9月24日 江戸を歩く

2008年09月30日 | 風の旅人日乗
品川で、東京海洋大のT准教授と、
チームニシムラの来年の活動案についての打ち合わせを兼ねた昼ごはんを食べた後、
豊洲のららぽーとにあるユナイテッドシネマへ。

夕方の、次の打ち合わせまでの間に、
ジョディー・フォスターの『幸せの1ページ』を観ようと思っていたのだが、
残念無念、上映時間が合わず。
天気のいい東京で、中途半端な時間が空いてしまった。

ちょっと考えた後、
豊洲から門前仲町を経由して、
蔵前、両国を通って浅草までの散歩を楽しむことにする。

豊洲から都立三商の横を通る道は、学生時代、大学の寮から晴海まで、
往復のジョギングをしていた道だ。
懐かしい母校・東京商船大学の手前を右に折れて、牡丹町へ抜ける。

深川八幡本祭りで牡丹町2・3丁目の神輿を担ぎ、
町中の人たちと祭りを堪能したのは、
わずか1ヶ月ほど前のことなのに、
町は秋の陽射しの中で静まり返っている。

去年の夏、ナイノア・トンプソンが将来のホクレアの航海計画を語ったおでん屋千松の前を通り、
永代通りを渡って富岡八幡宮へ。

最近山本一力さんのあるエッセイを読んでから気になっていた、
富岡八幡宮の本殿へと上る石段の両サイドを守る狛犬の台座の文字をチェックする。

『享保十二年、海辺大工町(うみべだいくちょう)』
わー、本当だ。
山本一力さんの文章にあった通りの文字が、くっきりとした鋭角で深く彫られていた。
学生時代以来、今まで何回もこの狛犬の横を通ったが、まったく気が付かなかった。

江戸時代の享保十二年は、西暦でいえば1727年に当たるらしい。
281年前の江戸で掘られた文字がここにある。

とは言え、300年近くも、日にさらされ、雨にさらされ、
おそらく時々野良犬の立ちションにもさらされてきたとは思えないような、
シャープな彫り文字が、ちょっと気になる。
 しかし、もし仮に、享保十二年以降の後年、
台座だけは作り変えられたかも知れないとしても、
少なくとも狛犬だけは当時のものであるはず。

狛犬を見ながら、空想が江戸時代に飛ぶ。

もし、洋式の、しかもウォシュレット付トイレが設えられた長屋に特別に住めるのであれば、
1年ほど江戸時代の江戸に町民として住んでみたい、と夢見ている。
故・杉浦日向子さんのタイムマシンSFエッセイ『江戸アルキ帖』の世界に、
本気で憧れたものだ。

富岡八幡宮でお参りをしてから冬木町へ抜け、
亀久橋を使って仙台掘川を渡り、左へ折れて隅田川の方向に歩く。

清澄庭園の脇を通り、清澄公園の中を突っ切って、
小名木川に架かる万年橋へ向かう。

もともと清澄庭園と清澄公園は、
元禄時代に江戸で大成功を収めた紀伊国屋文左衛門の
大別邸の敷地だった所だそうだが、
文左衛門存命中の享保年間にはすでに、
下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷が建てられていたらしい。

その清澄公園を抜けた辺りが、
281年前の享保十二年に、
現在の富岡八幡宮の狛犬を奉納した人たちが住んでいた、かつての海辺大工町だ。
同じ地べたの上を、元禄・享保・現代が、時空を超えて忙しく行き交う。

それにしても、海辺大工町。
渋い町名だ。
徳川幕府が開闢する前は、ただの河口の草っ原だったところに
夢の新都市・お江戸でござるが突如出現した。
そのまま、当時の世界最大規模の都会へと発展していった江戸の普請を
一手に引き受けていた大工職人たちが、
木場の材木商街の近くの海辺の町に住むようになって、
それで、海辺大工町という誇らしげな町名を付けたのだろうか。

万年橋を渡り、隅田川にかかる新大橋を左に見ながら、
そのまま北上を続ける。

両国橋を越えて、さらにしばらく行くと、
歩道に面して立派な陸奥(みちのく)部屋のビルディングがある。
若い衆が通りに打ち水をしている。
そういえば、今は本場所中だ。

