Dec.31 2005 早く来やがれ2006

2005年12月31日 | 風の旅人日乗
12月31日 土曜日

今日も風が強い。

昨年は、30日にタスマニア島のホバートを出て、メルボルン経由でニュージーランドのオークランドに戻り、31日の大晦日の朝、オークランド発のニュージーランド航空に乗って、夕方成田に帰り着いた。

思い返してみると、去年はなんとなく慌ただしく終わった年の瀬だったなあ。

大晦日の便だったのでどうしてもエコノミークラスの席が取れず、それまで一所懸命貯めていたマイレージを使い果たしてビジネスクラスに乗らざるを得なかった。
マイレージを使い果たしたのをきっかけに、ニュージーランドとの縁が薄くなったのかどうかは分からないが、今年はついに一度もニュージーランドに行かなかった。
1年の中で一度もニュージーランドに行かなかったことは、ここ10数年なかったように思う。

お昼、来年のレース活動の打ち合わせを、あるオーナーと都内で1時間半。
かなり具体的なレース活動計画を検討することができた。
2005年最後の日に、来年シーズンのレース活動計画がビジュアルで見えてきたのが、とても嬉しい。
来年もいい年になりそうな予感。


Dec.30 2005 年越し蕎麦

2005年12月31日 | 風の旅人日乗
12月30日 金曜日
夕方、家族で鎌倉に出て、1日早い年越し蕎麦を、鎌倉ではお気に入りの蕎麦屋Tで、いただく。

その後、昨日に引き続き、豆腐屋さんYへ。

今日は、シーボニアで活動していたUチームとZチームで一緒だったT氏とI氏、それに最近活躍中の女性セーラーO嬢が揃って忘年会。

この日はT氏の誕生日でもある。先日スペインのボルボ・オーシャンレースの取材の際にゲットしたお土産をプレゼントとして持参。

この日の豆腐屋さんYには、ご主人のBさんだけでなく、奥様のY子さんも揃った。カウンターだけの店は、我々ともうひとつのグループだけで一杯になったが、賑やかな一夜になった。

Dec.29 2005 斜面の魔術師

2005年12月30日 | 風の旅人日乗
12月29日 木曜日

午前中、来年のTeam Nishimura Projectの資料作り。

午後、大掃除。

夕方、鎌倉の豆腐屋さんYで、久し振りに会う、かつてのヨット仲間Yと忘年会。

Y とは、油壺のSというレース艇で一緒に活動した。
当時、ぼくがヨット雑誌のK誌の編集者になりたてで、YはN大を卒業したばかりだった。もう20年以上前のことになる。
シーズン中はレースや練習に没頭したが、シーズンオフになってクルーが集まりにくくなると、2人だけで33フィートのSを出して真冬の東京湾を渡って外房の布良に行き、銭湯に入って、艇に戻って飯を食って寝た。これも我々にとってはセーリング練習の一環だった。

相模湾に大西が吹いて艇を出せない日は、油壺湾を見降ろす合宿所の庭で、アジの干物などを焼いて酒を飲みながら、将来の夢を語り合った。

チームの先輩たちの陰からの支援を得て、Yがボースン、ぼくがスキッパーで出た小笠原レースに優勝した。ともに最年少のボースン、最年少のスキッパーだった。

そのYも、今は2人の子供を持つ、バリバリの建築デザイナーだ。
藤沢に住むYは、藤沢・鎌倉界隈では「斜面の魔術師」として有名な1級建築士で、傾斜地をうまく利用した住宅設計で人気を博し、テレビにもよく登場する。

豆腐屋さんYのカウンターで、昨今の話題なっている強度偽装マンション問題について、憤りを持って語るYからレクチャーを受ける。
言葉が専門用語ばかりでほとんど分からないが、いい加減な業者たちのしでかしたことに、Yがひどく怒っていることは理解できた。
僕の周りの人間はみんな偉くなってるなあ。

Dec.28 2005 マグロと天麩羅

2005年12月28日 | 風の旅人日乗
12月28日 水曜日

今日も相模湾はいい天気。朝早いうちは北の強めの風が吹いていたが、日が高くなるとその風も収まり、のどかな日和になった。
朝、葉山マリーナに行って用事を済ませ、その後、お昼前に横須賀・追浜へ。

