2024年8月28日 対馬丸のこと

2024年08月28日 | 風の旅人日乗

 



今回の沖縄での修理回航仕事で、修理終了後に天草に向けて沖縄の与那原マリーナを出港する前日の8月21日。那覇市内にある対馬丸記念館を数年ぶりに訪問した。

対馬丸は80年前の1944年8月21日に那覇を出航後、翌日22日の夜にトカラ列島の悪石島の近くで米軍の潜水艦によって沈められた。

何年か前にホクレア号のクルーたちと一緒にパールハーバーのアリゾナ記念館を訪れたとき、そのすぐ近くの岩壁に、なぜか見覚えのある古い潜水艦が係留されていることに気が付いた。それが、対馬丸を沈めた潜水艦だった。見覚えがあったのは、その写真を、その少し前に対馬丸記念館で見ていたからだった。

対馬丸には、沖縄から九州や本州に疎開させられることになった学童を中心に、1800名近い民間人が乗っていたという。その約8割もの小さな若い命が犠牲となった。

私は相棒と二人で8月22日の早朝に与那原マリーナを出航して、日付が変わった深夜からは、北上してくる台風10号に吹き込む向かい風に苦しめられながら、8月23日の日没後には、悪石島の南を北西に針路を取って、黒潮の本流に向かって帆走していた。
そこは、80年前の同じ日、同じ時刻に、対馬丸の沈没の瞬間から生き延びた人たちが粗末な救命いかだや木片にしがみついて漂流していたと、対馬丸記念館の資料に記されている海だった。せっかく沈没の瞬間から生き延びたのに、漂流中に海水に体温を奪われて力尽きた学童も多かったという。大量に集まってきたサメに命を奪われた学童も多かったという。

その海を走り抜けながら一晩ずっと、80年前のその夜にその海を浮き沈みしながら流されていたその若い命たちのことを考え続けた。

どんなに怖かったことだろう。どんなに寒かったことだろう。どんなに喉が渇いていただろう。

しかし、自分にできることはその若い命たちの冥福を祈り続けることだけだった。その自分の無力が果てしなく情けなかった。

こんな悲劇を、この先の時代に繰り返さないようにするために、我々世代は一体どんな努力をすれば次の世代の役に立てるだろうか。そのことをいつも考え続けなければならない。強くそう思った。

 

--- この航海の少し後、島が大好きなある友人に宛てた手紙---
那覇から座間味に行くフェリーの発着港の泊港の近くに対馬丸記念館があり、10年ほど前でしたか、たまたま散歩の途中にその記念館に行き当たり、館内に入って、当時の日本軍部上層部の年寄りの愚かな行動によって、ひめゆり部隊だけではなく、ここにも沖縄の若い命が無意味に失われた事例があったのかと、大変なショックを受けました。
 
今回、沖縄本島から奄美大島を経由して沈没現場近くの悪石島のすぐ近くを通ったのは、日没後から夜明け前の夜の時間帯でした。
満月から3日目のことで、月明かりで夜でも海面は明るいんですね。その夜、真夜中にもかかわらず、数十頭のイルカの群れが2回に分けて私が乗るヨットに近寄ってきて、ヨットの周りをはしゃぐように泳ぎ、ジャンプを披露してくれたりしたんです。80年前の沈没の時間から24時間後くらいのことです。80年前のこの日のこの時間は、きっとまだ漂流している子どもたちも頑張っていたんだと思います。
 
ブログに書いた「ホクレアのクルーたちとアリゾナ記念館に行った」という「ホクレア」とは、ハワイの人たちの母なるカヌーとも呼ばれるハワイ伝統の帆走航海カヌーのレプリカで、ハワイの人たちにとって心の故郷のような航海カヌーです。
私は及ばずながらその活動を日本人としてサポートしたりもしています。そのクルーたちと真珠湾のアリゾナ記念館に行ったことがあります。アリゾナ記念館の横に何故か見覚えのある潜水艦が係留展示されていました。資料を見るとその潜水艦の名前があり、それが対馬丸を沈めた潜水艦だということに思い当たりました。
日本の真珠湾攻撃。それにリベンジするために対馬丸を沈めるなどの大活躍をしてそれを讃えられてパールハーバーに展示されている潜水艦。しかし犠牲になったのは、戦争を始めた当の大人ではなく、無垢に生まれてきた小さな命たち。そのことについて、彼らと難しく話したことを思い出します。
 
