朝3時起床
仕事始める
さっきまで
とても面白い夢を見ていたので
忘れないうちに
日記に書いておこうと思う
なぜかコロナ禍の中
普通にニュージーランドに行って
いつものように
チームニュージーランドの
コンパウンドに遊びに行ったら
ディーン・バーカーが来て
早く着替えろと
ぼくにバウマンの用意をさせる
バウマン用のハーネスに付ける
スパークラフト社製のスパイキの
ラニヤードの長さを
ディーンがえらく気にして調節してくれる
セーリングの用意をして
ジョーイとかジェロとかディックとかも
いつの間にか出てきて
早くしろよと急かせる
おれ バウマンかよ
とか思いながらも
昔取った杵柄
昔打った篠塚
いっちょうやったるぜ
なんて気分になってくる
みんなで乗るヨットは
なんだか多分MRX-34
©︎ Farr Yachts Design
このヨットのスピンポール
けっこう重いんだよね
なんてことを思いながら
いつの間にか移動していた
ウエストヘブンマリーナの
ロイヤルニュージーランドスコードロン前の
桟橋から出航する
ってところで
目覚まし時計のアラームが鳴った
レースまでやってみたかったなあ
私がディーンに初めて会ったのは1996年のハワイのケンウッドカップ。私はニュージーランドチームにチャーターされたゼネットのスキッパー、ディーンは別の船のヘルムスマン。まだレーザーを卒業したばかりの、ひょろひょろとした青年でした。
1998年のケンウッドでは私は日本チームのからすのスキッパー、ディーンはニュージーランドにチャーターされた故・松田オーナーのビッグアップルのスキッパーでした。当時から静かに、気弱げに、控えめに話す素敵な青年でした。ディーンの実家は衣料販売店を全国的に展開する企業なのですが、いかにもそこのお坊ちゃん、という感じでした。
その青年が、2年後のアメリカズカップでニュージーランドのヘルムスマンとして鮮烈デビュー。若い頃海外レースの遠征費にも困っていたラッセル・クーツを援助する目的もあって、ディーンのお父さんがラッセルに、ちびっこディーンの個人コーチをお願いしていたことも、今でもディーンがラッセルから可愛がられることにもつながっているとは思います。
ラッセルと言えば、ラッセルがマッチレースで活躍し始めた頃、私はノースセイルニュージーランドでセールデザインの勉強をしていて、ニュージーランドヨットスコードロンの艇でラッセルの練習相手のクルーを務めたりもしていました。その、さんざん乗っていた艇が、夢に出てきたMRXという34フィート艇です。
ディーンとはその後仕事でも繋がりができて、私がチームニュージーランドのベースキャンプを訪れるたびに、秘密の防衛艇だったり挑戦艇だったりを見せてくれ、細かい部分を説明してくれました。
話は止まらなくなるので、この辺りでやめておきますが、3月5日に発売のKazi誌で、私はディーンのついて、自分のことは棚に上げて、かなり言いづらいことを書いてしまいました。でもその言葉の裏で、ディーンの再起を願っています。
おそらく今回の敗退で、ディーンはニューヨークヨットクラブの重鎮メンバーからの厳しい意見に晒されると思います。心を強くして、頑張って欲しいと願っています。