Feb.27 2006 強風波浪注意報発令

2006年02月27日 | 風の旅人日乗
2月27日 月曜日。

沖縄・座間味島サバニ合宿7日目。

今日の沖縄地方には、強風波浪注意報発令で、昨日の午後便に続き、那覇と座間味を結ぶ高速フェリー『クイーン座間味』も全便欠航。
我々も欠航と決めていたら、午後3時、いきなり山城オーナーの出航発令。
3人で、3段に縮帆したセールで港内を走るが、その後セールを降ろして風上にある港に漕ぎあがろうとしたら、あまりの強風にバウが振られ、風上に向かえない。

助けに来た座間味カヤックセンターのゆうじに引っ張ってもらい、無事帰港。3人しかいないことを考えれば、無謀な出航であったなあ。

さてさて、本日掲載の沖縄サバニエッセイは、2005年度製。
キャプテン・クックのことを書いた本から始めて、太平洋の航海文化を経由して、サバニへと結びつけてみたエッセイ。
今日はその前編を。

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太平洋の航海文化を辿る心の旅(前編)

取材・文 西村一広
取材協力 スウォッチ グループ ジャパン 株式会社


二百年前、キャプテン・クックが初めて西洋社会に伝えた太平洋文化圏。それからの長い年月、我々は太平洋の航海文化の本当の意味を知らずに過ごしてきた。しかし、我々日本人のルーツを辿るとき、太平洋とその大海原に展開する文化が、重要な意味を持つことに気付く


【星の航海】

自分たちはどこから来て、どこに行こうとしているのか。その答えを見つけるためにハワイ人たちが復元した古代航海セーリングカヌーが、ハワイの島々に数隻存在する。

現代のハワイ人たちは、これらのセーリングカヌーに乗り、自分たちの祖先の故郷であるタヒチに至る航海を、幾度も繰り返してきた。それらの航海を通じて、彼らは彼ら自身や彼らの文化に対する誇りを思い出し、民族復興の活動を始めた。

2002年の6月、そのうちの一隻『ホクレア』に乗って、オアフ島のハワイカイからマウイ島のラハイナに向けて航海した日のことを思い出す。

夕陽がダイヤモンドヘッドの向こうに落ちる頃、セールを揚げ、ココヘッドを間近に見ながらモロカイ・チャンネルに滑り出る。
貿易風が海面を走り、『ホクレア』のセールに吹き込む。伝説のカヌーは、その風に乗って力強く加速する。

この海峡を西洋型の外洋ヨットで走るときに険しい表情で襲いかかってくる大波が、それと同じ波だとは信じられないくらい、そのハワイアン・カヌーを揺りかごのようにやさしく揺らすだけで、船底を通り抜けていく。

真夜中。
『ホクレア』の舵を取る。
すぐ横で、ナイノア・トンプソンが星空を見上げている。
ナイノアは、太平洋に伝わる古代航海術だけを使って太平洋を自在に航海することができる数少ない航海士だ。“ザ・ナヴィゲーター”と呼ばれ、現代ハワイ人の英雄である。

『ホクレア』の左右両舷の後ろ側、ナイノアが航海中いつも座る場所の手摺には、幾筋かの切り込みが彫り付けられている。
「タヒチへの行き帰りに使う星の方向の目安なんだ」、
とナイノアが教えてくれた。

月のない夜。
『ホクレア』とその周囲の海は、とても不思議な空間と時間に包まれていた。
素晴らしい航海の記憶だ。


【キャプテン・クックが見た太平洋の航海文化】

ポリネシア人たちの祖先は約五千年ほど前にタヒチ周辺に到達し、そこから、ニュージーランド、イースター島、そしてハワイ諸島へと拡散していった。その一部は南米まで足を伸ばした。

ノルウエーの故トール・ヘイエルダールは、太平洋の島々に生活するポリネシア人たちが、海流と追い風に乗って南米大陸から太平洋に、東から西へ拡散したという自説を実証するために、〈コンティキ〉と名付けたバルサ筏で実験航海を行なった。

だが、ヘイエルダールの立てた仮説はいかにも西洋人らしい固定観念に縛りつけられていた。
彼は、ポリネシア人たちが西洋型の帆船よりも高性能なカヌーを操っていた可能性を検証することも、彼らが海流と貿易風をさかのぼって自在に航海する能力を持っていた可能性を検証することもしなかった。

そしてその後、ヘイエルダールのその仮説が間違っていたことが判明する。
その後の考古学的発見などから、ポリネシア人たちがその文化圏を、太平洋の西から東へと広げていったことが明らかになったのだ。
しかし、この最新の学説の大部分は、実は今から二百年以上も前に、イギリス人のジェームズ・クック船長がすでに看破していたことだった。

クックは三度に渡る太平洋への遠征航海を通じて、広大な太平洋に広がるポリネシアからメラネシアに至る島々で使われている言葉や文化が、同じ系列の中にあることに気付いた。クックはさらに、ポリネシア人たちが操る全長30メートルを越す外洋カヌーが、素晴らしい高速で、しかも風を間切って走るのを目の当たりにする。

また、クックは、彼の〈エンデヴァー〉号に水先案内として同乗したタヒチ人が示した驚くべき航海能力を見て、彼らが太平洋についての深い知識と高度な航海術を持っていることを知った。
それらのことから、太平洋の民族が非常に古い時代から太平洋の島々を自由自在に行き来してきたことを、クックは驚きを持って確信していたのだ。

(後編に続く。無断転載はやめてくだされ)

Feb.26 2006 転覆その2

2006年02月26日 | 風の旅人日乗
2月26日 日曜日。

沖縄・座間味島サバニ合宿6日目。

日曜日も、我々にとっては休みではないよ。
今日も、昨日に引き続き、転覆の練習。というか、予期しないところでひっくり返ったので、風下に岸壁、横に係留している大型艇、という比較的危険な場所での転覆だったので、あせった。

さてさて、本日掲載の沖縄サバニエッセイは、2004年度製。
未来に向って、サバニの果たすべき役割、それに付随する自分自身の役割が、いよいよ見えてきたような気がし始めた頃の文章です。

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古来の海文化を子孫に伝える
サバニ帆漕レース2004

取材・文/西村一広
取材協力 スウォッチ グループ ジャパン 株式会社


【サバニの過去と新事実】
かつて(1988年)NHKが、『海の群星(むりぶし)』というタイトルのドラマを制作した。
舞台は、第二時世界大戦が終わって間もない頃の石垣島。主人公のサバニ漁師を緒方 拳が演じている。

このドラマのビデオを入手して鑑賞した。
ストーリー自体から離れた目で見ると、細くて不安定で、乗りこなすのに熟練を要するサバニを、緒方 拳以下の出演者たちが、ものの見事に操ってセーリングしていることに舌を巻く。

慣れない人間にとっては、転覆させないためには立ち上がることすら躊躇するサバニの上を、役者たちは何の不安もなく歩き、そのうえ主演の緒方 拳は、サバニの伝統通りに、脇に挟んだエーク(櫂)を使って、セーリング中のサバニの舵を自在に取っている。
現在の沖縄漁師にも、エークで舵を取ることができる人はそれほど多くはいないはずだ。

「フー(帆)降ろせー」という命令で、素早くスルスルと帆を降ろす子役たちも、熟練の技を見せる。
このドラマの制作当時の十数年前、役者たちにサバニの帆走技術やそこで使う言葉を指導する、バリバリのサバニ漁師たちがまだ存在したのだろう。

しかしドラマの主題は、サバニ操船法ではない。
物語りは、当時の沖縄の酷烈な漁業労働環境を軸に展開する。
第二次世界大戦争後に、それまでこの地域に伝統的に受け継がれてきた労働環境が急激に変化し、いい意味であれ悪い意味であれ、伝統の帆走サバニと、それを使った漁法が消えていかざるを得なかった背景が描かれている。

ドラマでは、人買い同然に周辺の島々から子供たちが集められ、サバニに乗せられ、海に潜らされる。そうして親方の家の納屋に数人単位で寝泊りしながら、彼らは厳しく漁を仕込まれていく。サバニの帆走技術もそういった生活の中で学んでいく。
中には、あまりに過酷な生活から逃れようとして脱走を試みる子供たちもいる。

