第5福竜丸

2011年03月31日 | 風の旅人日乗
子どもたちを一旦九州に疎開させて、再び関東へ。

関東に戻る理由のひとつだった夢の島マリーナでのヨットレースは中止になったけど、
同じく夢の島にある、第5福竜丸のことを考えている。

ゴミ捨て場だった夢の島に打ち捨てられていた第5福竜丸は、
地球を放射能汚染させた人類の過ちを風化させないために、あるいはそれを教訓とするために、
復元され、保存されていたのではなかったか。

原爆、第5福竜丸、ソ連の原水爆実験、ロシアのチェルノブイリまで、私たちは被害者だったが、
それを教訓とできなかった私たちは、ついに、加害者になった。

自分たちが推進してきたこととは言え放射線の危険に晒されながら現場に留まって事態解決に必死に取り組んでいる人たちの、プロとしての責任を全うしようとしている努力には、本当に頭が下がる。
プロとして、私たち以上に放射能の危険性と恐怖は認識していることだろう。
家族の方々の不安もなまなかなものではないだろう。

バックアップ電源オプションを、なんとプランBまでしか持っていなかったという電力会社の、
言葉を失うほど貧弱な危機管理理念。
また、それをそのまま許して、国民に「原発は絶対安全」を謳っていた政府・・・。
憤りは筆舌に尽くしがたいが、そういう電力会社や国が言うことを鵜呑みにしていたのも、
一部の原発反対論者を除いた、私たちだ。
そして、そういう、自分たちの国の運営者を選んだのも私たちだ。


中国の人たちと違って、私たち日本人は、自分たちの国の運営者を、自分たちで選ぶ自由を与えられている。
自分たちの国の運営者たちがどんなていたらくを見せたとしても、
それは自分たちが選んだ代理人のていたらくであり、
つまりは、私たち自身のていたらくなのだ。

だから、私たち有権者は、自分たちの国の運営者を責める資格はない。
それどころか、私たち有権者は今後何十年か、今現在の赤ん坊や選挙権を持たない少年少女たち、つまり次世代の日本人に対して、深い責任を負うことになった。

自分たちが選んだ国の運営者の責任を攻め立てているだけでは、なんにも前進しない。

九州から東京に戻るカーフェリーの上で、
ブリッジ(船橋)真下の部屋の明かりを消して、2晩眠らずに夜の海を見続けて、
考えに考えた。

現実の自分の仕事と生活を最優先させなければいけないのは仕方のないことだが、
自分が培ってきた能力を生かして、震災・津波に被災して今現在苦しんでいる人たちの苦しみを少しでも和らげ、
地域や国の復興のために、自分はどんなことでお手伝いができるのか。
できることから行動を始めつつある。

つらい

2011年03月13日 | 風の旅人日乗
苦しい時間を持った方たち
今も辛い時間を過ごされてる人たち
これから先の時間もしばらく忍耐を求められる人たち
その人たちのことを考えると
何も書けない。

今週の自分の外国行きは
キャンセルする。

この国から出ずに
その人たちのためにできることを考え
行動しなければいけないと思うから。

小笠原村父島2月無作為日記-6

2011年03月10日 | 風の旅人日乗
昨日と一昨日の夜は、どちらも仕事には直接繋がらないんだけれけど、
アメリカズカップ挑戦の話( というか、日本の次世代のセーラーのための道筋を、
オイラたち世代としてはどのように付けてあげればいいのか、という話)と、
とホクレアを核にした海と航海教育学校開設の道筋の付け方について、
の2つの話を、それぞれの適任者の方々と、東京でじっくり語り合った。

ココロの片隅には、本来の自分のシノギ(食べるための仕事)のことが重く存在しているんだけど、
こっち2つのことも、キチンと進めていかなければならんことでもあるのでね。
疎かにはできん。
人生は一回きりなのでね。



さて、小笠原父島2月無作為日記のほうも、どんどん進めていかなければならない。
来週からはキラウエア大噴火中ハワイ日記が始まることになっているので、
2010年2月のハワイ・ホクレア号トレーニング参加日記のように、
世に出ないまま時間に埋もれていってしまう恐れがある。



