元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「満ち足りた家族」

2025-02-03 06:07:59 | 映画の感想(ま行)
 (英題:A NORMAL FAMILY )観ていて最後まで引き込まれた。タイトルとは裏腹に、全然“満ち足りていない家族”を極端な露悪的アプローチで描き出すという、逆の意味での“痛快作”だ。ここまでやれる演出と脚本の確信犯ぶりには、ただ驚くしかない。本作も、近年の韓国映画の好調ぶりを存分に印象付けてくれる。

 ソウルで法律事務所を開設しているジュワンは、倫理道徳よりも金銭的な損得勘定を優先する阿漕な弁護士だ。かなり年下の2番目の妻ジス、十代の娘と豪華なマンションで暮らしている。彼の弟ジェギュは、人徳者として評判が高い小児科医だ。年長の妻ユンギョンと十代の息子と暮らし、認知症を患った母親も引き取って介護している。この2つの家族は月に一回高級レストランの個室でディナーをともにすることを決めているが、あるディナーの夜に事件が発生する。しかも、そのアクシデントにそれぞれの子供が関与している疑惑が生じ、この兄弟は対処に悩むことになる。



 この設定だけ見れば、当初はジェワンとジェギュがそれぞれのスタンスにより対立するが、ある切っ掛けで和解の糸口が掴めるという筋書きを想像する観客もいるだろう。しかし、事態は暗転に次ぐ暗転を経て、予測困難な様相を呈してくる。

 早い話が、個々人がシッカリと持ち合わせているはずの主義主張や道徳律なんてものは、周囲の状況によって容易に揺らいでしまうものだということを、悪意に満ちた筆致で描いた作品である。もちろん、その背後には韓国社会に蔓延る拝金主義やヒエラルキーなどの問題が控えているのだが、本作の構図は高い普遍性を獲得していて、日本をはじめ幅広い国の観客にアピールすることだろう。

 ホ・ジノの演出はパク・ウンギョとパク・ジュンソクによるダークな脚本を得て、ブラックな方向に弾けまくる。特に、一時はヒューマニスティックな雰囲気での解決を匂わせながら、直ちに悪魔的な展開に移行するという底意地の悪さには、呆れつつも感心してしまう。

 兄弟に扮するのはソル・ギョングとチャン・ドンゴンだが、彼らの俳優としてのキャラクターを巧みに裏切ってゆく筋立てが見事だ。もちろん、彼らの演技も達者である。ユンギョン役のキム・ヒエとジスを演じるクローディア・キムも好調で、こっちの方も先の読めない内面的パフォーマンスが光る。

 あと、ジェギュの一家が面倒を見ている老母が、少しも彼らに感謝せず、それどころかジェワンのことばかりホメるのは観ていて辛い。まあ、これが老人介護の実相というものなのだろうが、暗澹とした気分になってくるのは確かだ。
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「モリエール」

2025-01-06 06:41:51 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MOLIERE )78年フランス=イタリア合作。17世紀フランスが生んだ偉大な劇作家モリエールこと、ジャン=バティスト・ポクランの伝記作品だ。オリジナルのテレビドラマ版は約7時間とのことだが、劇場公開されたのは短縮版である。とはいえ、これも235分という長尺であり、元々テレビ用のソフトとは思えない超多額の予算が投入されていることもあって、鑑賞後の満足度はかなり高い。

 主人公ジャン=バティストは、1622年にパリの中心地で室内装飾を営むジャン・ポクランの息子として生まれる。何不自由ない幼年時代を送ったが、優しかった母が急逝した際に周囲の者たちの冷酷な振る舞いにショックを受け、人間不信に陥っていく。成長したジャン=バティストはオルレアンの大学の法科に進むが、世の中の不条理に怒り学生運動に身を投じるようになる。



