元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

ハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」

2009-05-31 15:58:12 | 読書感想文

 米SF界の鬼才と言われたエリスンの、ヒューゴー賞受賞作のタイトル作を含む短編集で、60年代に書かれた作品を中心に編纂されている。発表当時はその暴力的なタッチが話題になったというが、残念ながら今読むと古臭い。

 しかも、基本的にワン・アイデアで書き飛ばされたものが目立つせいか、何やら安っぽい印象も受ける。面白かったのは、サンタクロースが国際諜報部員だったという「007」のパロディ「サンタ・クロース対スパイダー」ぐらいだろうか。

 で、なぜ本書を読む気になったかというと、言うまでもなく片山恭一の某ベストセラーのタイトルが、この本の題名のパクリであるからだ。まったく異なる内容でありながら、どうして似たタイトルを付けなければならないのか。これは片山が“元ネタなんか誰も知らないだろう”という世間を舐めた態度を取ったとしか思えない。そんないい加減なスタンスで製作に臨んでいる物書きが良い仕事なんか出来るはずもないのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日曜日のピュ」

2009-05-23 06:56:38 | 映画の感想(な行)
 (英題:Sunday's Children )92年作品。スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督の両親を描いた「愛の風景」(ビレ・アウグスト監督作 カンヌ映画祭大賞受賞)の続編だ。今回は1920年代を舞台に、8歳のイングマールと厳格な父親とのふれあいが中心となる。脚本は前作同様イングマールが手掛け、監督は彼の息子ダニエル・ベルイマンが担当。これが演出デビュー作となる。

 「愛の風景」が厳しい北欧の冬を、身を切られるような怜悧なタッチで綴った作品だったのに対し、この映画では輝く北国の夏の開放的な描写が印象的だ。“ピュ”という愛称で呼ばれるイングマールが駅で牧師である父を迎えるシーンから始まる。父は夏の間、母の実家があるこの田舎町に滞在することにしている(冬は遠隔の教会を回っている)。いつもいじめる四歳上の兄ダグや、仲が良くない母方の祖父母、自殺した時計職人にまつわる不気味な噂など、ピュの生活には屈託が少なくない。でも、目の覚めるように美しい自然と、素朴な人たちに囲まれた生活は、8歳の子供にとってはやはり天国なのだ。ただ一つの深刻な悩みは、頑固な父親との間の溝が埋まらないこと。一緒に住んでいても今いちしっくりいかない。そんなある夜、ピュは両親のケンカを盗み見する。二人が離婚寸前であることを知って激しいショックを受けるピュ。

 日曜日、ピュは父親が運転する自転車の荷台に乗って遠い村の礼拝堂に行く。途中、川に落ちそうになったピュを激しく叱る父。帰り道、雷雨に遭ってずぶ濡れになり、無人の納屋で雨宿りをする。空は暗く、聖書の“最後の審判”の日のようだ。厳格と思われていた父はしかし、息子に自分の上着をかけてやり抱きよせる。ピュは初めて父親の暖かい心情に触れて感動する。再び出発した親子は“二人とも幸福な日曜日の子供だ!”と叫びながら雨の中を家路を急ぐ(注:北欧のキリスト教では、日曜日に生まれた子供は人の心を読む能力があるという説話があるらしい)。

 どこかイヴ・ロベール監督の「プロヴァンス物語」を思わせる、しみじみとした親子のドラマで感銘を受けるが、この映画はそこで終わらない。68年、初老のイングマールが年老いた父を見舞うシーンが挿入されるが、これが意外な暗転なのだ(観ていて切なくなる)。ならば上記の子供時代の幸せな父との思い出はいったい何だったのか。

 私はこう思う。後年、この映画の脚本を書くときにイングマールは気付いたのだ。どんなにつらい人生でも、一瞬の輝きさえあれば人間はそれを支えに生きていくことが出来るということを。もう一度父親の人生を見つめ直し、和解したい心境になったのだろう。あまりにも遅すぎた和解。でも、この意図はイングマールの息子ダニエルが引き継ぎ、こういう佳篇が生まれたことは、考えてみると実に感慨深い。「愛の風景」の厳しさとは趣を異にする作品だが、いい映画だ。バックに流れるバッハやコダーイの音楽が抜群の効果。ピュを演じるヘンリック・リンロースは本当に可愛い(^^;)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「チェイサー」