2002年、ぼくが初めてサバニ・レースに参加したときの、島の老人の
「遊びでサバニに乗るんか?」
という言葉と、驚いていた表情の本当の意味が、このドラマを観て初めて分かったような気がした。
昔の過酷なサバニ漁を知る人にとって、サバニという舟は、決してロマンという言葉で簡単に括れるものではないのだろう。

縁があってサバニに関わるようになって以来、サバニを勉強すればするほど、後から後から新しい事実、歴史を知ることになる。TVドラマを観るまでは、サバニを単純に、沖縄海文化のロマンの対象として見ていた。しかし、もうそういう単細胞的な、無責任な観察眼でサバニを見ることはできない。

また、今回の沖縄取材で、糸満に住む熟練のサバニ乗りと話していて、ひとつ新しい事実を教わった。
かつて、糸満の漁師はサバニに乗って八丈島やパラオまで遠征していた、と書いた文献や人の言葉を鵜呑みにして、そう思っていたし、そういう文章を自分でも書いたことがある。

しかしそれは間違っていた。その糸満のサバニ乗りの話では、サバニは自力でそんな遠征ができる舟ではないという。
サバニだけで自力で南太平洋の島々に行ったのではなく、やんばる船という、やはり沖縄古来の船で、サバニよりももっと大きな大型船に載せられて現地まで行き、そこで海に降ろして現地行動舟として漁をし、その漁が終わるとまたやんばる船に載せて糸満に帰ってきたのだという。

確かに、あんな小舟のどこに食糧や水を積んで長期航海をしていたのだろうと、不思議に思わないこともなかったが、深く考えることをしないままそれらの文章や言葉を鵜呑みにしていた。速い、という特長があるとは言え、サバニとて、沖縄-八丈島を水や食糧を積まずに行き来できる魔法の舟ではなかったのだ。


【子供たちとの新しいステージへ】
そして現代。
サバニとその帆走技術は、子供たちの総合学習の題材として取り上げられるようになった。沖縄県の座間味中学校では、今年からサバニを操って海に出る授業を、総合学習の一環として始めた。
祖先が伝えてきたサバニという海洋技術・文化を次の世代に伝えるのである。過酷な労働条件の問題と一緒くたにして、サバニの帆走技術まで途絶えさせることはないのである。改めるべきものは改めればいいのだし、残すべき文化や技術は残すべきなのだ。

その授業の一つの区切りとして、座間味中学の生徒たちが自分たちだけでチームを組んで、2004年で5回目の開催になった座間味~那覇のサバニ帆漕(帆走しながら櫂で漕ぐ)レースに参加した。
現代の中学生たちが、自分たちの祖先が乗っていたのと同じ舟、サバニ、を操って、自分達が暮らす島を出て、海を渡ったのだ。

風は途中で凪ぎてしまい、櫂を漕ぐことだけが舟を進める唯一の手段になったが、子供たちは暑さや、手に出来たマメ痛さに耐えて、その航海を無事やり遂げた。
しかも、多くの大人のチームを尻目に、好成績でゴールラインを走り抜けたのだ。

現代の子供たちに操られるサバニは、重いテーマのTVドラマから抜け出だして、とても現代的で溌剌としているように見えた。
これからは、子供たちが助け合うことを覚えたり、夢や冒険心を育む舟として、サバニはその役目を背負っていくことになるのだろう。

(完。無断転載はやめてくだされ)

Feb.25 2006 転覆練習

2006年02月25日 | 風の旅人日乗
2月25日 土曜日。

沖縄・座間味島サバニ合宿5日目。

今日は、沈(チン。転覆)の練習とその状態から再び帆走できる状態に復帰する練習。面白かったよ。

さて、本日の沖縄サバニエッセイは、2003年に雑誌に書いたものの、昨日の前編に引き続いて、後編です。


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海の系図を求めて(後編)
―― 沖縄サバニと出会う旅 ――

取材・文 西村一広
取材協力 スウォッチ グループ ジャパン 株式会社

サバニを引き継ぐ者たち

【精神的略奪に耐えて残した海の文化】

沖縄の歴史を振り返ると理解できることだが、沖縄の人たちは、本土政府から自分たちの文化を奪われ続けてきた。
長い歴史のスケールから見てみればごく最近でも、例えば、明治時代が始まった頃、沖縄の人たちは自分たちの民族衣装を着ることを禁止された。

第2次世界大戦が始まると、本土政府は沖縄人が土地の言葉を使って会話することを禁止した。土地の言葉を使って会話している者を敵国スパイとみなすというのだ。
それ以前の時代には一切の武器を持つことも禁止された。沖縄で空手が生まれた理由である。

自分たちの言葉を奪われる悲しみはどんなだっただろうか。
「基礎施設」という分かりやすい母国語があるのに英語で「インフラ」といい、「協力」「共同作業」という美しい響きの自国語を持っているのにわざわざ外国語で「コラボレーション」とオチョボ口で言う現代の日本人には、到底理解できない悲しみだったことだろう。

そんな圧政の中で、沖縄の人たちは自分たち独自の船を守ってきた。
帆かけサバニである。
帆かけサバニは、沖縄の人たちが辛うじて守ることができた数少ない文化のひとつである。鎖国政策を敷いた徳川幕府によって日本全国で徹底された船の構造制限の影響も受けたし、なぜか沖縄だけは鉄釘を使えないという制限も受けた。

しかしそれらの制限の中で、彼らはサバニ文化を発展させ続けた。鉄釘ではなく、木の釘(フンドー)と竹釘(タケフズ)で船板を強固に合わせるサバニ構造を編み出した。
それは他地域の和船に比べて驚異的に長い寿命をサバニに与えることになった。

現在は杉材を組み合わせて造られているサバニだが、僅か二百数十年前までは、大木を刳り抜いて造るサバニが主流だった。
丸木舟の時代を持つということは、サバニはその血統をさらに過去にまで遡っていくことができる舟だということを意味する。

日本は、実は世界最古の造船用工具・丸ノミ形石斧を出土している国である。鹿児島県加世田市の栫ノ原(かこいのはら)遺跡から出てきた一万二千年前の石斧である。これは、木を刳り抜いて舟を造る道具である。

世界最古の造船工具が出てきたということはつまり、九州地方には世界最古の舟があった、ということになるのである。
我々の祖先は、この地球という天体の海に初めて舟を浮かべた生物なのかも知れないのである。そして、現在我々が実際に見て触れることができるサバニは、その一万二千年前の世界最古の丸木舟の、直系の子孫なのかも知れないのだ。

近世の圧政の中にあっても、自分たちの文化を守るという頑固さを持ち続けた沖縄人の矜持こそが、サバニという舟を現代に伝えることを可能にしてくれたのだ。


【「素晴らしき哉サバニ」】

サバニに乗って、漕ぎ、セーリングして、まず驚かされることは、その加速性能である。
スピードである。
プレーニング性能である。
前時代的イメージの船型を見てサバニをなめてかかると、ヤケドするよ。

サバニに秘められた素晴らしい能力を初めて科学的に分析して論文を発表したのは、ぼくが知る限りでは、日本のヨット設計家の草分け横山晃だ。
今から30年近く前の、ヨット専門誌・舵誌1976年11月号から翌年の1月号にかけて3回連載された「素晴らしき哉サバニ」という標題の文章である。

横山はサバニの船型を分析し、舵誌にその結果を発表した理由を、「この名艇を風化させてはならないという思いに駆られ」、「西欧科学技術の最高峰よりも更に優れた名艇のエッセンスを今日以降の舟艇設計に生かそうとする同士が1人でも増えることを願って」、と説明している。

西洋型ヨットの設計家として日本の第一人者であり、長く一世を風靡していた横山晃をして「西欧科学技術の最高峰よりも更に優れた名艇」と言わしめる性能を持っているのが、沖縄の無名の舟大工たちが伝承で造ってきたサバニなのである。

サバニの船底前部には、不思議な前後方向の膨らみがある。
船首からなだらかに船体中央部に向かって喫水が深くなっていくのではなく、船首部で一旦喫水が深くなったあと、ごく僅かなマイナスカーブを描いて喫水は再び浅くなり、それから再び深くなっていく。

横山はこの形こそがサバニのスピードの理由だと説いた。この工夫によって、船首から立つ波を小さく抑え、結果、ハル・スピードを越えてプレーニングへと入るときに越えなければいけない最大抵抗そのものも小さくなるのだ、と。