その先にある総武線の高架をくぐると、
右に両国国技館が見える。
力士名が書かれたのぼりがはためき、
たくさんの人たちが国技館に吸い込まれていく。
江戸時代の奉納相撲も、こんな感じだったのかな。

ビーチサンダルの裏が薄くなってきているため、
この辺りで足裏が痛くなってくる。
江戸時代の時代小説に登場する人物たちは、
門前仲町から浅草、千住、日本橋、品川にかけてのエリアを、
まるで近所の蕎麦屋に行くかのように気楽に駆け抜けているが、
現代人の足はそんなに達者じゃないのだ。

蔵前橋の手前から隅田川沿いのリバーウォークに降りて、
大川(隅田川)の川面を見ながら歩くことにする。
ホームレスの人たちの住む、ブルーシート・ホームの拵えの見事さと
きれいに掃除され整頓された室内の清潔さに驚きながら、
浅草を目指す。

厩橋を渡って江戸通りを右に曲がり、
駒形どぜうの前を通って、
並木通りの藪蕎麦に到着。
ふー、ちょっと休憩。
お気に入りの吾妻橋藪蕎麦が、
長期休業中のため、
自分ごときにはちょっと敷居が高いのだけど、
最近はこっちの藪を使わせてもらっている。

昼食時間帯後でもあり、ちょっと一杯呑むか時間帯前でもある、
中途半端な時間だったため、
ありがたいことに、お店の中にお客さんはまばら。
冷たいビールで背中の汗を引かせたあと、
ざるそばを1枚。

雷門をくぐって、
外国人観光客で賑わう仲見世を通り、
浅草寺にお参りをする。

ご存知の方も多いかと思うが、
浅草寺のおみくじは、『凶』の含有率が非常に高い。
観光地に来た浮かれ気分で、ゆるんだ気持ちのままくじを引くと
顔が凍りつくことになる。
気合を込めて、真剣に祈りながら番号棒を引かないと、
非常な打撃を受けることになる。

今日のワタクシは気合充分だったようで、凶を避けることに成功。
希望に溢れたお言葉で埋まるおみくじにニンマリしたあと、
時計を見たら、
夕方の、自由が丘での待ち合わせ時間に間に合うためには
ギリギリの時間になっていた。
友人が眠る、田原町の東本願寺のお墓にお参りに行きたかったが、
今日は時間がなくなった。

一日江戸人は、江戸アルキをここで切り上げ、
地下鉄銀座線に乗って頭の中を現実の仕事のことに切り替えて、
渋谷経由で自由が丘に向かうことにした。

9月23日 葉山沖

2008年09月30日 | 風の旅人日乗
秋のインカレを控えて、この日は関東地区国公立戦。
当番校の東京医科歯科大のヨット部はすでに廃部になっていて、
東京海洋大学がその代打を務めることになったので、
ヨット部OB会の末席に名を連ねる者として、レース運営のお手伝い。

とはいえ、今日のぼくの役割は、知人から本部船としてお借りしたX332を操船することだけで、
レース運営そのものは、プロ的とさえ思えるヨット部OB会の重鎮たちが、
テキパキと手際よく進めていく。
なので、アンカリングしたあとは、生きのいい学生たちのレースをじっくり観戦。
教えたいこと、伝えたいことがいろいろある。

この日は、『海快晴』という風予報サイトで気象予報士を務めるOさんを、
本部船にお誘いした。
レース運営をやるにも、レースに参加する以上に風の予想が重要。
一緒に雲を見たりしながら、いろいろと勉強させてもらった。

9月29日 母と過ごす

2008年09月30日 | 風の旅人日乗
昨日、10月8日、スペインから帰ってきたけど、日記はまだ9月29日。

9月25日から29日まで、母が葉山に滞在した。
74歳になって、少し片耳が遠くなってきたけど、
頑張り屋の母は、一人で飛行機に乗って、北九州から羽田までやってきた。

羽田空港から、そのまま母にとっての孫が通う保育園に連れて行った。
孫が,どんな保育園で、
どんな先生に守られて、
どんな友達たちと遊んでいるのかを、
しっかりと自分の目で見た母は、とても嬉しそうだった。