2009-05-22 06:32:44 | 映画の感想(た行)

 (英題:The Chaser)着想の面白さに引き込まれるサスペンス劇だ。韓国社会を震撼させた連続猟奇殺人事件。若いシリアル・キラーは映画の序盤で呆気なく警察に拘束され、しかも自分がやったと自供している。だが、肝心の“犯行場所”が不明のままだ。端的に言えば、犯人の住居が分からないのである。住処を白状しないために、警察は霧の中を歩くような見通しの悪い捜査を強いられることになる。この設定は出色だ。

 通常こういう犯罪映画のストーリーの中心は、真犯人を突き止めること、あるいは動機や背景を解明するといった、それによって事件が(良い意味でも悪い意味でも)一応の完結を見るためのモチーフであることがほとんどだ。しかし本作はまったく違う。犯人は捕まっているのに、その犯人の家が突き止められない。そんな基本的なことが分からないなんて、まさに笑ってしまうのだが、実際問題としてそんな事態に陥ったら捜査は完全に立ち往生してしまうのだ。

 犯行現場が特定できない以上、事件そのものの立件も出来ない。結果として容疑者は釈放され、そしてまた犯行を重ねることになる。そんな隔靴掻痒たる不条理感をジリジリと醸し出したこの映画の負のエネルギーは凄い。

 さらに捜査の先頭に立っているのが、警察を追われて今やしがないデリヘルの店長に収まっている元刑事だというのも効果的だ。彼は正義感から事件に首を突っ込んでいるわけでは決してない。自分のところのデリヘル嬢が次々と行方不明になっているのは、どこかヨソの店が引き抜きにかかっていると思い込んでの、極めて自己中心的な憤怒で追跡を開始するのだ。見当外れの執念が空回りすればするほど、事件の闇は深まっていくばかり。片や警察も縄張り意識や打算ばかりでまったくアテにならない。

 それらを象徴するのが、犯行現場のあるソウルのマンウォン地区の町並みだ。道が入り組んだ坂の多い住宅街で、しかも新しい建物と古い民家が混在している。夜間に訪れると道に迷うこと必至だ。主人公達は犯人が置き忘れていった鍵の束だけを頼りに、この迷宮のような地域を歩き回る。目隠しをされたような焦燥感が観客にもストレートに伝わり、鑑賞時の息苦しさは格別だ。

 そして、犯人に拉致監禁されたデリヘル嬢の一人がまだ生きており、釈放された犯人が現場に戻る前に助け出さないといけないというタイムリミット式のサスペンスも盛り上がる。何気ない市民生活の隣で惨劇が起こっており、それを誰も知る由もない理不尽さ。そういうマイナス方向の情念が画面一杯に充満しており、ただ事ではない密度の高さを達成している。

 監督・脚本のナ・ホンジンは何とこれがデビュー作。ポン・ジュノ監督の「殺人の追憶」との類似点を指摘されるだろうが、本作の方が数段勝っている。主人公役キム・ユンソクの暑苦しい(笑)熱演、犯人に扮するハ・ジョンウのド変態ぶり(特に白ブリーフ一枚で凶行に及ぶ姿は圧巻)、災難に遭うデリヘル嬢を演じるソ・ヨンヒの美しさ等、キャストも気合いが入っている。ハリウッドでのリメイクも決まっているというが、この迫力が他国の製作で出せるはずはないと思う。とにかく、必見の問題作だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ZONBIO 死霊のしたたり」

2009-05-21 06:30:58 | 映画の感想(英数)
 (原題:Re-Animator )85年アメリカ映画。舞台出身のスチュアート・ゴードン監督によるホラー編。原作がなんとH・P・ラブクラフトの「死体蘇生人ハーバート・ウェスト」。チューリヒの大学で死体を生き返らせる薬を発明したウェストだが、蘇生した死体はすべて凶暴なゾンビになってしまい、大学を追い出される。次に転校したのがニューイングランドの医科大学だったが、そこでも彼はそのアブナイ薬の実験に余念がない。