江戸時代の東京湾。つまり江戸前の海で漁師が魚介を捕ったり、池波正太郎の小説の主人公達が大川(隅田川)で遊んだりしていたのは、ニタリとかチョキとか呼ばれていた舟だが、これらの舟は、サバニと同じく剣のような細い船型の高速性能ボートだった。その形良さとスピードで、"粋(いき)"であることを人生最大の目標としていた江戸ッ子を喜ばせた。

横山はニタリやチョキにも、サバニと同様に船首部船底に膨らみがあって船首から出る波が小さいことを指摘し、これを、サバニから直接影響を受けたものだと推論している。
糸満のうみんちゅが八丈島や伊豆まで来ることは、その昔から日常茶飯事のことで、彼らを通じてサバニ船型が江戸湾の舟にも伝えられたのだろう、と書いている。


【サバニが沖縄にもたらしたもの】

横山晃が船型を分析したのは糸満のサバニだが、サバニは、糸満、宮古水域、八重山水域では、それぞれ船型が微妙に異なる。
しかも地域による違いだけではなく、舟大工一人一人が、敢えて他人の形に迎合しない、自分自身の形を持っていたと言われる。

宮古の池間島出身で、現在は石垣島でサバニを造っている船大工・新城康弘は、サバニの船首部船底の膨らみについて、横山とは別の理論で説明している。「この船底の膨らみはサバニが風に流されるのを防ぎ、また波を切り開く役目を果す」。

新城が造ったサバニの船底は、前部の比較的エッジの立ったV~Uシェイプから後半部のフラットなシェイプへとなだらかに変化していく。前半部の形でアップウインドを効率良く走り、後半部のフラットな部分でダウンウインドをパワフルに走る、最近のレーシング・ヨットと似た考え方だ。
いや、最近のレーシング・ヨットのほうが、数十年前から造られている新城のサバニを真似たことになる。

これに似た局面構成の船底を最近どこかで見たなあ、と記憶をたどったら、それは2003年の第31回アメリカズカップ予選で2位になったオラクルUSA-76』だった。
『USA-76』はタッキングしない限り、上りもダウンウインドも、2003年のアメリカズカップ挑戦者のなかで、圧倒的に速かったボートだ。

新城にサバニを造ってもらったある船主によると、そのサバニは他のどのサバニよりも長く波に乗ることができ、どんなに時化ても船首が波に沈むことなく常に波を切り続けるのだという。新城は、自分の技術を残すサバニを、自分の体力が続くうちにもっともっとたくさん造りたいと望んでいる。

現代の糸満うみんちゅたちも、「サバニにもいろいろあるけど、糸満のサバニこそが本筋なんだ」という気概を持っている。
"これが本物の糸満サバニだ"と誇れる新艇を自分たちで造ろうという気運が、最近糸満の漁師を中心に盛り上がっているらしい。

こういった動きやサバニ帆漕レースの人気ぶりを観察していると、サバニは、サバニという文化だけにとどまらず、沖縄人の誇りそのものを思い出すキーワードになったように見える。

今、沖縄でサバニをきっかけにして起きているようなことが起爆剤になって、自分たちの海文化を思い出し、見直し、復活させ、自分たちの誇りを取り戻すことに繋がる活動が日本全国に広がっていけば、すでに化石になりつつある日本の海文化の未来も少しは明るくなると思う。

自分が生きている世界を、経済という側面だけしか知らないで死んでいくのは、淋しいことだよなあ。(文中敬称略)

(完。無断転載はやめてくだされ)

Feb.24 2006 雨の座間味だよ{/hiyoko_thunder/}

2006年02月24日 | 風の旅人日乗
2月24日 金曜日。

沖縄・座間味島サバニ合宿4日目。

今日の慶良間諸島座間味島は、雨も降っていて、ちょっと肌寒い(といっても20℃はある)。

本日の沖縄サバニエッセイは、2003年に雑誌に書いたもの。

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海の系図を求めて(前編)
―― 沖縄サバニと出会う旅 ――

取材・文 西村一広
取材協力 スウォッチ グループ ジャパン 株式会社

【今年もサバニ】
陸上を移動していて突然目の前に海や水平線が見えたとき、心は何故ざわめき立つのだろう?
海に出て、船首を沖に向けて波を乗り越えるとき、心は何故昂ぶるのだろう?
自分の体の中に、海とともに生きてきた民族の血が流れているせいではないのだろうか?
そんな予感の手掛かりに会うために沖縄に行く。サバニという帆装舟に乗りに行く。

【サバニに会える海、沖縄】

台風6号が宮古島に接近していた。強い南東風が時折の激しい雨とともに吹きつける沖縄本島・那覇空港に、シーカヤッカーの内田正洋と共に降り立つ。
今年、2003年もサバニに乗るために沖縄を訪れた。慶良間諸島の座間味村から那覇まで約18マイルの海を走る。第4回サバニ帆漕レースである。
昨年はソウル・オリンピック470級代表の野上敬子さんと一緒に乗って楽しんだが、今年は内田、そしてハワイからやって来るナイノア・トンプソンたちと一緒に乗る。

沖縄屈指のシーカヤッカー大城敏が空港まで迎えに来てくれ、彼が経営するカヤックガイド店「漕店」に立ち寄ってキリリと冷えた泡盛で再会を祝した後、首里城の近くにある山城洋祐の自宅に向かう。
山城は今回の我々『まいふな(八重山言葉で、「お利口さんだねえ」の意)チーム』のボスであり、何週間も前からこのレースのためにサバニを用意し整備してくれている生粋の沖縄人。外洋ヨットを所有するベテラン・セーラーでもある。

自宅の庭に生えていたイヌマキの木からレースに使うアウトリガーを削り出す作業をしていた山城を、内田と大城が手伝う。
ぼくは、途中まで終わっているセールの仕上げ作業を引き継ぐことにする。神奈川県の三浦半島にあるセール屋さんが特別なコットン製オックスフォード織りの生地で作った帆を、山城が久米島まで船で持って行き、久米島紬の染めにも使われる車輪梅(しゃりんばい)の木で染めた。

車輪梅で布を染めると、生地の織りの目が詰まるだけでなく、防水性も加わるのだという。そのセールにはフーカケ(帆かけ)サバニの伝統通りに竹製の横桁が渡されている。
各横桁にシートとなるロープを付け、端止めをする。このロープは山城が芭蕉(琉球名産の芭蕉布の材料となる植物)の繊維を使って自分の手で綯(な)ったものだ。仕上げに縮帆用のハトメをセールに打つ。

作業を終えて皆でオリオン・ビールを飲みつつ上空を見上げると、台風に吹き込んでいく風が雲をびゅんびゅん飛ばしている。
それを見て、少し考えてビールを置き、3段めのリーフ用ハトメを打ち加えた。

それにしても、サバニのセールは帆(フー)であり、メインシートはティンナーであり、マストはハッサ、メインハリヤードはミンナーで、マストステップをダブ、マスト・カラーをカンダンというのである。

常々ヨットレースでも通常のセーリングでも、自分の国の単語がないのを淋しく思っていたが、サバニはその形だけでなく、言葉においてもサバニ・オリジナルを持っている。
我が日本国にも、独自の帆走文化があり、独自の言葉があったのである。

一般の日本人に知られることがないまま、20世紀の終わりと共にほとんど途絶えかけていたこの文化が、サバニ保存会が年に一度開催する「サバニ帆漕レース」という催しのおかげで、再び息を吹き返そうとしている。

伝統の天然染料で染めた帆を揚げ、芭蕉の葉から作った縄を操って風に乗る。自分たちの祖先が使っていた道具、言葉をそのまま使って美しい沖縄の海を帆走するのである。自分が日本人であることを意識するセーラーならだれでも、最高の幸せだと感じるのではないだろうか。
少なくともぼくは、サバニに乗って帆走しているとき、説明しがたい誇らしい気持ちが高まってしまい、西洋人の友達セーラーたちに威張りたくなって仕方がない。

【過去を知り、未来を思う】

翌々日、台風6号のために欠航していた座間味行きフェリーの運航再開第1便に乗って、1年ぶりの座間味へと向かう。
前日にハワイから沖縄入りしたナイノア・トンプソン、アウトリガーカヌー・クラブの若者たちから成る我ら「まいふなチーム」がこのフェリーの上で揃い、ナイノアがハワイから持参した海図でレースで走る実際のコースを確認しながら、座間味島への航海を楽しむ。

