ホクレア経由アメリカスカップ

2010年01月23日 | 風の旅人日乗
1月17日 葉山
ヨットデザイナーのH氏の発案で、仲間内の新年会。
H氏を尊敬する若手ヨットデザイナー陣や海洋カメラマンたちが集まり、
それぞれがすごい酒豪なものだから、ものすごい酒消費量を伴う、
えらく楽しい宴会になった。

でも内容は真剣。
日本のセーリング界が復興するにはどういう手を打てばいいのか、などを中心に、午後3時からけっこうな深夜まで、まじめに話し合った。


1月21日 横浜
横浜市職員兼名うてのOC6の漕ぎ手Y氏と、湘南の伝説サーファー兼名うての広告プロデューサーDサンと一緒に、航海訓練所へ。
Y氏発案の、ホクレアと横浜市を繋ぐプロジェクトについて、
ホクレア関係者の間ではすでに有名な、航海訓練所のA船長に相談するため。

A船長は、この会合に備えて、同所の優秀なスタッフの方々の時間をおさえて
その皆様に同席して頂く手配をしていただいていた。
若いY氏が、汗をかきかき一生懸命に説明する企画の趣旨を、
皆様深く理解いただき、非常に前向きにご検討いただくことになった。

この会合の後、A船長は同所のO理事長との面会もアレンジして下さり、
理事長室では、ホクレア日本来航の際の、思い出話を咲かすことができた。

ホクレア日本航海における最も危険なレグのひとつであった沖縄-熊本間の水先案内を、
個人的事情が突発して急遽乗れなくなったぼくのピンチヒッターとして、
これまたホクレア関係者の間では有名な、O一等航海士がカマヘレに乗艇できるようになった裏には
非常に難しい判断を伴ういきさつがあった。
それを解決する判断を下して下さったのが、O理事長だった(当時は理事長職ではなかった)。

O理事長は、ぼくが大学1年生のときに乗った練習船で次席2等航海士(私の記憶が確かなら…。最近怪しい)だった方だ。
10代の若造だったぼくに、航海士としての基本を、海の上で温かく教えてくださった方だ。
そのような雲の上のような方と、ホクレアを核にしたお付き合いが再びできていることに、
感謝している。

ホクレアの日本航海を振り返るとき、
ぼくは航海訓練所の職員の方々から受けた恩を決して忘れることができない。
O一等航海士、A船長、O理事長、I様、S様・・・、本当にありがとうございます。


1月23日 葉山→成田→ホノルル
やり残した仕事をやっと終え、最後に1時間ほど余裕があったのでこのブログを書き、
これから成田に行き、ハワイ・ホノルル行きの飛行機に乗る。

明後日から、ホクレアの8日間ぶっ続けの外洋セーリングトレーニングが始まる。
日々の慌ただしさに追われ、航海術の予習も、肉体トレーニングも不足している。
とても不安だ。

A船長や現地からの情報によると、
エルニーニョの影響で、ハワイ周辺には安定した貿易風が吹いてない様子なので、
肉体的にはちょっと苦しいトレーニングになるだろう。

でも、O一等航海士改めO准教授(O氏は富山高専の先生になった)も一緒だ。
航海術の部分で分からないところは、全部O准教授に聞けばいいさ、と開き直っている。

2月3日夜に日本に帰国し、2月6日朝には、第33回アメリカズカップを現場で観るためにスペインのバレンシアに向かう。
なので、このあとこのブログはしばらく中断します。

2月7日あたりから、スペインで再開することを、目標としています。