元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ビニー 信じる男」

2017-08-12 06:49:50 | 映画の感想(は行)

 (原題:BLEED FOR THIS)実話の映画化にありがちの“本当にあった話だから、欠点ぐらい大目に見てよ”みたいな姿勢が窺え、愉快になれないシャシンである。実録物だからこそ、事実を超えるようなリアリティが必要なのだが、本作は手を抜いている。マーティン・スコセッシが製作総指揮を務めていながらこのレベルでは、到底評価できるものではない。

 ロードアイランド州出身のプロボクサーであるビニー・パジェンサは、持ち前のハードパンチで87年に世界タイトルを獲得する。ところが88年にスーパーライト級チャンピオンのロジャー・メイウェザーに破れ、プロモーターからは引退を勧められる。諦めきれないビニーは飲んだくれの名トレーナー、ケビン・ルーニーに弟子入りしてトレーニングを積み、無謀にも2つ上の階級に挑戦して、世界チャンピオンに返り咲く。しかし交通事故により首を骨折。再起不能を宣告されるが、それでもリスクの高いリハビリ方法を選択し、リングへの復帰を目指す。事故から1年が過ぎた頃、ビニーは今度はスーパーミドル級チャンピオンのロベルト・デュランとの対戦に臨むことになる。

 確かに、度重なる逆境から何回も立ち直り、実績を残してきたビニー・パジェンサという男は凄いとは思うが、映画の中ではその凄味が出ていない。困難に直面しても、トレーニングをしていると“いつの間にか”事態が好転している。そもそも、大怪我から立ち直り実戦に戻った直後の試合が世界タイトルマッチというのは、無理がある。もちろん実話である以上そこには何らかの事情があったはずだが、劇中では取り上げられない。

 ベン・ヤンガーの演出は凡庸極まりなく、ドラマ運びにメリハリが感じられないため、観ている間は眠気を抑えるのに苦労した。加えてボクシング場面の迫力のなさは致命的だ。カメラワークが不自然で、試合の山場をあえて外したような漫然とした映像が流れるばかり。純然たるフィクションである「ロッキー」シリーズには大差で負ける。

 主演のマイルズ・テラーは頑張っていて、アーロン・エッカートやケイティ・セイガルといった脇のキャストも悪くはないのだが、作劇に気合が入っていないので、さほど印象に残らず。

 結局、本作で一番インパクトを受けたのは、主人公が受けるハローと呼ばれる脊椎固定手術である。見るからに痛そうで、この状態から復活を遂げるのは並大抵のことではないと思わせる。もっとも、映画ではそのあたりは詳細には描かれず“いつの間にか”回復したように見えてしまうのだが・・・・。
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「クリクリのいた夏」

2017-08-11 07:07:23 | 映画の感想(か行)

 (原題:Les Enfants du marais )99年作品。本国では200万人を動員したというヒューマンドラマ。ほのぼのとしたノスタルジアと各キャストの好演で肌触りの良い映画になったことは認めるが、じゃあそれ以外に何があるのかというと、少し首を傾げてしまう。物足りない出来だ。

 1930年代初頭のフランスの田舎町。5歳の女の子クリクリの父リトンは、少しメンタルが弱くて皆から疎まれていた。そんな彼をいつも助けるのが、流れ者の復員兵ガリスだった。クリクリはガリスに懐いていたが、好きだった洋館のメイドの娘マリーが結婚するという知らせを聞き、町を出ることを考える。ところがリトンと過去に因縁のあった前科者のジョーが町にやってくるに及び、ガリスはこの親子のために一肌脱ぐことになる。監督は「殺意の夏」(83年)などのジャン・ベッケル。

 老齢になったクリクリが子供の頃を回想するという形式で描かれるが、どうもこの方式は上手くいっていない。誰だってそうだが、思い出は美しいものなのだ。もちろん回想が何か別の能動的なテーマのモチーフになっていれば様子は変わってくるが、本作はひたすら過去を美化するだけ。

