September 30, 2019
少数派にしかもう地球は変えられない。
グレタ・トゥーンベリさんの演説を聞いていると切にそう思う。
彼女は自閉症、アスペルガー症候群だ。
きっとこの症候群でなく、自分の将来の損得を考えたり、空気を読んだりしているようでは、こんなダイレクトな発言はできないだろう。
それに、社会を知ってしまった大人であれば、論理で訴えろ、感情に訴えてはいけない、そんなことをしたら自分の首を絞めるだけだ、と覚えてしまう。
でも人間には感情というものが存在する。
子供の力がすごいのは、こういうノウハウをまだ知らずにそのままの感情をぶつけられるところだ。
そして論理で凝り固まった大人に真実を伝えることができる。
多数派を民主主義と言っていた時代は終わった。
今日、料理家の土井善晴さんの記事を読んでいてとても共感したのだけど、現代は多様性を目指しているといいながら、むしろ単純化している、それは島国特有の文化を持つ日本に顕著だが、中に入って働いていればフランスでも顕著だと分かる。
確かにひと世代前では、民主主義が世界を救ったに違いない。
しかし同時に民主化、という言葉がどれだけ世界を貶めてきたか?
民主主義だ、といえば議論の余地もなく正しいので全てが黙れ、と言わんばかり。
パリでは音楽院の民主化、という名のもとに初心者をクジ引きにして子供個別の才能ややる気を無視する。
民主主義という名を掲げてアメリカは世界中の国で戦争を仕掛けて人を殺し、
北朝鮮だって朝鮮民主主義人民共和国という名前ではないか。
民主主義もシステムや大義名分として独り歩きを始めると、大変危険だ。
うちのクラスの天才Rくん。前回中学校の音楽科を落選になり、次は思ったとおり音楽院でソルフェのクラスで問題児となっている。
彼 の家庭のように移民の家庭では、全ての家庭ではないが、なかなかフランスの思っている規律が理解できない事が多い。例えば音楽院がとても細かい規則をメー ルで送付するが、フランス人の中流家庭なら、読み落としがあれば自分の子供に降りかかってくることがよく分かっているので、万全に目を通して返信する。し かしこういう移民の家系はそういう厳密な規則の文化で育ってきてないし、そもそもそれ以外のことで忙しかったりで、(宗教規律や貧しい生活など)メールな どには注意を払わない。読んでも理解出来ないかもしれない。よって、すぐに音楽院側から目をつけられることになる。
で もさー。音楽院、民主化したいんでしょ?民主化の意図は富む者も貧しい者も、フランス人も移民も、混合しろってことだって言ってたじゃん?なのにそういう 例があると「なぜ音楽院の規則に従えないのか」って速攻がなるじゃない。そりゃあ郷に入れば、ていうのも分かるけど、色んな家庭があるんだし、もうちーっ と違う立場に立って目線を合わせる、って事は出来ないものかねー、と思う。。。
去 年日本から来た留学生Sちゃんが書いた欠席届けメールだって、オケの先生、こんな無礼なメールがきたってすぐに学長下に転送してた。ちょっと目線を落とせ ば、フランス語のレベルのせいだって、分かると思うんだけどね。音楽家って特別者意識が強いのか、どうやら目線を落とすって事が出来ない人多いらしい。そ の先生、合奏系の授業を持つ先生の会合で、チェロのある生徒の名前を知らないって言うから「あ、この子はずっと即興アトリエにいたんです」って言ったら 「ふっ、チェロやってながらオケやってないって」って馬鹿にしたような薄笑い。あーあ、どうして自分がやってる事がスタンダードで他のものは下らないって 単純に思えるんだろうか。
新学期からうちの娘は小学一年生で、私がフルートを課外活動で教えている小学校に学区を超えて転入させた。
新一年生、とても幸せそうに通っている。
なぜ転入までさせたかって言うと、この学校の校長先生、指導員さんたちが一致して、ギフテッドと診断されたRくんを中学の音楽科に一丸となって推してくれた、あれだけ悪童だった一個人のためにここまで動いてくれた、と思っているからだ。
少数派を貶めない。悪い子というレッテルを貼るのでなくその子の良いところを見つける、開花させる。私は小学校に入って教えることで、大切なことを教えられた。
だから私の娘も任せる。
大 抵の音楽院の先生は、小学校に赴任させられると、音楽院と公立小学校の落差に愕然とし、「こんな所で仕事をする為に勉強してきたのではない」ってプライド を傷つけられて辞めていく。私も最初まさしくそう思ったので、気持ちは分かるけど、今では「課外授業は学生のアルバイトのやる仕事」っていうレッテルが貼ら れていて、喜んで続けているのは19区音楽院の教授としては私ぐらい?のようだ。
私の場合、続けられたのは今の小学校と信頼関係がきちんと作れたからで、今では私の要求なら何でも善意に理解してくれるし、私も指導員さんたちの仕事はなるべく手伝うようにしている。
それにここでは、音楽院では大きな声で言えないことも堂々と言える。
「あんたたち、生まれてきた赤ちゃんの時に文法の本読んだから喋れるようになったの?」子供たち、笑いながら「non〜!」
「じゃあ、先ずは音楽しなさい!マネして吸収しなさい!」
ってね。(笑)
あとは愛知の不自由展の件。
芸術の表現の自由、政府の不介入は大前提だが、この件に関しては、どちらかというと日本がいっつも同じ歴史問題で足踏みしているところに問題があると思う。
いつまでたってもちゃんと歴史に決着をつけていないところを憎まれる。付け込まれる度に憎み返す。
憎しみを貯めていくことが、戦争につながるんじゃないんですか。
どうしてせっかくこのような機会が出てきた時に、ちゃんと議論、清算しないのか?
そうすることが、ひいては子供たちの世代を戦争から守ることになると思う。
先 ほどの土井善晴さんの文章に、自分と違う考えをもっている人が気になるのは、ほんまに弱い人です、という文章があったけど、違う考えを突き付けられた時、 匿名クレーム出してやめさせようとしたり、それ自体を中止にして臭いものに蓋をしようとするのは、弱い証拠。私は日本人であるから、もっと誇れる、懐の深 い強い日本になって、真っ向から現実を見てほしいと思う。それらの表現をする人は、いくら蓋をしようと、存在するのだ。
気候問題にしたって、「セクシーに」とかわざわざ全く的の外れた空言を言って議論をはぐらかすのは、現実を見ていないからこそで、それが日本の環境大臣だったというのは、国際的に恥ずかしい。
他の国の事はどんなに酷かろうと変えられない。でも私は日本人だから、日本に意見する権利ぐらいはあると思う。
少数派にしかもう地球は変えられない。
多数決で選ばれ、メディアで印象操作された大臣なんて信じません。
最後に、土井善晴さん (お父さま、土井勝さんが香川の人なんですって、誇れますね!)の素晴らしい言葉を。やっぱり極めているひとはビシッとシャープにモノを言えるのだ!
「多様性は、差異を面白がるもの、違いを発見してよろこぶことです。それはすべての人間を求めることです。オリジナリティ、個性、独創性、創造なんてことは、多様性を単純化した社会には育まれないんです。」
「正解は一つではありません。一つの答えでは間に合わないのです。多様な答えが必要です。自由に考えてください。ゆえに自由とは思考です。」
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