 まず医学生ケインを無理矢理仲間に引き込み、解剖用の死体を蘇らせたのはよかったがこれまた危険なゾンビになってしまい、騒ぎに巻き込まれた教授が死んでしまう。仕方がないので教授を薬で蘇生させ、病室に閉じ込めることにするが、その真相をかぎつけた悪徳大学教授が2人とケインの恋人を脅迫しようとする。そこでウェストはこの悪徳教授をおびき出し、スコップで首をぶった切って殺したあと、首と胴体を別々にクスリで蘇生させて遊んでいるうちに突然胴体の方の逆襲を受け、頭を殴られてノビている間に悪徳教授は自分の首を持ったまま逃走。今度はかねてより横恋慕していたケインの恋人を死体安置室につれこんでイタズラしようとする。そこへ助けにかけつけたウェストとケインだが、すでに教授はウェストから盗んだクスリで安置室の死体を全部蘇らせており、ここで主人公たちとゾンビ軍団の壮絶な死闘の幕が切って落とされるのであった・・・・。

 とにかくパワフルな演出で、かなりグロい描写にもかかわらず観せてしまう。クライマックスの大乱戦にも圧倒されるが、ケッ作なのは首と胴体がなかなかくっつかない悪徳教授のキャラクターで、しかたなく解剖標本の頭部を首のかわりにして警備網を突破しようとするあたりは大爆笑。それと舌なめずりする首を片手に女の子に迫る場面はグロテスク映画史に残る名シーンといっていいほどの不気味なおかしさに満ちていて圧巻である。無手勝流のラストまでしっかりと楽しませてくれる怪作で、この手のシャシンが好きな人には必見だ(^^;)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「スラムドッグ$ミリオネア」

2009-05-20 06:32:21 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Slumdog Millionaire )確かに面白かったが、この映画がアカデミー賞を8部門も受賞するほどアメリカで評価された背景の方が興味深い。アカデミー協会員に直接理由を聞くわけにはいかないので一応憶測になるのだが、おそらく主人公がささやかな夢を実現するところではないかと思う。それも、かの国民が昔胸に抱いていたアメリカン・ドリームとはほど遠いシロモノだ。

 本作の主人公ジャマールはドン底の境遇から何とか這い上がる。でも、やっと人並みのカタギの仕事にありつけるようになっただけの話。この先社会的に成功する見込みは薄いし、当人もその気はない。ただ、昔生き別れた初恋の相手を探すため、たぶん相手が見てくれていると信じてテレビのクイズ番組に出るのである。風采の上がらない若造にだって、夢を見る権利ぐらいはある。

 この“何とかその日その日を乗り切ることで精一杯の庶民”というのがアメリカではイヤになるほど多くなってきている。それでも、何とか(小さくとも)希望を持てば前向きに生きていけるのではないか・・・・という願いを反映させたというのが、この映画の手柄ではなかったのかと勝手に思う次第である。

 映画の出来はとても良い。正直言ってダニー・ボイルがこんなに上手い監督だとは思わなかった。クイズ番組「クイズ$ミリオネア」に出場した主人公が一問をクリアするごとにその問題に関連した過去のエピソードを回想していくという展開は、作劇に説得力がある。演出テンポにはスピード感があり、しかもこれが出世作「トレインスポッティング」のように“無理矢理な疾走感”ではなく、主人公が置かれた劣悪な境遇では走り続けていないと生きられないという、切実な強迫観念みたいなものの表出である点が強い求心力を持つ。

 そして、ジャマールとは対照的な彼の兄サリームの生き様を平行して描いていることが、ドラマに大きな求心力を付与することになる。どんなに阿漕な方法だろうと、成り上がればそれでいいのだという身も蓋もないサリームの生き方と、普通の生活が送れるようになることを第一目標に据えるジャマールのポリシーは、まるでコインの裏表。言うなれば“兄弟仁義”みたいな構図なのだが、これをインドの超シビアな社会情勢の中に置くと、骨太なドラマツルギーを獲得する。

