ゴールデン・パイント”という名のレストランのオーナーとなったが、従業員はやる気が無く、出される料理も話にならないレベルだ。ある日店の前でうずくまっているカーリドを見つけたヴィクストロムは、彼を店のスタッフとして雇い入れる。さらに住居や、偽の身分証まで用意する店長の姿に、従業員たちもカーリドを仕事仲間として受け入れていく。

 舞台は現代であるが、ヴィクストロムが乗るクラシックカーに代表されるように、エクステリアは復古調だ。登場人物達は全員が仏頂面で、ニコリともせずに煙草ばかりをスパスパ吸う。セリフも最小限度に抑えられている。それでいて本作には映画的趣向があふれ、テーマに対する主張は饒舌だ。

 まず“渡る世間に鬼はない”というモチーフを作者は前面に出す。ヴィクストロムおよび店の従業員達はもちろん、警察や入国管理局の役人に至るまで、皆無愛想ながら根は優しい。酒に溺れてやさぐれていたヴィクストロムの妻も、終盤には“いい人”になっている。これは彼らが特別に性根が良いということではなく、他人を助けるぐらいの優しさは誰でも持ち合わせているという、作者の達観が見て取れる。

 だが、そんな構図を踏みにじる存在も描かれている。それは、外国人を憎悪し排斥するスキンヘッドのネオナチ共だ。彼らはアラブ人とユダヤ人の区別も付かないほど無知蒙昧だが、自分達は正しいことをやっていると思い込んでいる。言うまでもなく過度なグローバル化が背景になっているが、彼らが目の敵にするカーリドをはじめとする難民達の苦労も、このグローバル化が原因であることを考えると、問題の根の深さを改めて思い知る。

 カウリスマキ監督のハードボイルドなタッチは健在で、今回は特にユーモラスなタッチが散りばめられていることが印象深い。特にレストランが日本料理に色目を使うくだりは大笑いした。カーリド役のシェルワン・ハジをはじめ、サカリ・クオスマネンやイルッカ・コイヴラ、ヤンネ・ヒューティアイネンといった顔ぶれは馴染みが無いが、皆良い面構えをしている。
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「パリところどころ」

2018-01-14 06:40:20 | 映画の感想(は行)
 (原題:PARIS VU PAR)65年フランス作品。同年のカンヌ国際映画祭で上映されたオムニバス映画。パリを舞台に、ヌーヴェル・ヴァーグの気鋭の監督6人が当時のパリ市民の哀歓をスケッチ風に描く。製作は当時24才だったバルベ・シュレデール。タイトルにはすべてパリの地名が付けられている。

 堅物男がふとしたトラブルに遭い、あれこれ悩む姿をコミカルに描くエリック・ロメール監督の「エトワール広場」。ジョアンナ・シムカス扮するヒロインが、二人の男に取り違えた手紙を出したことから、双方の男にフラれる話を皮肉っぽいタッチで綴ったジャン=リュックゴダール作品「モンパルナスとルヴァロワ」。自称“金持ち”のいいかげんな男に振り回されるアメリカ娘の“災難”を面白おかしく描くジャン・ドゥーシュ監督の「サン・ジェルマン=デュ=プレ」など、それぞれ見どころのある作品が並んでいるが、一番衝撃を受けたのがジャン・ルーシュ監督「北駅」である。



 ナディーヌ・バロー演じるヒロインと結婚2年目になる旦那が朝から口喧嘩している。結婚当時はカッコ良かったらしい夫は、2年で10キロも太り、性格の裏も表もすべてカミさんに知られ、今ではフツーの男に過ぎない。彼女にしても、数年前は謎めいたキャラクターで男を手玉にとったりしていたらしいが、結婚後すっかりネタが割れてしまい、今ではフツーの主婦。

 “秘密がなければ愛情はさめる”と主張する彼女に対し、“相手の性格を包み隠さず知ることによって愛情は深まる”と譲らない夫。議論は平行線のまま、怒った彼女は家を出る。そこへ声をかけてきたのが、ハンサムだが得体の知れない男。追い払おうとする彼女にかまわず、男は自分のエキセントリックな主義信条をまくしたてる。そして、物語は唐突な悲劇であっという間に幕を閉じる。

 15分ほどのドラマだが、なんとカットは3つしかない。そのうち最初と最後のカットは数秒だから、ほとんどワン・カット&ライヴ録音で作られている。つまり主人公が旦那と喧嘩して家を出て妙な男に出会うまで、カメラは切り替わらない。手持ちカメラの臨場感がこの作品の前衛性を強調するが、何よりも終盤いきなりシュールに展開するドラマは、まるで日常生活に突然開いたブラックホールみたいな衝撃を与える。まさに“真昼の暗黒”と言おうか、ヒッチコックにも通じるサスペンスフルな演出が光っている。ルーシュ監督の他の作品も観てみたい。

 公開当時は商業的にも成功したというこのオムニバス映画。19年後の84年には「新・パリところどころ」も作られたという。
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