廬山寺 京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町397
比叡山天台18世座主元三大師良源によって天慶年中(938年~947年)に船岡山の南に創建された。
紫式部は「平安京東郊の中河の地」すなわち現在の廬山寺の境内に住んでいた。それは紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔が建てた邸宅であり、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、(西暦1031年)五十九歳ほどで死去したといわれている
玄関
阿弥陀如来三尊
如意輪観音
明智光秀の念持仏 廬山寺に明智光秀の念持仏があるのかというと、織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした際に、同じ天台宗系の寺院だということで廬山寺も焼き討ちの対象になりかけましたが、それを当時の天皇が明智光秀に取り次いで、廬山寺の焼き討ちを防いだということに由来している
源氏の庭
法金剛院 右京区花園扇野町49
律宗の寺院である。本尊は阿弥陀如来、開基は待賢門院とされる。境内に現存する浄土式庭園の一隅にある青女の瀧は日本最古の人工滝とされており、国の特別名勝に指定されている 法金剛院は、古くから名勝の地として知られる双ヶ丘(ならびがおか)の東麓にある。ハス、スイレンが有名
玄関
本堂
「待賢門院堀河 ながからむ 心もしらず 黒髪の みだれて今朝は 物をこそ思へ」
建礼門院 45歳で崩御 7人の御子 待賢門院(1101年 - 1145年)により再興された。待賢門院は藤原氏の出身で、鳥羽天皇中宮であり、崇徳天皇、後白河天皇の母である。最盛期の法金剛院には九体阿弥陀堂、丈六阿弥陀堂、待賢門院の御所などが立ち並んでいたというが、度重なる災害により、壮観だった当時の面影はない
西行と待賢門院璋子とは、17才の年の差があったが、西行は17才も年上の中宮(皇后)璋子に恋こがれ、想い叶わぬと知ると出家し、それでも彼女が亡くなるまで慕い続けた
秘仏の金目地蔵・重文
キスゲ
木嶋神社 正式名称は木嶋坐天照御魂神社 右京区太秦森が丘町50 神主不在・朱印もらえず
京都に三珍鳥居がある 蚕の社の三柱鳥居,北野天満宮境内の伴氏社の鳥居,御所内の厳島神社の鳥居の3つです 鳥居の中央には、組石の神座があり、ここに神が降臨すると言い伝えられている。
現在ある三本足の鳥居は、実は、天保二年(1831年)に再建されたものだ。
現在ある鳥居は、石造りなのだが、それ以前は木造であった。
正面 鳥居
稲荷社
舞殿
木嶋坐天照御魂神社 拝所
左・本殿 蚕養神社(右)
本殿 提灯・二葉葵の神紋
蚕養神社(こがいじんじゃ)
元糺の池
三柱鳥居中央に石が積まれ御幣が立つ
かいこのやしろ
広隆寺 京都市右京区太秦峰岡町32 前回 2011.04.13 霊宝殿 700円
京都市右京区太秦にある真言宗御室派の寺。山号は蜂岡山。(603)秦河勝が聖徳太子の命を奉じて創建したと伝える。国宝の弥勒菩薩半跏像をはじめ多数の文化財を所蔵する
仁王殿
薬師堂
上宮王院太子殿
講堂
太秦殿
地蔵堂
弁天社
桂宮院本堂 国宝 聖徳太子を信仰の対象とする太子信仰に伴う建築の一つであり、聖徳太子像(現在は霊宝殿に移動)をまつる。一辺が7尺(2.1m)の小規模な八角円堂である。周囲に縁を廻らして、その下に亀腹が覗く。屋根は檜皮葺であり、軒の反りが強い。東西南北の面に扉を設け、扉のない面には盲連子の窓を設ける。法隆寺夢殿を参考にして建造されたものと思われる。
泣き弥勒
韓国 国立中央博物館 宝冠弥勒菩薩半跏像
中宮寺
牛祭りは明治までは、大酒神社の祭りだった