 今回ボイル監督は得意のケレン味たっぷりの映像処理を幾分抑え、ドキュメンタリー・タッチに徹している。しかし、それだけ劇中わずかに挿入される“映像派らしいカット”の効果が増大することになり、同監督の成長ぶりが窺われることになった。インド映画ではお馴染みのA・R・ラフマンの音楽が素晴らしい。そしてラストはちゃんと歌と踊りで締めるところは嬉しくなる。題材は重いが、娯楽映画としてのクォリティは高く、誰にでも奨められる秀作である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「トイレの花子さん」

2009-05-19 06:35:08 | 映画の感想(た行)
 95年作品。松竹が東宝のヒットシリーズになる「学校の怪談」に対抗して作ったような、学校の怪異談である。監督は「きらきらひかる」などの松岡錠司。小学校周辺で起きる連続児童殺人事件。3年生のなつみ(前田愛)のクラスで行われたコックリさんの占いによると犯人は“トイレの花子さん”で花子は明日やってくるという。そして翌日、なつみの兄のクラスに優等生の冴子(河野由佳)が転校してくる。彼女が“花子さんのトイレ”を使用したことにより、冴子が花子さんだという噂が全校に広まってしまう。

 オカルト趣味には見向きもせず、監獄みたいな学校の造形(これは見事だ)に代表されるように、異質なものを弾圧する殺伐とした小学生たちの心象を写し取ることに専念している。「学校の怪談」の舞台が夏だったのに対し、こちらの季節は真冬。笠松則通のカメラが捉えるモノクロに近い寒色系の荒涼とした映像。鏡を使ったトリッキィな画面処理も相まって、サスペンスの盛り上げ方も申し分ない。

 なつみや冴子に対するイジメの場面は、あえてリアルに細かく描かず、現象面だけ切り取るだけなのだが、その陰湿さにはゾッとしてしまう。その殺伐さの延長が連続殺人を生む土壌になっていると言わんばかりだ。そして主に子供の視点からドラマが展開するのも正解で、豊川悦司(今回はフツーの役だけどいい味出してる)や大塚寧々など大人のキャラクターが必要以上にしゃしゃり出ないのもいい。

 しかし、残念ながらラスト近くの真犯人と主人公たちの追っかけ&格闘場面になってくると、とたんに映画がチープになってしまう。この監督はこういうシーンが不得意なのだろう。段取りの悪さには失笑してしまった。少し“正体”をあらわす本物の“花子さん”にしても取って付けたみたいで、いっそ出てこないようにシナリオを操作してもよかったと思った。いずれにしろ、松岡監督にとっても“珍作”の部類であろう(^^;)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「切腹」

2009-05-18 06:32:53 | 映画の感想(さ行)

 昭和37年松竹作品。小林正樹監督の代表作と言われているものだが、私は未見だった。今回のリバイバル上映で初めて対峙することになる。感想だが、これは実にヴォルテージの高いホラー映画だと思った。しかも、場当たり的な怖さではなく、かなり深いところを突いてくる。言うまでもなくその“深いところ”とは、現実社会と絶妙にリンクしている部分だ。それは現時点で観てもまったく古びていない。それどころか切迫度は製作当時より増しているとも言えるのだ。

 江戸時代初期、名門・井伊家の江戸武家屋敷に津雲半四郎と名乗る初老の浪人者が訪ねてくる。将来を悲観して切腹したいので、軒先を貸してくれと言うのだ。家老は以前同じような目的で訪ねてきた若侍の悲惨な話を持ち出し、ロクなことにならないから帰れと言う。だが、ここから物語は二転三転。薄皮が一枚ずつ剥がれていくように事情が明らかになり、最後には観る者を戦慄せしめるような真実が提示される。

 そもそも事件の発端は、幕府による理不尽な“お家取りつぶし”である。それまで大過なく生活を送っていた藩の構成員である侍たちとその家族が、何の保証もなく見捨てられる。しかも、その数は半端なものではない。これは“派遣切り”が横行する現代の状況と、何とよく似ていることか。