翌日は、江ノ島神社と、鎌倉の長谷寺に、家族全員で遊びに行く。
この日の相模湾は、南風がとても強い日だったけど、
孫の手を引いた母はとても楽しそう。

長谷寺の庭から海を見ながら、
故タイガー・エスペリと夢を語り合った日のことを、
そのときと同じベンチに座ってぼくが思い出しているときも、
母は孫娘を膝に乗せて、
一緒にお絵かきをしながら孫との会話を一生懸命楽しんでいた。

葉山に戻って、遅い昼ご飯に釜飯屋さんに行き、
母は、栗釜飯をペロリとたいらげた。

翌日は母の孫娘の七五三。
前日に吹いていた南の強風は、北の微風に変わり、最高の天気。
11月が通常の七五三よりもかなり早いが、氏神様の森戸神社の宮司さんにお伺いしたら、9月でも大丈夫ですよ、とのことで、ぼくの仕事の都合に合わせてこの日にしてもらった。

妻方の御両親、妹親子も来てくれて、
全員で森戸神社の本殿に上げていただき、
穏やかな宮司さんから祝詞を挙げていただいた。
母にとっては最高の、孫娘の七五三になったと思う。

森戸神社の本殿に初めて上げていただいたが、
森戸神社が本筋の神社だということに改めて気付かされた。


その後、みんなで歩いて自宅に戻り、
昼からの大宴会になったが、
翌日に原稿締め切りを控えている身として、
夕方、その酔いを醒まそうと森戸海岸を散歩していたら、

この日行なわれていた関東インカレ予選初日のレースで
いきなり失敗をやらかしたらしい大学後輩のT君が
放心したように浜辺でたたずんでいるのに出くわした。

あれこれアドバイスをしようとしたが、
尻の長い昼酒に酔っているため、話の収拾がつかなくなってしまい、
翌日のレースで起死回生を目指さなければならないT君を余計混乱させた、
と思う。
ゴメンね。

翌日日曜日の朝は、夜明けに原稿を無事書き上げた後、
母と家族全員で、歩いて葉山町内のパン屋さんへ。
ここのパン屋さんは、ブッフェスタイルの朝食を出す。
パンはおかわり自由。

母、かみさん、娘の女性陣はパンが大好きで、
和食派のぼくには到底考えられないくらい
途方もない量のパンを食す。
母も、74歳とは思えないような健啖ぶりだ。

パンの朝食に満足できなかったため、
午後になって、渋る女性陣を無理やり引っ張り出して、
蕎麦屋さんWへ。
ここのお蕎麦は、つゆがいらないくらい、風味と味がある。
この日もおいしい蕎麦だった。
パンの恨みを蕎麦で打った。

9月29日月曜日、雨の中を母を乗せて羽田に向かう。

母と、ぼくの家族の、足掛け5日間の休日が終わった。




9月22日 横浜沖

2008年09月29日 | 風の旅人日乗
ポーランド製の全長8mの艇のテストセーリング。
この艇を輸入したHさんと2人でダブルハンドセーリング。
老いたりとはいえ、さすが元オリンピックセーラー、
一緒に乗っていて楽しい。

雨混じりの冷たい北風でのセーリングだったが、
とても個性的なヨットでのセーリングを堪能した。

その国独自のヨットの形を、自信を持って押し出していく国に、
見習うべきところがたくさんある。

心を奪われるのは、
ヨットそのものよりも、
他国が製造するヨットのデザインや造りを認めながらも、
自国の文化を誇る気持ちを持ち続け、それを大切にしていること。

(この艇は、11月3日発売の舵誌で紹介されるらしい。写真提供・舵社 撮影・矢部洋一)

9月21日 東京湾

2008年09月22日 | 風の旅人日乗
セールチェックを兼ねたセーリング・トレーニング。
東の成分が強い南東風。
信頼できる後輩船乗りや、ヨット部は卒業したもののまだセーリングの世界の入り口に入ったばかりの若者たちと一緒に、
まったくの新生チームの設立に向けて、試行錯誤中。

チームが出来上がるまでの行く末の長さに気が遠くなるような思いがすることもあるが、なにごとも、行く末が短いよりは、ありがたいこと。
焦らず、じっくりと、世界一のチーム目指して、一歩一歩登っていく。