逗子マリーナのチームAのオーナーM氏の追浜のお店に行く。
年末年始用のマグロと魚の買出しなのだ。
大きな声では言えないが、すごーいマグロを用意して下さっていて、驚いたの何の。
食べ物の話はあまり品がよろしくないので、たくさんは書けないが、すごーいマグロなんである。食べるとビビルぞぉ。お酒は何がいいかなぁ。

食べ物の話が続いて恐縮だが、昨日東京で御馳走になった天麩羅と、そのあとの鯛飯、これも素晴らしかったです。
静かに酒を飲める店に場所を移した後、今年2月のフォートローダーデイル~ジャマイカ島のパイナップルカップの話で盛り上がり、昨今次々に進水しているカンティング・キール装備艇と、これからのレースヨットが向う方向の予想などを話し込んでいるうちに深夜になり、タクシー券をいただいて葉山に帰りついたのは、午前1時半だった。

気にしていたシドニー~ホバート・レースは、今日午前8時に、『ワイルド・オーツ』がコースレコードを樹立してファースト・ホームを果たした。

フィニッシュの10マイル前に襲ってきた強風でメインセールのバテンを飛ばし、メインセールを降ろして、ジブだけでフィニッシュしたらしい。この艇に乗っていた友人のロビー・ナイスミスも、今頃は勝利の美酒に酔っ払っていることだろう。

去年の今日の早朝、シドニー~ホバートレースでぼくが乗っていた『コニカミノルタ・ザナ』は、タスマニア島をすぐ右に見ながらフリートのトップをぶっちぎりで走っていた。
そして、次々に襲ってくる大波のひとつをかわし損ね、デッキに亀裂が入って沈没の危機に瀕した。

ホバートはほとんど目の前で、ファーストホームの栄光もすぐ目の前にあった。
しかしダメージの大きさからすると、それ以上波に向って走ることは、艇体が割れて沈没することを意味し、涙を呑んでレースをリタイアせざるを得ず、タスマニア島の寒村に避港したのだった。

クルー全員でバスに乗ってホバートに向いながら残念ビールと残念ラムを皆で飲み続けたのだが、ほぼ手に入れたと思っていたファーストホームを逃した悔しさは大きく、苦い酒だった。
あれから、もう1年か。

Dec.27 2005 お年玉ポチ袋

2005年12月27日 | 風の旅人日乗
12月27日 火曜日

今朝の相模湾は、穏やかバージョンのほうの典型的な冬の景色が広がった。
雲ひとつない空に、険しい山襞をくっきりと浮かび上がらせた丹沢山系と、その左側にはそれよりも少し薄い色調で富士山がそびえている。そして真っ青な相模湾の向こうには、天城山に至る伊豆の山々、そしてその南に、噴火以来少し頂上付近の形がいびつになった伊豆大島の三原山が浮かんでいる。

シドニーホバートレースは、スタート後24時間が経過し、オーストラリア人のボブ・オートレイが所有する『ワイルド・オーツ』が先頭に立った。
ボブ・オートレイは、オーストラリア・ワインの輸出ビジネスで成功した大富豪で、グレートバリア・リーフの内側に浮かぶ有名なリゾート・アイランド、ハミルトン島のオーナーでもある。

この艇には以前一緒によく乗ったニュージーランド人セーラー、ロビー・ナイスミスが乗っている。頑張ってジェネカーをトリムするのだぞ。

さて今日は、ヨット雑誌K誌の編集長M氏と一緒に、先鋭的な活動を続ける外洋レーシング・ヨットのオーナーのお一人に六本木にご招待いただき、ごく内輪の忘年会である。

逗子のスポーツクラブでひと泳ぎした後、東京に向かい、浅草でお年玉用のぽち袋を買って、蕎麦を軽く食べた後、待ち合わせ場所の東京駅に向うのだ。

Dec.26 2005 シドニー・ホバート

2005年12月26日 | 風の旅人日乗
12月26日 月曜日

今日、オーストラリア東海岸の夏時間の午後1時、シドニー~ホバート・レースがスタートした。
クリスマス前に出された気象予報では、今年のレースでの風は弱く、不安定だとされていた。
しかし、今朝、スタート前に行われたウエザー・ブリーフィングでは、その予報が一部訂正された。

