ポリネシア航海学会のパルミラ環礁航海(最終回)

2009年12月30日 | 風の旅人日乗
【photo copyright/Samuel Monaghan】

あれから半年たった今でも、あの、奇跡にしか思えない航海術を自分ができるようになる自信は湧いてこない。

しかし、その先にあるものとしてナイノアが口にした、海と船を通して子どもたちを育てる学校には、非常に興味がある。
なのに、それに携わるためには太平洋の伝統航海術を身に付けていなければならないとナイノアが言う。
であれば、やはり、伝統航海術のほうから始めなければいけないのだろう。

実は、ぼくには、矛盾する言い方かもしれないが、航海士として歳下の先輩がいる。
年齢はぼくより遥かに歳下だが、航海士としての知識も能力も実績も、
ぼくより上の友人だ。
元・航海訓練所の練習帆船の一等航海士で、現在は富山高専(10月1日付けで富山商船高専から改名)で准教授を務める奥 知樹氏。

彼は太平洋の伝統航海術の研究を独自で進めているだけでなく、2009年だけでもすでに何度か、〈ホクレア〉に乗って訓練も受けている。
さらに、セーリングカヌーによる航海カリキュラムを取り入れているカウアイ島の短期大学と連携して、カウアイ島と富山高専の学生がお互いに交流して学ぶ仕組みを模索し、それを形にしつつある。

その奥氏が、「いくらでも応援しますから、頑張ってください」、と、ぼくの背中を押してくれている。
このことを相談した別の何人かの友人たちも、やはり心から力づけてくれる。

悩んで、悩んで、そうしてやっと、
その時その時に、本来の仕事に支障をきたさない範囲で、できることから、一つ一つ行動していく決心をした。
そこで、まずは、この9月に、時間を作ってハワイ島に行き、〈ホクレア〉のハワイ島-オアフ島間のトレーニング航海に参加した。



その航海は、星の航海師になるための訓練のまだまだ手前の、〈ホクレア〉のクルーとしての基礎の基礎を学ぶ航海だったが、
しかし、これが自分にとって、
ハワイと日本の子どもたちをつなぐ、航海を核にした学校に携わるという道筋の、
最初の一歩になったことを願っている。


ポリネシア航海学会のパルミラ環礁航海(その7)

2009年12月18日 | 風の旅人日乗

パルミラ環礁から、〈ホクレア〉と〈カマヘレ〉の2隻がホノルルに戻った翌日、
それはぼくが日本に帰国する前の日でもあったが、
ポリネシア航海学会のリーダーであるナイノア・トンプソン氏の母上のご自宅での夕食に招待された。
その夕食の前に、ナイノアが少し話したいことがあるという。

約束の時間に、ハワイカイに近いトンプソン家に行くと、
そこには、ホノルル短期大学の講師でもあり、ポリネシア航海学会の若いナビゲーターでもあるカイウラニ・マーフィーと、
その短期大学の総務担当者も顔を揃えていた。
少し遅れてブルース・ブランケンフェルド一家もやってきた。



その席で、ナイノアはぼくに、驚くような話を始めた。
彼ら、ポリネシア航海学会の伝統航海術をこれから学びなさい、と言う。
そして、それを身に付けた上で、日本の子どもたちも入学することのできる、航海を核にした教育を目指す学校をハワイに作ろう、と言う。
その学校で、海や航海から学んだことを通じて地球や人類の未来を考えることができる子どもたちを育てよう、と言う。



実は、現在計画されている〈ホクレア〉の世界一周航海でも、
ぼくは〈ホクレア〉が日本に来たときと同じように、
エスコート艇に乗ってサポートするという立場で参加できれば嬉しいな、と思っていた。

とは言え、日本人である自分がしゃしゃり出ることができるのはそこまでで、
〈ホクレア〉そのものに乗ることなど願ってはいけないだと思っていたし、
ましてや、彼らの伝統航海術を身に付けようとすることなど、
自分のような年齢の人間が考えることすらいけないことだと思っていた。
とりわけ、ブルースの奇跡のような航海術を見た直後なだけに、
一層その思いを強くしていたところだった。