もう、こういうことは止めにしないと、我々ホモサピエンス、アホですよね。
 
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2024年8月27日 小倉 葉山

2024年08月27日 | 風の旅人日乗
8月休みなく頑張ったジブンに
デイオフをプレゼントの一日

昨夜は小倉に泊まって
いつもの焼き鳥八ちゃんで
いつもの仲間と遅くまで飲み会

今朝は父の墓参りと
八阪神社にお参りしたあと
レンタカーで宗像大社へ
 


昼は芦屋のマリンテラスで
イカをいただき
 


小倉に戻って

昨夜も一緒に飲んだ
高校同級生の病院に寄って
あれこれ検査してもらってから
北九州空港へ

ここのところお約束のように遅れる
地方発羽田行きの飛行機

羽田空港はすでに
定常的に麻痺しているのだろう

この日の飛行機も
北九州空港離陸がずいぶん遅れた

午後8時ごろ
8日ぶりに関東に帰った

2024年8月26日 天草 熊本 小倉

2024年08月26日 | 風の旅人日乗

台風対策を施してから天草を出て
熊本に向かう

熊本駅中のお寿司屋さんで
ランチをいただきながら
今後のスケジュールについての打ち合わせ

熊本駅から新幹線に乗って小倉に行き
父のお墓参り

着替えがなくてセーリングウエアを着っぱなしだったので
ホテルにチェックインした後
無印良品に行ってシャツとパンツを買う

ホテルに戻って
お気に入りの大浴場で汗を流した後

真新しい服に着替えて散歩に出る

暮れなずむ紫川のウッドウォークの階段に座り
コーヒーを飲みながらぼんやりする

銀天街を抜けて焼き鳥ハちゃんに行って
高校時代の悪友2人と夕食

八ちゃんの焼き鳥はいつも抜群で
永遠に食べていたくなる

2人との会話もめっぽう楽しい

いい人生の傍にいてくれて
ありがとう


2024年8月25日九州東方海上 天草

2024年08月25日 | 風の旅人日乗
AISで確認すると
灯火のルールを守っていない
タグボート多数

強い光量の探照灯のような灯火を
付けて航海しているので
舷灯がまったく見えず
どちらを向いて走っているのか
肉眼ではまったく分からない

日本の船の
遵法精神が緩んでいるのか?

上げ潮への転流のタイミングに合わせて
午前7時に早崎瀬戸に入る

10ノットを超える対地スピードで
潮と一緒に有明海に流れ込む

午前9時過ぎ
フィッシャリーナ天草に入港

お疲れ様でした



2024年8月24日 トカラ列島 下甑島西方海上

2024年08月24日 | 風の旅人日乗
北に向かって強く流れる黒潮の上で
日付が変わる

未明に二度
かなりの数のイルカが
伴走してくれる

月明かりに照らされて
ジャンプする者たち多数

明るくなってくると
漁をする海鳥たちがやって来る

漁が好調で満腹なのか
船首で休む者もいる


台風10号の進路が変わって
のんびりしてられなくなった

島に近づいて携帯電波が入るたびに
上甑島に寄る予定を変更して
ダイレクトに天草に向かうことを
提案する

要望が認められて
計画を変更することに決定

ゴミや漁具の漂流物が多いため
上下甑島の西側沖を通過するコースに変更



長い夜航海に備える


2024年8月23日 奄美大島名瀬 トカラ列島

2024年08月23日 | 風の旅人日乗
北北西の風がどんどん強くなる

奄美大島の名瀬に入る

屋久島に向かうには
この北風が
変わるタイミングを名瀬で待とうと思うが

台風10号をぐいぐい西に押しやっている
太平洋高気圧の吹き出しであるから
この北風から逃れるには
かなり西に行くしかない

どうしようかなと思いながら
空いている岸壁に着岸したら
大潮の満潮と その北風による高潮で
岸壁の上まで海面が盛り上がっている

フェンダーが浮いて
船体喫水部が
岸壁の角に直接当たりそうになる

2箇所岸壁を試したが
どちらも同じ

これでは船を留められない

急いで給油だけして岸壁を離れる

滞在わずか1時間で
再び名瀬港を出てメインセールを揚げて
北風に立ち向かう

ポートタックで立ち向かうが
COGは屋久島のさらに東
台風を迎えに行くようなコース

困ったなあと思っていたら
日没前に風が右へと振れてきた

やったぜとスターボードへとタック

COGは
悪石島の南を北北西に通り抜けるコース
黒潮に乗るにも南風のエリアに向かうにも
理想的なコース

イエス!って感じ




2024年8月22日 沖縄

2024年08月22日 | 風の旅人日乗
与那原マリーナ
朝4時 夜明け前
 
月が昇ってきた

午前6時に出航予定

 
次の寄港地は 一応奄美大島の名瀬を予定しているが
奄美大島のあと 実際にどんなコースで天草に向かうか迷っている
もちろん 風向を優先するが
風向をうまく利用しながら 黒潮をいかにポジティブに利用するかも
熟慮したい

 
順風に乗って沖縄本島の東側を北上しながら
実際の風に合わせて作戦を練る

与論島を交わしたところで日没を迎え
遠くに沖永良部島が見えてきた



 