9月18日 三河湾

2008年09月19日 | 風の旅人日乗
17日の深夜に九州から葉山に戻り、
18日朝5時に葉山を出て蒲郡に向かう。

三河湾で開催されている、外洋ヨットレース、ジャパンカップ観戦。
今年はIRCハンディキャップを採用する最初のレース。
この日行なわれた2レースを観戦した。

翌日のロングレースが中止になることが決まったので、
豊橋市内のホテルに宿泊予約のキャンセルを伝え、夜10時に葉山に戻った。

近いうちに本格的にレース復帰しようと思う。

写真は、この日の第2レース、ラインの下一からスタートしたX-41<のふーぞ>を狙い撃ちする舵社のYカメラマン。

9月16日 関門海峡

2008年09月16日 | 風の旅人日乗
朝4時。
小倉・砂津港に向かう関西汽船の客室を出てデッキに出ると、
前方に関門橋が迫っていた。
下関側にある航路標識のデジタル表示を見ると、
関門海峡の潮の流れは、東流、7ノット!となっている。

関門橋の向こうに、一日遅れの中秋の名月がかかっている。

その月を見ながら、
ホクレアを引いて西から東に関門海峡を渡った日のことを思い出す。
いろんなことが頭を去来する。

この航路のホクレアのキャプテンだったチャド・ババイヤンはじめ、
チャド・パイション、
ポマイ・パイション、
マイク、
テリー、
と一緒に航海の安全を祈願した和布刈神社が、
まだ暗い夜明け前の闇を透かして
門司側の橋の袂に見える。

少し遠かったが、フェリーが和布刈神社の真横に来たときに、
2礼2拍手1礼で、航海の安全を守っていただいたことに、お礼参りした。
お賽銭は賽銭箱に届かないので、海に投げ入れた。

和布刈神社は、祖父に連れられて幼稚園の頃から通った神社。
本当にありがとうございました。

9月15日 道後温泉

2008年09月16日 | 風の旅人日乗
少年少女たちとのセーリングが終わり、松山市内の道後温泉本館に向かう。
松山・観光港から小倉・砂津港に向かう深夜発のフェリー出港までの間を、
夏目漱石に思いを馳せて、湯に浸かり、ぼんやり時を過ごそうと思っていたが、
驚いたことに湯の休息所は、今宵を松山市内のホテルで過ごそうとしている若いカップルばかり。
さっきまで一緒にいた子供たちが、わずか6、7歳ばかり歳を取ったような青年男女たちだ。

世の中は、いつの間にこういうことになっておったのか。
一所懸命彼らに仕送りしている親御さんたちは、この実態をご存知なのか。

身の置き所なく、早々に撤退。
薄暗いフェリー待合ターミナルで、単行本1冊を読破。
温泉は堪能できなかったが、
ほのぼの家族愛の江戸時代小説には没頭することができた。
現代日本の実態をよそに、
個人的には、心穏やかな時間を持つことができたのかな?

9月14日 瀬戸内海 中島

2008年09月16日 | 風の旅人日乗
愛媛県の小学生たちと一緒にセーリングした。
夕食も朝食も一緒に過ごした。
もっと親密に彼らと接したかったが、
事前にカリキュラム作りから参加することができなかったこともあって、
もどかしい気持ちが付きまとったが、
主催者の新聞社の方々と、
協力下さった地元ベテランヨットマンの方々の御尽力で、
子供たちにとって、素晴らしい2日間になったと思う。

もっともっとこんな機会をいただいて、
次世代に、
日本人ならではのセーリング文化を伝えたいと、切に思う。

9月13日 匠、頑張れ。

2008年09月13日 | 風の旅人日乗
この8月、米東海岸ニューヨーク近郊のポートワシントンで開催された
マッチレースのグレード2イベント、ニッカーボッカーカップで、
日本の中村匠が見事優勝を飾った。

ニッカーボッカーカップは今回で26回の開催となる、
アメリカでは非常に歴史のあるマッチレース。
数年前まではグレード1イベントであったため、
現在アメリカズカップなどに関わる多くのトップセーラーたちも、
このレースの優勝者として名を連ねる。
ある意味、世界のマッチレース界のトップに登りつめるための登竜門的大会だとも言える。
今年の大会には9カ国から12スキッパーが参加、
うち5人は、マッチレース世界ランキング50位以内のスキッパーだった。