ナイノア・トンプソンについては、龍村仁監督の映画「ガイアシンフォニー」や星川淳氏著の『星の航海師』などによって知っている人も多いことだろう。
ナイノア・トンプソンは、祖先から伝承された古代航法だけを頼りに、いかなる航海用具も用いず、太平洋を自在に行き来する能力を持ったナヴィゲーターである。

ナイノアはその古代航法によって、ハワイからタヒチ、イースター島、トンガ、ニュージーランドに至る太平洋を、古代セーリングカヌーを復元した〈ホクレア〉で何度も航海してきた。
それらの航海を通じて、ナイノアは、ポリネシア文化圏のすぐ近くに浮かぶ日本という国、人、文化に強い何かを感じている。言葉にはあえて出さないが、彼は、自分たちポリネシア人の故郷が実は日本なのではないかと強く感じているフシがある。
だからこそ、サバニという舟、その文化全体にも深い敬意を抱いている。それが、沖縄を訪れてこのサバニ帆漕レースに参加したいと彼が強く願った理由なのである。

同じフェリーの貨物デッキには、サバニレースに参加する大小、新旧、様々なサバニが載せられて、座間味島に向かっている。
ほとんどが沖縄各島から集められた船齢数十年のサバニたちだが、今年は新艇の数も増えてきた。古いサバニを保存するだけでなく、伝統工法に則った新しいサバニを作ることで、サバニ造船技術も保存することに協力したいと考える船主が現われるようになったのだ。

訪れる度にその海の美しさに圧倒される座間味島では、今回のサバニ帆漕レースに参加するチームが楽しそうに準備をしていた。
年に一度のこの催しを心待ちにしていた現代のうみんちゅたちだ。2003年、第4回サバニ帆漕レースにエントリーしたのは34隻。

スタートを翌日に控え、真っ白い砂浜が続く古座間味浜の沖では、レース中の西洋型ヨットと交錯するようにしてサバニたちがセーリングしている。
濃淡の茶色に染められたサバニのセールが、強い光が溢れる青い海の色彩の中で、柔らかく目を癒す。
世界の他のどこに行っても見ることができない、日本オリジナルの光景が目の前に広がっていた。

このサバニ帆漕レースの意義は、少なくとも今のところはまだフィニッシュラインでの勝敗ではないと思う。
自分たちの祖先が乗っていた帆掛け舟を蘇らせ、水に浮かべ、皆が揃って座間味から那覇までの海を走ること。
先人達が大海を渡るのに使っていたのと同じ形の舟が語りかけてくるものを身体で感じ取りながら海を渡ること。
それをより多くの人たちが体験すること。
これらのことが今は重要なのだと思う。それによって、未来に繋がるものも見えてくるようになるのだろう。

座間味から那覇まで約18マイルの航海は、今年もあっという間に終わってしまった。もっともっと乗っていたかった。また一年待たなければいけない。
(後編に続きます。)
(無断転載は、やめて下され)

Feb.23 2006 デイゴの花が咲き{/onpu/}

2006年02月24日 | 風の旅人日乗
2月23日 木曜日。

沖縄・座間味島サバニ合宿3日目。

順調にサバニ合宿進んでいます。

今回は、日本全土が大寒波に襲われていた昨年12月の合宿のときよりも暖かく、非常にポジティブに練習ができている。
海にいる時間が長くなり、夕食直前まで練習しているし、夕食の後は、いつものように泡盛を酌み交わしながら、サバニや沖縄の話題での宴会が盛り上がるので、日記をつける時間がほとんど皆無だ。

なので、決して手抜きではないのですが、日記の代わりに、20日、21日に続いて、かつて雑誌に発表したサバニについての文章を、順次掲載していきます。

今日は、2002年のサバニ帆走レースの後に書いた、文章をひとつ。

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沖縄の海に蘇る伝統の帆かけサバニ
取材・文 西村一広

【沖縄】
でいごの花が咲きー
風を呼び嵐が来たー
「島唄」のサンシンの音色に誘われるまま、沖縄に行った。
沖縄に行って、サバニの大船団を見てきた。
見るだけでなく、帆かけサバニ・レースに参加して座間味島から那覇港まで、18マイルのセーリングを堪能してきた。

【サバニとは】
海好き、船好きの皆さんのことだから、サバニと呼ばれる舟のことをご存知だと思うが、念のために簡単に説明をさせていただきたい。

サバニとは、古くから沖縄地方を中心に、これらの海域に広く発達した独特な形をした舟のことで、船尾が高く立ち上がり、細くて流れるように滑らかな船型を特徴とする美しい舟だ。

徳川時代の鎖国政策で、日本のそれまでの船や海文化に関する資料や文献がなくなってしまい、縄文時代からそれまで連綿と続いてきたはずの我が国海文化の歴史は、まるで存在しなかったかのように空白になっている。
為政者が意図的にある文化を途絶えさせようとすれば、あっけなくそれを実現できるという恐い実例だ。サバニもその例外ではないが、なんとか、琉球の時代まではその歴史を辿ることができる。

古来、サバニの原形は丸木を刳りぬいて造る丸木舟だったが、今(2002年)から265年前、沖縄の森林資源の枯渇を恐れた琉球政府が板材を組んで舟を造ることを奨励したことをきっかけに、薩摩の島津藩から輸入した日南地方の飫肥(おび)杉(すぎ)を使ったサバニが発達するようになった。

つい40,50年前まで、サバニは沖縄の漁業や物資の輸送などで活躍し、その主な動力は風であった。大型の帆かけサバニは、遠く南太平洋まで長期の漁に出かけることもあったという。

しかし、この伝統ある帆かけサバニの姿を沖縄の海で見かけることは、今ではほとんどできない。第二次世界大戦後、エンジンが帆に取って代わるようになったからだ。
今でも、現在の沖縄漁船の船型にサバニの血統をかろうじて見ることができる。しかし安定性を犠牲にしてスピードを重視していたサバニの操船方法、外洋セーリングの技術はそのまま廃れる運命を辿ろうとしていた。

西暦2000年、沖縄サミットの年に、沖縄が誇るべき伝統である帆かけサバニの美しい姿と、その帆走技術を後世に残そうと、沖縄を中心とする有志たちが集まり「帆かけ(沖縄では"フーカケ"と読む)サバニ保存会」が発足した。

【第3回サバニ帆走レース】
その年、2000年の夏、保存会は漁師や地元の海関係者に声をかけて沖縄本島、慶良間諸島などに残っているサバニを集め、座間味島から那覇まで、約18海里のサバニ帆走レースを企画した。帆かけサバニというハードだけでなく、その帆走技術というソフトをも復活させようと考えたからだ。

3年目に当たる2002年6月30日に行なわれた第3回レースには、大小様々な35隻ものサバニがエントリーしてきた。
このイベントを最初からサポートしているのはスイスに本社を置く時計会社スウォッチ・グループだ。日本の伝統技術を、海外の企業が守ってくれているのだ。

さらに、2002年の大会は『サー・ピーター・ブレイク・メモリアル』と銘打たれ、ピーター・ブレイクを偲ぶトロフィーが優勝杯となった。
ピーター・ブレイク卿は生前、この帆走サバニ・レースの第1回大会を応援するために沖縄を訪れている。つまり、オメガという外国企業、ピーター・ブレイク卿という外国人が、日本の伝統を理解し、守ろうとしているのだ。それに対して日本の企業はどんなふうに自国の文化を守ろうとしているか? 日本人として少し恥ずかしい気持ちになるのはぼくだけだろうか?