 ある日、官憲から逃れるために入り込んだ芝居小屋で、彼は舞台に立つ美しい女優マドレーヌに心を奪われる。これを切っ掛けにジャン=バティストは演劇にのめり込み、いつしか芝居の台本も手掛けるようになる。モリエールの作品は現在でもよく知られていて頻繁に上演されているが、その生涯の実相はポピュラーではない。その意味で、本作は資料的にも重要であると言えよう。

 時代考証はかなり詰められていて、都会とはいえ衛生状態が良くないパリの町並みや、それに対比するかの如く住民たちの明るいバイタリティとか、たぶん当時はこのようなものだったのだろうという説得力が確保されている。また、そんな庶民の哀歓からモリエールの作品群が生まれてきたというコンセプトも頷けるものだ。

 脚本も手掛けたフランスの先鋭的演劇集団「太陽劇団」の主宰者アリアーヌ・ムヌーシュキンの演出ぶりは目覚ましく、いくつかのシークエンスでは突出した存在感を発揮している。特に公演を勝手に中止に追い込んだ地方の有力貴族に抗議するために、全員が舞台用のコスチュームに身を包んで街中を練り歩く様子や、ヴェルサイユ宮殿の完成祝いにヴェネツィア共和国からゴンドラが雪のアルプスを越えてくるあたりの描写などは、本当に素晴らしい。

 そして、喜劇作家として知られるモリエールが、実は悲劇と紙一重の次元で作品を生み出していたことにも言及している部分は多いに納得する。舞台で倒れたモリエールが運ばれて事切れるまでの描写にいたっては、演劇的手法がスクリーンを侵食してゆくスリルも味わえる。主役のフィリップ・コーベールをはじめ、ジョセフィーヌ・ドレンヌ、ブリジット・カティヨン、クロード・メルリンといった各キャストは好演。製作総指揮に大御所クロード・ルルーシュが参画していることも大きいだろう。とにかく、一見の価値はある作品である。
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「ミステリと言う勿れ」

2024-11-15 06:21:53 | 映画の感想(ま行)

 2023年作品。公開時には大ヒットで、その年の興収ベストテンにもランクインしている。私はわざわざ映画館まで足を運んで観る気はまったく無かったのだが、配信のリストに入っているのに最近気付き、どんなものかと思いチェックしてみた。結果としては“この程度のシャシンが一番客を呼べるのだろうな”という印象しか持てない。つまりは若者向けで、有り体に言えば超ライト級である。

 数々の事件解決に関わったという大学生の久能整(くのう ととのう)は、広島で開催される美術展を観るために同地にやってくるが、そこで出会った女子高生の狩集汐路(かりあつまり しおじ)から、バイトを持ちかけられる。それは、狩集家の莫大な遺産相続に関して発生した不可解な出来事の解明だった。相続候補者は汐路を含めた4人だが、遺言書の内容を精査していくうち、整はこの家系にまつわる意外な事実を突き止める。田村由美による同名コミックの映画化だ。

 私は原作はもとより、先だって映像化されたテレビドラマも知らない。だから立ち位置のよく分からないキャラクターらが出てくるあたりはコメント出来ないのだが、それらを除外し単発のミステリー物として観ても、中身は大したことはない。大時代な舞台設定や天然パーマの探偵役など、明らかに金田一耕助シリーズを意識しているのだが、話のレベルとしては横溝正史御大の作品群とは比べるのもおこがましい。

 冒頭、狩集家の者たちが交通事故で死亡するくだりが描かれれるが、これは“事件”にもならない内容だ。そして、犯人の目星はすぐに付いてしまう。さらに、動機には説得力が無い。トリックらしいトリックも見受けられない。テレビドラマのスペシャル版として放映すれば実質1時間半以下で済むハナシだが、監督の松山博昭(および製作陣)は2時間を超えるシャシンに仕上げてしまった。