〈ホクレア〉や伝統航海術に対してはそういうスタンスでいたものだから、
この話に、ぼくは非常に混乱した。

夕食が、ほとんど喉を通らなかった。
ナイノアもいっさい食べ物を口にせず、
食事の間中ずっと、彼の考えをぼくに話し続けた。
単なる思い付きを口にしているわけではない、君ならできると思うから話しているのだ、と言う。
しかしぼくには、どう考えても、考えれば考えるほど、自分には無理なことのように思えてならなかった。



食事が終わり、デザートも終わり、
ビールの残りを手にして、トンプソン家のテラスのベンチにぼんやり座っていると、
カイウラニが、肩にポンッと手を置いて、「多分、できるようになるよ」と一言、声をかけてくれてから帰って行った。
(続く)

ポリネシア航海学会のパルミラ環礁航海(その6)

2009年12月17日 | 風の旅人日乗
【カマヘレでは、ベテランクルーのバディーが怪我から回復した。デッキに出てバケツで海水を汲み上げ、久しぶりのシャワーを楽しんでいる。photo copyright/Samuel Monaghan】


ホクレアがセーリングを始めた2日後から、風向は東北東から北東に振れた。

【photo copyright/Samuel Monaghan】


このため、〈ホクレア〉の上り性能(風速にもよるが、風向に対して67度)では、
ハワイ島の東側(ヒロがある側)を目指すことが難しくなった。

目いっぱい風上に切り上がって走っている〈ホクレア〉に付いて行く〈カマヘレ〉のコンパスコースを見ながら、
『ブルースはこのことを分かっているのかな・・・』、と思っていたその矢先、

【photo copyright/Samuel Monaghan】

ブルースから、
「このままではヒロには上り切れそうもないので、
ハワイ島の東岸を狙うことはあきらめて、
今後はサウスポイント(ハワイ島西岸にある、ハワイ島の最南端)を目指すことにする」、
という連絡がVHFで入る。

〈カマヘレ〉に乗っている我々と同じように、ブルースもGPSのモニターを見ているかのような会話だが、
ブルースが見ているのは、星と太陽とうねりだけで、
それらの情報だけで、
我々〈カマヘレ〉の乗員がGPSから得ているのと同じ位置情報を得ているのだ。
もちろん、数百マイル先のハワイ島が肉眼で見えるわけもない。

この、伝統航海術を次世代に学ばせる最初のトレーニング航海は、
4月3日午後2時半、
〈ホクレア〉のクルーがハワイ島のサウスポイントの稜線をランドフォールした時点で完遂した。
パルミラ環礁を出航して11日目、
〈ホクレア〉がセーリングを始めてから7日目のことだった。


【photo copyright/Samuel Monaghan】


【このパルミラ環礁航海中ずっと、〈カマヘレ〉のクルーたちに最高の食事を作り続けてくれた、サムです。カメラマンとしても大活躍でした。ホノルル市内ワイキキのデューティーフリーショッパーズの、無料バスが発着している場所のすぐ前に、「サムズ・キッチン」というテイクアウト中心の日本食食堂を出店し、大変な人気になっています】


【photo copyright/Samuel Monaghan】

それから2日かけて、〈ホクレア〉と〈カマヘレ〉の2隻は、
オアフ島ホノルル市の、サンドアイランドにあるポリネシア航海学会のベースキャンプに戻った。
ナイノアが、もう1隻のサポート艇、〈イカイカ〉に乗って港の外まで出迎えに来てくれた。
(続く)

海のゼロエミッションへの挑戦、Wind Challenger計画

2009年12月15日 | 風の旅人日乗
                       【photo copyright/Ken Ando】


風のエネルギーだけで船舶を運行するという夢の実現に向けて、本格的な研究がスタートしている。

東京大学JIPプロジェクトWind Challernger計画。

この計画は、分かりやすく言うと、
二酸化炭素排出量ゼロの、現代技術を取り込んだ新時代の帆船とも言える次世代風力推進船を開発することを目標としている。
先週、その計画推進チームが主催するミニシンポジウムが
東京大学本郷キャンパスで開催された。