中村選手は日本のマッチレースではトップランカーだが、
これまでグレード3イベントでの2位が最高で、
グレード2での優勝は今回が初めて。

マッチレースでは、
チーム編成、練習、レース転戦と続いていく過程で、
チームとしてのモチベーションを保つことが非常に難しい。
高い目標を掲げてキャンペーンを始めても、
その途上で、ある程度の成績を時折残せることはあっても、
理不尽な理由などで思い通りの成績を残せないことのほうが多く、
そこでモチベーションを失い、
自分たちの最終目標に到達する前にギブアップしてしまう選手やチームが多い。

それを知っている人間として、
最近マッチレースへのモチベーションを失いつつあるように思えていた中村選手だったが、
久し振りに挑戦した国際マッチレースで、しかもグレード2イベントで優勝したことが、
中村選手と彼のマッチレース・チームの『勝利を求める貪欲さ』に再び火を付けることを願う。

確かにニッカーボッカーカップ優勝は、
日本人マッチレーサーとして金字塔のような成績だ。
しかし、中村選手にとっては、これが最終目標では決してないはずだ。
彼がこの優勝をきっかけにして、この先の目標に向かってどのような活動を続け、モチベーションをさらに高めていくかということのほうに、
個人的に強い興味を持っている。

ニッカーボッカーカップの優勝者には、
ワールドマッチレース・ツアーの大会の一つバミューダ・ゴールドカップへの出場権が与えられる。
この10月、中村選手が、世界の本当の強豪を相手にバミューダでどんな戦いを見せるか、
温かい目で、期待を持って注目する。

9月12日 

2008年09月13日 | 風の旅人日乗
これから羽田に行って、朝一番の飛行機で松山へ。
瀬戸内海で、子供たちに海と船とセーリングの楽しさを伝える仕事。
仕事だけれど、主催新聞社から送られてきたカリキュラムによると、
今日午後には、瀬戸内海の野忽那島にセーリングで行って
子供たちと一緒に地引網を引くことになっている。
いいカリキュラム組んでくれるよなあ。

幼い頃に過ごした玄界灘の漁村でも地引網をやっていたけど、
当時当地の地引網は、漁民家族にとっては生活のためのマジ仕事で、
他業種の親を持つ子供が、遊びで加われる雰囲気はなかった。

だから今日の午後は地引網初体験。
セーリングシューズを脱いではだしでやればいいのか、
ビーチサンダルを持っていくべきか、
楽しく迷っているところ。

一泊する瀬戸内海からの帰りは、
連休最終日で松山空港発の飛行機が超満員なので、
松山港から北九州小倉行きの深夜フェリーに乗り、
まだ暗い早朝の北九州小倉砂津港に上陸して、
実家でお茶を一杯飲ませてもらってから
北九州空港から羽田へ、
という裏技(裏道かな)で関東に戻る。

ホクレアの、
新門司マリーナから祝島経由、周防大島までのレグで、
夜、関門海峡-来島海峡間の航路を車間(船間)距離を開けずに
大行列となって走るフェリーその他の大型船団を
横切るタイミングに苦労したが、
今度は自分がそのフェリーの1隻に乗って、
夜中にその航路を関門海峡に向かって走る。

フェリーでの原稿書きに疲れたら、デッキに出て
1年ちょっと前にその海を走っていたホクレアを探してみよっと。

9月11日 葉山 大島

2008年09月11日 | 風の旅人日乗
日本人の祖先が海洋民族であると主張する、
あるパドラーの挑戦をサポートして、大島まで行く予定。

船員、セーラー、パドラー、サーファー、漁師、
日本のすべての海のプロたちが横に繋がって一つになること
を目指すぼくの願いと、彼の計画は一致する。
事故なく、成功することを期する。

海の向こうのヨーロッパでは、10月11日のスタートを前に、
ボルボオーシャンレースの参加各チームが、
スタート地、スペイン・アリカンテに集結し始めた。
写真はエリクソンチーム。
10月5日のインポートレースを現地に視察に行く予定。





9月9日 鎌倉

2008年09月10日 | 風の旅人日乗
初秋の鎌倉。気持ちいい風がそよぐ夜。
練習帆船日本丸O一等航海士と語り合った。
膨らみ始めた上弦の月の横に、明るい星が輝いていた。
木星だとO一等航海士に教えられた。
現代日本の少年少女たちがたまたま夜空を見上げて、
あの星を見つけて興味を持ったときに、
傍にいる大人の何人が、
彼らにその星の名前を教えてあげることができるのだろうか?