 それでも、整に扮する菅田将暉をはじめ、町田啓太に原菜乃華、萩原利久、鈴木保奈美、滝藤賢一、野間口徹、松坂慶子、柴咲コウ、松下洸平など、キャストはかなり多彩。この顔ぶれだけで満足した観客も多かったのだろう。昔からテレビ番組のブローアップ版を劇場用映画に仕立てることはよくあったが、企画自体が安易と言うしかない。それでも商業的には悪くないのだから、送り手としてはやめられないと思われる。ちなみに、この映画はフジテレビジョン創立65周年記念作品とのことだ。
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「マイ・ライフ」

2024-10-11 06:26:57 | 映画の感想(ま行)
 (原題:SEE HOW SHE RUNS)78年作品。同じ邦題のアメリカ映画(93年)があるが、あれとは別物だ。マサチューセッツ州で離婚して娘2人と暮らしていた中年女性ベティ・クインが、何かのきっかけでマラソンを始め、やがてボストンマラソン大会に参加する。そして、こじれていた周りとの人間関係も、彼女のこの素晴らしいマラソン大会での走りっぷりをもってすべて丸く収まるという話。

 この時期のアメリカ映画は、落ちこぼれとか反体制に対するシンパ的な態度からスタンスを変え始め、日々努力する者こそ救われるというヒューマニズム映画が主流になっていたようだ(「ロッキー」あたりがその嚆矢だろうか)。本作もそのカテゴリーに入る映画で、ここでは離婚して苦労している女性でも、何か努力する目標さえあれば必ず良いことがある、必ず救われるのだというヒューマンな思想に貫かれている。やはりこの手のシャシンは多少のウソがあっても心地よく観られる。



 主人公が当初ダイエット目的でジョギングを始めたのは分かるが、それがどうしてフルマラソンにまで挑戦したくなったのか、そのへんの理由がハッキリ描かれていない不満もあるが、そこは“雰囲気”あるいは“その場のノリ”で見せきっている。主演はジョアン・ウッドワードで、当時すでに40歳を超えていたのだが容姿は若々しくて美しい。ポール・ニューマンが惚れたのも無理はないだろう(笑)。彼女の頑張りは相当のもので、クライマックスのマラソン大会の場面も十分感動的だ。

 しかし、私は主人公よりも、ヒロインの年老いた父の方にとても興味を持った。もうトシを取って歩けないので、車椅子に乗って絵ばかりを描いている。ところがこれが何とただの趣味ではなく、彼の描く絵は“テレビの絵”なのだ。毎日テレビを見るしかやることが無く、過去も現在もテレビしかない。老いの残酷さがダイレクトに伝わってきて慄然とする思いである。

 リチャード・T・ヘフロンの演出は達者で、最後までドラマを弛緩させずに進めている。リシー・ニューマンにメアリー・ベス・マニング、ジョン・コンシダイン、バーナード・ヒューズといった共演者も申し分なく、ロン・ロートアのカメラによる明るい映像も印象的だ。
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「モンキーマン」

2024-09-16 06:38:13 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MONKEY MAN)大いに楽しめる熱血活劇編だ。もっとも、観る者を選ぶ。小綺麗でスマートな出で立ちのシャシンが好きな多くの“カタギの皆さん(謎 ^^;)”はまず受け付けないだろう。だが、私をはじめとするヒネた映画好きには、過去の有名作からの引用も含めた力任せの建て付けに、共感してしまう向きも少なくないと想像する。

 インドの某都市で密かに開かれている闇のファイトクラブで、猿のマスクを被って“モンキーマン”と名乗り、殴られ屋として生計を立てているキッドは、この町にいるはずの母の敵を探していた。彼は幼い頃に故郷の村を焼かれて孤児となり、それ依頼どん底の人生を歩んでいたのだ。そんな時、彼はかつて自分から全てを奪った者たちのアジトに使用人として潜入することに成功する。悪者どもの首魁は昔彼の住む村で狼藉をはたらいた警察幹部だけではなく、その上に君臨する怪しげな教祖であることを知ったキッドは、周到に復讐の手はずを整えていく。



