お葬式の日に、
かつて日高さんの経営する会社で、
日高さんの部下だった
小早川さんから聞いたお話を、
ここに書き留めておこうと思う。
最後に日高さんを看取ったのも、
小早川さんだ。
日高さんが、
海とセーリングを愛していた人でもあった
という話を
小早川さんから聞いた斎場の人の計らいで、
日高さんを乗せたクルマは、
鎌倉大船の病院から海回りで、
逗子の斎場まで向かったらしい。
腰越から海に出て、
稲村、由比ケ浜、材木座を通って、
逗子の渚橋までの、
あの海岸通り。
その日、
江の島も、伊豆半島も、
伊豆大島も、三浦半島も、
相模湾岸がきれいに見渡せて、
小早川さんはクルマの窓ガラスを開けて
その景色を日高さんに見せてあげたらしい。
そのときに海風も、
目を閉じた日高さんの顔と身体に
吹き込んだらしい。
話は前後するけど、
小早川さんの話によると、
昏睡状態に陥った日高さんは、
うわごとでコンパスコースを指示していたという。
日高さんはどんな夢を見ていたのかな。
やっぱり、
セーリングレースをしていたんだろうな。
日高さんは、オリンピック代表選手だったし、
次世代の日本人セーラーを育てたし、
日本のブラインドセーリングの普及にも努めた。
でも最後の数年は、
身体の不調で苦しむ世の人たちを助けるのだと
オステオパシーや整体師の道を歩き始めた。
その道に進み始めてからの日高さんは、
御自身に関するセーリングの話は、
意識的にしないようにしていた。
セーラーから生まれ変わったことを
意識するかのように、
名前も、日高茂樹から日高弘喜に変えていた。
年賀状に書かれる御自身の名前も、
何年か前からこの名前になった。
その名前で今年もいただいた年賀状を
読み返してみると、
終わりのないこの道の精進を続けます、
西村君も自分の道に精進して下さい、
とある。
心に刻みつける。
日高さんが
この道を目指そうと決心したきっかけは、
診療台の上でストレッチしてもらいながら
日高さんから直接伺った。
でも、できれば、
日高さんがその道に精進しているときの
指導者だった人たちから、
生半可ではなかったはずの
そのときの日高さんの頑張りの様子も
お葬式の席で伺いたかったのは、
ぼくだけではなかったと思う。
かつて日高さんの経営する会社で、
日高さんの部下だった
小早川さんから聞いたお話を、
ここに書き留めておこうと思う。
最後に日高さんを看取ったのも、
小早川さんだ。
日高さんが、
海とセーリングを愛していた人でもあった
という話を
小早川さんから聞いた斎場の人の計らいで、
日高さんを乗せたクルマは、
鎌倉大船の病院から海回りで、
逗子の斎場まで向かったらしい。
腰越から海に出て、
稲村、由比ケ浜、材木座を通って、
逗子の渚橋までの、
あの海岸通り。
その日、
江の島も、伊豆半島も、
伊豆大島も、三浦半島も、
相模湾岸がきれいに見渡せて、
小早川さんはクルマの窓ガラスを開けて
その景色を日高さんに見せてあげたらしい。
そのときに海風も、
目を閉じた日高さんの顔と身体に
吹き込んだらしい。
話は前後するけど、
小早川さんの話によると、
昏睡状態に陥った日高さんは、
うわごとでコンパスコースを指示していたという。
日高さんはどんな夢を見ていたのかな。
やっぱり、
セーリングレースをしていたんだろうな。
日高さんは、オリンピック代表選手だったし、
次世代の日本人セーラーを育てたし、
日本のブラインドセーリングの普及にも努めた。
でも最後の数年は、
身体の不調で苦しむ世の人たちを助けるのだと
オステオパシーや整体師の道を歩き始めた。
その道に進み始めてからの日高さんは、
御自身に関するセーリングの話は、
意識的にしないようにしていた。
セーラーから生まれ変わったことを
意識するかのように、
名前も、日高茂樹から日高弘喜に変えていた。
年賀状に書かれる御自身の名前も、
何年か前からこの名前になった。
その名前で今年もいただいた年賀状を
読み返してみると、
終わりのないこの道の精進を続けます、
西村君も自分の道に精進して下さい、
とある。
心に刻みつける。
日高さんが
この道を目指そうと決心したきっかけは、
診療台の上でストレッチしてもらいながら
日高さんから直接伺った。
でも、できれば、
日高さんがその道に精進しているときの
指導者だった人たちから、
生半可ではなかったはずの
そのときの日高さんの頑張りの様子も
お葬式の席で伺いたかったのは、
ぼくだけではなかったと思う。