このシンポジウムの開催趣旨は、海運造船における新技術開発戦略の研究と人材の創出目指すとともに産学連携の輪を拡げていくこと。
その開催趣旨のもと、風を100%利用する大型の風力推進船を実現する可能性を
さまざまな角度から探っていこうというシンポジウムだから、
セーリングファンにとって面白くないわけがない。

「もう日本には未来なんてない、とでも言いたいのか!」と言いたくなるようなニュースばかりが好んで巷に流され、
それらの話題に触れると心の中や背中が寒々としてきて困っていたのだけれど、
このシンポジウムの会場は未来への希望に溢れていて、
冷え切った戸外から帰ってきたあと、温かくてちょっと甘いカフェオレを飲んだときのように、心と体がほんわかと温められた。

大好きな海と風と船が、人間の未来を明るく開いていく可能性とその現実的な方法論について
参加者たちみんなが熱く意見を述べ合っているのだから、そういう場所の居心地が悪いわけがないのだ。
海には、セーリングには、未来があるのだ、と確信しましたね。

そのシンポジウムではワタクシも、最先端の外洋ヨットの現状と技術について、
一般の船舶関係の研究者や技術者の方々、そして今まさに最先端の船舶や海運について勉強中の学生さんたちの前で説明する機会をいただいた。


【copyright/Volvo ocean Race】


【photo copyright/Rick Tomlonson/Volvo ocean Race】


【photo copyright/Banqui Populaire】


【photo copyright/BMW Oracle racing】

セーリングの実際を、一人でも多くの人に知ってもらいたいと一生懸命やったつもりだけど、熱意は伝わって行っただろうか…。

ま、それはともかく、そのほかのパネリストの皆さんたちのお話がまた、
すごく面白かった。
シンポジウムの司会進行を担当した東大のU先生、カーボン素材の未来を語ったKG社長、セーリングを科学的に分析する方法を紹介したKMセールデザイナーとは、
2000年のアメリカズカップ挑戦のときの、毎朝毎夕のチームミーティング以来10年振りくらいで椅子を並べて座った。
アメリカズカップのチームメイトだった人間たちが、
この、風で走る未来の大型船舶について話し合う場で再び一緒に揃ったことも、
なんとはなしに、うれしいことだったなあ。

そしてさらには隣の椅子には、一応ワタクシの大学の後輩だが、練習帆船海王丸の偉大なA船長も座っていて、大学の入寮コンパのときには紅顔可憐の美少年だったA船長のことなど、フト思い出して楽しんだりもした。


【photo copyright/Ken Ando】


臭い煙も出さず、うるさいエンジン音もしない未来型帆船が、物流の主役になって世界の海を走る光景が、近い将来に必ず現実のものになることを祈りたい。
そうなればきっと、そういう船に乗りたくなる若者たちも増えることだろう。




シンポジウムの後は、夕方から丸の内で、ヨーロッパ諸国の観光局が連合で主催するメディアデイ・パーティー。
昨年と今年に世に出た、ヨーロッパの観光業に最も貢献したウエブサイト・雑誌記事・TV番組を表彰するパーティーだ。



南トルコのエーゲ海チャーターヨットクルーズを題材に作った雑誌企画が
ありがたいことにノミネートされていたため、貴重な御招待状をいただいたのだった。
ヨーロッパ各国のワインと料理がずらりと並んでいるのが魅力のパーティーである。

結局グランプリはもらえなかったけれど、グランプリを受賞したのは素晴らしい作品ばかりで、
ノミネートされただけでもありがたいことだと分かった。








あの、「兼高かおる世界の旅」の兼高かおるさんが審査員の一人として会場にいらっしゃったこともうれしかった。
お幾つになられたのかは知らないが、まだまだとてもお美しいお姿でした。
TV番組部門で受賞した「旅サラダ」の旅人・岩崎宏美さんも、パーティー会場でお見掛けした。