 とにかく、出てくる者達が御伽噺のキャラクターみたいに地に足が付いていないのだ。金持ちでエレガントなアメデ、ボートの模型を孫のために作ったぺぺとその孫ピエロ、可愛いだけのマリーetc.ならず者のジョーでさえ、実は“いい人”だったりする。何より、第二次大戦を間近に控えた時代の空気が希薄である。イヴ・ロベール監督の「プロヴァンス物語」二部作(90年)のように“過去は戻らず、郷愁は郷愁でしかない”という醒めたタッチの方が個人的には納得できる。

 リトン役のジャック・ヴィルレをはじめジャック・ガンブラン、アンドレ・デュソリエ、ミシェル・セロー、イザベル・カレーといったキャストは芸達者で、ジャン=マリー・ドルージュのカメラによる映像、ピエール・バシュレの音楽も良いのだが、映画が軽量級に過ぎるためにあまり印象には残らない。もっとも、これは好みの問題であり、このようなカラーの作品を好む観客も大勢いるのだろう。だからこそ、本国では大ヒットしたのだ。
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「彼女の人生は間違いじゃない」

2017-08-07 06:32:11 | 映画の感想(か行)

 とても見応えがあった。東日本大震災から6年が経ったが、当事者達の苦悩はいまだ消えていない。何とか前を向こうとしている人々もいるが、心の傷を抱えながら満たされない日々を送る者は少なくないはずだ。そんな“現地”からのリアルなリポートをフィクションとして昇華させたこの映画の作者の志は高い。

 いわき市の市役所に勤めているみゆきは、震災時に津波で母親と家を失い、仮設住宅で父親と二人で暮らしている。父は農業に携わっていたが、震災以降は気が抜けたように無為な生活を送るのみだ。実はみゆきは週末になると高速バスで東京へ行き、渋谷でデリヘル嬢として働いていた。デリヘル支配人の三浦は何かと彼女の世話を焼いてくれるが、彼の“本業”は舞台俳優であり、風俗の仕事は生活費を稼ぐための手段でしかない。

 一方、市役所の若手職員の新田は自らも被災しながらも住民の支援に奔走していた。そんな彼の元に東京からカメラマンの沙緒里がやって来て、被災地の取材をしたいと申し入れる。新田は彼女と一緒に、改めて被害の実態を検証してゆく。

 役所勤めの傍らに週末は上京してデリヘル業もこなすというヒロインの設定は突飛に思えるが、あまり違和感は無い。なぜなら、彼女の出口の見えない喪失感がひしひしと伝わってくるからだ。しかも彼女の行動は福島と東京という、物理的な距離以上に隔てられてしまった状況のメタファーになっている。

 捨て鉢な気分になっているのはみゆきとその父だけではない。補償金を遊興費につぎこむ者や、生活苦のあまり怪しげな霊感商法の片棒を担ぐ者もいる。また、興味本位で震災ネタを卒論のテーマにしようとする女子大生も出てくる。これらは実際にあった話だというが、人間、生活基盤が奪われるとこれほどまでに品位が低下してしまうものなのかと、暗澹とした気分に見舞われる。

 ある日みゆきは、以前付き合っていた男からヨリを戻したいと申し込まれるが、返事をするほどの気力も無い。彼女の父は立ち入り禁止になっている元の家に戻り、妻の衣料品を持ち出して泣きながら海にばらまく。これらのエピソードは胸が締め付けられる。しかし、作者は彼らの言動を否定してはいない。あれほどの大災害に遭遇してしまった以上、それらは“仕方が無いこと”なのだ。それだけに、何とか光を見出そうとしている新田達や終盤の主人公親子の有り様が、尊いものに思えてくる。

 監督の廣木隆一は福島出身であり、そこに暮らす人々を描いた自らの小説を映画化している。そのためか、いつもは大した仕事をしていない彼がここでは見違えるような働きをしている。やはり、高い当事者意識は作品に求心力をもたらすのだろう。

 主演の瀧内公美の繊細かつ挑発的なパフォーマンスは万全で、これからも彼女の出演作を追ってみたいと思わせるほどだ。父親役の光石研、三浦に扮する高良健吾、そして柄本時生や篠原篤、蓮佛美沙子など、皆良い味を出している。災害で失った人命や財産は帰らない。しかし、逆境に翻弄されながらも懸命に生きる人々はいる。彼らの人生は“間違いじゃない”。
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オーディオ機器開発における大企業の優位性。