2024年8月15日 葉山 鎌倉

2024年08月15日 | 風の旅人日乗

朝5時20分
葉山を出発して鎌倉へと歩き出す

お盆の終わりに

また帰っていく家族のお墓参り

葉山に戻ってくるまでの

3時間半の鎌倉歩き旅



葉山に戻って朝食後

お客様の艇の台風対策のために
浦賀のヴェラシスマリーナに向かう

浦賀から正午過ぎに葉山に戻り

昼食後はセーリング専門誌Kazi誌の
アメリカズカップ記事原稿に夕方まで取り組む

原稿書きに疲れて

ビールを持って夕方の浜辺に座ると

台風前のいい夕焼け空





2024年8月14日 葉山

2024年08月14日 | 風の旅人日乗

朝5時過ぎ

浜ランの格好をして朝起きて浜に出てみると
海は気持ちよさそうなSUP日和

これは
汗だくになって走っている場合じゃないぞ

すぐに家に帰って浜ラン服を脱ぎ捨て
ライフジャケットを着て水筒を持ち SUPを抱えて浜へと戻り
海に出る



2時間ほど無心にSUPを漕ぐ

最高の時間になった



朝食後

沖縄から熊本までの

お客様のヨットの

復路回航の航海計画を練り始める


2024年8月12日 相模湾 プライベートセーリングレッスン

2024年08月12日 | 風の旅人日乗

予想を少し上回る南風が吹いている

全長8メートルのデイセーラーにとっては 少し波が高い

お客様と相談のうえ 午前中の短時間だけ

艇のフリーボードの限界に近いコンディションでの
セーリングに挑むことにする

結果的には 最高のセーリングになった

お客様もご自分の限界に近いコンディションに
最高度の集中力を持続して
スキルのレベルを1段階上げることに成功した

波しぶきを浴びて最高の気分で陸に戻ると

陸では暑い夏が待っていた





2024年8月11日 葉山

2024年08月11日 | 風の旅人日乗

沖縄までの修理回航往路から数日が過ぎて
日常の生活に戻る

佐島オフショアセーリングスクールへの入校希望者の方と
事前打ち合わせのあと

今月末からバルセロナで始まる第37回アメリカズカップの
セーリング専門誌の特集記事の原稿を書き始める

少し涼しくなった夕方
ビールと折り畳み椅子を持って浜に出て、夕焼けを楽しむ




 


2024年8月7日 与那原マリーナ 那覇空港 羽田 都内某所

2024年08月08日 | 風の旅人日乗
朝日が水平線から頭を出す前
初めて見る光景に出会う


旭日旗は
架空の光景をデザインしたのではなく
実際の太陽光が作る光景を
デザイン化したのだと
初めて知った

初めて入港する
与那原マリーナと連絡を取って
指定された時間に合わせて
クレーンのスリットへと進入する

石田ハーバーマスターの
クレーン操作によって
スムーズにベルトが掛かって上架


修理業者さんと
細かい作業打ち合わせをして

マリーナ内で
イタリアの高級セーリング艇
アイス52の修理をしていた古谷さんと
少し話をしてから

地元沖縄豊見城出身の
若い修理業者さんに案内された
与那原マリーナ至近の沖縄料理屋さんで
美味しいソーキそばの昼食

宜野湾マリーナに行く彼に
那覇まで送ってもらい
旭橋からゆいレールに乗って
那覇空港へ

夏休みで賑やかな空港のロビーで
パソコンを開いて
原稿仕事

そじ坊で軽く一人晩酌してから
飛行機に乗る


真新しいボーイング787の
ツルツルピカピカの翼越しに
チービシが見える

またきっと
この海を
仲間たちと一緒に
俺たちのサバニ〈うみすばる〉で
セーリングする

関東地方に留まった
巨大な雷雲の隙間を縫うように
羽田空港に着陸したものの
着陸直後に再び雷雲に囲まれて
誘導路から動けなくなり
ゲートに着いたのは終電後

都内某所に泊まることになる

それにしてもあの着陸は
いろんな要素を
考えに入れなければならない中での
大変難しい判断だったと思われ

航空機の運行に携わる人たちが
すごいばかりの
緊張と責任に晒されていることを
船の運行に携わる者の端くれとして
改めて思った





2024年8月3日 屋久島

2024年08月03日 | 風の旅人日乗
朝8時を過ぎて
雲に隠れた屋久島を
やっと視認。

一湊にアプローチするさなか

前方上空に
竜巻の卵発見


シドニーホバートレースでよく見るヤツだ

やばいかなぁ
一旦退避しようかなぁ
と迷ううちに
竜巻卵は屋久島の山の上へと登っていく



大丈夫だと判断して
一湊に入港



何か不思議なパワーを感じる島で
半日の休息日

濃い緑の山と
濃いブルーの海の島で

明日からの航海計画を練り直す

若い海亀が何頭か港の中を泳いでいる