 とにかく、主演と監督を務め脚本にも参画したデヴ・パテルの才覚に感心する。明言はされていないが、たぶんブルース・リーの影響が大きいだろう。ブルース・リーも、何本か主演と共に演出やシナリオ作成も手掛けていた。肉体アクション主体であることはもちろん、終盤での格闘シーンにおける鏡の使い方などを目撃するに及び“おお、やっとるわい!”と心の中で快哉を叫んでしまった。

 基本が復讐譚なので明るい話になるはずはなく、陰惨で残虐なシーンはあるし展開は力任せで泥臭い。だが、何とかして自身の熱いパッションをスクリーンに叩き付けたいという映画作家デヴ・パテルの切実な思いが横溢して、全編瞠目させられっぱなしだ。パテルは「スラムドッグ$ミリオネア」(2008年)で主人公の少年を演じて強い印象を残したが、ここまでの遣り手に成長したのかと、驚くしかない。

 地下格闘場での酩酊するような高揚感から、敵の本拠地に紛れ込んで人脈を作る等のパートの“緩徐楽章”を経て、あの「死亡遊戯」(78年)ばりの各階に配されたバトルに達するまで、まさに筋書きはジェットコースターだ。シャロン・メールのカメラが捉えた架空のインドの町の情景は、猥雑で剣呑で実に求心力が高い(ロケ地はインドネシアらしいが)。エスニック色を前面に出したジェド・カーゼルの音楽も効果的だ。

 格闘相手をに扮するシャルト・コプリーをはじめ、ピトバッシュにビピン・シャルマ、シカンダル・ケール、アディティ・カルクンテ、ソビタ・ドゥリパラなど、キャストは馴染みは無いが皆良い面構えをしている。
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「密輸 1970」

2024-08-11 06:29:25 | 映画の感想(ま行)
 (英題:SMUGGLERS )これは面白い。二転三転するストーリーをはじめ、各キャラクターの“屹立度”の恐るべき高さ、絶妙な時代設定と舞台背景など、娯楽映画としての御膳立ては万全。キャストの健闘も光る。第44回(2023年)青龍映画賞で最優秀作品賞を獲得した快作で、本国のヒットも十分に頷ける。

 1970年代、韓国の漁村クンチョンでは化学工場から排出される有害物質によって沿岸の水質汚濁が進み、海女たちは失業の危機に直面していた。リーダーのジンスクは逆境を何とか跳ね返すため、海底から密輸品を引き上げるという闇仕事を仲間と共に請け負うことにする。しかし、極秘裏に話を進めていたにも関わらず、なぜか作業中に税関の摘発に遭ってジンスクらは逮捕され、親友のチュンジャだけが現場から逃亡する。2年後、ソウルからこっそりクンチョンに戻ってきたチュンジャは、刑期を終えて出所したジンスクにまた密輸の話を持ちかける。



 とにかく、出てくる連中がことごとく胡散臭い(笑)。ジンスクとチュンジャだけではなく、地元のチンピラ集団やベトナム帰りのシンジケートのボスなど、キャラクターに善人など見当たらない。ならば税関の面々ら当局側はどうなのかというと、これまた欲の皮が突っ張った外道揃いだ。こいつらの仁義なき抗争を映画はエゲツなく追うのだが、やっぱり物語の中心は理不尽な状況に直面した海女たちである。

 彼女たちはプロの犯罪集団を手玉に取り、何とか裏をかいて上前を撥ねようと奮闘する。全員が蓮っ葉なのだが、映画が進むにつれて感情移入してしまう。脚本にも参画しているリュ・スンワンの演出は力強く、観る者に退屈するヒマを与えず次々に見せ場を繰り出してくる。アクションシーンの素晴らしさは特筆もので、乱闘場面はかなりの長尺ながらアイデアがてんこ盛りで驚嘆するしかない。そして海中撮影は呆気にとられるほど凄い。ハリウッドでもこれだけの映像を今作れるかどうか疑問に思えてくる。