2017-08-06 06:25:00 | プア・オーディオへの招待
 先日、PanasonicのオーディオブランドであるTechnicsの新製品の試聴会に行ってみた。とはいっても、展示されていた機器は今年(2017年)春に開催されたハイエンド・オーディオフェアの会場に並べられていたものとほぼ一緒である。ただ、今回は試聴時間が長く設定され、メーカーのスタッフからの話もじっくりと聞くことが出来た。結果的には足を運ぶ価値のある催し物であったと思う。

 スピーカーのSB-G90は発売されてから間が無く、オーディオフェアで聴いた時ほどではないが、まだ音が硬い。必要なエージング(鳴らし込み)の期間は機種によって違うが、半年から1年以上も掛かるケースがある。時間の経過を待って機会があれば再度試聴したい。ただし、今回興味を惹かれたのは、音ではなく本機の構造の方だ。



 通常、スピーカーの各ユニットは前面(バッフル)に装着されているが、SB-G90は筐体内部にサブバッフルが設けられ、すべてのユニットはこのサブバッフルに取り付けられている(したがって、前面バッフルと各ユニットは接触していないという)。内部のバッフルにユニットを取り付けることによって各ユニットの重心位置で筐体に固定されることになり、より効率的なユニットの動作が見込まれ、同時に余計な振動の発生が抑えられるらしい。

 はっきり言って、これは実に凝った構造だと思う。しかも、各ユニットはすべて自社製だ。この仕様がハイエンド機器ではなく定価50万円ほどの中堅モデルに採用されているというのは、凄いことである。

 オーディオフェアでも接することが出来たレコードプレーヤーのSL-1200Gに関しても、その部材を紹介してくれたが、こちらの方もかなりのものだ。ターンテーブルは真鍮とアルミダイキャストによる3層構造。持った感じはズッシリと重い。トーンアームは特注の軽量マグネシウム製である。定価は33万円ながら、物量とテクノロジーは十分に投入されている。



 このような製品の定格や構造を見てみると、やはり大手メーカーの優位性を感じざるを得ない。その昔、同社がダイレクトドライブ方式のターンテーブルを世界で初めて開発したことは知られているが、そのような業績はオーディオ専門メーカーでは難しい。資本力も設備も整っている大企業でしか出来ないことだと思う。その意味で、2015年に“復活”を果たしたこのブランドがコンスタントに製品を投入していることは、業界全体にとって望ましいことだと思う。

 なお、今回の試聴会ではカートリッジはPhasemationの製品が使われていたが、かつてはTechnicsもかなりの数のカートリッジをリリースしていた。またトーンアームも専門メーカーに負けないものを作っていたものだ。アナログレコードの復権がクローズアップされる昨今、願わくばアナログ周辺の機器も充実させて欲しいと思う。
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「ゴジラVSキングギドラ」

2017-08-05 06:50:16 | 映画の感想(か行)
 91年作品。キングギドラといえば、私が幼少の頃に観た(たぶんリバイバル上映)「三大怪獣地球最大の決戦」(64年)で、隕石の中から吹き出た炎がキングギドラに変わるシーンの印象が強烈で、それ以来の思い入れがある怪獣であり、ゴジラより好きである。

 で、72年の「ゴジラ対ガイガン」から19年ぶりになるこの映画がギドラ氏の“復帰作”となったのだが、この映画の一番の欠点は、ダサい特撮でも、大森一樹の凡庸な演出でも、カラッポな人物描写でもない。宇宙生まれだと信じていたギドラ氏が、グレムリンの出来損ないみたいな小動物の放射能障害の成れの果てだという設定である。以前の作品群との兼ね合いからも、それはルール違反である。



 しかも、今回のギドラ氏はミョーに弱い。いくらゴジラがパワーアップしても、それを一蹴するギドラ氏であってほしいし、北海道の原野での戦いで、あっけなくダウンしてしまうのは困る。ゴジラを徹底的に痛めつけて、最後に何かの不可抗力で負ける、というふうに持って行くのがスジではないのか(笑)。