それにしてもしかし、座間味の海の美しさには、まったく言葉を失う。日本という国にはこんなにきれいな海があるのかと、20年ぶりに座間味にやってきたぼくは、ただただあきれ、驚くばかりだった。

本州から持ち込んだ合板製のサバニをその海に浮かべ、野上敬子さんと一緒に走らせながら、「嫌なこともいっぱいあったけど、今日までセーリングをやめなくてヨカッタナ、ヨカッタナ」と、しみじみと思っていた。
フェリーの〈ざまみ丸〉に載せられて、または自力回航で、沖縄各地から美しい形のサバニが次々と座間味島にやってくる。どのサバニも細くて、凛として、本当にカッコいい。

6月30日の朝、真っ白な砂が朝日にまぶしい古座(ふるざ)間味(まみ)浜に、スタート準備を終えた35隻のサバニがずらりと並ぶ。
見るからに強そうな地元沖縄の海人(うみんちゅう)集団に混じって、シーカヤックの第一人者・内田正洋の姿が見える。
南波さんが乗っていた頃からの〈うみまる〉艇長・山本秀夫もいる。サバニの研究書を自費出版している建築設計家・白石勝彦氏と舟艇設計家・林賢之輔氏が一緒に立ってサバニ艇群を見ている。
『ビーパル』誌の人気ライターの松浦裕子さんもいる。
著書「星の航海師」でナイノア・トンプソンを書いた星川淳氏の顔も見える。

8時15分、座間味村の仲村村長がスタート合図のフォーンを高らかに鳴らし、第3回サバニ帆走レースが始まった。
35隻のサバニが一斉に浜から押し出され、帆が揚がり、それに南の風が吹き込む。エーク(櫂)を漕いでいる力強い掛け声があちこちから聞こえてくる。

鮮やかな緑に包まれた座間味島と渡嘉敷島との間の水道を抜けて沖縄本島を目指すたくさんのサバニたちの美しい帆走シーンに目を奪われながら、その何日か前に座間味の港で、準備をする我々の様子を覗き込んでいた島のお年寄りがつぶやいた言葉を思い出していた。
「遊びでサバニに乗るんか? いいなあ。いい世の中になったねえ。」

Feb.22 2006 渡嘉敷島へ往復航海。

2006年02月23日 | 風の旅人日乗
2月22日 水曜日。

沖縄・座間味島サバニ合宿2日目。

今日は、座間味港を出て、安室島の横を通り、そして海峡を渡って渡嘉敷島まで行って帰ってきた。
鯨にも出会えるかも知れないと楽しみにしていたのだが、残念無念、見られなかったぞ。

港を出て、セーリング。風が前に回ってきたので、安室島の風陰で一休みした後、弱い向かい風の中を漕ぎで海峡の渡りに入る。6人の乗員一同黙々とひたすら漕ぐ。
前回、12月の合宿中は、日本を襲った大寒波の影響で冷たい北風が吹き荒れていたこの海峡だが、今日は平和な東風が吹いていて、海面も穏やかだ。
久し振りのサバニ漕ぎで腕の筋肉が痛い。水泳で鍛えていたつもりだったが、漕ぐときに使う筋肉とは微妙に違うのだろう。

サバニ1隻がギリギリすり抜けられるくらいの岩と岩の間を通って近道し、渡嘉敷島の阿波連(あはれん)ビーチに沿って漕ぐ。
砂浜で読書していた観光客と思しき若者が、突然現れた変な形の舟とそれに乗っている男達の姿に驚いて目を丸くしている。驚かせて、ごめんな。
長く続く阿波連ビーチの真ん中辺りに上陸。

ビーチ近くの売店でまずは今日の目的地到達を祝ってオリオン・ビール。うっまい。
でも、ヤヤッ、まだ午前中だ。
12時になるのを待って、食堂に全員で入って昼ご飯。

お店の人が「うちは『ゆしとうふ』が自慢です。お勧めです」と言うので素直にそれに従って、ゆしとうふソバというのを注文したら、「あ、今日はありません」。

店員さんの屈託のない笑顔をじっと見ながら、頭の中で今の会話を反芻する。
何か店員さんが言ったことで自分が聞き落としていることはなかっただろうか? 
たぶん、否。
何かこちらの勝手な思い込みで重大な勘違いをしていることはなかっただろうか? 
たぶん、否。

頭の上に???をユラユラさせたまま、消去法的に選んだ沖縄そばを食べてきた。
まあ、これはこれで美味しかったけどね。

午後、風が南東まで回っていて、セーリングで渡嘉敷島の阿波連ビーチを後にする。
海は穏やかで気持ちがいい。
渡嘉敷島と座間味島の間の海峡をふたたび横断する。弱い上げ潮が南から北に流れていて、『まいふな』も緩やかに北方向、進行方向に対して右側に流されているので、目標を少し左めに取り、トランジットで安室島の左側先端にコースが向くように舵を取る。

サバニと鯨との遭遇を、クルーみんなで楽しみにしていて、周囲の海面に目を凝らすが、鯨の背中や潮吹きは見えない。ウムム、残念だ。

Feb.21 2006 風邪さりぬ。

2006年02月22日 | 風の旅人日乗
2月21日 火曜日。

朝、那覇市内のビジネスホテルのベッドで目を覚まし、そのまま身体の様子をチェックしてみる。
寒気、なし。
頭痛、喉の痛み、なし。
腹痛、なし。
風邪去りぬ!!
どっからでもかかってこい!サバニ。

朝10時、昨日の夜、別便で沖縄に来て、ソープ○ンド街の真っ只中にあるホテルに泊まっていたIと合流し、U田と3人でモノレールに乗って、首里にある県立博物館に行く。
展示されている帆掛サバニを見て、セールの作り方や、舵取り用のエークの形をチェック。
ついでに首里城にチラッと足を運んだ後、国際通りの市場2階の食堂でソーキそばを食べて、泊港の高速船乗り場から座間味島行きの『クイーンざまみ』に乗り込む。

1時間の航海の間に、2回、鯨のブロウ(潮吹き)を見た。今回の合宿では、サバニに乗って鯨を近くで見るのが楽しみ。
午後4時過ぎに座間味港に着くと、もうY城さんとO城が港まで『まいふな』を回航していて、練習開始準備が整っている。

今回もお世話になる民宿N村屋に荷物を置き、すぐに着替えて練習開始。16時半過ぎに海に出たが、こちらは日が長いので、結構たっぷりと練習できた。
さあ、『まいふな』、そして船主の山城さん、これから1週間、12月の前回同様よろしくお願いします、。

さて、昨日に引き続き、なぜぼくがサバニにこだわるのかシリーズ第2弾。
今日は、2005年12月、そして今回の2月と、ぼくが乗って練習している『まいふな』とその船主・山城さん、『まいふな』を造った船大工さんについて、昨年ヨットの専門誌に書いた自分の文章を読み返してみようかと思います。

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沖縄の海の矜持

正統派サバニ〈まいふな〉と船主・山城 洋祐

文=西村一広

【伝統の帆かけサバニ復活】

帆かけ(フーカキ)サバニ保存会が沖縄で主催するサバニ帆漕レースが2005年も開催された。

帆かけサバニ保存会の当初の目標は、沖縄の伝統帆装舟であるサバニを集め、そのレースを開催することで、朽ち果てようとしているサバニを保存することだった。
ところがこの催しは、沖縄人たちの心に、思いもよらない変化をもたらせた。

祖先が伝えてきた舟に触れることで、参加者たちの中に、自分が海の民であることの誇りを思い出す者が現れるようになった。そしてさらに、サバニ本来の、より伝統的な形と仕様のサバニを、新造しようとする者たちが出てきたのだ。

つまり、「古いサバニそのものを保存する」という、サバニ保存会の当初の目標から一歩進んで、沖縄各島の舟大工が連綿と伝えてきたサバニ造りの知恵と技術と、そして、かつての沖縄漁師が持っていたサバニ帆走技術という、サバニに関わる二つの“技”を、後生に継承していこうという胎動が始まったのだ。

2005年の第6回帆漕サバニレースに座間味島に集まった38隻の中で、ひときわ美しい造りと船型でレース関係者たちの注目を集めた新造サバニがあった。
船首と船尾板に『まいふな』と書かれた船名が晴れやかに浮かび上がる。

『まいふな』の船主は山城洋祐、64歳。
長く西洋型のヨットでセーリングを続けてきたベテラン・セーラーだが、この帆漕サバニレースが始まったのをきっかけに、那覇生まれ石垣島育ちの沖縄人としての、サバニに対する誇らしい気持ちを押さえることができなくなった。
そして、自分が子供の頃から見慣れてきた伝統の外洋帆装サバニを、船主、船頭として建造する決心をすることになったのだ。

【伊江島通い】

生粋の沖縄人である山城にとって、サバニがセーリングで海を行き交っている光景は、子供の頃からごく当たり前のものだったのだ。
太平洋戦争が始まる少し前に那覇で生まれた山城は、終戦直前の激戦の舞台となった沖縄本島を離れて、石垣島で少年時代を過ごした。
石垣島の家の近所には造船所があり、いつも遊びに行っては舟作りというものを間近に見ながら育った。