たくさんの日本人がセーリング文化を理解するようになる端緒の活動として、
子供たちにセーリングの楽しさを伝えているとき、
自分の知識が海とセーリングだけに偏っていることをもどかしく思うことがある。
雲のこと、太陽のこと、鳥のこと、魚のこと、イルカのこと、クジラのこと・・・
子供たちが興味を示す物や事に、正確に答えるための知識が欲しい。

これから計画するセーリング・キャンプには、
いろんな方面で活躍するプロフェッショナルに来てもらって、
海とセーリングをキーに、
子どもたちが示すあらゆる好奇心を育てる場にしたい。

本日の写真は、
次回アメリカズカップで使われることになるかもしれない水線長90ft、全幅90ftのトライマランをテストしているBMWオラクルレーシングの写真。
ぼくたちが、将来のアメリカズカップ挑戦に向けて、
まずはセーリングという文化を日本で理解してもらうための活動をしている
わずか4000海里東のアメリカ西海岸では、
こんなふうに現実のアメリカズカップに向けた準備をしている人たちがいる。
ふー。
でも、あきらめないよ。










9月7日 チームニシムラプロジェクト@船の科学館

2008年09月08日 | 風の旅人日乗
東京都有明にある船の科学館とチームニシムラプロジェクトとの共同事業、
『誰でも無料体験セーリングイベント』第3回目の開催日。

前日が、やはり東京港近辺でのセーリングの仕事だったので、
そのまま東京に泊まり、有明には豊洲からゆりかもめで向かった。

豊洲から船の科学館までのゆりかもめ沿線には、
セーリングできたら楽しそうな水面がたくさんあるが、
業務用船舶が独占使用するための水面ばかり。

船の科学館とチームニシムラプロジェクトの体験セーリングイベントで使用している
船の科学館前の水面は、
学芸部のK部長の骨折りで実現した、
東京港内で唯一『ポジティブに』セーリングが許可された海面だ。

この日、くもりのち雨の予報が数日前から出ていたので、
また、
夏休みも終わっているので、
あまりたくさんの人は来ないだろう、という予想の元、
東京海洋大学OB&学生を中心にする今回のチームニシムラ側のスタッフは、
M橋さん御夫妻をはじめとする
7名だけの少人数に抑えた。
これに船の科学館の方たちが、
レスキュー艇配備、受付、ライフジャケット着用補佐などに4名加わってくださり、
今回の体験セーリングイベントのスタッフの総勢は11名。

この人数から逆算して、
受付、艇の発着補佐、参加者の艇の乗降補佐、インストラクター交代要員確保などを考えると、
出せる艇は、4隻+レスキュー艇1隻。

ただ、この日の東京は、天気予報が外れて晴れていたものの、
都心に湧き上がる積乱雲の発達具合や、その雲の通り道次第では、
特に午後、有明のセーリング海面も、突然の雷雨と突風に襲われる恐れがあり、
それに見舞われた場合のレスキュー態勢などを考えると、
海上に出る体験セーリング艇は3隻に絞りたい。
まあ、朝も曇&雨の予報が引き続き出ていたこともあり、
あまり人も集まらないだろうから、
3隻でも充分対応できるだろうと考えて、準備を始めた。


ところが、あけてビックリ。
11時に午前の受付けが始まると同時に、親子連れを中心に、
人が群れるように集まってくる。
申し込み名簿はすぐに50名に達し、
その時点で、これ以上は午後1時までの2時間では実際に乗りきれなくなると判断して、
午前の部の受付けは締め切りにしてもらったが、
午後の部も、受付けを再開してからほとんどすぐに申し込みが50名になった。

結局、今回のセーリング体験イベントは、
午前午後合わせて100名までで申し込みを打ち切らせていただき、
それ以降の希望者の方たちには、
せっかく来ていただいたのに本当に申し訳ないことだが、
今回は遠慮していただくことになった。
安全体制を最優先にしての判断だとは言え、本当に申し訳ありません。