海で働けて、しかも仕事で海外にも行けるからという理由で船乗りを目指して商船大学に進もうと子どもの頃に考えたのは、
「兼高かおる世界の旅」と加山雄三さん(の映画)の影響だった。
そうして、仕事としてセーリングの道に進むことを最終決心することになった大学4年の東京-九州おんぼろヨット航海のとき、
最後の寄港地になった瀬戸内海の広島の小さな港の食堂で、
予算の残りを使い切った食事を済ませて席を立とうとしていたら、
その席の前に置いてあったテレビの中で、
「あなたお願いよー、席を立たないでー」って、岩崎さんが歌っていたんだったよなあ。

なんだか、自分の中の過去と未来が一つに繋がったような、不思議な一日だった。



ポリネシア航海学会のパルミラ環礁航海(その5)

2009年12月14日 | 風の旅人日乗
                  【photo copyright/Samuel Monaghan】


ここまで、〈ホクレア〉を曳航するために〈ホクレア〉の前を走っていた〈カマヘレ〉は、
ここからは、〈ホクレア〉の斜め後ろの位置に付いて、
〈ホクレア〉に何かトラブルや必要としているものがない限り、〈ホクレア〉の前に出ることはない。
ここからの針路は〈ホクレア〉が決めるのであり、
例えそれがハワイ島と正反対の方向であっても、〈カマヘレ〉は黙ってそれに付いていく。

〈カマヘレ〉から離れて曳航索を取り込み、2枚のセールを揚げた〈ホクレア〉は、
大きなうねりの中を、ある方向にピタリと針路を定めてセーリングを始めた。
〈カマヘレ〉のオートパイロットを操作して、
〈ホクレア〉の斜め後ろを、〈ホクレア〉と並行して走るコースに乗せる。
それからGPSのモニターに目を移し、画面の縮尺を小さくしていくと、
〈カマヘレ〉の船首が向いている方向を示す点線の先が、800海里も遠くにあるハワイ島の東側、ヒロ沖に向かって延びていた。
この日2度目の、鳥肌が立った。


【photo copyright/Samuel Monaghan】

神業としか思えなかった。
陸上ではビールも飲み、冗談も言い、2人の子どもの優しいパパである普通の人間のブルース・フランケンフェルドには、
800海里先のハワイ島が見えているのだ。
本の中でしか知らなかった奇跡のような航海術を、この目で見ることになった。

〈ホクレア〉はパルミラ環礁を出る前に、
ポリネシア伝統型のクラブクロウ・セール(蟹の爪のような形の、セール上部のエリアが大きいセール)をマストからはずし、
一般的なヨットのような三角形のセールに換えている。

クラブクロウ・セールは、どちらかというとダウンウインド用のセールで、
そして取り扱いがとても難しいセールなのだという。


【copyright/Polynesian Voyaging Society】


【copyright/Polynesian Voyaging Society】


それに対して、トライアングルセールと呼ばれているセールは、
よりオールラウンドで扱いやすく、風に切り上がる性能もいいのだという。

15ノットほどの横風で〈ホクレア〉の艇速は7ノットを越える。
ハワイの緯度に近づいて貿易風の風速が27ノットを越えるようになると、
強力なエンジンを載せた45ftスループの〈カマヘレ〉でもまったく追いつかなくなる。


【photo copyright/Samuel Monaghan】

並走できなくなるので分からないが、恐らく最高10ノット前後のスピードが出ているのだと思う。
その〈ホクレア〉でも、ハワイ島のセーリングカヌー〈マカリイ〉や、
新しくハワイ島で造られて2007年にミクロネシアのサタワル島にプレゼントされた〈アリンガノマイス〉のスピードには、
まったく敵わないのだという。
(続く)

ポリネシア航海学会のパルミラ環礁航海(その4)

2009年12月08日 | 風の旅人日乗
【今回のパルミラ環礁航海で、サポート艇カマヘレのキャプテンを務めたマイク・カニンガム。アイリッシュ・マイクのニックネームでホクレアのクルーたちの信頼を集める。ボストン出身。photo copyright/Samuel Monaghan】


パルミラ環礁を出航した翌日からずっと、悪天候が続いた。
太陽はなかなか顔を出さない。
数時間おきにスコール雲が通過して
突風(スコール)と共に激しい雨(シャワー)が襲ってくる。