しかしどうも、飯を食う時間はあるけど、日記にじっくり割く時間がない。
ハワイに行く前までに終わらせておかなければならない
アレヤコレヤのシノギの重要案件の『急げ! 急げ!』シグナルが、
アチコチで点滅し始めているのだよ。



そういうことなので、今日は先を急ぎますが、
今回の小笠原滞在でよく分かったことは、
この島は、人生の節目節目のたびに訪れていたワタクシにとっての、
『ラッキー・アイランド』だったのだ、ということ。



詳しくは時間のあるときにキチンと書き残しておこうと思うけど、
この島に来るたびに、そのあとの自分の人生の扉が、パタン、パタンと開いていった。
それらの扉の先にはいつも、自分の夢に沿った、次のステップの人生が待っていた。
ウン、まさしくそうであったと、今も再確認している。



さあ、もうあまり残っていないワタクシの人生の次の扉が、もうすぐ開くよ、きっと。



小笠原村父島2月無作為日記-5

2011年03月08日 | 風の旅人日乗
東京湾を出るときに、船の速度やら風向やらを頭の中で計算して、
八丈島の横で日没だな、と見当を付けていたら、
本当にピッタリと当たって、そのことが、
我ながら、可愛くも他愛ないことではあるが、
嬉しいことだった。



翌日は、小笠原群島北端、聟島列島のちょい手前で日の出。
これも見当どおりで嬉しい。ウフフ。
他愛ないね。


さてその太平洋の南東端のケープホーンでは、
フランシス・ジョワイオンが持つ単独無寄港世界一周記録に挑戦中の、
トーマス・コビルが奮闘中。

昨日3月7日現在で、コビルのペースはジョワイオンの記録に約750海里遅れている。
いい風が吹くと1日強の遅れに過ぎないけれど、
この先には風が不安定な赤道も待ち構えているので、
かなりのプレッシャーを感じていることだろう。

3月28日の午前0時ちょい過ぎ(GMT)までに英仏海峡入り口に着いたら、
コビルはジョワイオンの記録を破ることができる。

トーマス・コビルが、どんな激しい、限界ギリギリのセーリングで
世界記録&ジュールベルヌ・トロフィーに挑んでいるか、
スタート直後の怖ーい連続写真がDaily Sail電子版で紹介されている。

[photos from the Daily Sail]







[photos from the Daily Sail]


ピッチポール沈寸前まで行ったこの艇は、ディンギーじゃない。
後ろから撮っているから大きさが分かりにくいけど、
全長105フィート(32メーター)もの、マキシ・トライマランだ。
ホビーキャットのピッチポールだって、心臓が凍るのに、な。

しかも、その危機から立ち直ったあとの、ヒール角度も半端じゃない。
大型外洋マルチハルがここまで傾くことはあまりない。
そのままオーバーヒール沈してもおかしくないくらい、
復元力がほとんど残っていない状態だ。

いろんなヨットのセーリング試乗レポートを連載させていただいているヨット専門誌KAZIでは、
来月号は、かなり面白かった外洋トライマランについて書く予定なのだけれど、
マルチハル・セーリングのメカニズムは、モノハル以上にピンキリの幅が大きく、
書き出しの取っ掛かりに、往生している状態。





小笠原村父島2月無作為日記-4

2011年03月07日 | 風の旅人日乗
昨日の日曜日は、浜名湖から葉山を訪ねてきた小池の哲ちゃんと、森戸の浜を歩きながら、家でコーヒーを飲みながら、
現在のこと、未来のこと、をいろいろと語り合った。