 また、この映画の一番の見所は、怪獣デザインの優秀さでもなく、伊福部昭のカッコいい音楽でもない。ギドラ氏が福岡の街を叩き壊す場面に決まっている。まず福岡タワーをかすめ、IMSビルをこっぱみじんにして、西鉄福岡駅をふんづけて、九州銀行ビルと大同生命ビルをまっ二つにして那珂川に沈め、中洲の飲み屋街を全滅させる。ああ、まさに映画とはこれではないか(意味不明 ^^;)。

 さて、この映画のストーリーは23世紀から来た未来人が時間軸を弄った挙げ句に、現代の日本に怪獣が大暴れするような状況を作り上げてしまうというもので、一応凝ってはいるが、策におぼれた感も強い。中川安奈や豊原功補、小高恵美、原田貴和子、佐々木勝彦といった重量感の欠けるキャストも“微妙”だ。

 90年代からの東宝特撮映画は本作をはじめとして“迷走感”が強かったが、最近になってやっと「シン・ゴジラ」の登場によって持ち直し、またキャラクターを“貸し出した”ハリウッドにも新たな展開が見られるようになった。今後も無視出来ないジャンルではある。
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「22年目の告白 私が殺人犯です」

2017-08-04 06:32:30 | 映画の感想(英数)

 ハッタリをかました演出とテンポの良い作劇で退屈はしなかったが、随分と筋書きには無理がある。加えて、キャスティングも弱い。2012年製作の韓国映画「殺人の告白」(私は未見)を元ネタにしているとはいえ、設定自体は悪くないのでもっと工夫する余地はあったと思う。

 95年、震災やテロ事件で世の中が騒然となった一方、同一犯による5件の連続殺人事件も日本中を震撼させていた。犯人の手口はいずれも被害者と親しい者に犯行場面を見せつけるという異常なもので、しかも目撃者は生かしておいてメディアにその様子を証言させるという、実に悪質なものであった。刑事の牧村は犯人を逮捕寸前にまで追い詰めるが取り逃がし、逆に犯人によって上司を殺されてしまう。未解決のまま時が流れ、やがて時効を迎える。事件から22年後、自分が犯人だと名乗る曾根崎という男がマスコミの前に現れ、殺人手記まで出版して一躍“時の人”になる。曾根崎の言動に業を煮やす牧村だが、時効の壁が厚く立ちはだかる。

 まず、いくら曾根崎が犯人しか知り得ない(と思われる)情報を掴んでいたとしても、マスコミや一般ピープルが容易く彼を真犯人であると断定するのは、明らかに無理筋だ。おそらく作者は誰もがセンセーショナルなニュースに考えも無く飛びつく風潮を揶揄したいのだろうが、あいにく世間はそこまで愚かではないと思う。まずは疑ってかかるのが普通だ。

 また、刑事事件としては時効が成立しているのかもしれないが、手記を発表したことで遺族関係者からは民事訴訟を起こされる可能性が大いにある。もしもそうなった場合、曾根崎が“正体”を隠したままでいられるのか、甚だ疑問だ。

 そして何より、どうして捜査当局は時効成立前に犯人を捕まえられなかったのか、その理由が説明されていない。しかも、被害者の一人は広域暴力団幹部の関係者である。警察にもヤクザにも追われて、果たして22年も逃げ続けることが出来るものだろうか。中盤以降にはドンデン返しの展開が待っているが、いかにも意味ありげな人物が絡んでくる時点で、早々に予想がついてしまう。さらに、犯人の動機は最後までハッキリとしないままだ(一応セリフでは説明されるが、説得力に欠ける)。

 曾根崎に扮する藤原竜也と牧村役の伊藤英明は頑張ってはいるのだか、いかにも軽量級だ。野村周平に石橋杏奈、早乙女太一、そして仲村トオルといった脇の面子も存在感がイマイチ。結局印象に残ったのは平田満や岩松了、岩城滉一といったベテラン陣、若手では遺族の一人を演じる夏帆ぐらいである。入江悠の演出はケレン味たっぷりで話はサクサク進むものの、どうにもライト感覚に過ぎる。ヒマ潰しに観るのならば損はしないが、じっくりと対峙しようという向きには物足りない出来だ。
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