 時代考証も万全で、彼の地の70年代の風俗など知る由も無いのだが、たぶんこのような雰囲気だったのだろうと納得出来るほど求心力が高い。チュンジャ役のキム・ヘスをはじめ、ヨム・ジョンアにチョ・インソン、パク・ジョンミン、キム・ジョンス、コ・ミンシなど、キャストは濃すぎるほど濃い。鮮やかな幕切れを含めて、欠点らしいものが見当たらないシャシンで、これは今年のベストテンに入りそうだ。
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「マッドマックス:フュリオサ」

2024-06-29 06:26:05 | 映画の感想(ま行)

 (原題:FURIOSA: A MAD MAX SAGA )世評が極めて高かった前作の「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(2015年)を、個人的にはまったく評価していない。どこをどう見てもホメるポイントが存在せず、落第点しか付けられないシャシンである。しかし、その中でシャーリーズ・セロン扮する女戦士フュリオサの出自だけは気になった。どうしてああいう出で立ちなのか、詳しく知りたいと思ったものだ。今回、彼女の若き日の物語が“番外編”みたいに映画化されるということで興味を持って鑑賞し、結果、かなり楽しめた。

 世界の崩壊から45年が経ち、生き残った人類は価値観を共有した者たちごとに各地で集団生活を送っていた。森林地帯に住んでいた少女フュリオサは、ある日突然暴君ディメンタス将軍が率いるバイカー軍団に拉致される。救出に向かった母親も殺され、失意のうちにディメンタスが支配する“帝国”で暮らすことになった彼女は、それから数年後、今度は鉄壁の要塞を牛耳る怪人イモータン・ジョーの元に身を寄せるハメになる。

 話は少々入り組んでいて、単純明快な活劇編を期待していると肩透かしを食らうかもしれない。そもそも、悪の首魁がディメンタスとイモータン・ジョーの2つに設定されていて、それぞれの手下共も一枚岩ではないという状況は、こういうエクステリアの作品に相応しくないと思う観客もいるだろう。

 しかしよく考えてみれば、前作までのマックス(マクシミリアン)・ロカタンスキーのようなヒーロー然とした者が全てを解決していくような筋書きの方が、よっぽど無理がある。斯様なディストピアの中では、フュリオサのように各勢力に対して付かず離れずのスタンスで身を処する方が、けっこう“現実的”だと思ったりする(笑)。

 ジョージ・ミラーの演出は前作の不調ぶりがウソのような闊達なパフォーマンスを見せ、特にアクション場面は本当に素晴らしく、ここだけで入場料のモトは取れるだろう。そして、主演のアニャ・テイラー=ジョイの魅力も大いに作品を支えている。若くて華奢な彼女が歯を食いしばって困難に立ち向かう様子を見せるだけで、映画のヴォルテージは上がる。マックスの不在をカバーして余りある仕事ぶりだ。

 クリス・ヘムズワースは楽しそうに悪役を演じ、トム・バークにチャーリー・フレイザー、ラッキー・ヒューム、ジョン・ハワード、そして少女時代のフュリオサに扮するアリーラ・ブラウンなど、役者は揃っている。サイモン・ダガンのカメラによる荒涼とした風景も印象的で、トム・ホルケンボルフの先鋭的な音楽は場を盛り上げる。
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「ミッシング」

2024-06-22 06:31:22 | 映画の感想(ま行)

 題材はシビアなものだし、主演女優の大奮闘は印象に残る。しかし、作品自体の訴求力はそれほどでもない。これはひとえに、物語の焦点になるべきキャラクターよりも、脇の面子や付随するエピソードの方が数段興味深いからだ。それが却って主人公の存在感を希薄なものにしている。脚本の練り上げが足りていないか、あるいは作り手の狙いがドラマツルギーの常道と外れた地点にあったからだと思われる。

 静岡県沼津市に住む森下沙織里の幼い娘である美羽が突然行方不明になり、懸命な捜索も虚しく3カ月が経過。当初は地元でセンセーショナルに報道されたが、世間の関心は次第に薄れていく。形振り構わずビラ配りなどの活動に没頭する沙織里に対し、夫の豊は距離を置いているように見え、夫婦ゲンカは絶えない。