今日26日は、今日の日中は5から10ノットの弱い南東~南風。しかし夜半から27日の夜明けまでには、その風は北に変わる。風速は15ノット、25ノットと上がっていって、27日の夕方には30ノットに達するという。
今回のレースには5隻の全長30メートルのマキシ艇が出ているから(シドニー~ホバートレースに参加できるのは、最大長さが30メートルの艇まで、と決められている)、この風だと、コースレコードが出る可能性が高い。
但し、その前に問題がある。
「28日の夜明け前に、レースフリートは非常に強い西風が吹き荒れる嵐に遭遇することになり、その嵐は最大12時間続く」という警報が出されているからだ。
コースレコードを狙うマキシ艇団は、その西風が吹き始める前までにタスマニア島のストーム湾を走り抜けていれば問題ないが、それに遅れると、フィニッシュまでの80マイルほどを風に向って走らなければならなくなる。

マキシ艇団よりも小さい、大部分の艇団(約90隻)は、もっと辛い。
最大12時間続くと予想されているその嵐の中を、バス海峡の真っ只中で、真横からの波(最も危険だ)を受けながら走らなければならないからだ。

今年のこのレースは、自分なりの考えで乗らないことにしたのだが、日本にいても、やはりどうしても身近のことに感じてしまう。
ニュージーランド人、オーストラリア人の友人セーラーたちの健闘と、安全な航海を祈りたい。

Dec.25 2005 ニッポンオリジナル

2005年12月25日 | 風の旅人日乗
12月25日 日曜日

朝起きてメールをチェックしたら、ニュージーランドのウエリントンからのメールが届いていた。昨年のシドニー~ホバートに乗った98フィート・マキシのオーナー代理兼マネージャーのMからだ。
シドニー~ホバートレースのスタートを明日に控え、今日、午後の飛行機でシドニーに向う、と書いてある。今年はお前がいないので残念だよ、とも。

確かに半年ほど前、Mから今年のレースにも誘われたのだが、ある考えがあって断った。
よほどの場合を除いて、外国人が取り仕切るチームの一員に雇われてレースに乗るのは、もう卒業しようと思うようになっているのだ。

これまで、自分はニュージーランドやアメリカのセーラーから、セーリングの極意の多くを教わった。それらの国のチームのメンバーの一員として国際レースでの好成績も収めることが出来た。彼らから学んだことが自分のセーリングの技術、精神として身体に染み込んでいる。このことにはとても感謝している。
しかし、自分に残されたセーリングの時間を考えれば、もう彼らから学ぶ時期は卒業して、これからは、自分は、日本チームのための、日本艇でのヨットレースをすることに重点を置かなければならないと考えるようになった。
Team Nishimuraを立ち上げた理由のひとつも、その考えに直結している。

Sからのメールによると、今年のシドニー~ホバートの気象予想は、
「スタート後しばらく、微風。その後、後半は北寄りの風を受けてのダウン・ウインド」だという。
この予想が当たれば、昨年の厳しいレースとは対照的な、穏やかなレースになりそうだ。

「だから、俺たちは多分、かなり苦戦する」とSのメールが続いている。
カンティング・バラストを装備した新艇『アルファ・ロメオ』には性能上敵わず、荒天でこの艇がトラブルを起こすことが、タスマニア島ホバートでのファーストホームをゲットする唯一のチャンスとされているため、微風の予想は嬉しくないことだろう。

しかし、終わってみるまで何が起こるかわからないのがヨットレースだ。
奇跡のファーストホームを願って、インターネットを観ながら応援することにしよう。
シドニー~ホバートレースのスタートは、明日26日、シドニーの夏時間の午後1時だ。