【設計上の問題なのか、カマヘレの揺れは激しい。その揺れで、ホクレアのベテランクルーであるバディーが足と腰に怪我をして歩けなくなった。激しい痛みだったに違いない。それを黙って我慢し続けた。回復するまでの数日間、ほとんど食事に手をつけなかった。カマヘレのトイレは壊れていて、小はペットボトルを尿瓶代わりに使えばなんとかなるが、大はデッキに出て船尾まで行かなければならない。バディーは、デッキに出る階段を自力で上がれなかったのだ。クルーに迷惑をかけることを嫌っての断食だった。photo copyright/Samuel Monaghan】


サポート艇のカマヘレのコクピットはパイロットハウスに囲われていて雨を凌ぐことができるが、
ホクレアのデッキにいるクルーたちはその激しい雨にさらされている。
北緯5,6度の中央太平洋の海面とその上空は、不穏なエネルギーに満ち満ちている。

ここは、そのエネルギーがハリケーンや強い低気圧を誕生させる海なのだ。
魚も釣れず、鳥たちの姿も見えない。
東に向かってひた走るカマヘレと、それに曳航されたホクレアだけが、この陰鬱な海に浮かんでいる。


【パルミラ環礁の珊瑚で怪我をしたサムの足。珊瑚の海でできた傷は治癒しにくい。やっと乾いてきたその傷口は、パルミラ環礁の形にそっくり。ホラー小説に使えるような、ホントの話。パルミラ環礁ではかつて有名な殺人事件もあったそうな。photo copyright/Samuel Monaghan】


パルミラ環礁を出航してから丸4日近く経った3月27日。未明。

空には相変わらず雲が多いものの、時折雲間から星も見える。
〈ホクレア〉を曳航する〈カマヘレ〉のGPSモニターが、
あと2時間ほどでハワイ島に向けての変針点に到達することを表示している。
パルミラ環礁出航前のクルーミーティングでブルースが指示した、
北緯6度、西経154度だ。

〈カマヘレ〉では、夜が明けるのを待ってそれをVHFで〈ホクレア〉に伝えることにしていた。
しかし、曳航索に曳かれて150メートルほど後ろにいる〈ホクレア〉を見ると、
夜明け前の薄い闇空の中を、クルーたちのヘッドランプと思われる赤い明かりが、忙しく動いている。

セーリングを始める準備をしているのだ。

ご存知の方もいるかと思うが、
ポリネシア航海学会のナビゲーターたちが身に付けている航海術は、
太平洋に伝わる伝統航海術に、近代天文学の知識を補足して補強している。

近代天文学の知識が加えられているとは言え、
時計はもちろん一切の航海用具を使わず、
天体の動きや海洋のうねりなどの、
自然現象だけを頼りにして大洋を渡るという点は、
古代から太平洋に伝わる伝統航海術と、まったく同じだ。

このトレーニング航海でも、
〈ホクレア〉にはもちろんGPSも六分儀も何も積まれていないし、
出航前にはクルーたちが腕にはめている時計も、
箱の中に入れられて封印されている。

それなのに〈ホクレア〉は、
曳航索を離す地点が近づいていることを知っていて、
セーリングの準備を始めている。

ナビゲーターのブルースは、この4日間、時折にしか見えない星や太陽から、
〈ホクレア〉の緯度を把握し、
曳航される〈ホクレア〉の推測スピードと、北赤道海流の流速の事前調査だけで、
〈ホクレア〉の経度を割り出しているらしい。

本や話では聞いていたが、
彼らの航海術を現実のものとして初めて目の当たりにして、
鳥肌が立った。

ハワイ時間午前6時。
春分の日から1週間後のこの日、真東よりも少し北側の水平線から、
雲の切れ間を縫って太陽が顔を出す。
それとほとんどタイミングを合わせるようにして、
曳航索をレッコせよ(離せ)との指示が〈ホクレア〉から出され、
〈カマヘレ〉のスターンのビットから曳航索を外す。

GPSのモニターを見ると、
その位置はまさしく、北緯6度、西経154度の海上だった。


【photo copyright/Samuel Monaghan】
(つづく)

ポリネシア航海学会のパルミラ環礁航海(その3)