 そんな中、沙織里が娘が失踪した時間帯にアイドルのコンサートに行っていたことが明らかになり、彼女はますます窮地に追いやられる。一方、事件を発生当時から取材していた地元テレビ局の記者の砂田は、上司から挙動不審な沙織里の弟の圭吾にスポットを当てろという命を受ける。視聴率アップのためには、圭吾のようなキャラクターは実に“オイシイ”らしいのだ。やがて別の幼女失踪事件が発生する。

 沙織里の言動は、ハッキリ言って“想定の範囲内”である。たぶんこんな状況に追い込まれたら斯くの如き振る舞いをするのだろうなという、その既定路線から一歩も出ることがない。それよりも夫の豊の態度の方が印象的だ。妻と一緒になって取り乱すことも出来たのだろうが、そこは社会人としての矜持を頑なに守っており、その点が共感度が高い。

 砂田の立ち位置もけっこう説得力がある。本当は素材に真っ直ぐに切り込みたいのだが、視聴率優先の局の方針には逆らえない。そんなディレンマに苦悩する。さらに面白いのは、圭吾の造型だ。見るからにオタクっぽい風貌で事件当日の足取りも明確ではない。誰もが疑いたくなる存在なのだが、そこに振り回されて状況は紛糾するばかり。昔から取り上げられてきたマスコミの独善ぶりと、SNSの暴走というアップ・トゥ・デートなネタを上手くブレンドしていると感じる。

 だが、ドラマは事件の解決にはなかなか近付かず、新たに起こった事件の顛末も気勢が上がらないものに終わった。結果として、ヒロインの無鉄砲なアクションだけが目立つばかりのシャシンに終わっている。脚本も担当した吉田恵輔の演出は、パワフルではあるが若干空回りしているように感じる。沙織里に扮する石原さとみは大熱演で、今までのイメージを覆してみせるという気迫は伝わってくる。しかし、どうもこれは“絵に描いたような力演”の域を出るものではない。

 対して青木崇高や森優作、小野花梨、美保純、そして中村倫也といった脇のキャストの方が良い案配に肩の力が抜けていて好感度が高いのだ。エンディングに関しては賛否両論あるだろうが、個人的にはもっとビシッとした決着が見たかったというのが本音だ。志田貴之のカメラによる撮影と、世武裕子の音楽はしっかりと及第点に達している。
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「マリウポリの20日間」

2024-06-10 06:25:27 | 映画の感想(ま行)
 (原題:20 DAYS IN MARIUPOL )今世界で何が起きているかを知るためには、まさに必見の映画だと思う。2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻開始から、マリウポリ壊滅までの20日間を記録したドキュメンタリー作品。切迫した状況でカメラを回し続けたのは、AP通信のウクライナ人記者ミスティスラフ・チェルノフのチームだ。ロシア軍の攻撃は容赦なく、水や食糧の供給は早々に途絶えてしまう。通信インフラも破壊され、チェルノフたちは外部とのコンタクトを取るために何とか電波が偶然にキャッチ出来る場所を探して町中を駆けずり回る。

 彼らは市民病院に前線基地を置くが、ロシア軍は病院に対しても無差別の攻撃を加える。多数のケガ人で院内は足の踏み場も無く、さっきまで生きていた市民もいつの間にか息を引き取っているという状況の連続だ、それでも病院側は、取材陣に向かってこの惨状を何とか国外に伝えてくれるように依頼するが、それだけ彼の国ではマスコミ報道が信頼されているのだろう。



 対してロシアではチェルノフたちが決死の覚悟で撮影した映像をフェイクだと決めつけ、犠牲者や困窮する市民はどこかの俳優が演じていると言い切る。この傲慢さには呆れるしかないが、意外と現場で身体を張って取材に挑むジャーナリストたちの働きが無ければ、外部の者はそんなロシアの見え透いたプロパガンダを容易に信じ込んでしまうのではないか。