100名の人たちを前にして自分の考えや夢を言葉で正確に伝えることなど、
あがっちゃうこともあって、ぼくにはとてもできない。
しかし、
一人一人の参加者に、セーリングの面白さや『海の上に出ることを喜ぶ自分』に気付いてもらおうと、
スタッフみんなで一生懸命対応していたら、
終わってみたら、たった1日で100人もの人にセーリングを体験してもらうことができた。

言葉よりも行動。
知識よりも体験。
人が一致団結したときの力の大きさ。
そして千里の道も一歩から。

いろんなことを考えさせられ、
いろんなヒントをもらったような気持ちになった1日だった。
スタッフ全員で夕食をご馳走になりながら、
船の科学館のK部長と、
「セーリングしてみたいと思っている人は、実はこんなにたくさんいるんですね」
というような会話をしたときも、
何かに背中を押してもらったような気持ちになった。

この日最後にセーリングを体験していただいたお母さんと息子さんは、
昨年7月29日に東京海洋大学で行なわれた
ハワイのセーリングカヌー〈ホクレア〉の日本航海を振り返るシンポジウムにも参加されたという方たちだった。
息子さんはそのときに作文も読んでくれたのだそうだ。
ごめんなさい、覚えてませんでした。

でも、なんだかぼくは、
その母子にセーリングを海の上で実際に体験してもらうお手伝いができたことで、
〈ホクレア〉とチームニシムラプロジェクトの接点を、
あらためて見たような気持ちになった。
ハワイと日本。
活動の拠点は違うけど、根底にある活動の理念
【海洋民族としての誇りを、みんなで思い出そうよ】
は同じだもんなぁ、と
とても幸せな気分に浸りながら、落雷で遅れた電車に揺られて葉山に戻った。



9月5日 戦争と平和

2008年09月05日 | 風の旅人日乗
9月2日、
沖縄・那覇の首里にある割烹・次郎長で
来年の帆装サバニでの活動に向けて、
帆装サバニ保存会の重鎮も交えて話し合いをした。
忌憚のない意見をお互い提案することができて、
とても有意義な会合だった。

翌日朝、沖縄・那覇の泊港から、高速船クイーン座間味に乗って、
慶良間諸島の座間味島に行った。

村の艇庫で、3時間ほどかけて、鮫の肝臓から煮出した油をサバニに塗った。

サバニにしばらく乗らないときには、必ずやっておかなければならないメンテナンスだ。

作業が終わり、那覇に帰るクイーン座間味の出港までの時間、
美しい座間味のビーチに出て、子どもへのお土産に貝殻を拾った。
那覇のカヤックガイド店経営者であり、我々のサバニチームのキャプテンであるOも手伝ってくれ、
炎天下、2人で、2時間近く貝殻拾いに没頭した。

白く美しい無人のビーチに、
上半身裸になって、
並んで前かがみになってしゃがみ込んでいるおじさん2人は、
ダイビングボートに乗っている観光客たちから見たら
相当怪しくいかがわしい存在だったことだろう。

Oが、見慣れない、茶色をした小さな筒状のものをたくさん拾ってきて、
これ、なんだか分かる?
と聞いた。

瀬戸内海の浜などで見かける、牡蠣の養殖ロープに使われるパーツのようにも思えたが、違った。

63年前の戦争で使われた不発弾の火薬なのだという。
この火薬がびっしりと詰め込まれていた焼夷弾は不発だったが、もし予定通り爆発していたら、
この火薬は63年前の沖縄の人たちの身体を焼いていたのだ。

戦争が終わって63年も経つのに、
その悲惨な歴史を忘れさせまいとするかのように、
沖縄の海にはまだ、その戦争に使われた爆弾の火薬が漂っている。

浜を引き上げ、クイーン座間味の出港ギリギリまで、
座間味でいつもお世話になっている民宿中村屋さんの庭で
美しい花々に囲まれて、おいしいオリオンビールを飲みながら、
平和な時代の平和な国で子を育てられる幸せを思った。



座間味島から泊港に着き、
そのままゆいれーるに乗って那覇空港に行き、
滑り込みセーフで羽田行きに乗り込み、
終電間近の新逗子行きに乗った。

逗子市内から座間味島の貝殻が入ったバッグを担いで葉山の海岸を歩き、
家に戻って時計を見たら、
ちょうど午前零時だった。