実は昨日
携帯が壊れた
大事に大事に
丁寧に丁寧に
扱っていたのに
出張先から電車に乗って
綺麗な海の景色を見ながら
楽しくブログを書いていたら
いきなり 壊れた
買ってまだ4ヶ月
なんとかして復旧させたくて
電車の中でイジリ倒し
でもダメで
遠出の出張先から電車で
葉山方向に向かいつつ
ところどころで途中下車して
ドコモショップを掛け持ちして
泣きつき
でも泣きつこうにも
なかなか順番は来ず
葉山に帰り着かねばならない
時間の制限もあったから
仕方なく次の駅の
ドコモショップに向かい
結局
ダメですね
とのことで
ぼくなにも悪いことしてないのにと
店員さんに目で訴えても無駄に終わり
泣きながら購入した
新しい機械を受け取るために
本日もまたドコモショップ
順番を待つ間
いつもは観ないテレビを観ていた
東京都関係の
例のアレだ
そういえば
携帯が壊れたのは
湯河原でのことだった
そのテレビを観ていて
そして
周りの人たちが
それについて
話しているのも聞こえてきて
とても なんだか
悲しい気持ちになっていった
自分自身にも
深く突き刺さってくる
重くて悲しい気持ち
こんな
悲しみを覚える自分の感想は
自分だけなのかな
と思っていたら
まったく同じ感想を持っていた人がいて
とても安心した
その人は文章を書くプロ中のプロなので
見事にその心持ちを
的確に表現する文章にしていた
自分の手帳にも書き写しておいたけど
このブログにも書き留めようと思う
でも こういう
プロが書いた文章って
転載してもいいのかな
これも
いろんな「正義の人たち」から
吊し上げられるのかな
怖いな
以下
本日のほぼ日『今日のダーリン」から転載
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テレビやネットの画面に向かって、
そこに写っている人間を責めているときの
「罪なき人たち」の勝ち誇ったような表情には、
なんとも悲しいものがある。
じぶんは傷つかない場所にいて、
だれを笑おうが責め立てようがやり放題。
そんな閻魔大王のような場所に立っていると知ったら、
多少なりとも「こんなわたしが、お恥ずかしい」と、
言いたくなるものだと思ったら、
必ずしもそういうものでもないみたいで。
「鬼よりお化けより怖いのは人間だ」という言い方は、
そういうときにこそ当たっているように思う。
人間のしてきたたくさんの残酷なことは、
じぶんのしている善を疑わぬ人の手でなされた。
「こんなわたしが、お恥ずかしい」という気持ちは、
じぶんを否定しているわけではない。
倫理として、あるいは生活の知恵として
「謙虚にしていよう」ということでもない。
「人を責めているじぶん」の写っている鏡が、
なんとなく見えるということなんだと思う。
おそらく、テレビで「罪なき人」になりきって
人を責め立てていた人たちも、
それをしているじぶんの顔を見たら、
あらためて「恥ずかしい」と思うのではないかしらん。
「恥ずかしい」は、なかなか扱いのむつかしい気持ちで、
それにとらわれていると、なんにもできなくなる。
だから「恥ずかしい」を上手に抑制できると、
わりと行動的になれたりもするものだ。
ぼく自身も、よいしょっとばかりにスイッチを押して、
「恥ずかしい」をひっこめては、なにかしてきたと思う。
しかし、「恥ずかしい」がなくなっているわけではない。
なくならないようにと、気をつけているくらいだ。
また、友人には「恥ずかしい」のある人を
できるだけ選んできたような気がする。
そういう人たちは、「じぶんは傷つかない場所にいて、
人を笑ったり責め立てたりする」ようなことはしない。
そして、言えないことについては、多くを語らない。
文・糸井重里さん
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ふうっ
ドコモでの闘いを終えたら
外は夕方の景色になっていて
慌てて逗子からクルマで
横浜の病院へ
御自身は辛いリハビリに
頑張る大変なときなのに
日本のセーリング界の
次世代のために
いま何をすべきか
いまの何が問題なのか
考えがまとまったから
聞いてほしいという
大先輩のお見舞い
すごいなぁ
期待に応えて
力にならなきゃなぁ
と
帰りの渋滞の中で
一所懸命考えた