東京の大学を卒業した山城は沖縄に戻って那覇市役所に勤め、ダイビングに懲るようになる。ある年の春、荒れ気味の海に潜り、海面に浮上した山城の目の前を外洋ヨットの艇団が走り抜けていった。第2回沖縄レースをスタートした直後の艇団だった。

山城はその光景に魅せられ、それ以来ずっと、セーリング一筋の人生を送るようになった。沖縄だけのセーリングでは飽き足らず、役所の年休を使って太平洋を横断したり、日本国内の様々な外洋レースに出るようになった。

2000年にサバニ帆漕レースが初めて開催されると、当時4隻のサバニを所有していた山城も、当然のようにそれに参加した。しかし成績は芳しくなかった。セーリングに関してはどんな船であっても自信があった山城にとって、とても納得のいくものではない。

苦節3年、第4回目2003年の大会で、山城は艇長としてこのサバニ帆漕レースに初優勝する。圧勝だった。

しかし山城自身は、その優勝にちょっとしたわだかまりを感じていた。
優勝はしたものの、山城のチームのサバニには安定性を増すためのアウトリガーが付いていた。そしてさらに、本来の伝統的サバニには付いていない舵も使った。

ただ、それは山城のサバニに限ったことではなかった。レースに参加したほかのサバニのほとんどが、転覆防止用の塩ビ製パイプやアウトリガーやラダーを装着している。
山城はこのことにも違和感を覚えていた。これらの付加物が付けられたサバニは、山城が子供の頃に見たサバニ本来の姿ではない。

昔から伝わる本来の姿の帆装サバニを操って堂々と優勝してこそ、帆装サバニ技術の保存という意味も含めて、価値がある、と山城は考えるようになった。
そして山城は、本物の、付加物が付いてない、伝統の形を受け継ぐサバニを、自分が船主として新しく作ることを決心した。

その資金にするために、宜野湾で所有している外洋レースヨットを売り払うことにした。これからは、西洋型ヨットでのセーリングよりも、沖縄人として、沖縄の伝統であるサバニでのセーリングに没頭することに決めたのだ。

4年前に那覇市役所港湾部を定年で退職して以来、山城はある程度の時間を自由に使うことができる。自分の理想とするサバニの建造を依頼するために、山城は伊江島(いえじま)の舟大工、下門龍仁(しもじょう りゅうじん)のもとを訪れることにした。

下門龍仁の名前は、山城が那覇市役所の水産係として漁船登録業務を行なっていた頃から、山城の頭に刻み込まれていた。
下門は、船大工であると同時に、かつては外洋に出て一本釣りや曳き釣りで魚を獲る本物の漁師でもあった。サバニの帆を縮帆しなければいけないほどの強風が吹き荒れる海で漁をした経験も豊富だった。自分自身が外洋でサバニの経験が深く、サバニの操船術にも長けているサバニ大工は、沖縄にも何人もいない。

サバニ帆漕レースは慶良間諸島の座間味から那覇までの外洋を走る。コース上には強い潮が流れ、波も悪い。
外洋での帆走性能に優れた正統派のサバニを造ってくれるのは、下門以外にはいない、と山城は確信していた。
 
サバニの舟大工は、建造の依頼があると、その船主とじっくり話をする。そして、まずはその船主の人柄を認めることができ、次に、造るべきサバニの性格付けに納得しなければ、作業に取り掛からない、という。

山城は自宅のある首里(しゅり)から本部(もとぶ)まで車を走らせ、そこから船に乗って何度も伊江島に通い、下門に自分の気持ちを伝え続けた。
買い換えたばかりの車の走行距離があっという間に1万キロを越えた。
下門自身に相手をしてもらえないときは下門の家族に混じって味噌作りの手伝いもした。そうして下門と心を通わせる努力を重ねた結果、やっと下門が山城のサバニを造る気持ちになっていく。

櫂で競う競技であるハーリー用のサバニを別にすれば、下門が20年ぶりに手がける外洋帆掛けサバニだった。今年76歳になった下門にとって84隻目の剥ぎ舟(はぎぶね)である。

【伝統サバニ操船術】

そのサバニの名前は、造る前から決めていた。『まいふな』である。八重山の言葉で「お利口さんだね」という意味だ。

 『まいふな』の全長は830cm。
サバニを誕生させようとするとき、まず最初に横幅が決められる。その横幅から逆算して、長さが導き出されるのだそうだ。
サバニは、第二次世界大戦後にエンジンを載せるようになると、その底板の幅が広くなった。エンジンベッドを船底に据えるにはそうするしかなかったからだ。しかし、それ以前の、本来の帆掛けサバニの底板はもっと細いものだったという。

当然『まいふな』の底板も、かつての、伝統の帆掛けサバニと同じように細い。
この底板の細さが、『まいふな』に高いスピード性能と、同時に美しい外観をも与えることになった。

一般に船は、底板が細くなると不安定になり、それを走らせるためには、乗り手の技術もそれなりのものが要求される。
しかしかつてのサバニ漁師は、荒れた海でもその形のサバニで漁をしていたのだ。サバニが伝統の形に戻ると、それを操る人間にも、かつてのサバニ漁師のように、セーラーとしての高い技術を要求されるのは当然のことなのだ。
 
『まいふな』の帆は、山城が久米島に通って、久米島紬の染めにも使われる車輪梅(しゃりんばい)の木で染めた。車輪梅で布を染めると織りの目が詰まるだけでなく、布に防水性も加わる。古くから伝わる沖縄人の知恵だ。

『まいふな』が完成して、フェリーに載せられて座間味にその姿を見せると、そのフォルムに多くの人々の目が吸い寄せられた。島の古老たちは、これが昔のサバニの形だ、と懐かしんだ。レース参加者は、強力なライバル艇が誕生したことを知った。

しかし、コース短縮になった2005年のレースで、『まいふな』は5位に終わる。
敗因は、コースミス、その焦りが招いた操船ミスによる転覆、そしてそれに付随して発生したマスト関係のトラブルである。
つまり敗因は、『まいふな』というサバニではなく、すべてが乗っている人間側の未熟によるものだ。

山城は、2005年の反省を胸に、2006年に向けて捲土重来を期している。
2006年のレース・メンバーを早めに決め、そのメンバーで練習を重ねる予定だ。
そして乗り手が、サバニ本来の伝統の操船術で『まいふな』を自由自在に操れるようになり、レースでその性能を思う存分発揮してやらなければ、『まいふな』と、それを造った下門龍仁に申し訳ない、と船主・山城洋祐は決心している。

Feb.20 2006 沖縄だぃ

2006年02月21日 | 風の旅人日乗
2月20日 月曜日。

ヤッホー、今日から沖縄だ。

昨日の夕方、いきなり風邪を引いた。
葉山マリーナのクラブレースで気持ちのいいメンバーで気持ちのいいレースをした後、艇を片付けて表彰式を待つ間、ビールを飲んでいたら、突然3本目が飲めなくなった。
お腹も痛くなった。
アレレのレだ。自分の体が自分じゃないみたい。

パーティーを欠席することにし(これで2回連続だ。ごめんなさいM越さん!)、フラフラして家に帰る。
帰ったら、突然下痢発症。体温を計ると、かなり高い。
ここでやっと、あー、風邪引いたーっ、と自己判断。
翌日から沖縄で厳しいサバニ合宿だと言うのに、なんてえ事だいっ。
すぐに寝る。

朝、気持ち悪い。熱もある。
午前中は横浜で打ち合わせがある。雨が降りそうな空模様でもあり、車で行くことにする。
午後、1週間事務所を留守にするための様々な雑用をすませて、19時40分羽田発の全日空沖縄行きに乗るために5時前に家を出て、一緒に行くシーカヤッカーU田の奥様が運転する車に乗り込んで、新逗子駅に向う。
うー、気持ち悪い。熱が下がらない。

沖縄行きの飛行機は運良く空いていて、離陸すると同時にシートを3つ使わせてもらって横になり、寝る。
少し気分がよくなって目を覚ましたら沖縄到着15分前。あっという間に沖縄だ。
うれしいなあ、沖縄だ。前回、12月の合宿のときよりも暖かい。
これで、あとは風邪が治れば申し分ないんだけどね。

那覇の波の上の近くの歓楽街のど真ん中にあるホテルにチェックインし、地元沖縄のカヤックガイドO城に紹介してもらった近くの居酒屋へ直行。
当然泡盛を置いているのだが、グラス売りがなく、すべてボトルでの注文。久米仙720ml、980円也を一本もらい、ミミガー、ゴーヤ、モズク、その他沖縄物つまみを頼み、風邪撃退を期して、ニンニクの素揚げも注文する。
2人で飲めなかったら残せばいいやと思って注文した久米仙のビンも空になり、ニンニクもしっかり食べて、午前1時くらいにホテルに戻った。

さて、
今回ばくが、なぜサバニに乗りに来たのか。
サバニとは、一体何ものなのか。
なぜ、アメリカズカップを目指すぼくがサバニをやらなければならないと感じているのか。

なんてことを、再確認してみる。
まずは、かつて講談社が出版していた『オブラ』という月刊誌の冒頭エッセイとして、2002年に書いたサバニに関する文章を読み返してみようかな。

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サバニ、と呼ばれる沖縄伝統の舟のことをご存知だろうか?