 特に報道の自由度が著しく低い日本では、マスコミの姿勢を裏読みすることがエラいという風潮があり、その挙げ句に時事ネタに関心すら持たない層が多くなったように思う。もちろんそんな微温的な構図は、この映画の鮮烈なモチーフの数々を前にしては何ら存在価値を持たない。

 本作はまた、取材内容の重大さと同時に、映画的高揚をもたらす要素が盛り込まれていることも評価に値する。産声を上げない新生児を、叩いて泣き声をあげさせるという感動的なシークエンスをはじめ、チェルノフたちが厳しい環境の中で外部にコンタクトを取ろうとするサスペンスフルな場面、そして終盤のウクライナ軍の援護によって市内から決死の脱出を図るシーン。いずれも尋常ではない盛り上がりで、スクリーンから目が離せない。

 そしてジョーダン・ダイクストラによる音楽が抜群の効果だ。第96回アカデミー賞にて長編ドキュメンタリー賞を受賞。ウクライナ映画史上初のオスカー受賞作となっただけではなく、AP通信の働きに対してはピュリッツァー賞が授与されている。
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「マイナーブラザース 史上最大の賭け」

2024-06-09 06:26:37 | 映画の感想(ま行)

 (原題:BREWSTER'S MILLIONS )86年作品。まず驚いたのが、このライトなコメディがウォルター・ヒル監督の手によるものであることだ。同監督はそれまで「ザ・ドライバー」(78年)や「48時間」(82年)「ストリート・オブ・ファイヤー」(84年)などのハードなアクション編を次々とモノにしていて、そっち方面での俊英と見られていた。ところが、ここにきてまさかの新境地開拓。何とも器用な作家である。

 マイナーリーグのハッケンサック・ブルズ所属の投手モンティ・ブルースターは、ある晩相棒のスパイク・ノーランと酒場で相手チームの選手たちと大ゲンカし、あっさりクビを言い渡される。失意のモンティの元に、顔さえ知らなかった石油成金の大叔父が3億ドルの遺産を残して逝去したとの連絡が届く。そしてモンティが3億ドルを手にするには条件があり、それは30日間で3千万ドルをすべて使い切れというもの。ただし1ドルでも残したら3億ドルの遺産はすべて白紙になる。しかもこの大乱費のの理由を誰にも打ち明けてはならない。かくして、アホらしくも痛快な“30日間3千万ドル大乱費”がスタートする。

 いくら無駄遣いが大好きな小市民でも(笑)、30日間で日本円にして数十億円を全額溶かすというのは至難の業である。モンティはスパイクを副社長にして破産するための会社を作る。ところが、ロクでもない投資で逆に儲かってしまうのだ。それでもカネの力でメジャーリーグと試合して長年の夢を叶えるが、やがて最大のムダ使いはこれだとばかりに市長選に立候補する。

 W・ヒルの演出はいつもの活劇編と同様にテンポが良く、次から次と舞い込む“逆境”に徒手空拳で立ち向かうモンティの奮闘を面白おかしく見せる。冒頭の、グラウンドを列車が横切って試合中断になるというマイナーリーグを茶化したギャグから、二転三転するラストのオチまで好調だ。

 主演のリチャード・プライヤーは当時売れっ子の喜劇役者で、スパイク役のジョン・キャンディと共にお笑い場面の創出には余念が無い(この2人は若くして世を去ってしまったのが残念だ)。ロネット・マッキーにスティーヴン・コリンズ、ヒューム・クローニンといった脇の面子も申し分ない。

 なお、本作を観て思い出したのが、テレンス・ヒル主演の「Mr.ビリオン」だ。莫大な遺産を総額するために厄介な条件を期限までにクリアする必要があるという基本プロットは同じ。こちらは77年製作だからネタとしては古いのだが、「マイナーブラザーズ」自体が1961年に作られた「おかしなおかしなお金持ち」(日本未公開)のリメイクなので、この題材は昔からあるのかもしれない。
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