Dec.24 2005 歩けなかった夏

2005年12月24日 | 風の旅人日乗
12月24日 土曜日

午前中、葉山新港でひと仕事した後、午後、スポーツクラブでひと泳ぎ。年末が近づいているせいか、空いていて泳ぎやすい。

1年前は、真夏のシドニーにいた。

シドニー~ホバートレースのスタートを翌々日に控えたクリスマスイブ。
全長98フィート(30m)のマキシ・レーサーのメインセール・トリマーとして参加した、その前の週のレースで足指を痛め(レースそのものではなく、ある日のレース後に船内のセールを整理しているときに、足を思いっきり階段に激突させた)、歩くと激痛が走り、市内に遊びに出かけることもままならなかった。シドニー~ホバートレースのスタート前のほぼ1週間を、クルージング・ヨットクラブ・オブ・オーストラリアがあるラシュカタ・ベイに近いモーテルのベッドで、横になったまま暮らした。
クリスマスイブも、近くのスーパーマーケットで買い込んだ韓国製の激辛カップヌードルを、テレビを観ながら啜り込み、氷で冷やしている足を恨めしく眺めながら、なんとなく惨めな気持ちのままフテ寝した。

今年は昨年とは違い、ヨットレースの本場にはいないが、祖国日本で家族と共に過ごす、穏やかなクリスマスイブを迎えられそうだ。

Dec.22 2005 950ヘクトパスカル

2005年12月22日 | 風の旅人日乗
12月22日 木曜日

ここのところ相模湾は強風の日々が続いている。にこやかにセーリングできる日和がなかなか来ない。
ここ数日、北海道の東には950ヘクトパスカルというクラスの、大型台風を凌ぐ勢力の低気圧が居座っているわけで、こんなときの日本列島北部を取り巻く海は、世界一周レースのトレーニングにはもってこいだ。今日現在の地球上で、最も荒れている海である。遭難の恐れもかなり高い。

こういう海であっても、当たり前のように操業している日本漁船がいる。台湾やロシアの人たちの漁船は到底真似することは出来ない。
船の能力の問題ではない。その船に乗る船乗りの技量と矜持の問題だ。
日本の漁業者たちの、船乗りとしての能力は非常に高いのだ。アメリカズカップを持っている国であるスイスの漁師さん(湖か川の漁師)など、足元にも及ばない能力だ。今までアメリカズカップに挑戦して、挑戦者シリーズで4位にしかなれてない日本のセーリング・セーラーたち(ワタクシも残念ながらその一人です)も、その能力と矜持を見習わなければならないのである。

Dec.21 2005 東京六本木

2005年12月21日 | 風の旅人日乗
12月21日 水曜日

昨夜は、横浜、関内で、あるヨットチームの、楽しい忘年会。地元横浜のセーラーが中心のこのチームのこと、勝手知ったる関内、伊勢崎町界隈を飲み歩く。

この忘年会の途中に入った電話によって、翌日、すなわち本日に、ワタクシはとんでもない、ダブルブッキングをしていたことが判明した。ひとつが21日、もうひとつが22日の約束だと思っていた会合が、どちらも21日だったということに気がついたのだ。
どちらも、大切な人たちとの会議とその後の忘年会の約束。大変なことになったが、もう夜は遅く、しかも判断力はアルコールで鈍っている。
仕方なく、朝になってから解決方法をじっくり考え、それから各方面に連絡することにした。

朝起きて、どうすればいいのかを一所懸命考えた。
どちらも大切だが、現実問題としてどちらかのグループとの約束を破ることにしなければならない。そしてそれを決心して、その相手先にお詫びの連絡を入れなければならない。
非常に悩んだ末に心を決め、一方のグループの各メンバーに連絡を入れる。本当に申し訳ない。

午後、東京六本木の事務所で、Team Nishimuraのメンバーによるミーティング開催。東京以外からも、遠く大阪から、群馬から、メンバーが集まってくる。
このチームは、「いつか必ず、日本の海洋文化をバックボーンにして、西洋の海洋文化の象徴であるアメリカズカップに挑戦する」というワタクシ西村の夢に賛同して、活動してくれているチーム。
来年に向けての具体的な活動計画を推し進め、来シーズンのイベント実施案をまとめる。来月、2006年1月から、いくつかの具体的な準備活動に入ることになるのだが、その日取りなどについて、各担当者と打ち合わせする。