 そして幸いにして残った藩は、浪人達に救いの手を差し伸べるどころか、手前勝手な“勝ち組意識”で彼らを軽視し、虐待する。たまたま生き残った藩も劇中で半四郎が述べるように“明日は我が身”なのだが、そういう想像力は持ち合わせていない。この図式も現在と一緒だ。

 極めつけは井伊家の家老どもが崇め奉っているのは殿様ではなく、先代が使用していたと思われる鎧甲である点だ。つまりは何の価値もないシロモノを有り難がっているのである。これは藩の求心力が消失し、権力の空洞状態が発生していることを意味している。これは、かなり怖い。まるで、つまらない建前と面子に依存し、本当に必要な施策をまったく打ち出せない今の官界や政界および財界と同じではないか。現代にも通用する迫真力を獲得した小林監督をはじめとするスタッフの力量には感服するしかない。

 切腹シーンの残虐性や終盤の立ち回りなど、見せ場も満載。宮島義勇のカメラによる奥行きの深い映像と、武満徹のスゴ味のある音楽も作品を盛り上げる。主演の仲代達矢は当時30歳そこそこだったが、見事に老け役をこなしている。三國連太郎の悪代官も堂に入っている。

 ただひとつ残念だったのは、仲代と敵役の丹波哲郎とのバトルシーンがあまり盛り上がらないこと。特に仲代の身体の前で両腕を十字に組む構え、あれは眠狂四郎の円月殺法と同じく実戦では“有り得ない”型である。作劇がリアリズムに徹しているだけに、そこだけが残念だ。逆に言えば、それ以外は完璧に近い。見応え十分の快作である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ワイルド・イースト」

2009-05-17 19:58:47 | 映画の感想(わ行)
 (原題:Dikiy Vostok)93年製作のカザフスタン映画。監督は「僕の無事を祈ってくれ」などのラシド・ヌグマノフだが、本作は日本では封切られていない。なお、私は94年の東京国際映画祭で観ている。

 舞台は現代とも近未来ともつかない時代、天山山脈東部の荒野。小人族の農村に毎年やって来ては略奪を繰り返すバイク集団。とうとう村長まで殺された村人たちの反撃の手段は、なけなしの金を集めて腕の立つプロを集め、ならず者たちを撃退することであった。集まったのは6人、それに村人代表として元気のいい少年が戦力として加わる。果たして彼らに勝ち目はあるのか・・・・。

 こう書けば誰でもわかるように、この映画は「七人の侍」のパクリである。いや、舞台設定からして「荒野の七人」に近いかもしれない。展開から結末まで見事なほどそっくりである。で、“本家”と同じくらい面白いのかというと、残念ながらそう甘くない。

 粗筋はだいたい予想がつくので、それプラスどういう特徴を打ち出しているかが問題である。ナチスみたいなバイク集団の親分、「マッドマックス2」によく似たコスチューム、ラストの戦いはMTVを思わせる映像の凝りようではある。しかし、アッと驚くような仕掛けは最後まで見られず、何よりも演出がタルいので高揚感もまるでなし。

 カザフ映画という未知の素材にもかかわらず、あまりローカル的な面白さも感じない。「七人の侍」のパロディなら、わが国の「V・マドンナ大戦争」(85年)みたいな破天荒さを見せないと、あえてやる価値はないだろう。“お蔵入り”になったのも当然かと思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「グラン・トリノ」

2009-05-16 06:27:59 | 映画の感想(か行)

 (原題:GRAN TORINO )どうもクリント・イーストウッドの監督作は評価できない。褒める者も多い本作だが、私はイーストウッド扮する主人公が単にヒーローぶっているようにしか思えないのだ。現役時代はフォードの工場で働き、朝鮮戦争にも従軍したことがあるウォルト(イーストウッド)は、年寄り扱いする二人の息子や、移民が増えて治安が悪くなる一方の町の状況を嘆く毎日だ。しかも妻に先立たれ、その頑迷ぶりには拍車が掛かっている。