サバニとは、琉球の時代から沖縄に伝わる独特な形をした舟で、船尾が高く立ち上がり、流れるように滑らかな船型を特徴とする美しい小舟の名称である。
つい40,50年前まで、サバニは沖縄の漁業や物資の輸送などで活躍し、その主な動力は帆に受ける風であった。大型の帆かけサバニは、遠く南太平洋まで長期の漁に出かけることもあったという。

しかし今、この伝統ある帆かけサバニの姿を、沖縄の海で見かけることはほとんどない。第2次世界大戦後、機械化の波が沖縄の漁船にも押し寄せ、人手が必要で経済効率の悪い帆かけサバニが、エンジン付きの漁船に駆逐されてしまったのだ。

この、沖縄が誇るべき伝統である帆かけサバニの美しい姿と、その帆走技術を後世に残そうと、沖縄を中心にした有志たちが「帆かけ(沖縄では"フーカキ"と読む)サバニ保存会」を結成したのが、20世紀最後の西暦2000年のことだった。

その年の夏、帆かけサバニ保存会は関係者に呼びかけて、沖縄本島、慶良間諸島などに残っているサバニを集め、座間味島から那覇まで、約36kmのサバニ帆走レースを企画した。サバニそのものだけでなく、『帆走レース』という形態にこだわることで、帆走技術をも復活させようという狙いだ。

今年(注・2002年)、6月30日に行なわれた第3回レースには、大小様々な35隻の帆かけサバニが、座間味島に集まった。
このイベントを最初からサポートしているのは、スイスに本社を置く時計会社スウォッチ・グループである。
日本の伝統技術を、海外の企業が守っているのである。

写真で帆かけサバニを操っているのは73歳の新城(あらしろ)康弘(やすひろ)さん(注・この文章に合わせて雑誌で使った写真はプロカメラマンの撮った写真なので、このブログでは使えません、悪しからず)。
新城さんは石垣島に住む最後のサバニ舟大工である。自分で造ったサバニに乗り、コースのほとんどをセーリングだけで見事に完走した。

片手で帆を操り、もう一方の手でエークと呼ばれる櫂を使って舟の進路を操る。保存会の努力がなければこの技術は人目に触れることもなかったはずだ。
日本の伝統技術はかくも美しい。
(注・肝腎の写真がないので、かくも美しい、なんて言われても、分らないっすよね、すみません)


葉山は曇り空、雨近し

2006年02月19日 | 風の旅人日乗
2月19日 日曜日。

今日は、これから西洋型ヨットでのレース。明日からの沖縄サバニ合宿を控え、西洋型のヨットでのクラブレースを楽しむ。
ただし、今日のレースは、葉山・小網代往復レース。マーク回航も1回だけだし、風が弱そうなので、少人数で楽しむことにした。

現在の相模湾沿岸の風は、ほとんど真北(写真はアメダス)。
だが、海の上のヨットレースで、この情報を鵜呑みにすると、泣きを見る。
一般に陸からの風(相模湾沿岸の場合は北風)は、海岸線から海に出ていくときに、陸岸に直角になろうとして曲がる。
弱い風だとこれが顕著で、海での風向は、海岸線に直角に近くなるが、強い風だと、曲がりきれずに斜めに角度を持って吹き出す。風速が30ノットを超えるようになると、ほとんど曲がらない。

葉山・小網代間のコースでは、この風のベンドをいかに味方につけるか、がポイント。

あ、遅刻しそうだ、行ってこよ。

ボルボ・オープン70の秘密-その2

2006年02月18日 | 風の旅人日乗
2月18日 土曜日。

これは何のシステムでしょうか?
ボルボ・オープン70クラス唯一のオーストラリア艇『ブルーネル』のデッキで見つけた不思議なもの、その2です。

答えは、ジブのリード・システム。

ボルボ・オープン70クラスは、キールバルブ以外の重さを少しでも軽減したいためにありとあらゆる工夫がなされていますが、これもその軽量化目的。
ジブシート・カーもなければ、ジブ・トラックもありません。

リング1個、パッドアイ2つだけで、ジブシートリードのイン・アウト、アップ・ダウンが可能。よく考えれば、通常のヨットでも、このシステムでジブシートのリードを3次元でコントロールできるわけで、重量も軽くなれば、高価なジブ・トラックやジブ・カーを装備する必要がなく、経済的負担も減る。

常識を疑ってかかること。
これが、何事によらず新しい発明の第1歩ってことですね。

Feb.18 2006 ボルボ・オープン70の秘密-その1

2006年02月18日 | 風の旅人日乗
ボルボ・オープン70クラスのデッキで見つけた不思議なもの、その1です。
この、ダッフルコートのボタンのようなもの、何だと思いますか?

答えは、ジブのハンクス。

ボルボ・オーシャンレース2005-2006に参加している7隻のボルボ・オープン70クラスのうち、フォアステイにヘッドフォイルを装着しているのはわずか2隻(『ムビスター』と『エリクソン』)だけ。あとの5隻は、70フィートという大きさにもかかわらず、フォアステイにヘッドフォイルを装着していません。つまり、ジブのラフはハンクス仕様。

これらの5隻がヘッドフォイルを使わない主な理由は、重量の節約。
クラスルールで許される最大重量の中から少しでも多くをキール下にぶら下げているバルブに回したい、そして艇を少しでもパワフルにしたい、という狙いなんですね。

それと同じ理由で、リギンはステンレスなどの金属ではなく、すべてPBO。サイドステイ、バックステイだけでなく、もちろんフォアステイも、PBO。

従って、通常のヨットのような金属製のハンクスを使うと、繊維であるPBOが痛んでしまう。そのうえ、重量が嵩む、というデメリットもある。

で、写真のような、スペクトラ繊維で作ったテープと、アルミ製のボタンを組み合わせたハンクスの登場というわけです。

今回のメルボルンでは、このほかにもいろいろと、ボルボ・オープン70の写真を撮ってきていて、これからも随時紹介して行こうと思っているのですが、なんと、20日の夜から再び沖縄・慶良間諸島・座間味島で、決死のサバニ合宿1週間を敢行。
つまり、ブログの更新が滞る恐れが多大。というか、間違いなく滞ります。

座間味島では、ブログを書く時間も気力も体力もサバニに吸い取られるはずだし、宿泊先の民宿の通信環境もインターネットにはそぐわないし、また、そのこと以前に、ぼく自身、このサバニ合宿では、サバニと一体化することに全身全霊を捧げたいと思っている、という状況もあります。

多分、この季節、座間味島と渡嘉敷島の間の海峡では、クジラにもかなりの確率の高さで出会えるはず。そんなこんなで、大自然に抱かれて、インターネットの世界を忘れてしまうことになるんでしょう。

なので、環境と思考が現代社会の中にあるうちに、つまり座間味島に行く前までに、もう何点か紹介できるよう、頑張りまっす。
でも、うーん、無理かなあ。
明日は、葉山マリーナのレースだし、しかもそのあとのパーティーで飲んでしまいそうだしなあ。
うーん、やっぱり無理かなあ。
でも、もう一つぐらいは、頑張って紹介しますね。

Feb.16 2006 ウエリントンの接戦

2006年02月16日 | 風の旅人日乗
2月16日 木曜日。

14日に関西に日帰りで行って帰ってきて、翌日15日の朝起きたら、結構疲れていることに気が付いた。
天気がいい。春みたいな暖かさだ。
ということで、この日、15日は家族みんなで動物園に行くことに決定。たまには遊んじゃおう。ということで、この日のヨットの話題はありません。