そのまま、日が暮れると、年末で賑わう六本木の街にある焼き鳥屋での、Team Nishimuraにとって初開催となる忘年会に突入。
思えば、Team Nishimuraの最初のミーティングをしたのが6月。半年で忘年会を開催出来るまでのチームに成長した。先日、ノートに書いた3年前のセーリング日記に、「3年後には自分のチームを持って、アメリカズカップに到達するための具体的な行動に入ること」と書いてあるのを発見したが、それが実現したわけだ。非常に嬉しい。

Team Nishimuraのメンバーの人たちは、様々な分野で活躍し、すごい実績を残してきた人たちで、純粋に一緒に夢を共有し、かつ実現しようとしてくれている人たちばかりだ。自分にはもったいないような人たちばかり。感謝の念に堪えない。
努力して、このチームをさらに成長させていきたい。

Dec.20 2005 横浜関内

2005年12月20日 | 風の旅人日乗
12月20日 火曜日

朝、東京から首都高、横浜横須賀道路を経由して葉山に戻る。
今朝の関東地方の視界は素晴らしく、横浜ベイブリッジを渡るときには、横浜の市街の向こうに、右から左へ、丹沢、富士山、箱根、伊豆の天城山、と続く光景が、雲ひとつない青空の下に、パノラマのように広がっていた。道も空いていて、朝から大変気持ちのいいドライブだった。

昨夜の門前仲町での忘年会は楽しかった。
門仲に着くと、待ち合わせの時間にかなりの余裕があったので、まずは深川不動にお参りして、それから商店街をブラブラしながら指定の店に向かったら、店の場所が分からずオロオロし、電話で誘導してもらい、結果、遅刻した。船乗りは約束の時間に遅れることを何よりの恥とし、練習船では「5分前の精神」を叩き込まれたが、最近はどうもだらしない。よく遅刻をするようになった。

大学の寮(当時は全寮制だった)で同室だった2年後輩のMと、その同級生のHが、もう生ビールを満たしたジョッキを前に置いて待っている。遅れた先輩を差し置いて飲むことはしていない。あっぱれである。

Mは航空会社のZ勤務で、運行管理(ディスパッチャー)部門の偉いさん。Hは日本を代表する電子機器/通信/パソコン/ゲーム/エンターテイメント企業Sの部長さん。
しかし先輩の前では、そのような会社の肩書きは通用しない。この席で一番偉いのは、ワタクシなんである。

いやいや、楽しい時間だった。学生時代の話、練習船での話、それぞれの家族や今の仕事での面白い話…。1軒目でうまい魚を食べて焼酎を飲み、2軒目に学生時代によく行った『だるま』に顔を出し、コップ酒を飲んでいたら、あっという間に地下鉄の終電の時間。
次の飲み会の打ち合わせをして、解散した。

今日19日は、午後6時から横浜は関内で、あるヨットのチームの忘年会。
このチームのオーナーは、今まで私が会った人間の中で最もお酒が強い。次点の人とは比べるべくもない、圧倒的トップであり、超弩級の酒豪だ。このオーナーに挑んだ酒飲み自慢の外国人セーラーたちが、バッタバッタと倒れていくのを目の当たりにした。もし『テレビ・チャンピオン』で日本一の酒豪を決める対決を組んだとすれば、決勝進出は間違いないと思われる人だ。そのチームの忘年会だ。怖いですねえ。あ、もう行かなければならない。

Dec.19 2005 門前仲町

2005年12月19日 | 風の旅人日乗
12月19日 月曜日

さあ、今日から恐ろしくも楽しい忘年会週間に突入。
月、火、水、木、土、と、怒涛の酒飲み週間だ。
初日の今日は、東京下町の門前仲町で、東京商船大学の後輩たちと。
当初は、月島のもんじゃ焼き屋形船に乗って、江戸湾に出てお台場沖にアンカリングして、逃げようにも逃げられない金網デスマッチ的飲み会が企画されていたが、屋形船は幸か不幸か予約でいっぱいで、学生時代を過ごした門仲で、ということになった。