2009年12月05日 | 風の旅人日乗
【photo copyright/Samuel Monaghan】

3月23日月曜日正午、〈カマヘレ〉に曳航された〈ホクレア〉は、ホノルルへの帰りの航海に出航した。


礁湖から外洋に抜ける狭い水路を通ると、無数の海鳥たちが舞い上がり、2隻の周りを飛び交う。


【photo copyright/Samuel Monaghan】


【photo copyright/Samuel Monaghan】


外海に出ると、東北東の風が吹いていた。ここは北緯5度52分。空に浮かんでいる雲の形は、貿易風帯の典型的な雲の形とは少し違う。この東北東風は、貿易風だろうか、それとも違う系統の風だろうか。


【photo copyright/Samuel Monaghan】


【photo copyright/Samuel Monaghan】


ラグーンの水路を抜けるまで短くしていた曳航索を、うねりの大きい外洋での曳航に備えて長く延ばす作業が終わると、〈ホクレア〉のナビゲーターを務めるブルース・ブランケンフェルドからVHFで、コースの指示が来た。
「針路、トゥルーイーストへ」。

この指示は、出航前のクルーミーティングでの打ち合わせ通りだった。


【photo copyright/Samuel Monaghan】


ベテラン・ナビゲーターであるブルースは、パルミラ環礁からの帰りの航海で、
将来の世界一周航海の最後のレグになるタヒチからハワイ島までの航海を模した訓練を行なうことを目論んでいた。
だから、パルミラ環礁を出たら、まず、タヒチ-ハワイ島間の直線コースのラインに到達するまで東にひた走り、
そこからハワイ島に向かうコースを計画していたのだ。

天気図や気象予報によると、この先しばらくは東北東の風が続くことが予想されたため、
北緯6度、西経154度に定めた変針点までの約480海里を、〈カマヘレ〉が〈ホクレア〉をエンジンで東に向かって曳航する。
そしてそこから〈ホクレア〉はセーリングで約800海里先のハワイ島東海岸のヒロ沖を目指す、
というのが、パルミラ環礁でのクルーミーティングで示されたブルースの航海プランだった。

パルミラ環礁を出て以来、晴れていたのは出航した日の夕方までで、
それ以降は雲が多い天気になり、スコール(突風)とシャワー(激しい雨)をもたらすスコール雲が断続的に襲来した。

【photo copyright/Samuel Monaghan】


北緯5から6度という緯度帯は、フィリピン沖の西太平洋であれば台風がそこで誕生する、大気が不安定な緯度帯だ。
ここ中央太平洋でも、それは同じだった。

【photo copyright/Samuel Monaghan】

(続く)

箱根・芦ノ湖

2009年12月01日 | 風の旅人日乗
救助犬訓練士協会という団体がある。
今年の夏、箱根の芦ノ湖で、水難救助訓練にアドバイスさせて頂くという仕事の繋がりで、御縁ができた。

一昨日の日曜日、その団体が主催する救助犬資格試験の様子を見学させてもらいに、箱根湯本の、閉校になった中学校まで出かけた。

晩秋の、いつもは寂しいはずの中学校跡地が、
45頭の救助犬や救助犬候補犬とその飼い主の方たちの熱気で包まれていた。
すぐ横には箱根街道旧道が走り、紅葉見物の車で大渋滞していたが、
そこだけは、なんだかキリリと引き締まった真剣モード。

スマトラの地震の際にも、生き埋めになった人たちを救助するために出動した犬たちや訓練士たちも、試験を受けていた。
実際の救助活動出動には国や県から経費の援助も出るが、普段の訓練やこういった試験にかかる費用は、すべて会員の方たちの持ち出し。
人を助けるための活動を手弁当でやっているこういう人たちを前にすると、
本当に頭が下がる。

本来の仕事とは別に、社会の役に立つために、人知れずこういった地道な活動をしている人たち(と犬たち)がいる。
そして、このような活動に場所を提供するなどの協力を惜しまない、箱根町のような素敵な地方自治体もある。
箱根は、温泉と紅葉と駅伝だけの町ではなかったんだなあ。