16日は、朝から小雨がしょぼ降る東京。あちこちで打ち合わせがあり、夜葉山に戻ってからパソコンを開いてみると、ボルボ・オーシャンレースのウエリントン・フィニッシュがすごいことになっていたらしい。

このレグの後半からずっとリードしていた『ABN AMRO1』にウエリントン手前で追いついた『ムヴィスター』が、接戦の末、9秒差で競り勝ったのだという。
写真は、そのフィニッシュ前のつばぜり合いだ。
写真で見る限り、この軽風では、『ABN AMRO1』、苦しかったに違いない。

メルボルンからウエリントンまでの1100海里あまり、ボルボ・オーシャンレースの中では短い距離のスプリント・コースだが、1勝は1勝だ。
故郷に錦を飾れなかったムースとマーク、悔しかっただろうな。9秒差を制しての初めてのファーストホーム、『ムヴィスター』のスチュー、嬉しかっただろうな。

Feb.14 2006 男たちのバレンタインデイ

2006年02月15日 | 風の旅人日乗
2月14日 火曜日。

昨日13日の朝6時に成田に着陸し、7時2分成田空港発の横須賀線直通逗子行きに乗って、9時前に葉山に戻った。

今日14日は、大阪行きのJAL早朝便で、関西に日帰り出張だった。
満員電車に乗る元気が沸いてこなかったので、羽田空港まで自分の車で行くことにした。
早朝の横浜横須賀道路、首都高は空いていて、通信販売で買った1970年代のポップス・ヒット曲集CDを聴きながら、とても快適なドライブだった。

ここで話は唐突に変わってしまいますが、それにしても、昨日のカンタス航空のオペレーションは見事でした。

成田空港は24時間オープンの空港ではなく、毎日の開場時間は朝6時なのだそうだ。その開場時間より前には離陸も着陸してはいけないらしい。
それで、シドニーで乗客が乗り込んだ後、
「6時ジャストにランディングするために、もう数分離陸を待っているところです」という機長からの放送があった。
これから10時間近いフライトをするのに、途中のジェット気流も読めないだろうに、10時間、6000マイル以上先の成田の着陸時間を、ここシドニーでそんなに正確に予想できるのかよ、なんて斜に構えて思っていた。正確に言うと、少しバカにしてその機長のアナウンスを聞いていた。

ところが。
私が間違ってました。私のほうがバカでした。ごめんなさい。

それから約10時間後、ぼくが乗ったカンタス機が夜明けの成田空港にドスンとタッチダウンした時間は、正確に日本時間6時00分07秒。
この時間は、前日のメルボルンでのボルボ・オーシャンレースのスタート取材のために、現地で時報に合わせてセットしなおしたばかりの、ニッポンカップ特別仕様のカシオGショックで測ったので、とても正確です。

うーん、お見事。と言うか、すご過ぎる。航空業界というのは、こういう正確さで運行されている世界なんですね。
バカにして、本当に申し訳ありませんでした。
それにしても、大変な精度の地表天気情報、高層天気情報を把握していて、それに基づいてかなり大きなコンピュータを使って予想をしているんだろうな、と思う。ヨットレースにも提供してもらいたいな。

さて、今日14日の関西での仕事は、セーリングそのものの仕事。
仕事の後には、いつか必ず実現しようと、有志たちの間で心に誓っているアメリカズカップ再挑戦の話もたっぷりできたし、楽しかったなあ。

技術系サイドでの準備は決して世界に遅れていない。あとは我々セーラーサイドが能力と技術を磨き続けていることと、そしてもっと大切なことは、この2者が中心になってマネージメントをうまくやっていくこと。パッションを忘れた、『お金ありき』で始まる挑戦では、最終目標に到達できるはずがないのだ。

そんなことを移動中の車の中や、男どもだけの昼ご飯を食べながら熱く語り合った。

甘ーいチョコレートはどこからも届かなかったけれど、これはこれで、とても楽しいバレンタインデイだったと思う、よ。

Feb.13 2006 メルボルン・シドニー・東京

2006年02月14日 | 風の旅人日乗
2月13日 月曜日。

写真は、メルボルンをスタートするボルボ・オープン70クラスの6隻と、それを見送る観覧艇群。うしろにメルボルン市街が広がっている。

2月12日、ボルボ・オーシャンレースの参加艇6隻のメルボルン・スタートを見送った後、午後4時過ぎにマリーナに着くと同時に走ってメディアセンターに行って荷物を取り、予約していた車に乗ってメルボルン空港に向う。
予約していた便よりも一便早いシドニー行きの飛行機のチケットを取ることができて、それに走って乗り込む。これで、シドニー発成田行きの飛行機への乗り継ぎに間に合うことができそうだ。

格安の旅行代理店の若い担当者手配による乗り継ぎは、余裕1時間という荒っぽいアレンジだった。
シドニー空港は、国内線ターミナルと国際線ターミナルがかなり離れていて、しかもその間は、15分おきくらいに行き来するバスで移動する。

メルボルンからの飛行機が時間通りに着いたとしても、飛行機がゲートについてから飛行機を降りて、ターミナルの端にあるバスの発着所まで行くのに、早くても10分、遅いと15分はかかる。
国内線ターミナルで最大15分バスを待ったとして、それから15分くらいバスに揺られて国際線ターミナルまで行く。ここですでに成田行きの飛行機の出発まで残り15分だ。もう乗ってなければいけない時間である。

しかしここから、いつも長い行列ができているイミグレーションで出国手続きをしなければならないのだ。うーむ、到底間に合わない。
安いチケットを求める(ぼくもそうだけど)旅行客が増えて、安いチケットを売りにする経験の浅い旅行代理店が出てくると、こういうチケットを手配するようなところも増えてくるのだろう。

でも一便早い飛行機に乗り込んだので、これで大丈夫、シドニー空港では少し余裕を持つことができそうだ。
レース艇がスタートしていったポートフィリップス湾を右に見ながら上昇していく飛行機の中で眠りに落ちる。

夜遅いシドニー空港はなんとなく荒んでいる。待合席の椅子も汚いし、全体の清掃も行き届いていない。お土産屋の店員たちも、カフェテリアの店員も、なんとなく楽しくなさそう。お土産屋さんの日本人店員が、最近のシドニーの物価高や犯罪の多さなどに代表される住みにくさを問わず語りに話してくれる。そんな市内の雰囲気が、深夜の空港ターミナルにも反映しているのだろうか?

午後8時過ぎ、シドニーに満月が昇ってきた。
明日、13日の朝、成田に戻る。

Feb.12 2006 スターバックス

2006年02月12日 | 風の旅人日乗
2月12日 日曜日。

昨日夕方、メルボンル市展示場で開催されているメルボルン・モーターショーに行ってきた。東京国際モーターショーとはかなり雰囲気が異なり、かなり家庭的な規模のモーターショーだった。
コンセプトカーの展示もなく、各社のショールームがひとつの体育館に揃った、という程度の可愛いものだったが、会場内は市民でごった返していた。

早々にホテルに引き揚げ、荷造りをする。
明日、ボルボ・オーシャンレースの第3レグのスタートを観た後、日本に帰る。
ホテルの近くにあるチャイナタウンに中華ソバを食べに行き、それからプールでひと泳ぎ。結構肌寒い。

朝、6時に目覚まし時計に起こされると、ホテルの窓の薄いブラインドを透かして、明けの明星が輝いている。この時期、メルボルンの夏時間の空が明るくなるのは、7時前だ。
軽くプールで泳いだ後、ホテルをチェックアウトして、ハーバーに向う。
どの艇も出航の準備で、ショア・クルーたちが慌しく働いている。レース・クルーたちは各コンパウンドでレース前のミーティングをしているのだろう。

メディアセンターで1時間ほどメールをチェックして、それから再び桟橋に行ってみると、レース・クルーたちも船に揃っていて、最後の積み込みなどの作業をしていた。
各艇に乗っている友人たちに「頑張って(Have a good one)」を言って周り、それからカメラを持って取材艇に乗り込む。
ポール・ケアードが、売店でメルボルン最後のコーヒーを買っていた。彼が次に美味しいコーヒーを飲めるのは、4,5日あとのニュージーランド、ウエリントンでのことになる。