 ここで疑問に思うのは、いくら家族との思い出がある場所とはいえ、そんなに気に食わないのならばすぐさま引っ越せばいいのに、彼はそうしないところだ。でも、やがて隣家の中国系移民の少年と知り合ったのをきっかけに、彼は思いがけず“近所付き合い”をすることになる。何のことはない、彼は単なる寂しがりやだったのだ(呆)。

 斜に構え孤高を気取っているようでいて、実は人恋しくてたまらないヒネた奴(偽悪主義者)はフィクションの中はもちろん実生活でも頻繁にお目に掛かってきたが、そういうのはある種の愛嬌こそあるものの、底は浅い。断っておくが、別に“浅いからイケナイのだ”と言うつもりはない。浅いなりに周りの段取りを取り繕っていけば、そこそこハートウォーミングな話は出来上がるものである。しかし本作はどうしたことか、この“実は人の良い頑固オヤジ”を、失われてゆく古き良きアメリカの象徴か何かにまで祭り上げてしまっている。

 国のために身体を張ることもなく、汗水流して物作りに勤しむこともせずに、小賢しいマネーゲームで産業の空洞化が顕著になった昨今のアメリカに対するアンチテーゼのシンボルを勝手に付与させてしまっては、主人公としても昔の西部劇さながらに“カッコつけて”振る舞うしかないではないか。ウォルトの最後の行動は、ハッキリ言って必然性をまったく感じない。そもそも事件を解決するのは警察の仕事だろう。何かあるたびにああいった行動を取らなければならないとしたら、身体がいくらあっても足りない。

 いくら病気で老い先短い身とはいえ、事を荒立てることなく、余生を“近所付き合い”をより深めて静かに送った方が遙かに理に適っている。どうしてもヒーロー的行動を見せたいのならば、本作を「ダーティハリー」のパート6にしてしまった方がスッキリしたはずだ。引退したキャラハン刑事が、親しい隣人を蹂躙したギャングどもを相手に再びマグナム44を片手に大暴れするという筋書きならば、誰でも納得したと思う。

 イーストウッドは本作で映画出演を終了するという。監督として多数の賞に輝いた彼だが、俳優としてあまり賞に恵まれていなかったというのは本人としても思い残すことがあったのではないだろうか。もう一本、今度は自分以外の監督作で演技者として良い仕事を見せて欲しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「草原とボタン」

2009-05-15 06:37:28 | 映画の感想(さ行)
 (原題:War of the Buttons)95年作品。ルイ・ペルゴーの小説「ボタン戦争」の2度目の映画化で、舞台を60年代のアイルランドの片田舎に移し、ケンカに明け暮れる小学生たちの生態を描く。

 アイルランド南西部コーク地方の隣合った二つの村の子供たちは何かというと互いに対立する。負けて捕まると服のボタンを取られる屈辱が待っているため(これが原題の由来)、彼らは互いに知恵を絞りぬく。ヒネた映画ファンなら、子供たちの対立を通じて大人社会の縮図を示そうとしているとか、時代背景を投影しているとか、そんな扱い方を期待するものだが、これは見事に子供たちだけの映画に仕上がっている。

 屈託のかけらもなく、いかに相手をヘコませるかだけを考えてケンカにいそしむ彼ら。ほとんど素人を起用し、ワイワイガヤガヤ、はつらつとした子供たちの描写は嫌味がなくてよい。ブルーノ・デ・キーズによる撮影もアイルランドの自然を美しくとらえている。

 でも、それだけの映画であるのも確か。思い切ったテーマの提示や、先鋭的な描写といったプラスアルファの魅力は最後まで見られず、子供時代のノスタルジアに終始するだけだ。同じ題材なら侯孝賢の「川の流れに草は青々」とかイヴ・ロベールの「マルセルの夏」の方が断然すぐれている。物足りない出来だ。プロデューサーは何と「ミッション」「メンフィス・ベル」で知られるデイヴィッド・パットナム。監督のロバーツはこれがデビュー作であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする