昨日の即興アトリエでまた思ったんだけれど、アドリブの最初のアイデアがシンプルでない場合、なかなか生徒はそれを発展しにくいことが多い。
私もクラシック出身だから分かるのだけれど、どうしても「いっぱい音を弾かなきゃ」「面白くしなきゃ」「上手に弾かなきゃ」っていう脅迫観念みたいなのが働いて、指をいっぱい動かしているうちに、なんかがんじがらめになって、アイデアがよく分からなくなっていることが多い。
最近よく共演するマックス・シラなんかを聴いていると、本当にアイデアはごくシンプルって言うか、最初に出てくるフレーズなんて極論、いっつも同じだったりする。
ブルガリア音楽でもそうだけど、大抵の伝統楽器奏者は、アドリブはいっつも使いまわしている平凡なフレーズから入ってくることが多い。だったらいつも同じアイデアで始めていい、と言っているわけでは決してないけれど、最初にあんまり考え過ぎないことはすごく大事なんじゃないかな。
それで思い出すことはいっぱいあって、例えば村上春樹は、小説の最初の一文目は、凝った文章にしたら物語が閉じてしまう、というようなことを言っていた。
私も若い頃ジャズの先生によく言われたっけ。「君のアドリブの出だしのフレーズは素晴らしく、コピーしてとっておきたいぐらいだ。しかしその後が続かなかったね。」
また若い頃、オーレル・ニコレは当時、イタリアのキジャーナの講習会で、アルバン・ベルグのヴァイオリンコンチェルトの話をしてくれた。
「この曲はヴァイオリンの解放弦のみの音から始めるという、とてつもないシンプルさから始めたからこそ、最大限の発展が出来たのだ」と。
生徒たちが演奏する前にピアノと音合わせする時、パラパラ、パラパラといっぱい音を吹いているのを聴いたニコレが、
「君たちよりうちの犬の方が上だ。一音だけちゃんと伸ばして鳴けるぞ」。
で、なんで冒頭の写真がオウムなのかというと、この近所のオウム、Bフラットでまっすぐロングトーンしたようにしか鳴かないんですね(笑)
話が逸れた。
また、パリ音楽院の即興科にいた時、当時インド音楽のクラスでタブラ伴奏をしていて仲良かったスペイン人のドラマー、ラモン・ロペスが即興のマスタークラスをした時、このように言っていた。
「即興の最初のアイデア?そんなものは何でもいい。」
そして手に持っていたスプーンを床に投げて
「ほら、これから即興してみなさい」と。
私はそれを「スプーン論理」と呼ぶことにしていて、私の生徒らは、この謎の「スプーンの話」をよく知っている。
そのことを相方の作曲家アタに聞くと、
「アイデアの段階でインスピレーションがないから、どこか遠くの場所に素晴らしいアイデアを探しに行く、っていうアイデア至上主義はダメだよね。しかし質の良いアイデアじゃないと結局何も生まれない、っていうのも事実だけれど」
この言葉は、相反する真実をよく現していると思う。
音楽ってサウンドの中に答えがあるのだから、いっぱい音を弾くから、凝ったフレーズだから、指が回ってサーカスみたいに上手いから良いのではなく、一音でそれが誰のか分かる、また一音を今この瞬間にここに置いたからこそすごいと、そのサウンドだけで唸ってしまうような、そういうのが理想だなと今は思う。
マイルス・デイヴィス。
そしてそのサウンドが、ひとりでになるがままに河のように発展していくような。
ジョン・コルトレーン。
彼はコンサートが終わってホテルに帰ってからも、理想に近づくため練習していたという
「画竜点睛」っていう言葉は「最後の仕上げ」を指す言葉だけれど、この言葉のイメージもなんかシンプルさに通じていて好きだな。
確かに、この間のオケプロジェクトでも、「竜の目」がオーケストレーションに足りないなあ、と思った曲がまだ数曲あったし、一音で理想のサウンドを出せるブランネン・クーパーを手に入れるまでの1年間、まだまだやらなければならない練習リストもある。
人生、やることが次々ににあるのは楽しいものだ。
今、ここまで書いていて、たたたまある本を適当に開けたら、こんな言葉が目に入ってきてびっくりした。
「「私」が的を射るのか、それとも的が私を射るのか。「このこと」は肉体の眼で見れば不思議だが、精神の眼で見れば不思議でも何でもない--では、どちらでもあり、どちらでもないとどうなのか?弓と矢と的と己の全てが溶け合うと、もはやこれらを分離することはできない。そして、分離しようとする欲求さえなくなる。だから、私が弓を構えると、全の事柄がクリアで、素直で、面白いほどシンプルになる。」
オイゲン・ヘリゲル著「弓道における禅の精神」より
音楽を?理解するにはシンプルかつ直接的な方法でアプローチしなければならない🎼🎷