日が暮れてすぐに布団に入ったのだが、
哲ちゃんと話した内容を夢で思い出し、
さっき、夜半過ぎに起き出して、
これからのことについて、いろいろと考え中。

さて、それはともかく、
なぜ大学休学中に、当時片道40時間近くもかかった小笠原父島に行ったのか、のお話。



大学卒業前、最初の長期航海実習で北半球の冬分に南半球のシドニーに行った後、
2回目の長期航海実習は、初代の帆船日本丸に乗船してのハワイ往復訓練だった。



現在は、横浜桜木町駅前の日本丸記念公園に係留保存されている初代日本丸だが、
当時も、すでにかなりのおばあちゃんで、
アベレージ4.5ノットの、かなーりゆったりとした、
でも、一歩一歩確実な歩みで、若い我々をハワイまで連れて行ってくれた。

ハワイ滞在中の最後の寄港地は、ハワイ島のヒロだった。
約1週間の停泊中は、地元の日系人の方々が船を訪問して下さり、
いろんな行事に招待してくれたりする。
ヒロで亡くなった日本人移民の方々が眠る日本人墓地の掃除するのも
我々実習生の大切な役目だが、
そのお返しに、お神輿を担ぐ祭りや、ボンダンス(盆踊り)に参加させていただいたりする。

それらの方々との交流だけでなく、
ハワイ島の高校やハワイ大学ヒロ校に通う可愛い女の子たちも船に遊びに来る。

彼女たちが船まで遊びに来てくれたお返しに、
ボクはよく知らないのだが、何人かの勇者たちは、
巡検後の夜10時過ぎ、闇に紛れて舷門を突破し、
すぐ近くのホテルにあったディスコ(この言葉、まだ分かる人いるのかな?)で
彼女たちと合流して、文化交流に努めたりした。らしい。

そんな、帆船日本丸に遊びに来るお客さんの中に、
ヨットで太平洋の島々をクルージング中の日本人の新婚さんカップルがいた。

大学の中ではセーリングきちがい、ヨットきちがいで知られていたボクが、
彼らの案内役をおおせつかり、
帆船日本丸のあちこちを案内しながら、
ヨットでの太平洋クルージングの楽しそうなお話も聞かせてもらったりした。

そのカップルは、小笠原父島で酒屋さんを営む人たちで、
そのお2人の、「日本に帰国後、時間ができたら遊びに来なよ」
というお言葉に、まるっきり甘えて、それから半年後、
休学中で時間だけはたっぷりあったボクは、
未知の島、小笠原に遊びに行くことにしたのだった。




アルバムを探したら、当時のハワイ島ヒロ港の、こういう写真が出てきた。
後ろに写っているのが、そのお2人が乗っていたケッチで、
その手前に立っているのが、今からほんの何年か前のワタクシ。

現在、ヒロ港のこの水面には、
ホクレアのキャプテンの一人、カレパ(チャド)・バイバイヤンが運航している
双胴航海カヌー〈ホクアラカイ〉が係留されている。
来週の週末、ボクはここに行って〈ホクアラカイ〉でのトレーニングに参加する。

西洋型の帆船やヨットでのセーリングとポリネシアの航海術によるセーリング航海。
地球の東西2つのセーリング&航海術を学ぶことができているなんて、
まあまあ幸せな人生ではあるかもね。
ただし、この人生は、自分が学んだことを次の世代にバトンタッチして初めて、
意味が出てくるものなのだよ。



小笠原村父島2月無作為日記-3

2011年03月06日 | 風の旅人日乗
今年の3月3日の雛祭りはボートショー初日でもあり、
お客さんと一緒に横浜で待ち合わせし、会場へ。
久し振りに堀江謙一さんにお会いでき、お話を少々。

翌日金曜日は、東京・夢の島マリーナからヨットを出してセーリング。
すっごく冷たい北北西~北の風の中、リーフ練習などしながら早春の東京湾を堪能。
西に真っ白な富士山、北にスカイツリー、南にうみほたる。
箱庭のような景色の中、荒川や江戸川から降りてくる風道がよく見え、
この風のときにレースで引くべきコースが、
おおよそイメージできた。




この写真は、小笠原ビジターセンターに展示されている父島丸の模型。
いまの小笠原丸の2世代前の小笠原定期航路船だ。

初めての父島は、この船に乗って行った。
1977年か1978年のことだ。
見ず知らずの人ばかりの日本ヨット業界への就職活動のために、
大学を1年間休学していたときのことだった。