彼らと飲むと、12時前に新橋を出る横須賀線の終電に乗り遅れる可能性が極めて高い。従って、今日の忘年会は、最初から一泊二日の大プロジェクトを組んで望むことにした。
近いうちに済ませておかなければならない、車が必要な用件が東京であったため、それを今日済ませることとし、その後、車を置いて、門仲に出かけ、夜は東京に泊って、明日の朝帰る、というプロジェクトだ。神奈川県三浦郡の田舎に住んでいると、東京でちょっと気合を入れて4,5時間飲むとなると、20時間規模の東京滞在になってしまうのだ。


Dec.18 2005 富士山頂の雪煙

2005年12月19日 | 風の旅人日乗
12月18日 日曜日

昨日の相模湾は北西風が一日中吹き荒れたが、今日も同じような気圧配置だが、朝、風が弱い。かっきりと寒い。2階から富士山がきれいに見え、頂上付近は雪煙で隠れている。あれは雲ではなく、頂上付近が強風で地吹雪になっているのだ。高層には強風が吹いているサインで、こんな日の海は要注意だ。

今日はHマリーナの月例レースで、インショアレース2本が予定されていた。
マリーナを出港後、それまで穏やかだった北東風が北に回り、さらに北西に振れ、風が一気に30ノットを越す。
結局この日のレースは中止。その後、風は落ち着いて快適な風になったが、あとでアメダスを見てみると、なぜだかHマリーナのある相模湾奥だけが風が弱く、そのほかの関東地方全域は15m/sから20m/sだったから、Hマリーナ沖でもその風が吹き続ける可能性も高かったわけで、気圧配置と参加艇の技量をも考慮した、レースコミッティーのいい判断だったと思う。

家に用事を残していたので、レース後(レースはなかったけど)のパーティーには出席せずにマリーナを出た。

Dec.16 2005 骨太のマスコミ人はいないのか

2005年12月17日 | 風の旅人日乗
12月16日 金曜日

朝3時前に起きてパソコンに向かい、夕方7時まで、丸1日以上、原稿書きまくりの一日。
V社の15ページのカタログ1冊分の写真選びと、キャッチコピー書きと、本文書きを、本日一日で仕上げた。すごいなあ。やればできるのだなあ。
到底不可能だと思っていた。でも、頭が朦朧となったぞ。

座間味島に出かけるときにも、夜寝る前にこの仕事の原稿書きだけでもコツコツ進めていこうと思って、パソコンを持っていった。
しかし、実際に座間味でサバニ合宿に入ると、仕事のことなど忘れてサバニのセーリングのことに集中したくなってしまった。
それに、夜になると、昼間のセーリングの達成感と泡盛の心地よい酔いで、自分の脳を西洋のヨットレースについての原稿を書くモードにスイッチを入れ替えることは不可能に近かったのだ。

このカタログが完成したら、それを持ってマスコミ関係各社を回るつもりだ。そしてこのレースの面白さを説明しまくるのだ。
でも現実には、そんなことくらいで理解を示してくれて、ヨットレースをテレビや新聞で取り上げてくれようとするマスコミ関係者はほとんどいないのかもしれない。
今までそうだったもんな。
彼らだってサラリーマンだ。視聴率の取れない番組を作って会社での自分の仕事に汚点を残したくないのだ。

しかし、何事も、諦めたら、そこの時点でおしまいなんである。そのこともよく分かっているつもり。
根気良く続けていれば、いつかは、小さな失敗を恐れない、チャレンジ精神にあふれ、セーリングというスポーツに賭けてみようとする骨太のマスコミ人に出会えるに違いないのだ。

Dec.15 2005 座間味と銀座の狭間

2005年12月16日 | 風の旅人日乗
12月15日 木曜日

朝起きて裏山を駆け回る。自分的には宮本武蔵のようなトレーニングだなあ、と悦に入っていて、とても気に入っている。誰も知らないけど。しかし、まあ、今日はえらく寒い。

午後、東銀座M社T編集部に出頭し、Vオーシャンレースの記事の写真キャプション書きと、初校手入れに黙々と精を出す。

昨日までの、一日中海に出て、サバニと対峙していた沖縄生活とは正反対の日。だけどこれも結構楽しい時間だ。

編集部のNさんが、編集部の冷蔵庫の中から、酎ハイを出して黙って机の横に置いてくれる。世の中の仕組みがよく分かっている人だ。
Nさんは、日本カーオブザイヤーの選考委員でもあるのだ。