父島丸では、東京・竹芝桟橋から父島・二見港までの約550海里を行くのに、片道38時間ほどかかり、
寝るときは、貨物庫の覆い板の上に毛布を敷いて雑魚寝した。
太平洋のうねりに比べるととても小さくて、めっちゃ揺れる船だった。

大学の卒業論文の一部は、父島で書いた。
当時、卒論は万年筆で書かなければいけないことになっていたのだけれど、
インク消しを島のなんでも屋さんのまるひ商店に買いに行ったら、
当然そんなものは置いてなく、注文してもらっても、
次か、次の次の船まで待たなければならなかった。
そういう島が日本にあることが、とても新鮮で、嬉しくて、ワクワクした。


[1978年当時、まだ実際に漁に使われていた、父島オリジナルのカヌー。
帆装も備えていたし、船外機も取り付けられた。
これは、小笠原ビジターセンターに展示されている写真を撮影したもの]

なぜ大学休学中に父島に行ったのかは、つづきます。

小笠原村父島2月無作為日記-2

2011年03月02日 | 風の旅人日乗
父島に行き来する小笠原丸の上では、
3月のハワイでの航海を想定しながら星のお勉強。
小笠原丸では、夜10時以降はデッキに出ることが禁止されるので、
それまでの時間に見える星となると、
今の時期は鼓星(オリオン座)周辺の星々のお勉強になる。


* この図は、http://www.guri-nagoya.com/back_numbers/67/hoshi.html から拝借しています。
 6年前の図なので、土星がポルックスのすぐ下にあるけど、
 2011年2月現在、土星は、このずっと東側のスピカの近くで深夜に光っています。


今回の収穫のひとつは、これらの星とのレグルスの位置関係を確認できたこと。

そしてもっと大きい収穫は、
ベテルギウスとカペラを結ぶ線の先を
ゆるく右カーブさせながら、その線の、1.2~1.3倍の距離延ばしたところに、
北極星がある、という位置関係を覚えたこと。

これで、カシオペアや北斗七星やホクレアが見えないときでも、
南の空に鼓星が見えていれば、
北極星の大体の位置を推定できるオプションを持つことができる。

ま、これを知ったからといってヨットレースに勝てるわけでもないし、
ましてや、ビジネスや御商売には、さらにまったく繋がらない、
つまらない話ですけど、ね。

ついでに、これも金儲けには役に立たない、つまらない写真をひとつ



これは何の写真でしょうか?

正解は、
東京港にかかるレインボーブリッジを、
その下を通過中の小笠原丸のデッキから見上げたところ。

大渋滞の首都高と一般道で止まったままでいる大量のクルマ、そしてゆりかもめの軌道と車両という、
尋常でない重量を支える橋の下は、
雪の結晶を思わせるような、こういう美しい構造だったんだねえ。

小笠原丸のデッキから空を見上げては、
星に思いを馳せたり、近代日本先進建築工学に思いを馳せたり。
実り多い船旅になりました。

さ、今日はこれから横浜のボートショーへ行き、オーストラリアから来ている業者さんと面会。
明日は、昨日に続いて東京湾でセーリング。

小笠原村父島2月無作為日記-1

2011年03月02日 | 風の旅人日乗
昔々バイトをさせてもらってた酒屋さんの倉庫の横に、
沖縄でよく見られる、中国由来の石敢當があった。

ウィキペディアを見てみると、
日本全国の石敢當分布記録の中に東京都小笠原村の例は入ってないみたい。

ウィキペディアの記事には、間違いが混ざっていることも多いので、
真剣な研究者の間ではすでに常識として知られているのかも知れないけれど、
一応、東京都小笠原村父島字奥村にも石敢當があってビックリしたこと、
もし石敢當マニアの方がいらっしゃったらと思い、報告しておきます。

写真撮影は、何か、よろしくない行為のように思えて自粛。

ここに住んでいた当時は、一所懸命に前ばっかり見ていて、
こんな、足元にある魔除けの石碑なんて気付きもしなかった。
若かったからね。それが普通なのさ。